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織田信長

2018年9月13日 (木)

織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・大久保正雄『戦う知識人の精神史』

Velzquez__prncipe_baltasar_carlos_mCranach_salome_1530_0大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第156回
血をもって書かれた精神史。織田信長は、弟信行の反逆を予知して、巧緻な罠に陥し入れ、清州城天主にて復讐する。冒険の旅への旅立ち。輝く天の仕事を探求する冒険家。逆襲する戦略家。
織田信長(1534-1582)は、包囲網と11年間対決する。アンシャン・レジーム、寺院、貴族、将軍。血をもって書かれた精神史。
血をもって書かれた精神。虐め、差別、嫉妬が渦巻く血の階級社会。無能なものが富み栄え優秀なものが貧しい、階級社会。反逆、裏切り、詐欺、陰謀、不正、魍魎が跳梁跋扈する階級社会。
無能なものが富み栄え優秀なものが貧しい階級社会。武塔の神が、蘇民将来を救うように、守護精霊は美しい者を救う。*
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
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1、織田信長の復讐、親は敵、兄弟は最大の敵
【織田信長の復讐、親は敵、兄弟は最大の敵】弟、織田信行を返り討ち。弘治3年(1557年)、信行*は岩倉城の織田信安に通じるなどして二度目の謀反を企て、11月2日に清洲城へ信長の見舞いに行った。清洲城北櫓天主、次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって暗殺された。あるいは、信長を謀殺しようとして返り討ちに遭い、信長の目の前で自刃した。
*武蔵守信成

【織田信長の復讐】弘治2年(1556年)4月、斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、織田信行は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵した。8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した(稲生の戦い)。

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2、織田信長、卓越した情報力
【織田信長、桶狭間】信長は、梁田政綱の情報により、今川本陣が田楽狭間に入ったことを知る。今川義元は、田楽狭間にて鷲津砦、丸根砦の勝利を祝って宴会。酒に酔っている今川本陣。そこを信長は襲撃した。永禄3年5月19日1560年6月12日。信長27歳。

【織田信長、桶狭間】なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか。桶狭間の合戦の謎。永禄3年5月19日(1560年6月12日)
小兵力が大兵力に勝つには、大将の首一点に、その全勢力を向ける。勝機は、その一点集中。小兵力が勝つ軍事学の要点。

【織田信長、卓越した情報力と分析力】情報力で、敵の謀を討つ。
弟織田信行の謀反を返り討ち。信長24歳。桶狭間の戦い、二万五千の今川義元を迎え撃つ、織田勢四千。信長27歳。
長篠の戦い、武田勝頼の騎馬隊を千挺の鉄砲と馬防柵で撃つ。信長42歳。
天正6年、第2次木津川合戦、戦国最強の毛利水軍を6隻の鉄甲船で粉砕。信長46歳。

【織田信長 武功より情報力】2千の寡兵で2万5千の大軍を討つ。永禄3(1560)年5月19日「義元は2万5千の兵のうち2万を、沓掛城から鳴海城へ向かわせた。5千を率いて大高城へ向かい、義元直近にはわずか3百の旗本しかいなかった。」梁田正綱の情報

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3、織田信長 青春の日 26歳-40歳
【織田信長 青春の日 26歳-40歳】1560年(永禄3年)26歳 桶狭間の戦い。4千の兵で5万の今川軍を破り、大将の今川義元を討ち取る。1561年(永禄4年)27歳 美濃国主である斎藤義龍(よしたつ)が没、子の龍興(たつおき)が跡を継ぐ、美濃攻略を本格化。
【織田信長 延暦寺焼討、38歳】朝倉・浅井両家に加担した延暦寺を攻める。1572年(元亀3年)39歳 武田信玄が三方ヶ原にて、織田・徳川連合軍を破るが、駒場(こまんば)にて病死。1573年(天正元年)40歳 室町幕府を滅ぼす。反乱を起こした将軍・足利義昭を京から追放。

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*【死生学 武塔の神】武塔の神が、嫁を探しに旅をしてきた。泊まる宿を求めた。巨旦は意地悪く「うちは貧しいから泊められない」と嘘をついて断った。蘇民は貧しいながら世話をした。金持ちでうそつきで意地悪の弟、巨旦。貧しい兄、蘇民。武塔の神は、美しい者を救う。蘇民将来の伝説。『備後国風土記』守護精霊は、美しい者を救う。
【死生学 血をもって書け】いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血が精神であることを。『ツァラトゥストラ』第1部第7章 読むことと書くことについて
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★参考文献
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-e107.html
若き織田信長、親は敵、兄弟は最大の敵・・・復讐する精神
https://bit.ly/2lbezTP
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★Diego Velázquez, El príncipe Baltasar Carlos, a caballo Hacia 1635
★「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」フェリペ4世の長男で王位継承者であったカルロス王太子の肖像画。バルタサール・カルロス(1629-46)はフェリペ4世の長男として生まれ、広大なスペイン帝国の王位後継者として国中の期待を一身に背負って育てられたが、16歳で早逝した。
★ルーカス・クラナッハ『ヨハネの首をもつサロメ』Lucas Cranach,Salome 1530

2018年9月 5日 (水)

織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・大久保正雄『戦う知識人の精神史』

Velazquezthe_surrender_of_breda_163Boston2012大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第155回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たして、天下一の仕事を成し遂げる。
【死生学 復讐劇】復讐劇の傑作、『オレステス』、『ハムレット』、『モンテ・クリスト伯』、ウィリアム・ブレイク『有心の歌』「毒のある木」、『スウィーニー・トッド』。復讐する人は、絶望に立ち向かう。絶望を超えて、美の理念を成し遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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1、織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定。
【織田信長、天下布武、知的で革命的】既存の階級社会、価値観を否定。ニヒリズム。知的で革命的。妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えによる。天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
小和田哲男『集中講義 織田信長』

【織田信長、尾張の大うつけ】既存の階級社会、価値観を否定。子供の時から、尾張の大うつけ。奇妙な服をまとい、自由にふるまう。
妙心寺派の僧、沢彦宗恩の教えにより、天下布武印、使用。岐阜と命名。永禄十(1567)年、信長34歳。
織田信長、知的で革命的。「信長、食を節し、飲酒せず」ルイス・フロイス『日本史』

【織田信長、権威主義を拒否】「酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。」ルイス・フロイス『日本史』
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2、第六天魔王 織田信長
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」

【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。
「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。
★『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』

【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。

幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。
化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。
下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。
なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、
生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
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3、織田信長と茶の湯、織田信長、物欲に執着せず。
【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。

【織田信長と安土城】天正四(1576)年、1月、丹羽長秀に命じて安土に築城開始。2月23日、安土に移る。

【織田信長と茶会 本能寺の変】天正十(1582)年、六月一日。織田信長は、本能寺で、茶会を開き、天下三肩衝を披露する予定だった。島井宗室が「楢柴肩衝」を信長に献上すべく訪れたのが本能寺の変の前日、その後宗室は博多に逃げ帰った。(『仙茶集』)これにより天下三肩衝を手に入れる夢は幻と消える。
その後、九州征伐後に秋月種実から「楢柴肩衝」が献上されたことで、秀吉の手元に天下三肩衝が揃うこととなった。

【織田信長、酒を飲まず】一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、茶の湯を愛好】「酒を飲まず食を節し、自邸においてきわめて清潔、宗教・迷信を信じず、偶像を見下し、茶器・良馬・刀剣・鷹狩を愛した。」ルイス・フロイス『日本史』

【織田信長、安土城、狩野永徳】5層7階、地下1階の天主閣。この世から消滅した狩野派絵画、安土城天主閣。6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。
天正十年6月2日、本能寺の変の後、炎上する。『安土日記』『信長公記』
「狩野派決定版」

第六天魔王、織田信長は、下天の酒食に溺れる者を俯瞰する。天下布武。信長34歳。
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★参考文献
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
小和田哲男『集中講義 織田信長』
『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
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★狩野永徳『檜図』1590、曽我蕭白『雲竜図』(1763)
★『ブレダの開城』Velasquez,Surrender of Breda,1635
1625年、オランダの要塞都市ブレダを陥落させたとき、オランダ軍総督ナッサウがスペイン軍司令官スピノラに城門の鍵を渡す場面。

2017年2月13日 (月)

若き織田信長、親は敵、兄弟は最大の敵・・・復讐する精神

Caravaggio_1599Kano_eitoku_1565大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
戦国時代。陰謀、裏切り、だまし討ち、下剋上、何でもありの乱世。
理念を追求する人は、天のために戦う。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する不滅の魂の神殿に旅する。美のイデアへの旅。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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若き織田信長、親は敵、兄弟は最大の敵・・・復讐する精神
【織田信長、清州城内において、弟信行を謀殺】
織田信長は、1557年弘治3年11月2日、清州城内において、弟信行を謀殺した。信行の二度目の謀反に反り討ちにした。信長24歳。信行の家臣団が、信長の家督を奪おうとしたことに対する報復である。

【織田信長、父織田信秀の葬儀】若き織田信長、尾張の大うつけ 相続争い
【織田信長、父織田信秀の葬儀】父親(信秀)の葬儀で喪主なのに遅刻、大うつけの姿でやってきて、位牌に抹香を掴んで投げつけて帰った。後見役の平手政秀は切腹する。悲しんだ信長は政秀のため寺を建てて弔った。『信長公記』
*織田信秀、41歳で死亡。この時、信長18歳。天文20年3月3日(1551年4月8日)

尾張では家督相続争いが起き、弟の信行は家臣と共に、信長 に対し2度「謀反」を起こした。
【織田信長、嫡子、信忠(奇妙丸)、誕生】
1557(弘治3)年、生駒家宗の娘、吉野との間に嫡子、信忠、幼名、奇妙丸、誕生。
★親は敵、兄弟は最大の敵
【武田信玄、暴虐な父信虎を追放】
武田信玄は、暴虐な父信虎を追放した。武田信虎は、嫡男、信玄の弟、信繁に家督を相続させようとした。信虎追放(天文10年1541年)。
伊達晴宗は、対立した父植宗を幽閉した。天文の乱(1542年)である。
織田信長は、天文3年1534年、誕生。
【アレクサンドロス、クレオパトラ7世】
アレクサンドロス3世は、母オリュンピアスと、父を謀殺。クレオパトラの結婚式の時、アレクサンドロスの父フィリッポスは、アレクサンドロスの妹クレオパトラの婿に相続を画策したからである。紀元前336年。
クレオパトラ7世は、姉ベレニケ4世、妹アルシノエ4世、弟プトレマイオス13世と対立した。相続をめぐり一族に紛争が起きる。クレオパトラ7世(在位BC51-30)。
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戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/CT3F3RZN2H
才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず
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★カラヴァッジオ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」1599
★狩野永徳「洛中洛外図」1565
★織田信長、名古屋城
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
2017年2月13日

2017年1月29日 (日)

才能を見つける能力に卓越した織田信長 伯楽は常にはあらず

Kano_eitoku_cypress_trees_3Kanoueitoku_kachouzu大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
織田信長は、旧制度(ancient regime)の矛盾を破壊するために、天下布武、楽市楽座、戦略をもって敵と戦った。安土城は、戦国最高の奇想にみちた城である。天下一の者をあらゆる領域で求めた。織田信長は、非凡を見つけ、活躍する場を与えた。画人、狩野永徳もその一人である。
織田信長は、人の才能をみぬき、地位につける最高の才能をもっていた。名伯楽である。*階級制を無視した尾張のうつけにしかできない最高の才である。甲冑でさえ、家格により制限されていた時代である。織田信長は、天下一の者をあらゆる領域で求めた。*「千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず」韓愈*。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
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*千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。(韓愈『雑説』四首・其四)
〔世に伯楽有り。然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇(た)だに奴隷人の手に辱められ、槽櫪(そうれき)の間に駢死(べんし)し、千里を以て称せられざるなり。・・・嗚呼、それ真に馬無きか、それ真に馬を知らざるか。〕
いかに才能のある者も、才能を見抜く人(それを認めてくれる人)がいなければ、力を発揮できない。「伯楽」は、もともと星の名で、天上で馬の世話をするのが役目であったというが、転じて馬の素養を見分ける人をいうようになった。韓愈(七六八~八二四)は伯楽の喩えを「温処士の河陽軍に赴くを送る序」や「人の為に薦めを求むる書」にも用いており、自分の才能を認めぬ上流の人への憤懣をもらしている。
★三省堂『中国故事成語辞典』金岡照光編
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【韓愈の悲劇】
【韓愈】韓愈(768-824年)は、唐を代表する文人。官僚としては不遇であったが、詩人として名を残した。韓退之とも呼ばれる。唐宋八大家の一人で詩人として名高く、白居易と並び称された。生まれてすぐに母を、3歳の時に父を亡くし兄夫婦に育てられた。
【科挙3度落第】19歳の時に初めて科挙を受けたが落第。3度目まで失敗した。4度目、792年に25歳で進士に及第する。 監察御史となったが、京兆尹の李実を弾劾したことで広東省に左遷される。
唐【徳宗、順宗、憲宗】805年に徳宗が崩御して順宗が即位すると、大赦によって許される。順宗、病により退位、在位7ヵ月。805年8月、憲宗が即位する。
中央に復帰した後は中書舎人などを経て吏部侍郎となる。818年に仏教に傾倒していた憲宗が法門寺の仏舎利を長安の宮中に奉迎することを計画すると、「論仏骨表」を上奏して怒りを被り再び広東省に左遷された。
憲宗が崩御して穆宗が即位すると再び許され、兵部侍郎、吏部侍郎となって退官。間もなく死去。享年56歳。
【古文運動】9世紀初め、唐代に韓愈や柳宗元がおこした散文改革運動。六朝時代に対句や典故、平仄などを極端に重視する四六駢儷文が流行し、唐代にも引き継がれた。安史の乱(755‐763)によって貴族社会の基盤が大きく揺らぐとともに、この装飾的で内容の空疎な美文に対する反省の機運が高まった。特に科挙出身の新興官僚層が彼らの思想や主張を表現できる達意の文体を強く求め、その模範を司馬遷の『史記』や諸子百家の文章に見いだした。★(『世界大百科事典 第2版』)
韓愈は古文運動を推進して、対句や典故を多用して事実や論理よりも技巧や華麗さを追求する駢文を批判した。
【科挙】韓愈は3度目の落第の時には「今の世で才能があると呼ばれる人は、時勢に逆らうことなく権力者へ媚びを売る人達である。私も同じようにすれば出世することが出来るのかもしれないが、そんなことでは満足することはできない」と言った。尚、合格した4度目は、担当した試験官も美辞麗句を重視する駢文に疑問を持っていたので文体による影響を受けなかった。★ http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_ka/goi_ka_10.html
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★参考文献
大久保正雄「愛と美の迷宮、ルネサンス、メディチ家と織田信長」
https://t.co/FmdQyofuL9
大久保正雄「戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹」
https://t.co/TtfGTKcUEL
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
https://t.co/57jbBNMOeG
織田信長の城 安土城、琵琶湖のほとりに聳える
https://t.co/CT3F3RZN2H
『孫子』、戦略、時代を超える知恵の結晶、知への旅
https://t.co/RggoniP3wD
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★狩野永徳『檜図」「花鳥図」
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

2017年1月27日 (金)

織田信長 安土城、琵琶湖のほとりに聳える・・・築城した3つの城

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
織田信長、5つの城
織田信長は、5つの城を移る。那古屋城、清州城、小牧山城、岐阜城、安土城。
織田信長は、3つの城を築城した。小牧山城、岐阜城、安土城。
安土城は、戦国最高の奇想にみちた城である。織田信長は、築城のために、天下一の者をあらゆる領域で求めた。
小牧山城の時、「天下布武」の印を使い始める。上洛を目標としていた。
碁盤の目のように広がる最先端の都市計画が盛り込まれ、紺屋町や鍛冶屋町などの通りの名前が記されている。*
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山の上に茶室を作った。銀閣寺「漱蘚亭」と同じ茶室があった。*
安土城、風光明媚な琵琶湖のほとりに立つ。
安土城天主は、風光明媚な琵琶湖のほとりに立つ。天主閣は、金閣寺「究竟頂」のような信長の館があった。*
「安土城天主閣」は織田信長によって築城され、大型の天守を初めて持った城である。明智光秀が山崎の戦いで討たれた後、天主閣は焼失した。天主は五重六階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角形、異様な風貌の天主。
金閣寺は、楼閣建築であり、初層、二層、三層それぞれに異なる様式を採用、初層は寝殿造風の「法水院」、二層は書院造風の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」である。

美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森、黄昏の神殿に行く。人は目覚める。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――――
大久保正雄「戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹」
https://t.co/TtfGTKcUEL
「織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術」
https://t.co/57jbBNMOeG
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-d48d.html
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大久保正雄 2017年1月27日
★金閣、1397
★銀閣、1490
★織田信長、岐阜城、1567、天下布武、金華山、
★織田信長、安土城、1579、琵琶湖
★狩野永徳、檜図屏風、1590
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

2017年1月24日 (火)

織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術

Kano_eitoku_1590Kano_eitoku_1565大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
明晰透徹な武将、織田信長は、藝術を愛し、美的趣味に耽溺した。狩野永徳は、信長の安土城を、最高傑作で装飾した。
織田信長は、たぐい稀なる美的趣味に卓越した武将である。

織田信長と狩野永徳は、1574年ころから交流し始めた。『洛中洛外図屏風』を1574年上杉謙信に贈り、狩野永徳は安土城に障壁画(1576年—1579年)を描き、『安土城之図』(1581)を描いた。織田信長は、屏風をヴァリニャーノに与えた。織田信長は、天正十年1582年、48歳で死す。狩野永徳は天正18年1590年47歳で死す。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
1574【織田信長】将軍足利義輝が日本最高の絵師、狩野永徳に描かせ、永禄8年(1565)に完成。義輝没後に織田信長が入手して、1574年、上杉謙信へ贈った。
狩野永徳
天文12年1月13日(1543年2月16日)-天正18年9月14日(1590年10月12日))。安土桃山時代の絵師。狩野派の代表的な画人、日本美術史上もっとも著名な画人の一人。現存する代表作、『洛中洛外図屏風』1565、『唐獅子図屏風』1582、『聚光院障壁画』1583、『檜図屏風』1590。『洛外名所遊楽図屏風 四曲一双』天正4-7年(1576-1579年)、
弟の狩野宗秀に家屋敷を譲った後、安土城に障壁画を描き(『信長公記』)、天正11年(1583年)に大坂城、天正14年(1586年)に聚楽第の障壁画を担当する。足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、など天下人に仕える。
壮大雄大な障壁画が有名。人物画も描いた。細密画にも秀でたことは『洛中洛外図屏風』が示している。過労で心筋梗塞、47歳で死す。
安土城 天正4年—天正13年
儒教、道教、仏教の屏風画が描かれていた。
1576年(天正4年)1月、築城開始、1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城された。天守内部の宝塔、絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が見られる。
狩野永徳『安土城之図』天正9年(1581年)
天正九年、織田信長が安土を訪れた宣教師ヴァリニャーノに贈った。安土城下や京で展示され、後、天正遣欧使節の手によって渡欧。バチカンにてローマ教皇(グレゴリウス13世)に献納された。教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれる。現在、行方不明。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
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天正遣欧使節
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)からなる使節団。日本におけるキリスト教布教の支援をローマ教皇から得ることを目的とした。しかし、旅立ちから8年後、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令だった。
★泉秀樹「天正少年使節-信仰と政治に翻弄された少年たちの生涯」
https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/10194-09.html
★幻の屏風絵「安土城之図」、バチカンに「痕跡」確認 朝日新聞2007年02月10日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200702100034.html
http://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12053828491.html
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小和田哲男「洛中洛外図 日付から読み取れた信長の恐るべき外交術」2002
小和田哲男『日本国宝物語』ベスト新書
黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書1996
黒田日出男「狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》金雲に輝く名画の謎を読む」
http://artscape.jp/study/art-achive/1207045_1982.html
安土城天主復元のために参考にされる史料
ルイス・フロイス『日本史』
太田牛一『安土日記』 信長の家臣であった太田牛一は、天正7年1月『安土日記』に村井貞勝による天主に関しての記述を引用。
★狩野永徳「檜図屏風」1590年(天正18年)
狩野永徳「梅花禽鳥図」(四季花鳥図襖)1566年(永禄9年)
★狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
大久保正雄2017年1月24日

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