「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第339回
師、岡倉天心が辞任し、弟子たちは殉教する。【東京美術学校事件】明治31年1898年、岡倉天心の東京美術学校辞職で学校に反旗を翻す、急進派として懲戒免職。横山大観ら14人は辞職する。1898年、岡倉天心は日本美術院を設立。岡倉天心のもとで、横山大観(1868~1958)、菱田春草、下村観山らとともに日本画の革新を目指し、東洋の精神に西洋画の手法を取り込み、新しい表現様式を追求した。輪郭線を使わず、色彩の面的な広がりにより空気を描く技法を用いて、「朦朧体」と誹謗中傷された。【朦朧派】大観、春草、らは、朦朧体を用い、朦朧派と呼ばれ、貧苦に喘ぐ。横山大観は『流燈』1909で女性像を描き、新境地を拓くまで苦労した。『流燈』は、明治36年(1903)1月~7月に菱田春草とともに派遣されたインド旅行の体験を踏まえ、日本美術院の五浦研究所において完成した。
【院展】創設されたばかりの日本美術院(院展)で、横山大観や菱田春草たちは、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気を表現することに努める、実験的な試みを行い、日本画に新たな局面を切り開いた。
政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こした。
【国画創作協会】土田麦僊、村上華岳、甲斐荘楠音。村上華岳、甲斐荘楠音は、アジャンタ石窟、レオナルド『モナリザ』『岩窟の聖母子』から学んだ妖艶な女性像を生み出した。
【青龍社】川端龍子(1886-1966)は、修行のためにアメリカに渡り、帰国後日本画に転向、独学で日本画を学んだ龍子は院展の同人になる。独創的な発想と斬新な色使いで構成された巨大な作品を好んだ。院展を脱退。自らが主催する青龍社を立ち上げ、以後亡くなるまで青龍展で作品を発表し続けた。「昭和の狩野永徳」と呼ばれた。青龍社の第一回展《鳴門》1929は、希少な岩絵具の群青を多用、大胆な構図を構想した。川端龍子は「健剛なる芸術」の創造を唱え、大衆に訴える作品を描き続けた、従来の「床の間芸術」に対抗し、広い展示場での展示に耐える、「会場芸術」を追及した。
【千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず】一日に千里も走ることのできる名馬は常に存在するが、それを見いだす伯楽は常に存在しない。世の中に有能な人はたくさんいるが、その才能を見いだせる人物は少ない。いつの時代でも有能な人材はいるが、才能を見抜く名人はいない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
横山大観「波上群鶴」明治30年代、個人蔵
菱田春草《雨後》1907(明治40)年頃 絹本・彩色 山種美術館
土田麦僊《大原女》1915(大正4)年 紗本金地・彩色 山種美術館
川端龍子《鳴門》1929(昭和4)年 絹本・彩色 山種美術館
上村松園《牡丹雪》1944(昭和19)年 絹本・彩色 山種美術館
速水御舟《白芙蓉》1934(昭和9)年 紙本・墨画彩色 山種美術館
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参考文献
没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
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甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
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速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
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「没後50年 横山大観」国立新美術館・・・天心と憂愁の詩人、『屈原』悲愴美
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細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
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特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
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明治時代に入り、西洋文化を取り入れつつ社会の近代化が進む中、画家たちは西洋画に匹敵、あるいは凌駕する日本の絵画を生み出そうと努めました。創設された日本美術院(院展)では、実験的な表現に取り組む画家たちがいました。大正・昭和時代を迎えると、政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こしました。
本展では、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気の表現を試みた横山大観の《波上群鶴》(個人蔵)、菱田春草の《雨後》、女性が画家として生きる道を切り開いた上村松園の《牡丹雪》、希少な岩絵具の群青を大量に用いて記念すべき展覧会(第1回青龍展)へ出品した川端龍子の《鳴門》、10代で「日本画滅亡論」に直面するも後に日本を代表する画家となった松尾敏男の《翔》(山種美術館賞受賞作)などをご紹介いたします。明治時代から現代にいたる多彩な作品を通し、新たな日本画の創造に挑んだ精鋭たちの軌跡をご覧ください。
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特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ、山種美術館、2023年7月29日(土)~2023年9月24日(日)
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』293回
八百屋の猫を見て竹内栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目惚れし、京都に連れ帰って描き上げた。竹内栖鳳「班猫」1924山種美術館
菱田春草(1874~1911)「白き猫」(1901飯田市美術博物館所蔵)、「黒き猫」(1910年永青文庫)と竹内栖鳳(1864~1942)「班猫」(1924年 山種美術館)があり、ともに徽宗の猫を古典として意識している。
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135) 「猫図」
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135在位1100~1125)、は藝術や奢侈遊興にうつつを抜かし道楽に耽った浪子、政治に無関心で軽佻な亡国皇帝。徽宗には画猫の伝称作品が複数あり、水戸徳川家伝来の伝徽宗筆「猫図」は精細な描写が群を抜く。斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い細線による体毛によって覆われている。
村上華岳「裸婦図」1920年
村上華岳「裸婦図」は、表面的な美ではなく、精神の美を表現している。「霊と肉体が一致した美」であると思う。
観世音菩薩のようでアジャンタ石窟群、仏教美術の雰囲気が濃厚であるが、ルネサンス美術の匂いもする。日本画家、上村淳之が、京都市立藝術大で保管されていた下図を見て鳥の存在を見つけ、ギリシア神話「レダと白鳥」を意識したのではないかと指摘した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
竹内栖鳳「班猫」1924 山種美術館 (重要文化財)
八百屋の猫を見て栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目ぼれし、京都に連れ帰って描き上げた傑作。
村上華岳「裸婦図」1920年 山種美術館 重要文化財
上村 松篁 1902-2001 「白孔雀 」1973(昭和 48)年
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村上華岳は「久遠の女性」だといい、以下のように述べている。
私はその目に観音や観自在菩薩の清浄さを表そうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊でもあるものの美しさ、髪にも口にも、将た腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした。それが私の意味する「久遠の女性」である。
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「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015には、以下のようにある。
村上華岳(1888-1939)は、生涯を通じて求道的精神で制作に専念し、芸術と信仰がひとつとなる境地を目指して歩みを続けて画家でした。1903(明治38)年、15歳で京都市立美術学校(美校)へ入学、竹内栖鳳ら京都画壇の重鎮を師として画家への第一歩を踏み出します。在学中の1908年には「驢馬に夏草」が第2回文展に入選、20歳という若さで画壇デビューを果たしています。翌年、京都市立絵画専門学校(絵専)に入学、同期の土田麦僊や小野竹喬らと、ともに切磋琢磨しながら意欲的な作品を制作し、画壇の注目を集めます。
ところが、1917(大正6)年、文展での審査基準に疑問を抱いた竹喬や麦僊、華岳ら絵専同期の若手画家たちは文展を離れ、その翌年に「純真なる芸術を創作し公表する」場として「国画創作協会」を結成し、ここで華岳も「裸婦図」など話題作を発表しています。しかし、1921年以降は持病の喘息の悪化と画壇活動による束縛が華岳を苦しめるようになり、1926年の第5回国画創作協会展を最後に華岳は画壇を離れ、翌年に頭・花隈の養家に隠棲して以降は、急進的な創作と施策に沈潜していきました。
「村上華岳―京都画壇の画家たち」
2014年に山種美術館が所蔵する《裸婦図》が、村上華岳の作品としては2件目の重要文化財に指定されたことを記念し、その画業を振り返る特別展「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」を開催いたします。
1888(明治21)年、大阪に生まれた華岳は、神戸で少年時代を過ごした後、京都市立美術工芸学校(美工)、京都市立絵画専門学校(絵専)に学びます。在学中に文展への入選を果たしたものの、やがてその審査の評価基準に疑問を抱くようになった華岳は、1918 (大正7)年には文展を離脱、絵専の同期でもあった土田麦僊、小野竹喬らと新団体「国画創作協会」を結成します。ここで華岳は新鋭の画家たちと切磋琢磨しながら意欲的な作品を発表し、官能性と崇高さが融合した独自の世界を確立していきました。一方、1921(大正10)年頃より持病の喘息が悪化し、同年に予定していた国画創作協会の仲間との渡欧を断念した華岳は、やがて画壇から距離を置くようになっていきます。晩年は制作と思索にふける隠棲の日々を送りながら、ひたすら求道的かつ孤高の制作活動へと向かいます。
本展では、華岳が画家として頭角を現した初期の試みから、理想とした「久遠の女性」を描いた《裸婦図》の完成、そして自己と向き合いながら孤高の境地を追求し続けるまでの作品を通して、その画業をたどります。中でも、盛んに作品を発表し続けた20代から30代半ばは、同時代の関西の画家たちが画壇に新風を吹き込もうと格闘し、優れた作品が生み出された時代でもありました。本展では、《裸婦図》を一つの到達点として華岳の画業の歩みをたどるとともに、美工・絵専時代の師である竹内栖鳳や、同窓生の麦僊や竹喬、国画創作協会でともに活動した岡本神草や甲斐庄楠音らの作品にも注目し、同時代の京都画壇の歩みをふり返ります。「山種美術館」ホームページ
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参考文献
竹内栖鳳展 近代日本画の巨人・・・哀愁のイタリア、『ベニスの月』
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「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015
板倉聖哲「画猫の系譜 ―徽宗・春草・栖鳳― | 「淡青」37号より
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上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
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「竹内栖鳳《班猫》とアニマルパラダイス」・・・生きとし生けるもの、一切衆生悉有仏性
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動物を描けばその体臭までも表す
近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳 (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万 博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。
没後80年を記念し、山種美術館では10年ぶりに竹内栖鳳の特別展を開催します。本展では、動物画の傑作にして栖鳳の代表作《班猫》【重要文化財】をはじめ、東京国立博物館所蔵の《松虎》(前期展示)、個人蔵の初公開作品を含む優品の数々とともに、その画業をたどります。さらに、京都画壇の先人たち、同時代に活躍した都路華香(つじかこう)や山元春挙(やまもとしゅんきょ)のほか、栖鳳の門下である西村五雲(ごうん)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちっきょう)らの作品もあわせて紹介します。また弟子の一人、村上華岳(かがく)による《裸婦図》【重要文化財】を特別に公開します。
近代日本画の最高峰といえる栖鳳の傑作の数々、そして京都画壇を代表する名だたる画家たちの名品をご堪能ください。
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没後80年記念「竹内栖鳳」、山種美術館、10月6日(木)~12月4日(日)
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』275回
桜の森の開花が始まり、春宵一刻、嵯峨天皇の詩を想う。美女の運命、藝術家の運命、儚く美しき美女、傾国の美女、美女の歴史に秘められた奇譚を想う。樋口一葉は「このよほろびざる限りわが詩は人のいのちとなりぬべき」と書き24歳で死す。鏑木清方は泉鏡花『一葉女史の墓』を描いた。
【嵯峨天皇は曲水流觴の宴を催した】青春が半ばを過ぎた頃、何がせき立てるのか、柔らかな風がしきりに吹いて、花がせかされるように咲く。芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。私は文雄に呼びかけて詩人たちは花を愛でるこの宴にやって来た。『神泉苑花宴賦落花篇』「凌雲集」弘仁三年(812)二月十二日
【嵯峨天皇、神泉苑花宴賦落花篇「凌雲集」】春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、点珠顏綴、駘鬟(たいかん)として吹く。人懐の中、嬌態閑(しず)かなり。朝に花を攀(よ)じり、暮に花を折る。花を攀じる力尽き、衣帶ゆるく。未だ芬芳(ふんぽう)を厭はず
【鏑木清方、明治後期の世界への想い、いくさより美人画】
鏑木清方は、挿絵画家として出発した。鏑木清方は1878(明治11)年、東京・神田に生まれた。幼い頃から文芸に親しみ、13歳で歌川国芳の孫弟子、浮世絵師・日本画家の水野年方に入門。挿絵画家としての活躍を経て、肉筆画を手がけるようになった。清方没後50年、美人画だけでなく、市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした「ほんとうの清方芸術」を紹介する展覧会「没後50年 鏑木清方展」。鏑木清方は本格的に日本画を手掛ける以前、小説の口絵や挿絵で人気を博していた。美人画、挿絵、卓上藝術、清方が追求した世界は何か。美人画家として「西の松園、東の清方」と並び称された鏑木清方だが、本人は「需められて画く場合いはゆる美人画が多いけれども、自分の興味を置くところは生活にある。それも中層以下の階級の生活に最も惹かれる」と言った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【鏑木清方の言葉】「明治は幸せな時代でした。いくさは描けませんよ。意地になって美人画を描いていました。微かなる反抗でしょうけれども。嫌いなものは描けないですよ。」と生前ラジオ番組に出演した時の鏑木清方の肉声あり。「願わくば日常生活に美術の光がさしこんで暗い生活をも明るくし、息つまるやうな生活に換気窓ともなり、人の心に柔らぎ寛ぎを与える親しい友となり得たい」鏑木清方の文章あり。
【浮世絵と美人画】菱川師宣から始まる浮世絵は、錦絵創始期の第一人者鈴木春信、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画、八頭身美人の江戸のヴィーナスと呼ばれる鳥居清長、青楼の絵師と謳われた喜多川歌麿へと展開した、5人の絵師。美人画の歴史である。美人画の歴史は、菱川師宣、喜多川歌麿が最大の源泉である。勝川春章、鳥文斎栄之、渓斎栄泉を師とする絵師もいる。葛飾北斎は勝川春章を師とした。
日本の美人画は、花柳界の女、江戸の青楼の美女、富裕層の妾妻、歴史物語の美女を描いてきた。庶民の娘、市井の女、女学生を描いてきたのは、明治以後か。
【表面的な美と内面的な美】日本の美人画は、表面的な美を描いているが、内面的な美を描いている例は少ない。内面的な美を描いている美人画は、だれか。上村松園「序の舞」は内面の美を表現しているのか。
【美人画の名人、鏑木清方、かをりの高い絵】鏑木清方は「かをりの高い絵を作りたい。作りたいより自ら生まれる絵を」鏑木清方「かをり」昭和9年1月。【
上村松園、伊藤深水】上村松園は自ら描く美人画を「艶かしくなく高尚に描いてみたい」「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところ」と言っていた。三人の美人画家。誰が好みか。代表作は何か。作家の特徴は何か。
【苦悩する美女、ルネサンス、象徴派】苦悩する美女を描く画家として、19世紀、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ギュスターブ・モローがロマン主義、象徴派の美を極めている。15-16世紀、レオナルド『レダ』『糸巻きの聖母』、ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『マニフィカートの聖母』『ヴィーナスとマルス』『春』がルネサンスの美を極めている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【藝術と魔術】藝術は悲しみと苦しみから生まれる。絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ。敵との闘争における武器なのだ。いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。パブロ・ピカソ
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【佐藤康宏氏、昭和の鳥居清長】「美人画に関しては私は京都・大阪びいきで、恒富、神草、楠音らに比して清方をさほど好みません。それでも屛風絵の「遊女」(横浜美術館)など、見直しました。「築地明石町」は、いうまでもなく飛び抜けていいのですよね(三幅対に仕立てていますが、正直いって脇幅はなくてもいいです)。かつて彼を「昭和の清長」と称したことがありますが、実際に清長の錦絵を意識していなかったでしょうか。これを別にすれば、清方が「卓上藝術」と呼んだ小画面の作品に最も本領が発揮されている、というのが以前からの私の評価です。2022年3月24日
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展示作品の一部
鏑木清方、秋宵、1903、鎌倉市鏑木清方記念美術館
鏑木清方、嫁ぐ人、1907、鏑木清方記念美術館
鏑木清方、曲亭馬琴、1907、鎌倉市鏑木清方記念美術館
明治40年(1907)絹本着色・額116.3 × 172.8cm、第1回文部省美術展覧会 選外
目の見えない滝沢馬琴の執筆活動を娘が支えている図である。
江戸の戯作者・曲亭馬琴が失明した後に、息子の嫁・路に一字一句文字を教え、口述筆記により『南総里見八犬伝』を書き継いでいる場面です。このエピソードは『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の「あとがき」にあたる「回外剰筆(かいがいじょうひつ)」に記されています。清方は、失明した馬琴でも、馬琴を支えた路でもなく、「回外剰筆」に記された、口述筆記による馬琴と路のエピソード(史実)を視覚化しました。その意味で、西洋における物語る絵画としての「歴史画」に近い作品であるといえます。本作で清方が試みたのは、かつて史実のなかに生きた人間としての馬琴と路の生々しいすがた、実在した人間の生き様そのもの。
鏑木清方、築地明石町1927(昭和2)年、東京国立近代美術館
近代美人画を代表する絵の一つ。1927年の第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した。清方にとっては思い出深い明治30年代半ばの明石町の光景と合わせ、物思う表情で振り返る女性に明治回顧の心情を託している。時代もちょうど関東大震災と昭和改元を経て、明治ブームが起きていた。
新富町、1930、東京国立近代美術館
浜町河岸、1930、東京国立近代美術館
鏑木清方、京鹿子娘道成寺、1928
有名な舞踊「京鹿子娘道成寺」と「鷺娘」の一場面。清姫の化身である白拍子と鷺の化身の鷺娘が妄執にとらわれる姿を、片やしっとりと、片や激しく表現している。
鏑木清方、一葉女子の墓、1902、鎌倉市鏑木清方記念美術館
泉鏡花の『一葉の墓』を読んでその墓を訪ねた時、清方は線香の煙の向こうに『たけくらべ』のヒロイン・美登利の幻を見たと言う。その体験に想を得て描かれた。
小説家と挿絵画家、1951
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参考文献
没後50年、鏑木清方展図録、2022、東京国立近代美術館
鶴見香織「鏑木清方 生活を描いた画家」2022
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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清方/Kiyokata ノスタルジア―鏑木清方の美の世界・・・美女の姿態
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「あやしい絵展」東京国立近代美術館
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「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
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東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
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上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
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「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「祝福されし乙女」・・・藝術家と運命との戦い、ロセッティ最後の絵画
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「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」パナソニック汐留美術館・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
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鏑木清方記念美術館
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「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
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ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
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織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
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「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
https://bit.ly/3DgzoTJ
鏑木清方(1878-1972)
鏑木清方(1878-1972)の代表作として知られ、長きにわたり所在不明だった《築地明石町》(1927年)と、合わせて三部作となる《新富町》《浜町河岸》(どちらも1930年)は、2018年に再発見され、翌年に当館のコレクションに加わりました。この三部作をはじめとする109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。
浮世絵系の挿絵画家からスタートした清方は、その出自を常に意識しながら、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けました。本展覧会では、そうした清方の関心の「変わらなさ」に注目し、いくつかのテーマに分けて作品を並列的に紹介してゆきます。関東大震災と太平洋戦争を経て、人々の生活も心情も変わっていくなか、あえて不変を貫いた清方の信念と作品は、震災を経験しコロナ禍にあえぐいまの私たちに強く響くことでしょう。
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『没後50年 鏑木清方展』東京国立近代美術館3月18日(金)~5月8日(日)
京都国立近代美術館、5月27日~7月10日
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』259回
秋聲は、旅路の果て、戦争の果て、人生の果てにどこに辿りついたのか。砂漠の果ての「絲綢之路」、「薫風」は、岡倉天心の日本美術院、下村観山「小倉山」の風格がある、「愷陣」1930年には生きものへの愛が窺われる。「山中鹿之助三日月を排する之図」は秋聲自身の祈りであろうか。
小早川秋聲は、《國之楯》1944年により、従軍画家として再発見された(*)が、88年にわたる生涯で変貌を遂げた。卓越した技術で風景画、歴史画、人物画、多彩な領域に多彩な作品を残した。小早川秋聲は、好奇心旺盛で旅を愛し異国文化に憧れ、中国絵画を研究し中国とインド、エジプト、イタリアに憧れ、旅する画家である。
【戦争絵画の責任】戦争絵画のすべての責任を一人で負って日本を去った藤田嗣治、戦争責任を取らず天皇の地位と引き換えに沖縄を米軍に売った天皇、秋聲は、60歳で引退し下鴨の家で庭を眺めて暮らす。頑固一徹な老人と化した秋聲だが、孫に絵を描くことを教えた。
【人と運命との戦い】絶望と悲惨な人生を生きたアルルの印象派の画家、運命と対峙したルネサンスの画家、苦難の人生を生きた詩人李白、悲劇的人生を生きた思想家孔子、敵に暗殺されたメディチ家のプラトン・アカデミーの思想家たち。悲劇的な藝術家、思想家と比べれば、秋聲は幸福な人生を生きたと言える。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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小早川秋聲は88年の人生で5つの時代を生きた。≪愷陣≫1930年、凱旋した労を労い花に飾られた馬、生きものの苦しみを癒す心に感銘を受ける。天下和順『無量寿経』の教えが彼を導いた。
【鳥取光徳寺、京都時代】
1885年、鳥取県にある光徳寺の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都・東本願寺の僧籍に入る。その後16歳で歴史画家の谷口香嶠に師事する。
【人生の選択】1909年、京都市立絵画専門学校に入学、退学
秋聲は、1909年、谷口香嶠が教授を務める京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に入学するが、すぐに退学、中国へ行き、約1年半、東洋美術を学ぶ。1915 年、師・香嶠を亡くした秋聲は、次いで写生の山元春挙の門下となり師事する。
【旅する画家】世界を旅する日本画家、憧れのインド、ヨーロッパ文化1920 -26年
1918~20 年に、北海道、山陰、紀州などを旅する。そして、1920 年末、中国に渡り、東洋美術の研究等に約 1 年を費やす。後、東南アジア、インド、エジプトを経て、1922 年春、ヨーロッパへ。イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、スイス、イギリスなど十数ヵ国を約 1 年かけて遊学。また、1926 年には日本美術を紹介する任を負い、北米大陸を 4 ヵ月間で横断。
【従軍画家】僧である陸軍騎兵少尉1937-44年
1937年10月、東本願寺より従軍慰問使として戦線に向かう。1943年6月秋聲は陸軍によりビルマに派遣される。《國之楯》1944年(1968年改作)を描く。陸軍に受け取り拒否される。60歳の時、終戦。
【下鴨神社、糺の森、自宅アトリエの庭】
秋聲は、従軍画家、藤田嗣治のように、画壇から遠ざかった。下鴨糺の森、自宅アトリエの庭で孫に絵を教えた。1974年2月6日、88歳で死す。
谷口香嶠亡きあとは、巨匠・山元春挙の門下となる。秋聲は、幼いころから絵を描くのが大好きで、おやつの代わりに半紙をもらっていた。元来の才に加え、歴史画の香嶠、写生を重んじる春挙の二人から鍛えられ、初期から高い技術を持つ作品が並びます。
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同時代を生きた藤田 嗣治(1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、従軍画家の時代、秋聲と出会いすれ違う。
藤田嗣治は、「乳白色」の裸婦像で一世風靡したが5人の妻と5つの時代を生きる。そして最晩年の教会へ。「1 とみ 真夏の恋で結ばれた、同い年の才媛、 2フェルナンド フランスへの同化を誘いざなった女性画家、3 ユキ 絶頂期をともにした“トロフィー・ワイフ”、4 マドレーヌ 中南米遊歴の果て、日本に散った薄幸のミューズ、5 君代 花も嵐も踏み越えて添い遂げた、最後の妻」*。
【戦争画家として非難】藤田 嗣治は、戦後、国民を死に煽る戦争画家として責任を追及され、NYへ、パリへ逃れる。藤田嗣治「アッツ島玉砕」1943
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展示作品の一部
「國之楯」1944年(1968年改作)、京都霊山護国神社(日南町美術館寄託)
天覧に供するために陸軍省の依頼で描かれたと伝わるが、完成作は陸軍省に受取を拒まれた。絵の裏にはチョークで「返却」と記されている。
「愷陣」 1930年 個人蔵
凱旋して帰ってきた馬を牡丹の花で飾って、慰める。
「薫風」 1924年 個人蔵
「長崎へ航く」 1931年 個人蔵
「絲綢之路」大正期 鳥取県立美術館
「譽之的」 那須与一、大正期
「山中鹿之助三日月を排する之図」1902 10代後半の作
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★参考文献
「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」求龍堂2021
「没後50年 藤田嗣治展」東京都美術館・・・乳白色の肌、苦難の道を歩いた画家
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画家たちの戦争『芸術新潮』1995年8月号
藤田嗣治と5人の妻おんなたち『芸術新潮』2018年8月号
小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌・・・旅路の果て、戦争の果て、人生の果て
https://bit.ly/3HvP8nu
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小早川秋聲[こばやかわしゅうせい 本名・盈麿(みつまろ)1885-1974]は、大正から昭和にかけて、京都を中心に活躍した日本画家です。鳥取の光徳寺住職の長男として生まれた秋聲は、9歳で京都の東本願寺の衆徒として僧籍に入りました。その後、画家になることを志し、日本画家の谷口香嶠(こうきょう)や山元春挙(しゅんきょ)に師事、文展や帝展を中心に入選を重ね、画技を磨きます。また、旅を好んだ秋聲は、北海道、山陰、紀州など日本各地を絵に描き、国外では複数回の中国渡航に加え、1922年から23年にかけてアジア、インド、エジプトを経てヨーロッパ十数ヵ国へ遊学。1926年には北米大陸を横断し、日本美術の紹介にも努めました。やがて、従軍画家として戦地に何度も赴くようになり、数多く描いた戦争画のなかでも代表作に挙げられる《國之楯(くにのたて)》は深く印象に残る1点です。本展は、初期の歴史画から、初公開の戦争画、晩年の仏画まで、百余点で小早川秋聲の画業を見渡す初めての大規模な回顧展となります。
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小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌
東京ステーションギャラリー
2021年10月9日(土) - 11月28日(日)
京都文化博物館
2021年8月7日(土)~9月26日(日)
東京都
2021年10月9日(土)~11月28日(日)
東京ステーションギャラリー
鳥取県立博物館
2022年2月11日(金)~3月21日(月)
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第240回
花盛りの森を歩いて、藝大美術館に行く。上野の森は桜満開、人があふれている。仏大統領は3月31日パリなどで導入されている都市封鎖を全土に拡大すると発表した。
「牡丹に蝶の図」花の盛りを過ぎ、風が吹けばこぼれ落ちてしまう花、退廃的な雰囲気が漂う。落ちていく雄蕊、風の流れ、花びら落ちていく時間の経過が描かれている。*
忘れられた知られざる名匠による繊細で洒脱な花鳥画、フランス人を魅了し、印象派画家と交流した。
【美人画、省亭と勝川春章】渡辺省亭「七美人之図」は室町時代の「竹林七賢図」の水墨画の世界を美人画で表現する。勝川春章「竹林七研図」を直接参照したらしい*。省亭の妻は美人だった。省亭の妻さくの面影を美人画に投影させていると長男、渡辺水巴の証言がある。【鳥、省亭と伊藤若冲】渡辺省亭「雪中鴛鴦之図」1909年は、伊藤若冲「動植綵絵之内雪中鴛鴦図」の極微の世界を研究し追求する。
【曲水流觴】王羲之、李白、嵯峨天皇、空海、大伴家持、藤原俊成、藤原定家、西行、豊臣秀吉。春の兆し、桜を愛で、桃を愛し、神泉苑で、花の宴を催した文人たち。儚い花、儚い香り、儚い夢、儚い愛、怨憎会苦、愛別離苦の悲しみを歌った詩人たち。この世の苦しみを、花盛り花を愛で、宴を催し、心を癒した。
【花と死】願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ、西行『続古今和歌集』。西行は文治六(1190)年二月十六日 73歳で亡くなる。
【花と蝶】花に蜜を求めて乱舞する蝶、花に吹く風、零れ落ちる雄蕊、漂う風。竹林を歩く七美人。省亭は若冲のように鳥を好んだ。花と鳥と龍頭観音を愛した省亭は、可視界の彼方に何を求めたのか。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【省亭とパリ】省亭は一八七八年の万博を機にパリに渡り、ドガと印象派の画家たちと交流した。万博出品やロンドンでの個展により海外で高い評価を得た。国内での大規模な作品展は初めて。ドガに贈られた「鳥図」(枝にとまる鳥)。
絹本に薄塗りの技法は、繊細で儚い世界を表現する。
「この絵には、「為ドガース君 省亭席画」という落款が施されている。「ドガース君」とは、踊り子を描いた絵で有名なフランスの画家、エドガー・ドガ(1834~1917)。省亭は明治11年、日本画家としてはじめて渡欧し、パリ万博にまつわる輸出産業の仕事に従事した。その折、その画技が評判となって、ドガをはじめとするフランス人が集まった会合で、席画(即興で描く絵)を披露した。いかにも速い筆捌(さば)きによる枝、葉、そして鳥の尾羽。かすれているのが生々しい。ドガは省亭の筆技に驚嘆したことだろう。そしてこの絵はいま、アメリカ、マサチューセッツ州にあるクラーク美術館に保管されている。はじめて里帰りして展示される。ドガはいつ手放したのか」山下裕二*。
明治20年代にロンドンで開かれた展示会で、100点を超える省亭作品が販売された。
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渡辺省亭、パリと浅草に棲息した絵師 1852年~1918年
嘉永4年12月(1852年1月)江戸神田佐久間町に生まる。16歳、歴史画家・菊池容斎に入門、書道、筆遣いや写生の基礎を学ぶ。明治8年(1875)23歳。起立工商会社に入社、輸出用工芸図案を担当。明治10年(1877)の内国勧業博覧会出品作を翌年のパリ万博にも出品する。
【1878年(明治11年)、パリ万博】26歳
同社派遣により日本画家としてはじめてパリに渡る。帰国後、内外の博覧会や展覧会に花鳥画を中心に積極的に出品、明治20年代、伝統と洋風を融合、自己の様式を確立。
【1898年(明治31年)、日本美術院、創立】
岡倉覚三(天心)が東京美術学校を排斥されて辞職した際に、自主的に連座して辞職した美術家達(橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月)が結成。谷中大泉寺にて。
省定は、明治30年代以降、美術展覧会、美術団体に参加せず、市井の画家として活動を行う。明治40年代からは高い画料で仕事をした、弟子をとらず、注文に応じて制作活動を行った。大正7年(1918)68歳で亡くなる。
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展示作品の一部
渡辺省亭「牡丹に蝶の図」1893(明治26)年 絹本着色 一幅 個人蔵
渡辺省亭「百舌鳥に蜘蛛図(花鳥魚鰕画冊)」絹本着色 一面(全二十一面のうち) メトロポリタン美術館
渡辺省亭「牡丹に雛図(花鳥魚鰕画冊)」絹本着色 一面(全二十一面のうち) メトロポリタン美術館
渡辺省亭「雪中鴛鴦之図」1909年 絹本着色 142.0×78.0cm
渡辺省亭「龍頭観音」1879(明治12)年
渡辺省亭「春野鳩之図」絹本着色、一幅、加島美術館
渡辺省亭「鳥図(枝にとまる鳥)」1878(明治11)年/紙本淡彩/一面、クラーク美術館 Clark Art Institute. clarkart. Edu エドガー・ドガ旧蔵品「鳥図」(為ドガース君 省亭席画)
渡辺省亭「花鳥魚鰕画冊」メトロポリタン美術館所蔵
渡辺省亭「七美人之図」絹本着色、一幅、クラウス・F・ナウマンコレクション
箱書きに「七美人之図」と題するが、この画題がいわゆる竹林七賢を意識していることは明白である。竹林に隠棲(いんせい)した七人の賢者を描く、室町時代以来定番の、水墨画の画題。省亭は古典をしっかり踏まえながら、最高の画技をもって、このような大作を描いた。
渡辺省亭《四季江戸名所(夏 不忍池蓮)》(部分) 絹本着色 四幅のうち 個人蔵
【花鳥画】赤坂迎賓館内部を飾る七宝額の原画を省亭が担当し、濤川惣助が無線七宝で拵えた。
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参考文献
「渡辺省亭-欧米を魅了した花鳥画-」小学館、2021
*山下裕二氏、古田亮氏「渡辺省亭-欧米を魅了した花鳥画-」広報事務局プレスリリース
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
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「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
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渡辺省亭 欧米を魅了した花鳥画、東京藝大美術館、3月27日(土)~5月23日(日)
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愛知の岡崎市美術博物館、5月29日(土)から7月11日(日)まで
静岡の佐野美術館、7月17日(土)から8月29日(日)まで
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