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日本画

2024年9月24日 (火)

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、熱帯の光芒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第378回

孤高の画家【燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや、田中一村】10代にして与謝蕪村の南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。東山魁夷と同期。40代以降、日展、院展、へ出展するが、落選。1958年50歳で奄美大島移住。15点の傑作。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。69歳で死す。
【田中一村(1908-1977)】17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。1977年9月11日76歳で死す。
【不屈の画家、田中一村】一村は30歳の時、千葉へ移住。40代以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返す。公募展に入選した唯一の作品《白い花》青龍社展1947年39歳。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。1958年50歳で12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976を描き、69歳で死す。日曜美術館「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」1984年2月16日、放送された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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田中一村(1908-1977) 17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976
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【田中一村の同時代人】高島野十郎、斉藤真一、東山魁夷、杉山寧
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916
【斉藤真一】1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者。
【杉山寧】杉山 寧(1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。
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参考文献
【変貌する速水御舟】速水御舟(1883-1923)は、歴史画から出発、中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画、「折枝画」の様式、細密画、写実・象徴性・装飾性を融合、琳派の構図と装飾性へ到達する。

特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-cc9c4e.html
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、熱帯の光芒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
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田中一村(1902-1977)は、生涯にわたって個展などのかたちで作品を発表することなく、画壇の活躍に絶望、絵を描き続けた日本画家。明治41年(1908年)栃木に生まれ、50代の時に奄美大島へと移住した一村は、亜熱帯の花鳥や風土を題材に、澄んだ光に満ちた独特の絵画を数多く残した。
特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」、過去最大規模となる一村の回顧展。奄美で描いた代表作《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》を筆頭に、神童と称された幼少期の絵画から、未完の大作、そして近年発見された初公開作品まで、250件超の作品を通して一村の全貌を紹介する。
第1章 東京時代:若き南画家として
一村の東京時代。栃木に生まれ、5歳の時に東京に移った一村は、彫刻師の父から絵画を学び、幼くして卓越した画才を示した。南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で、東京美術学校(東京藝術大学)日本画科に入学するが、2か月後にで退学。「家事都合」。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。一村は、当時人気を集めていた近代中国の文人画家による吉祥的画題の書画に倣い、若き南画家として身を立てた。
その後、弟と両親を立て続けに亡くした20代の一村は、転居を繰り返し、自らの方向性を模索。この時期一村は空白期とされていた。それまでの南画的な作風から離れ、《椿図屏風》等、力作を生みだすなど、新境地へと歩みを進めた。数え8歳の《菊図》、南画家時代の《蘭竹図/富貴図衝立》、画風転換期に手がけられた《椿図屏風》がある。
第2章 千葉時代:長い模索期
一村の千葉時代。20代で相次いで家族を失った一村は、昭和13年(1938年)、30歳の時、親戚を頼って千葉に移った。周囲との繋がりや支えを得た一村は、身近な小景画や仏画、季節の掛物など、目にみえる相手に向けて丁寧に作品を手がける。
20年にわたる千葉時代の一村は、屋敷の障壁画一式を任されるような大きな仕事を受け、その過程で花鳥画に新境地を見出し、九州・四国・紀南を巡る旅ののち、開放感に溢れた色紙絵を描いた。
一村は40代半ば以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返した。公募展に入選した唯一の作品《白い花》、《千葉寺 春》千葉の風景画、千葉時代という長い模索期に手がけられた作品は無数にある。
第3章 奄美時代:豊かな自然を題材に
一村の晩年、奄美時代を紹介。昭和33年(1958年)、50歳の一村は、単身で奄美大島に移った。一度は千葉に帰るものの、覚悟を決めて再び奄美に戻り、紡工場で染色工として働きつつ、奄美の自然を主題とした作品を制作。最晩年には工場を辞めて制作に注力し、《アダンの海辺》をはじめとする主要な作品を数多く描いたとされる。本展では、《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》、《奄美の海に蘇鐵とアダン》など、奄美時代の作品の数々を展示する。
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展示作品の一部
田中一村 《不喰芋と蘇鐵》 昭和48年(1973年)以前 絹本着色 個人蔵
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田中一村 《アダンの海辺》 昭和44年(1969年) 絹本着色 個人蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《奄美の海に蘇鐵とアダン》 昭和36年(1961年)1月 紙本墨画着色 田中一村記念美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《椿図屏風》 昭和6年(1931年) 絹本金地着色 2曲1双 千葉市美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《白い花》 昭和22年(1947年)9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵
田中一村 《ずしの花》 昭和30年(1955年) 絹本着色 田中一村記念美術館蔵
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https://www.tobikan.jp/index.html
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特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」東京都美術館
会期:2024年9月19日(木)~12月1日(日)

2024年6月12日 (水)

犬派?猫派? 俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで・・・遣唐使船で経典を守る猫

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第371回

母の愛犬、トイプードル、守護精霊となって帰ってきた。学問僧を守るために。
【犬と藝術】縄文時代から猟犬として飼われて。弥生時代、番犬として飼われ、古墳時代、犬の埴輪も作られた。室町時代幕府による明との勘合貿易、ポルトガルとの南蛮貿易で唐犬、南蛮犬が珍重された。江戸時代、犬は放し飼いが一般的だったが、狆は愛玩犬として身分の高い女性や遊女に室内で飼われていた。喜多川歌麿『美人五面相 犬を抱く女』【愛犬家】円山応挙『雪中狗子図』1784長澤芦雪『菊花子犬図』18c、守屋多々志『慶長使節支倉常長』1981、川端龍子『立秋』
【日本の猫】奈良時代、遣唐使船で仏教経典を守るため、鼠を捕る猫を載せて渡来。弥生時代には人と猫が暮らしていた痕跡あり。平安時代、猫は貴族のペットとして紐で繋がれていた。道長の正妻・源倫子は猫を紐で繋いだ。源倫子は90歳まで生きた。『源氏物語』女三ノ宮の柏木が出会う場面に猫が出る。江戸時代、放し飼いされ鼠除けとして重宝される。猫好きの絵師・歌川国芳は猫を何匹も飼っている。近代の愛猫家・藤田嗣治はサインの代わりに猫を描いた。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【菱田春草『黒き猫』永青文庫】1910第四回文展に出展された作品。しかし、最初は美人画を出品する予定だった。大きく曲がった柏の木の幹に1匹の黒猫がうずくまり、じっとこちらを見つめている。輪郭のぼかしによる、柔らかな毛並みの表現が見事である。思わず触れてみたくなる。一方、柏の樹や葉は平面的に表されているが、黒猫と調和している。猫の黒と柏の葉の金色の対比も鮮やか。写実と装飾が見事に一致した傑作と、発表当時から高い評価を得た。菱田春草は36歳の若さで早世したが、4点の作品が重要文化財に指定されており、近代の美術家として最多である。伝統的な美意識と、西洋絵画の色彩表現や空間表現とをいかに融合させていくか、一作ごとに新たな表現を開拓していった結果である。
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「動物に対して残酷な人間は、人間との取り引きにおいても厳しい存在になる。動物への扱いで人間の心を判断することができる。」カントの言葉
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展示作品の一部
長沢芦雪 《菊花子犬図》18世紀(江戸時代) 個人蔵
円山応挙《雪中狗子図》(1784年、個人蔵)
歌川国芳《猫飼好き五十三疋》1848
伊藤若冲 狗子図 18世紀(江戸時代) 紙本・墨画 個人蔵
竹内栖鳳 《班猫》 1924年 山種美術館蔵 【重要文化財】
川端龍子 立秋 1932(昭和7) 絹本・彩色 大田区立龍子記念館
速水御舟 《翠苔緑芝》 1928年 山種美術館蔵
藤田嗣治《Y 夫人の肖像》(株式会社三井住友銀行)1935は、女性と4匹の猫を描いた
古屋多々志「慶長使節支倉常長」1981
解説の山下裕二先生は、俄然猫派
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没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
https://bit.ly/3TkPJ0z
どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-f7b3b4.html
犬派?猫派? 俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで・・・遣唐使船で経典を守る猫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-03c2db.html
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特別展:犬派?猫派? ―俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで―
会期:2024年5月12日~7月7日(前期:5月12日~6月9日、後期:6月11日~7月7日 
会場:山種美術館
住所:東京都渋谷区広尾3-12-36
開館時間:10:00~17:00 ※入館は閉館30分前まで
https://www.yamatane-museum.jp/access/

2023年10月26日 (木)

「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第346回
速水御舟、東山魁夷、奥村土牛、日本画家の名作には詩情がある。東山魁夷「京洛四季」(新潮社)を購入したのは、1960年代末だった。今、京都には詩情があるだろうか。
ドラマや映画、アニメ、小説、漫画などにゆかりの地を、作者や作品への思い入れを込めながら訪れることを「聖地巡礼」という。「絵画」でいえば、「風景画」に描かれている景勝の地、「歴史画」に描かれている古戦場などが「聖地」になるのだろうか。日本画専門の美術館である山種美術館の今回の特別展は、「日本画」の「聖地」がテーマ。展示作品と、それにゆかりの土地の情報を並べ、美術館にいながら「聖地巡礼」の旅を辿る。
【速水御舟 『名樹散椿』1929年】御舟が描いた五色八重散椿は、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、豊臣秀吉により寺に寄進されたという逸話の名木。花の首から落ちる椿を、武士たちは忌み嫌ったとされるが、この椿は、花弁がひとひらずつ散るため珍重された。御舟の描いた樹齢約400年の椿は残念ながら枯れて、その遺伝子を受け継いだ二世の木が椿寺地蔵院の玄関脇に植えられている。(山崎妙子館長) 速水御舟の《名樹散椿》は、京都・椿寺地蔵院の名木「五色八重散椿」をモチーフにした。写真の樹木に比べると御舟が純粋なその姿を造形し、花を強調して描いている。
東山魁夷が京都の四季を描いた連作「京洛四季」(《春静》《緑潤う》《秋彩》《年暮る》の4作)。連作「京洛四季」20数点は、作家・川端康成の「京都は今描いといていただかないとなくなります、京都のあるうちに描いておいてください」という言葉をきっかけにして生まれた。
奥村土牛『鳴門』。鳴門海峡の渦潮を前に写生を繰り返した。「雄大で神秘的な渦潮を見ていると、描きたいという意欲が抑え難く湧き上がってきた」奥村土牛
動物画家・山口華楊『木精』。描かれるのは北野天満宮の境内にある欅の根。まるで精霊の触手のように生命力があふれている。動物画家・山口華楊は戦前、自庭の小屋に雉や白鷺、ミミズク、鳶などの鳥類のほか、猿、兎、犬などを飼い、観察し、常日ごろから写生した。北野天満宮にある樹齢600年と伝わる大欅「東風」を描いた作品。豊臣秀吉がこの地に御土居(おどい=城壁)を築いた時代には、すでに現在と同じ場所にあった。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【美の根拠はどこにあるのか】思想が美しいということは、美の根拠である。
【美しい詩の根拠】①内容が深い、②映像が鮮烈、③連想イメージの豊饒、④余韻が深い、⑤思想が高い、高い知性、⑥物語が深い、⑦容姿が美しい。ウィリアム・ブレイク『毒のある木』、宮澤賢治『インドラの網』、藤原定家「夢の浮橋」、プラトン『饗宴』、空海『三教指帰』序文
藤原定家『定家十体』藤原定家著と伝えられる。1213年以前に成立か。和歌を幽玄様・有心様などの一〇体に分類し、例歌を示す。幽玄様 長高様 有心様 事可然様 麗様 見様 面白様 濃様 有一節様 拉鬼様。
『毎月抄』藤原定家、承久元年(1219)中心は、和歌を十体(じってい)に分けて説き、その中心として「有心体(うしんてい)」をたてた点であるが、それは十体の一つであるとともに十体のすべてにもわたるとする。「有心」として説くのは作歌にあたっての観想の深さで、それが表現上に表れていることである。理想的な完成態は「秀逸体」として十体とは別に説かれる。藤平春男。そのほか心詞・花実の論,秀逸体論,本歌取りの技巧,題詠の方法,歌病,詠歌態度などについて説く。
【無心の境地】思想の中に、藝術の中に、美を発見するとき、学問僧は無心の境地になる。思想の書を書き、洗練していくことに没頭するとき、無心の境地に至ることができる。密教の三密、身密、口密、意蜜、の修行に没頭するとき、無心の境地に至る。大谷翔平の技を支える業は、修行僧のようである。秘密の身・口・意の三業。すなわち、仏の身体と言語と心によってなされる不思議なはたらき。また、密教の行者が手に契印を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に大日如来を観ずる意密。三密加持すれば速疾に顕わる『即身成仏義』(823-824頃)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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東山魁夷『年暮る』1968年 山種美術館蔵
東山魁夷『春静』1968(昭和 43)年 紙本・彩色 京都鷹峯
東山魁夷『秋彩』1986(昭和 61)年 紙本・彩色
奥山土牛 『鳴門』 1959年 山種美術館蔵
山口華楊『木精』 1976年 山種美術館蔵
速水御舟『名樹散椿』(重要文化財) 1929年 山種美術館蔵
奥田元宋『奥入瀬(秋)』1983(昭和58)年 紙本・彩色
米谷清和『暮れてゆく街』1985山種美術館
五色八重散椿第二世(写真:京都・椿寺地蔵院)
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参考文献
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」図録2023
「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-3c178f.html

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「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」
会場:山種美術館(東京都渋谷区広尾3-12-36)
会期:2023年9月30日(土)~11月26日(日)
休館日:月曜休館、10月9日は開館、10日が休館
山種美術館(https://www.yamatane-museum.jp/

2023年8月20日 (日)

日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第339回

師、岡倉天心が辞任し、弟子たちは殉教する。【東京美術学校事件】明治31年1898年、岡倉天心の東京美術学校辞職で学校に反旗を翻す、急進派として懲戒免職。横山大観ら14人は辞職する。1898年、岡倉天心は日本美術院を設立。岡倉天心のもとで、横山大観(1868~1958)、菱田春草、下村観山らとともに日本画の革新を目指し、東洋の精神に西洋画の手法を取り込み、新しい表現様式を追求した。輪郭線を使わず、色彩の面的な広がりにより空気を描く技法を用いて、「朦朧体」と誹謗中傷された。【朦朧派】大観、春草、らは、朦朧体を用い、朦朧派と呼ばれ、貧苦に喘ぐ。横山大観は『流燈』1909で女性像を描き、新境地を拓くまで苦労した。『流燈』は、明治36年(1903)1月~7月に菱田春草とともに派遣されたインド旅行の体験を踏まえ、日本美術院の五浦研究所において完成した。
【院展】創設されたばかりの日本美術院(院展)で、横山大観や菱田春草たちは、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気を表現することに努める、実験的な試みを行い、日本画に新たな局面を切り開いた。
政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こした。
【国画創作協会】土田麦僊、村上華岳、甲斐荘楠音。村上華岳、甲斐荘楠音は、アジャンタ石窟、レオナルド『モナリザ』『岩窟の聖母子』から学んだ妖艶な女性像を生み出した。
【青龍社】川端龍子(1886-1966)は、修行のためにアメリカに渡り、帰国後日本画に転向、独学で日本画を学んだ龍子は院展の同人になる。独創的な発想と斬新な色使いで構成された巨大な作品を好んだ。院展を脱退。自らが主催する青龍社を立ち上げ、以後亡くなるまで青龍展で作品を発表し続けた。「昭和の狩野永徳」と呼ばれた。青龍社の第一回展《鳴門》1929は、希少な岩絵具の群青を多用、大胆な構図を構想した。川端龍子は「健剛なる芸術」の創造を唱え、大衆に訴える作品を描き続けた、従来の「床の間芸術」に対抗し、広い展示場での展示に耐える、「会場芸術」を追及した。
【千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず】一日に千里も走ることのできる名馬は常に存在するが、それを見いだす伯楽は常に存在しない。世の中に有能な人はたくさんいるが、その才能を見いだせる人物は少ない。いつの時代でも有能な人材はいるが、才能を見抜く名人はいない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
横山大観「波上群鶴」明治30年代、個人蔵
菱田春草《雨後》1907(明治40)年頃 絹本・彩色 山種美術館
土田麦僊《大原女》1915(大正4)年 紗本金地・彩色 山種美術館
川端龍子《鳴門》1929(昭和4)年 絹本・彩色 山種美術館
上村松園《牡丹雪》1944(昭和19)年 絹本・彩色 山種美術館
速水御舟《白芙蓉》1934(昭和9)年 紙本・墨画彩色 山種美術館
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参考文献
没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
https://bit.ly/3TkPJ0z
甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6cb36a.html
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
https://bit.ly/2KCbOrW
「没後50年 横山大観」国立新美術館・・・天心と憂愁の詩人、『屈原』悲愴美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/50_9647.html
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
https://bit.ly/2Pjv8Kx
特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-cc9c4e.html
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明治時代に入り、西洋文化を取り入れつつ社会の近代化が進む中、画家たちは西洋画に匹敵、あるいは凌駕する日本の絵画を生み出そうと努めました。創設された日本美術院(院展)では、実験的な表現に取り組む画家たちがいました。大正・昭和時代を迎えると、政府主導の官展や画壇の中心にいた院展に対抗する画家が、青龍社(東京)、国画創作協会(京都)など美術団体を立ち上げ、画壇に大きな旋風を巻起こしました。
本展では、輪郭線を使わない技法「朦朧体」で空気の表現を試みた横山大観の《波上群鶴》(個人蔵)、菱田春草の《雨後》、女性が画家として生きる道を切り開いた上村松園の《牡丹雪》、希少な岩絵具の群青を大量に用いて記念すべき展覧会(第1回青龍展)へ出品した川端龍子の《鳴門》、10代で「日本画滅亡論」に直面するも後に日本を代表する画家となった松尾敏男の《翔》(山種美術館賞受賞作)などをご紹介いたします。明治時代から現代にいたる多彩な作品を通し、新たな日本画の創造に挑んだ精鋭たちの軌跡をご覧ください。
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2023/elites.html
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特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ、山種美術館、2023年7月29日(土)~2023年9月24日(日)

2023年7月29日 (土)

虫めづる日本の人々・・・喜多川歌麿「夏姿美人図」鳴かぬ蛍が身を焦がす

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第335回
『源氏物語』『伊勢物語』において、鈴虫、松虫などの鳴く虫や蛍、鳴く虫や蛍を愛でる文化、虫撰、宮中で始まった。元時代12世紀、草虫図は、立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。
江戸時代、蛍狩りが流行した。恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす。喜多川歌麿「夏姿美人図」、恋人と一緒に蛍狩りに行く女が化粧し身を整えている。鳥文斎栄之「蛍狩り美人図」、松本交山「百蝶図」谷文晁と酒井抱一と交友した画人。伊藤若冲「菜蟲譜」(1790)には、博物学者の眼がある。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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嵯峨天皇『舞蝶』『文華秀麗集』
嵯峨天皇は、蝶が舞う姿を詩に書いた。「数群の胡蝶空に飛び乱れ、無心にして処々春風に舞う、本より弦管の響に因らず、雑色粉々なり花樹の中、数群の胡蝶空に飛び乱れ」嵯峨天皇と空海
嵯峨天皇(786-842)と空海(774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は知的交友があった。仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えである。
平安初期。嵯峨天皇時代『文華秀麗集』に蝶の漢詩が出てくる。蝶の群舞を漢詩にした。音楽の響きなしに自ずから舞っている、現実の蝶が野原に舞っている姿を詠んだ。舞楽の「胡蝶」の光景から作られたものではない。
嵯峨天皇『舞蝶』『文華秀麗集』
数群胡蝶飛乱空(数群の胡蝶空に飛び乱れ)雑色紛紛花樹中(雑色粉々なり花樹の中)
本自還元不因響(本自弦管の響の因らず)無心処々舞春風(無心にして処々春風に舞う)
仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えであり、儒教は学問によって立身出世と子孫繁栄を成就する吉祥を祈る教えである。
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子に放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の智慧と慈悲を教える。空海は大学寮明経科退学、官僚の立身出世の道を辞めた理由。
「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることは【立身出世、子孫繁栄】などの吉祥を表す」子曰く、小子、何んぞ夫の詩を學ぶこと莫きや。詩は以て興す可く、以て觀る可く、以て群す可く、以て怨む可く。これを邇くして父に事え、これを遠くして君に事え。多く鳥獸草木之名を識る。(『論語』陽貨・第17-9)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【『万葉集』の和歌には蝶の歌はない】漢詩には表れる。夜あかりに集まる蛾のほうは、「ひひる」「火取り虫」として記録されている。『万葉集』には無かった蝶。
【八代集(古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集、新古今集にも「蝶」は登場しない)
『古今集』にわずかに「蝶」が詠まれている。思い惑う魂の象徴としての蝶、恋しい人に見せてはいけないものとしての蝶。
「散りぬれば後はあくたになる花を 思い知らずもまどう蝶かな」僧正遍照
「こてふ(胡蝶)にも似たるものかな花薄 恋しき人に見すべかりけり」紀貫之 
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草虫図は中国で成立した画題。画中には多種多様な草花と虫が描かれており、それが立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。また、『論語』の中に孔子が弟子・陽貨に詩を学ぶ意義について説いた一節があり「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることが出来る」(『論語』陽貨・第17-9)。
『歴代名画記』によれば、中国の六朝時代(3~6世紀)には虫が絵の主題として取り上げられ、唐時代(7~10世紀)には草虫を描く者があらわれた。
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展示作品の一部
きりぎりす絵巻(部分) 住吉如慶 二巻のうち 江戸時代 17世紀 細見美術館
白綸子地梅に熨斗蝶模様打掛 一領 江戸時代 19世紀 サントリー美術館 【展示期間:8/23~9/18】、
画本虫撰、喜多川歌麿 二冊のうち下 天明8年(1788) 千葉市美術館 【全期間展示】
夏姿美人図 喜多川歌麿 一幅 寛政6~7年(1794~95)頃 遠山記念館【展示期間:7/22~8/21】、
重要文化財 草虫図 双幅 元時代 14世紀 東京国立博物館 Image: TNM Image Archives 【展示期間:8/23~9/18】
重要文化財「菜蟲譜」伊藤若冲 一巻 寛政2年(1790)頃 佐野市立吉澤記念美術館 【展示期間:8/9~9/18】
鳥文斎栄之「蛍狩り美人図」18世紀
甜瓜図 土田麦僊 一幅 昭和6年(1931)埼玉県立近代美術館
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参考文献
「虫めづる日本の人々」サントリー美術館2023
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
虫めづる日本の人々・・・喜多川歌麿「夏姿美人図」鳴かぬ蛍が身を焦がす
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6032f9.html
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第一章:虫めづる国にようこそ
現代でも多くの人々が知る『源氏物語』『伊勢物語』において、鈴虫、松虫などの鳴く虫や蛍は、登場人物の心情を表すといった重要な役割を果たしています。また、嵯峨野周辺を散策して鳴く虫を捕まえ、宮中に献上する虫撰も行われるようになりました。宮廷を中心に鳴く虫や蛍を愛でる文化は発展し、虫聴と蛍狩が日本の歳時記となる礎が築かれました。
第二章:生活の道具を彩る虫たち
酒器、染織品、簪などの身近な道具には、蝶、蜻蛉、鈴虫、蜘蛛など様々な虫たちがあしらわれてきました。
2匹の蝶が仲睦まじく飛ぶ様子が夫婦円満を意味する文様となるなど、虫の行動と当時の人々の願いが結びつくこともありました。
第三章:草と虫の楽園―草虫図の受容について―
草虫図は中国で成立した画題。画中には多種多様な草花と虫が描かれており、それぞれが立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。また、『論語』の中に孔子が弟子・陽貨に詩を学ぶ意義について説いた一節があり、そこでは「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることが出来る」(『論語』陽貨・第17)。
中国最初の本格的な画史書である『歴代名画記』によれば、中国の六朝時代(3~6世紀)には虫が絵の主題として取り上げられ、唐時代(7~10世紀)には草虫を描く者があらわれたようです。北宋時代末頃には草虫図が画題として確立し、南宋時代(12~13世紀頃)は毘陵(現:江蘇省常州市)でより盛んに描かれるようになり、草虫図はこの地域の名産品となりました。以降、清時代に至るまで描き継がれており、草虫図という画題が非常に人気を集めた様子がうかがわれます。
また、中国で制作された草虫図は海を渡って、日本へと伝来し、将軍や大名など時の権力者たちに愛蔵されました。そして、日本の絵師たちも草虫図を学び、影響を受けました。草虫図が中国で画題として確立し、日本で愛好された様子をご紹介します。
第四章:虫と暮らす江戸の人々
江戸時代中頃に入ると野山へと出かけ虫の音に耳を澄ませる虫聴、夕暮れ時に蛍を追う蛍狩は、市井の人々に親しまれる風雅な娯楽となりました。江戸の道灌山や根岸が虫聴や蛍狩の名所として知られ、老若男女がこぞって出かけ、思い思いに楽しんでいる様子が当時の浮世絵や版本に表されています。また、市中には籠に蛍や鳴く虫を入れて売り歩く虫売りがあらわれ、夏の風物詩となりました。当時は、お盆の頃に捕らえた生き物を放し供養する放生会のために購入されることもあったようです。虫を入れる籠には趣向が凝らされており、虫の音を楽しみ愛玩していた様子を感じることができます。
本章では、蛍狩、虫聴が娯楽として広まり、やがて江戸の年中行事として息づいていく様子をご紹介します。
第五章:展開する江戸時代の草虫図―見つめる、知る、喜び―
江戸時代は本草学や、書物に登場する動植物の名前を同定する名物学が進展し、西洋の科学技術が流入した。
18世紀以降には、飛躍的な進歩がみられます。第八代将軍徳川吉宗が洋書の輸入制限を緩和し、全国的な動植物の調査を行いました。この政策の影響もあり、大名、旗本が中心となり、優れた博物図譜が制作されました。
『論語』に由来する「多くの生き物を知ることを奨励する」思想は受け継がれ、より多くの虫たちが画中に登場するようになりました。
喜多川歌麿『画本虫撰』のように優れた狂歌絵本を生み出しました。
中国から伝来した草虫図も尊重され、研究が続けられました。西洋の技術の流入、本草学などの学問の発展、古画学習、文芸などが影響しあい、草虫図という枠組みを越えた多彩な虫の絵が江戸時代に制作されました。伊藤若冲、酒井抱一、喜多川歌麿、葛飾北斎などこの時代を代表する絵師たちが虫をモチーフとして取り上げ、活況を呈した江戸時代の草虫図をご覧ください。
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虫めづる日本の人々、サントリー美術館、7/22(土)~9/18(月・祝)

2023年7月 6日 (木)

甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第334回
謎の美の本質は何か【デカダンス薫る謎多き「あやしい画家」、東映京都撮影所の時代考証家、趣味人、83歳で死す】甲斐荘楠音(1894-1978)京都市立絵画専門学校にて頭角を現す、竹内栖鳳、菊池契月、に評価される。24歳の時、甲斐荘楠音を高く評価する先輩、村上華岳(1888-1939)に招かれ、「国画創作協会」1918年(大正7)、第1回展に入選、「横櫛」(1916)、岡本神草「口紅」1918とともに、人気を博す。「幻覚 踊る女」(1920)は狂気の舞い。
【女人像、退廃美薫る、謎の美の本質】甲斐荘楠音は14歳の時、レオナルド「モナリザ」に感動した。甲斐荘楠音「横櫛」(1916)「女人像」(1920)、村上華岳「裸婦図」(1920)、の妖しさは、レオナルド「モナリザ」(1503-05)「聖アンナと聖母子」(1510) 下絵 (1405-158)のような両性具有(アンドロギュノス)的な美である。
甲斐荘楠音「春」(1929)は妖艶な美の到達点である。ボッティチェリ『春』1478を意識している。
【東映京都撮影所の時代考証家、趣味人、83歳で死す】1940年、画壇を去る。先輩、村上華岳は、1939死去。太秦の東映京都撮影所にて衣装の時代考証家として活躍、名優・市川右太衛門と甲斐荘楠音がともに作り上げた「旗本退屈男」シリーズの豪華衣裳、『雨月物語』(溝口健二監督・1953年)のために考案。演劇人、茶人、趣味人として生きる。先輩、村上華岳(1888-1939)を越えて83歳まで生きる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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*【甲斐庄楠音《横櫛》1916】3作ある。
「横櫛1」1915年、楠音21歳のとき、東京の長兄楠香を訪ね、兄嫁彦子らと本郷座で四代目沢村源之助が切られお富を演じる河竹黙阿弥作「処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)」を観たが、その数ヵ月後に彦子が他界した。直後、兄嫁とともに見た芝居が、京都でも上演される。その翌年に、楠音は彦子をイメージしながら「横櫛」を一週間で描き上げた。顔の色は悪く、死相が現れているようにもみえる。襦袢の衿には天女が、地には炎と竜。死を暗示しているようにも思える。これが京都国立近代美術館所蔵。
「横櫛2」1917年、23歳の楠音は丸岡比呂史のアトリエを訪ねて一緒に制作するようになり、比呂史の妹トクと親しくなって婚約。しかし、許嫁であったトクが甲斐庄を捨てて年長の男と結婚するという事件が起こった。「横櫛1」の背景に「切られのお富」の絵をはめ込んだ。これは、「切られの与三郎」が出てくる「与話情浮名横櫛」を河竹黙阿弥が書換えた狂言「書換処女翫浮名横櫛に出てくる毒婦である。1918年、村上華岳の勧めにより、第1回国画創作協会展にこの「横櫛2」を出品し、入選。(広島県立美術館所蔵)Art & Bell by Tora cardiac.exblog.jp
【甲斐荘楠香、楠音の兄】高砂香料創業者、1880(明治13)年5月生まれ、京都の第三高等学校を経て、楠香は1901(明治34)年に京都帝国大学理工科大学純正化学科に入学、1906(明治39)年には久原躬弦教授のもと助教授になり1910(明治43)年9月、ヨーロッパへ旅立つ。
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【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。《「論語」陽貨》【どんなに地位、名誉、職業が高くても、教養がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【最高権力者が最下愚の国】最上の知者は悪い境遇にあっても戦う。
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参考文献
『甲斐荘楠音の全貌、絵画、演劇、映画を越境する個性』図録、日本経済新聞社、2023
池田祐子「さまざまに越境し混交する個性」
梶岡秀一「肌香を聞く」
没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」
「あやしい絵展」・・・退廃的、妖艶、エロティック、表面的な「美」への抵抗
「あやしい絵展」図録、毎日新聞社、2021
創業者 甲斐荘楠香物語 - 高砂香料工業株式会社
栗田 勇『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯』新潮社
甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6cb36a.html
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展示作品の一部
《幻覚(踊る女)》1920年頃、京都国立近代美術館
《女人像》1920年頃、個人蔵
《横櫛》1916年頃、京都国立近代美術館
《畜生塚》1915年頃、京都国立近代美術館
《春宵(花びら)》1921年頃、京都国立近代美術館
『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1959年、監督:佐々木康、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
『旗本退屈男 謎の幽霊島』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1960年、監督:佐々木康、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
『旗本退屈男 謎の暗殺隊』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1960年、監督:松田定次、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
『旗本退屈男 謎の大文字』衣裳、東映京都撮影所 ©東映(映画公開:1959年、監督:佐々木康、製作・配給元:東映株式会社、衣裳着用者:市川右太衛門)
《春》1929年、メトロポリタン美術館、ニューヨーク
「国画創作協会」解散後、甲斐荘が新たな活動の場とした絵画団体「新樹社」。その記念すべき第1回に出品された甲斐荘の意欲作《春》
Purchase, Brooke Russell Astor Bequest and Mary Livingston Griggs and Mary Griggs Burke Foundation Fund, 2019 / 2019.366
《虹のかけ橋(七妍)》1915-76年、京都国立近代美術館
《畜生塚》の前でポーズする楠音、1915年頃、京都国立近代美術館
太夫に扮する楠音、京都国立近代美術館
甲斐荘が『雨月物語』(溝口健二監督・1953年)のために考案し、アカデミー賞衣裳デザイン賞にノミネートされた衣裳もパリのシネマテーク・フランセーズから海を越えて来日
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あやしさを超えて、誰も見たことのない甲斐荘楠音の全貌にせまる
甲斐荘楠音(1894-1978/かいのしょうただおと)は、大正期から昭和初期にかけて日本画家として活動し、革新的な日本画表現を世に問うた「国画創作協会」の一員として意欲的な作品を次々と発表しました。しかし、戦前の画壇で高い評価を受けるも1940年頃に画業を中断し映画業界に転身。長らくその仕事の全貌が顧みられることはありませんでした。本展は1997年以降26年ぶり、東京の美術館では初となる本格的な甲斐荘の回顧展です。これまで知られてきた妖艶な絵画作品はもとよりスクラップブック・写真・写生帖・映像・映画衣裳・ポスターなど、甲斐荘に関する作品や資料のすべてを等しく展示します。画家として、映画人として、演劇に通じた趣味人として――さまざまな芸術を越境する「複雑かつ多面的な個性をもった表現者」として甲斐荘を再定義します。
甲斐荘楠音が携わった時代劇映画
甲斐荘楠音は衣裳・風俗考証家として、日本の時代劇映画の黄金期を支えました。本展に展示される映画衣裳の制作には甲斐荘が携わっています。映画監督・溝口健二をして「甲斐荘君が手伝ってくれると品がよくなる」と言わしめた考証家としての手腕は、伊藤大輔や松田定次ら時代劇映画の名監督たちから厚い信頼を得ていました。本展には、東映京都撮影所に保管されていた往年の映画衣裳の数々が展示されます。名優・市川右太衛門が袖を通した絢爛豪華な衣裳をはじめ、数々の映画資料が甲斐荘の見識や感性を物語ってくれます。
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甲斐荘楠音の全貌、絵画、演劇、映画を越境する個性、東京ステーションギャラリー
2023年7月1日(土)〜2023年8月27日(日)

2023年6月11日 (日)

「小林古径と速水御舟 ─画壇を揺るがした二人の天才─」・・・生涯の友

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第330回
小林古径と速水御舟は、11歳の年齢の差があるが互いに切磋琢磨する仲間であり、生涯の友である。
【変貌する速水御舟】速水御舟(1883-1923)は、歴史画から出発、中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画、「折枝画」の様式、細密画、写実・象徴性・装飾性を融合、琳派の構図と装飾性へ到達する。
1883年(明治16年)生まれの小林古径と1894年(明治27年)生まれの速水御舟は、11歳の年齢の差があるが互いに切磋琢磨する仲間であり、生涯の友である。
小林古径 《速水御舟(デスマスク)》 1935(昭和 10)年
速水御舟は画業に邁進するため、たびたび自宅を離れて制作活動を行っていた。没年の昭和 10 年、伊豆にしばらく隠棲して制作に没頭しようという計画を立てていたが、3 月 20 日、腸チフスという突然の病でこの世を去る。本作はその臨終に駆け付けた古径が描いたデスマスクで、元となったスケッチには「昭和十年三月二十日 前七時十五分」と記されている。古径はその死を悼み、追悼の言葉を数多く残した。
――
社畜の滅亡【人を滅ぼす方法はその人を忙しくする事】人を滅ぼすには朝から夕方まで彼を忙しくさせること。暇になると人は考える。どこに問題があるか。【奴隷の喜び】忙しいと満足感が生まれ、全ては正当化される。考える力がなくなる。考える時間が永遠になくなる。社畜の快楽は思考停止。
【優雅な生活は最高の復讐である】【指揮官、経営者の仕事は考えること。君子豹変】【考えることを止めた蛇は滅びる】【学問はスコレーから生まれる】真の学問は豊饒な時間(スコレー)からから生まれる。考えることを止めた蛇は脱皮できない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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山下裕二先生の解説
第 1 章 歴史人物画からの出発、写実・古典への挑戦
小林古径は 1899(明治 32)年、16 歳のときに上京して梶田半古の画塾に入門、速水御舟は 1908(同 41)年、14 歳で松本楓湖の安雅堂画塾に入門しました。半古、楓湖共に歴史人物画を得意とした画家であり、古径と御舟も、師と同様に歴史人物画から画業をスタートさせました。二人は 1911(同 44)年、若手画家の研究会・紅児会で知り合います。
二人の親しい交流は、御舟が 1935(昭和 10)年に 40 歳で早逝するまで続きました。
1914(大正 3)年に日本美術院が再興されると、二人は院展で活躍しました。古径は第 1 回展で、御舟は第 4 回展で共に同人に推挙されています。大正時代半ば以降、御舟は、洋画家・岸田劉生や、中国・宋代の院体花鳥画(11~13世紀)から影響を受け、細密描写による徹底した写実へと作風を変化させました。古径もそれに感化され、一時期、細密描写による写実表現を手がけ、油彩による《静物》(No.13)も残しています。
また、二人は実業家・原三溪の援を受け、一緒に三溪の研究会や茶会に参加していました。
御舟は、それまでの徹底した写実に、象徴性、装飾性を融合させ、代表作《炎舞》(No.18 第 2 展示室)を完成させました。そして、昭和初期には《翠苔緑芝》(No.21)のように、琳派の構図と装飾性を意識した作品へと、挑戦を続けます。古径も《秌采》(No.34)や《唐蜀黍》(No.52 東京国立近代美術館 後期展示)など、琳派を意識した作品を制作しました。
(No. 13) 小林古径 《静物》 1922(大正 11)年 山種美術館
大正時代半ば頃、古径も御舟や他の日本画家たちと同様に、洋画家・岸田劉生や中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画に触発され、細密描写により対象の質感を徹底的に追求した静物画、花鳥画を制作している。日本画の画材にこだわった御舟と異なり、本作品が油絵具で描かれていることは注目に値する。北宋時代の徽宗皇帝の書体である「痩金体」風の落款も用いられている。
(No. 14) 速水御舟 《桃花》 1923(大正 12)年 山種美術館
御舟の長女・彌生の初節句のために描かれた作品。中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画を意識し、枝の一部をクローズアップして小画面に描く「折枝画」の様式に倣って描かれている。御舟は折枝画特有の構図に油彩画的な質感表現を加え、さらに院体花鳥画にはみられない金地の無背景に枝先のみを描き、小品ながらきわめて結晶度の高い作品に仕上げている。落款は、徽宗皇帝の書体である「痩金体」を意識している。
(No. 18) 速水御舟 《炎舞》【重要文化財】 1925(大正 14)年 山種美術館
大正 14 年の夏、軽井沢に滞在した御舟は、毎晩のように焚き火をし、炎と群がる蛾を観察した。蛾を正面向きに描きながらも、翅の周囲を暈すことで動きを感じさせる。炎は平安から鎌倉時代の仏画や絵巻の表現を踏襲するが、先端の渦を巻くような描写には画家の観察が活かされている。「もう一度描けといわれても、二度とは出せない色」と自ら語った背景の深い闇は、試行錯誤の末に到達した絶妙な色合いである。この作品は御舟にとって、古典の様式美と現実への観察眼を高い次元で融合させるという、大正期の先鋭的な問題意識を総括するものだった。15 年、初の個展に出品された本作品を実見した同時代の洋画家・岸田劉生は、御舟の「近業の中にても意義ある作品」であり、「その技術は実に見事なものであった」と記している。
(No. 21) 速水御舟 《翠苔緑芝》 1928(昭和 3)年 山種美術館
琳派の作品にみられる構図を意識的に取り入れた金地屛風。大胆な色面による構成を意図し、モティーフは平面的な形態に単純化され、装飾的効果を強調する。紫陽花の花のひび割れ、芝生や苔は人工顔料の花緑青の上に緑青を重ねて発色を良くした点など、随所に御舟の独創的な技法が活かされている。「もし、無名の作家が残ったとして、この絵だけは面白い絵だと後世いってくれるだろう」と自ら語った自信作。
第 2 章 渡欧体験を経て
1922(大正 11)年、古径は 39 歳のときに日本美術院の留学生として前田青邨とともに渡欧します。一方、御舟は1930(昭和 5)年、36 歳のときにローマで開催された日本美術展覧会に《名樹散椿》を出品し、その際、美術使節として横山大観らとともに渡欧します。
御舟は、ヨーロッパやエジプト滞在時の印象をもとに制作した《オリンピアス神殿遺址》(No.37)や《埃及土人ノ灌漑》(No.38)を、帰国の翌年、「速水御舟氏遊欧小作品展覧会」で発表しました。西洋の人物画の鑑賞体験を経て、それまでほとんど制作することのなかった人物画に挑戦します。一方で、《牡丹花(墨牡丹)》(No.43)や《秋茄子》(No.44)のように、水墨を基調とした花鳥画へ新境地を拓きました。
(No. 59) 小林古径 《猫》 1946(昭和 21)年 山種美術館
真正面を見据えた猫の姿には、愛らしさより仏画のような荘厳さ、気高さが漂う。本作品のためとみられるスケッチが複数残されており、構図の決定までに古径が試行錯誤を重ねたことが分かる。また、大正後期の滞欧時の写生には、エジプトのバステト神と思われる猫の図像も含まれ、ぴんと立った耳、四肢をそろえて鎮座する姿などが、本作品の猫とも共通する。
プレスリリースより
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参考文献
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
「小林古径と速水御舟 ─画壇を揺るがした二人の天才─」・・・生涯の友
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-faf95f.html
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展示作品の一部
重要文化財 速水御舟 《炎舞》 1925年(大正14年) 絹本・彩色 山種美術館
速水御舟《翠苔緑芝》
小林古径 《極楽井》 1912年(大正元年) 絹本・彩色 東京国立近代美術館[前期展示(5月20日(土)〜6月18日(日))]
速水御舟 《牡丹花(墨牡丹)》 1934年(昭和9年) 紙本・墨画彩色 山種美術館
小林古径 《清姫》「鐘巻」 1930年(昭和5年) 紙本・彩色 山種美術館、《清姫》は、会期を通して全8面を5年ぶりに一挙公開。
小林古径 《猫》 1946(昭和 21)年 山種美術館
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「小林古径 生誕140年記念 小林古径と速水御舟 ─画壇を揺るがした二人の天才─」、山種美術館、2023年5月20日(土)から7月17日(月・祝)まで

2023年5月10日 (水)

大阪の日本画・・・北野恒富、妖艶、退廃的、悪魔派、白耀社

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第328回
北野恒富《宝恵籠》、島成園《祭りのよそおい》、生田花朝《天神祭》、大坂の画家たちの美的感覚は、鏑木清方、上野公園、横山大観、下村観山、速水御舟とどこが違うのか。
大坂の富裕層は、カネを数える実業屋、酒に溺れる飲んだくれ、自慢に溺れる自惚れ屋の印象である。*だが、大坂の富裕層は、東京、京都の権力主義、階級主義、権威主義に対して、富によって、自由主義を謳歌しようとしたのかもしれない。大坂の富裕層の美的判断の基準はどこにあるのか。藝術は、西方浄土、阿弥陀如来の本願か。
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平安京の王侯貴族、学問僧、嵯峨天皇、沙門空海の美的判断の基準は、無位無号にして山水に逍遥することにあった。
【嵯峨天皇の遺詔】余昔し不徳を以て久しく帝位を忝うす。夙夜兢兢として黎庶を済はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。あに但に愚憃微身の有のみならんや。故に万機の務を以て、賢明に委ぬ。一林の風、素より心の愛する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫び以て澹泊ならんと思欲す。「続日後本紀」承和九年条
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【星の王子さま6つの星めぐり】命令する王様、探検家の報告を利用するだけの地理学者、カネを数える実業屋、酒に溺れる飲んだくれ、自慢に溺れる自惚れ屋、日常業務に従事する点燈夫。偏奇な星の主たち。
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展示作品の一部
北野恒富《宝恵籠》1931年頃、大阪府立中之島図書館
北野恒富《五月雨》1938年、大阪中之島美術館[展示期間:5/16~6/11]
河邊青蘭《武陵桃源図》1908年、大阪中之島美術館
菅楯彦《阪都四つ橋》1946年、鳥取県立博物館
矢野橋村《不動窟》1951年、矢野一郎氏(愛媛県美術館寄託)[展示期間:5/16~6/11]
中村貞以《朝》1932年、京都国立近代美術館[展示期間:4/15~5/14]
中村貞以《失題》1921年、大阪中之島美術館
生田花朝《天神祭》1935年頃、大阪府立中之島図書館
平井直水《梅花孔雀図》1904年、大阪中之島美術館
島成園《祭りのよそおい》1913年、大阪中之島美術館
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1、ひとを描く―北野恒富とその門下
大阪の「人物画」は、明治時代後半から昭和初期、北野恒富とその弟子、樋口富麻呂や中村貞以、女性画家の島成園や木谷千種らの活躍によって花開いた。当時「悪魔派」と揶揄された、妖艶かつ頽廃的な雰囲気をもつ恒富の人物表現など、多彩な人物画表現が大阪で生み出された。
2、文化を描く―菅楯彦、生田花朝
古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」を確立した菅楯彦は、四条派と文人画を融合させたスタイルは、江戸時代より続く大阪人独特の洗練された感性に響くものとして広く愛されました。
弟子の生田花朝は楯彦の作風を受け継ぎながら、同時代の風俗を積極的に描きました。活気に満ちた浜辺をパノラマで色彩豊かに表現した「泉州脇の浜」など、軽やかでユーモラスな作品を多く残しました。
3、新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画
日本の風土に基づく日本南画をつくることを目指した矢野橋村は、江戸時代より続く伝統的な文人画に近代的感覚を取り入れた革新的な「新南画」を積極的に推し進めます。
4、文人画―街に息づく中国趣味
江戸時代、京都への玄関口の大阪では、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え、文人画が流行した。大阪では漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かった、文人画人気は明治以降も続き、各地から文人画家が集まり、優れた作品が生まれた。
5、船場派―商家の床の間を飾る画
大阪で広く市民に受け入れられた、四条派の流れをくむ絵画「船場派」。セントルイス万国博覧会に出品、銀メダルを獲得した平井直水の「梅花孔雀図」、京都生まれの「四条派」を淡麗に描くのが大阪「船場派」の作風である。
6、新しい表現の探究と女性画家の飛躍
明治時代以降、新聞社や出版社が集積した大阪には、挿絵画家などとして全国から多くの画家が集まった。大阪では江戸時代から女性画家が活躍。加えて、富裕層を中心に教養として子女に絵画を習わせた、上村松園、池田蕉園とともに「三園」と称された島成園、島成園に学び、のち中村貞以に師事した吉岡美枝など優れた女性画家たちが大阪で登場した。大阪に集まった人々や女性画家たちの新しい感性は、魅力的な表現を生み出した。
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大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞王朝の始まり】『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』『日野家一流系図』。
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参考文献
東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
東洋陶磁、安宅コレクション名品選101・・・狂気と礼節のコレクター、美的な価値の基準はどこにあるのか
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
大阪の日本画・・・北野恒富、妖艶、退廃的、悪魔派、白耀社
https://bit.ly/3NYlPzD
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大阪の日本画、東京ステーションギャラリー
2023年4月15日(土)~2023年6月11日(日)

2022年10月13日 (木)

没後80年記念「竹内栖鳳」・・・竹内栖鳳「班猫」村上華岳「裸婦図」

Yamatane-takeuchi-seiho-2022
Yamayuri-murakami-kagaku-rafuzu-1920
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』293回

八百屋の猫を見て竹内栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目惚れし、京都に連れ帰って描き上げた。竹内栖鳳「班猫」1924山種美術館
菱田春草(1874~1911)「白き猫」(1901飯田市美術博物館所蔵)、「黒き猫」(1910年永青文庫)と竹内栖鳳(1864~1942)「班猫」(1924年 山種美術館)があり、ともに徽宗の猫を古典として意識している。
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135) 「猫図」
北宋第八代皇帝、徽宗(1082~1135在位1100~1125)、は藝術や奢侈遊興にうつつを抜かし道楽に耽った浪子、政治に無関心で軽佻な亡国皇帝。徽宗には画猫の伝称作品が複数あり、水戸徳川家伝来の伝徽宗筆「猫図」は精細な描写が群を抜く。斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い細線による体毛によって覆われている。
村上華岳「裸婦図」1920年
村上華岳「裸婦図」は、表面的な美ではなく、精神の美を表現している。「霊と肉体が一致した美」であると思う。
観世音菩薩のようでアジャンタ石窟群、仏教美術の雰囲気が濃厚であるが、ルネサンス美術の匂いもする。日本画家、上村淳之が、京都市立藝術大で保管されていた下図を見て鳥の存在を見つけ、ギリシア神話「レダと白鳥」を意識したのではないかと指摘した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
竹内栖鳳「班猫」1924 山種美術館 (重要文化財)
八百屋の猫を見て栖鳳は「徽宗皇帝の猫だ」と言った。華岳の師の一人、竹内栖鳳が、沼津の八百屋のおかみの飼い猫に一目ぼれし、京都に連れ帰って描き上げた傑作。
村上華岳「裸婦図」1920年 山種美術館 重要文化財
上村 松篁 1902-2001 「白孔雀 」1973(昭和 48)年
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村上華岳は「久遠の女性」だといい、以下のように述べている。
私はその目に観音や観自在菩薩の清浄さを表そうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊でもあるものの美しさ、髪にも口にも、将た腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした。それが私の意味する「久遠の女性」である。
――
「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015には、以下のようにある。
村上華岳(1888-1939)は、生涯を通じて求道的精神で制作に専念し、芸術と信仰がひとつとなる境地を目指して歩みを続けて画家でした。1903(明治38)年、15歳で京都市立美術学校(美校)へ入学、竹内栖鳳ら京都画壇の重鎮を師として画家への第一歩を踏み出します。在学中の1908年には「驢馬に夏草」が第2回文展に入選、20歳という若さで画壇デビューを果たしています。翌年、京都市立絵画専門学校(絵専)に入学、同期の土田麦僊や小野竹喬らと、ともに切磋琢磨しながら意欲的な作品を制作し、画壇の注目を集めます。
ところが、1917(大正6)年、文展での審査基準に疑問を抱いた竹喬や麦僊、華岳ら絵専同期の若手画家たちは文展を離れ、その翌年に「純真なる芸術を創作し公表する」場として「国画創作協会」を結成し、ここで華岳も「裸婦図」など話題作を発表しています。しかし、1921年以降は持病の喘息の悪化と画壇活動による束縛が華岳を苦しめるようになり、1926年の第5回国画創作協会展を最後に華岳は画壇を離れ、翌年に頭・花隈の養家に隠棲して以降は、急進的な創作と施策に沈潜していきました。
「村上華岳―京都画壇の画家たち」
2014年に山種美術館が所蔵する《裸婦図》が、村上華岳の作品としては2件目の重要文化財に指定されたことを記念し、その画業を振り返る特別展「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」を開催いたします。
1888(明治21)年、大阪に生まれた華岳は、神戸で少年時代を過ごした後、京都市立美術工芸学校(美工)、京都市立絵画専門学校(絵専)に学びます。在学中に文展への入選を果たしたものの、やがてその審査の評価基準に疑問を抱くようになった華岳は、1918 (大正7)年には文展を離脱、絵専の同期でもあった土田麦僊、小野竹喬らと新団体「国画創作協会」を結成します。ここで華岳は新鋭の画家たちと切磋琢磨しながら意欲的な作品を発表し、官能性と崇高さが融合した独自の世界を確立していきました。一方、1921(大正10)年頃より持病の喘息が悪化し、同年に予定していた国画創作協会の仲間との渡欧を断念した華岳は、やがて画壇から距離を置くようになっていきます。晩年は制作と思索にふける隠棲の日々を送りながら、ひたすら求道的かつ孤高の制作活動へと向かいます。
本展では、華岳が画家として頭角を現した初期の試みから、理想とした「久遠の女性」を描いた《裸婦図》の完成、そして自己と向き合いながら孤高の境地を追求し続けるまでの作品を通して、その画業をたどります。中でも、盛んに作品を発表し続けた20代から30代半ばは、同時代の関西の画家たちが画壇に新風を吹き込もうと格闘し、優れた作品が生み出された時代でもありました。本展では、《裸婦図》を一つの到達点として華岳の画業の歩みをたどるとともに、美工・絵専時代の師である竹内栖鳳や、同窓生の麦僊や竹喬、国画創作協会でともに活動した岡本神草や甲斐庄楠音らの作品にも注目し、同時代の京都画壇の歩みをふり返ります。「山種美術館」ホームページ
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参考文献
竹内栖鳳展 近代日本画の巨人・・・哀愁のイタリア、『ベニスの月』
https://bit.ly/394zM7A
「村上華岳-京都画壇の画家たち」山種美術館図録2015
板倉聖哲「画猫の系譜 ―徽宗・春草・栖鳳― | 「淡青」37号より
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00010.html
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
https://bit.ly/2GXmVru
「竹内栖鳳《班猫》とアニマルパラダイス」・・・生きとし生けるもの、一切衆生悉有仏性
https://bit.ly/2G8mPkd
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動物を描けばその体臭までも表す
近代京都画壇の中心的存在として活躍した竹内栖鳳 (1864-1942)。栖鳳は、円山・四条派の伝統を引き継ぎながらも、さまざまな古典を学びました。1900(明治33)年にパリ万 博視察のため渡欧、現地の美術に大きな刺激を受けた栖鳳は、帰国後、西洋絵画の技法も取り入れ、水墨画など東洋画の伝統も加味して独自の画風を確立し、近代日本画に革新をもたらしました。栖鳳の弟子・橋本関雪(かんせつ)によれば、動物を描けばその体臭まで描けると栖鳳自身が語ったというその描写力は、高く評価され、今なお新鮮な魅力を放っています。また優れた教育者でもあった栖鳳は、多くの逸材を育て、近代日本画の発展に尽くしました。
没後80年を記念し、山種美術館では10年ぶりに竹内栖鳳の特別展を開催します。本展では、動物画の傑作にして栖鳳の代表作《班猫》【重要文化財】をはじめ、東京国立博物館所蔵の《松虎》(前期展示)、個人蔵の初公開作品を含む優品の数々とともに、その画業をたどります。さらに、京都画壇の先人たち、同時代に活躍した都路華香(つじかこう)や山元春挙(やまもとしゅんきょ)のほか、栖鳳の門下である西村五雲(ごうん)、土田麦僊(ばくせん)、小野竹喬(ちっきょう)らの作品もあわせて紹介します。また弟子の一人、村上華岳(かがく)による《裸婦図》【重要文化財】を特別に公開します。
近代日本画の最高峰といえる栖鳳の傑作の数々、そして京都画壇を代表する名だたる画家たちの名品をご堪能ください。
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2022/takeuchiseiho2022.html
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没後80年記念「竹内栖鳳」、山種美術館、10月6日(木)~12月4日(日)

2022年3月27日 (日)

「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』275回

桜の森の開花が始まり、春宵一刻、嵯峨天皇の詩を想う。美女の運命、藝術家の運命、儚く美しき美女、傾国の美女、美女の歴史に秘められた奇譚を想う。樋口一葉は「このよほろびざる限りわが詩は人のいのちとなりぬべき」と書き24歳で死す。鏑木清方は泉鏡花『一葉女史の墓』を描いた。
【嵯峨天皇は曲水流觴の宴を催した】青春が半ばを過ぎた頃、何がせき立てるのか、柔らかな風がしきりに吹いて、花がせかされるように咲く。芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。私は文雄に呼びかけて詩人たちは花を愛でるこの宴にやって来た。『神泉苑花宴賦落花篇』「凌雲集」弘仁三年(812)二月十二日
【嵯峨天皇、神泉苑花宴賦落花篇「凌雲集」】春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、点珠顏綴、駘鬟(たいかん)として吹く。人懐の中、嬌態閑(しず)かなり。朝に花を攀(よ)じり、暮に花を折る。花を攀じる力尽き、衣帶ゆるく。未だ芬芳(ふんぽう)を厭はず
【鏑木清方、明治後期の世界への想い、いくさより美人画】
鏑木清方は、挿絵画家として出発した。鏑木清方は1878(明治11)年、東京・神田に生まれた。幼い頃から文芸に親しみ、13歳で歌川国芳の孫弟子、浮世絵師・日本画家の水野年方に入門。挿絵画家としての活躍を経て、肉筆画を手がけるようになった。清方没後50年、美人画だけでなく、市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした「ほんとうの清方芸術」を紹介する展覧会「没後50年 鏑木清方展」。鏑木清方は本格的に日本画を手掛ける以前、小説の口絵や挿絵で人気を博していた。美人画、挿絵、卓上藝術、清方が追求した世界は何か。美人画家として「西の松園、東の清方」と並び称された鏑木清方だが、本人は「需められて画く場合いはゆる美人画が多いけれども、自分の興味を置くところは生活にある。それも中層以下の階級の生活に最も惹かれる」と言った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【鏑木清方の言葉】「明治は幸せな時代でした。いくさは描けませんよ。意地になって美人画を描いていました。微かなる反抗でしょうけれども。嫌いなものは描けないですよ。」と生前ラジオ番組に出演した時の鏑木清方の肉声あり。「願わくば日常生活に美術の光がさしこんで暗い生活をも明るくし、息つまるやうな生活に換気窓ともなり、人の心に柔らぎ寛ぎを与える親しい友となり得たい」鏑木清方の文章あり。
【浮世絵と美人画】菱川師宣から始まる浮世絵は、錦絵創始期の第一人者鈴木春信、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画、八頭身美人の江戸のヴィーナスと呼ばれる鳥居清長、青楼の絵師と謳われた喜多川歌麿へと展開した、5人の絵師。美人画の歴史である。美人画の歴史は、菱川師宣、喜多川歌麿が最大の源泉である。勝川春章、鳥文斎栄之、渓斎栄泉を師とする絵師もいる。葛飾北斎は勝川春章を師とした。
日本の美人画は、花柳界の女、江戸の青楼の美女、富裕層の妾妻、歴史物語の美女を描いてきた。庶民の娘、市井の女、女学生を描いてきたのは、明治以後か。
【表面的な美と内面的な美】日本の美人画は、表面的な美を描いているが、内面的な美を描いている例は少ない。内面的な美を描いている美人画は、だれか。上村松園「序の舞」は内面の美を表現しているのか。
【美人画の名人、鏑木清方、かをりの高い絵】鏑木清方は「かをりの高い絵を作りたい。作りたいより自ら生まれる絵を」鏑木清方「かをり」昭和9年1月。【
上村松園、伊藤深水】上村松園は自ら描く美人画を「艶かしくなく高尚に描いてみたい」「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところ」と言っていた。三人の美人画家。誰が好みか。代表作は何か。作家の特徴は何か。
【苦悩する美女、ルネサンス、象徴派】苦悩する美女を描く画家として、19世紀、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ギュスターブ・モローがロマン主義、象徴派の美を極めている。15-16世紀、レオナルド『レダ』『糸巻きの聖母』、ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『マニフィカートの聖母』『ヴィーナスとマルス』『春』がルネサンスの美を極めている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【藝術と魔術】藝術は悲しみと苦しみから生まれる。絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ。敵との闘争における武器なのだ。いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。パブロ・ピカソ
――
【佐藤康宏氏、昭和の鳥居清長】「美人画に関しては私は京都・大阪びいきで、恒富、神草、楠音らに比して清方をさほど好みません。それでも屛風絵の「遊女」(横浜美術館)など、見直しました。「築地明石町」は、いうまでもなく飛び抜けていいのですよね(三幅対に仕立てていますが、正直いって脇幅はなくてもいいです)。かつて彼を「昭和の清長」と称したことがありますが、実際に清長の錦絵を意識していなかったでしょうか。これを別にすれば、清方が「卓上藝術」と呼んだ小画面の作品に最も本領が発揮されている、というのが以前からの私の評価です。2022年3月24日
――
展示作品の一部
鏑木清方、秋宵、1903、鎌倉市鏑木清方記念美術館
鏑木清方、嫁ぐ人、1907、鏑木清方記念美術館
鏑木清方、曲亭馬琴、1907、鎌倉市鏑木清方記念美術館
明治40年(1907)絹本着色・額116.3 × 172.8cm、第1回文部省美術展覧会 選外
目の見えない滝沢馬琴の執筆活動を娘が支えている図である。
江戸の戯作者・曲亭馬琴が失明した後に、息子の嫁・路に一字一句文字を教え、口述筆記により『南総里見八犬伝』を書き継いでいる場面です。このエピソードは『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の「あとがき」にあたる「回外剰筆(かいがいじょうひつ)」に記されています。清方は、失明した馬琴でも、馬琴を支えた路でもなく、「回外剰筆」に記された、口述筆記による馬琴と路のエピソード(史実)を視覚化しました。その意味で、西洋における物語る絵画としての「歴史画」に近い作品であるといえます。本作で清方が試みたのは、かつて史実のなかに生きた人間としての馬琴と路の生々しいすがた、実在した人間の生き様そのもの。
鏑木清方、築地明石町1927(昭和2)年、東京国立近代美術館
近代美人画を代表する絵の一つ。1927年の第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した。清方にとっては思い出深い明治30年代半ばの明石町の光景と合わせ、物思う表情で振り返る女性に明治回顧の心情を託している。時代もちょうど関東大震災と昭和改元を経て、明治ブームが起きていた。
新富町、1930、東京国立近代美術館
浜町河岸、1930、東京国立近代美術館
鏑木清方、京鹿子娘道成寺、1928
有名な舞踊「京鹿子娘道成寺」と「鷺娘」の一場面。清姫の化身である白拍子と鷺の化身の鷺娘が妄執にとらわれる姿を、片やしっとりと、片や激しく表現している。
鏑木清方、一葉女子の墓、1902、鎌倉市鏑木清方記念美術館
泉鏡花の『一葉の墓』を読んでその墓を訪ねた時、清方は線香の煙の向こうに『たけくらべ』のヒロイン・美登利の幻を見たと言う。その体験に想を得て描かれた。
小説家と挿絵画家、1951
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参考文献
没後50年、鏑木清方展図録、2022、東京国立近代美術館
鶴見香織「鏑木清方 生活を描いた画家」2022
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
https://bit.ly/35ywoAa
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
https://bit.ly/34AB3Bz
清方/Kiyokata ノスタルジア―鏑木清方の美の世界・・・美女の姿態
https://bit.ly/3CNj1Oi
「あやしい絵展」東京国立近代美術館
https://bit.ly/3w3onRE 
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
https://bit.ly/30JCdd2
東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
https://bit.ly/394A5zg
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
https://bit.ly/2GXmVru
「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
https://bit.ly/2Coy0jB
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「祝福されし乙女」・・・藝術家と運命との戦い、ロセッティ最後の絵画
https://bit.ly/2UoqUWz
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」パナソニック汐留美術館・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
鏑木清方記念美術館
http://www.kamakura-arts.or.jp/kaburaki/
「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
https://bit.ly/2UUizJw
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
https://bit.ly/3DgzoTJ

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鏑木清方(1878-1972)
鏑木清方(1878-1972)の代表作として知られ、長きにわたり所在不明だった《築地明石町》(1927年)と、合わせて三部作となる《新富町》《浜町河岸》(どちらも1930年)は、2018年に再発見され、翌年に当館のコレクションに加わりました。この三部作をはじめとする109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。
浮世絵系の挿絵画家からスタートした清方は、その出自を常に意識しながら、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けました。本展覧会では、そうした清方の関心の「変わらなさ」に注目し、いくつかのテーマに分けて作品を並列的に紹介してゆきます。関東大震災と太平洋戦争を経て、人々の生活も心情も変わっていくなか、あえて不変を貫いた清方の信念と作品は、震災を経験しコロナ禍にあえぐいまの私たちに強く響くことでしょう。
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/kiyokata
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『没後50年 鏑木清方展』東京国立近代美術館3月18日(金)~5月8日(日)
京都国立近代美術館、5月27日~7月10日

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