「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』277回
織田信長は、謀反に復讐する阿修羅のように思われているが、戦略の達人であるのみならず、天衣無縫の生を生き、理念と美と愛を探求する精神である。
【織田信長、天の理念】【五徳】仁義礼智信、『論語』『孟子』。徳姫、永禄2年生まれ【桶狭間の戦い、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり】永禄3年【麒麟の城、小牧山城】永禄6年、麒麟『春秋左氏伝』【天下布武、岐阜城】永禄10年、武の七徳『春秋左氏伝』【第六天魔王、欲界の他家自在天】元亀4年【天正。清靜爲天下正『老子』45章】天正元年7月【天下一の名人、本因坊算砂】天正6年【安土城、天主】太田牛一『信長公記』4巻『安土記』天正4年~10年
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
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1、天下布武、岐阜
【天下布武、織田信長】沢彦宗恩が提案した。「武とは戈を止めることである(止戈)」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』
【織田信長、岐阜】稲葉山城と呼ばれていた。城主、斎藤龍興を破った織田信長がこの城を1575年に岐阜城と改めた事が岐阜の地名の由来。金華山、山頂にある。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれる。沢彦宗恩が提案した「岐山」「岐陽」「曲阜」から、信長が選んだ。「岐」は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事に由来。「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるようにという願いからとする。
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2、織田信長、麒麟の花押、足利義輝への手紙、
織田信長【麒麟】有徳の王者の治世には姿を見せるが、殺生を好むような王者が国を治めているときは、姿を隠すと伝えられた霊獣である。【西狩獲麟】孔子が、捕らえられた麒麟を見て涙を流した、その時代が「聖人の世」ではなかったからである。孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
【西狩獲麟】孔子が、捕らえられた麒麟を見て涙を流した、その時代が「聖人の世」ではなかったからである。孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋左氏伝』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
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3、第六天魔王
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」*『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。
「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。空海『秘密曼荼羅十住心論』第三住心、嬰童無畏心『秘蔵宝鑰』第三章。
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4、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。
幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
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5、欲界の最頂上、他化自在天
『般若理趣経』経典の《教主》は五智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智・清浄法界智)を具えた大毘盧遮那如来であり、《時》はあるとき、《住処》は三界(欲界、色界、無色界)のうち欲界の最頂上にある他化自在天である。
【『理趣経』の教主、欲界第六天】『理趣経』の教主は、大日如来であり、その場所は、欲界、第六天、他化自在天である。三界(無色界、色界、欲界)のうち、欲界の支配者が第六天魔王。信玄への返書に織田信長は第六天魔王と自ら称した1573(元亀4)年。ルイス・フロイス『日本史』
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6、【沢彦宗恩、妙心寺派僧】卍元師蛮「延宝伝灯録」によると、妙心寺第一座となるが辞した後は美濃・大宝寺の住持となっていた。その頃、吉法師(織田信長)の傅役を務めていた織田家家臣・平手政秀の依頼を受けて、那古野城に行き、沢彦宗恩が教育係となった。織田信長が元服したあとは参謀として活躍。父・織田信秀の葬儀の際に、織田信長は抹香を投げつけたが、これは沢彦宗恩が提案したとも伝わる。平手政秀が自刃すると、菩提を弔うために織田信長が建立した政秀寺の開山も務めている。岐阜城、その後、京都・妙心寺第39世住持となったあとは、岐阜の瑞龍寺に住んだ。1587年10月2日示寂。1686年「円通無礙禅師」の号が下賜されている。愛知県図書館所蔵『政秀寺古記』がほとんど唯一の資料である。
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7、
【安土城の天主、織田信長の思想の象徴】
安土城の天主は、信長の思想の象徴である。二階は、石蔵の上、柱の数は二百四本、書院に狩野永徳が描いた煙寺晩鐘の景色、唐の儒者たち、鵞鳥の間がある。三階は、花鳥の間、賢人の間、麝香の間、仙人の間があり、柱の数は百四十六本。四階は岩の間、竹の間、鳳凰の間、鷹の間、等、柱の数は九十三本。五階には絵はなく、南と北に破風、六階、八角形の円堂、釈迦十大弟子、釈尊成道説法の図。最上階七階、信長の居室がある。四方の内柱には登り龍、下り龍、天井には天人が舞い降りる図、三皇五帝、孔門十哲、竹林の七賢などあり。【儒学、老荘、仏教、黄金の間】二階は、風景画、儒教。三階は、花鳥画、道教、四階は、鳳凰、六階は、八角形の部屋、仏教、最上階七階、孔子、竹林の七賢。『信長公記』第9巻天正4年。6章。
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8、
【本能寺の変、三職推任問題】天正10年(1582)4月25日、天皇は織田信長に対して、関白・太政大臣・将軍のいずれかに推任しようと申し出た(『天正十年夏記』)。信長に官職の授与を勧めたのは正親町の皇太子・誠仁親王。信長に「どのような官にも任じることができる」
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
【阿弥陀寺、清玉上人】清玉上人は織田家の本拠地・尾張国で生まれた。母親は産気づいたまま道で倒れたところを、信長の兄・信広に助けられた。しかし清玉上人を産んですぐに亡くなった、清玉は織田家によって育てられ、僧として修行をする資金も織田家が工面した。天正十年6月2日、本能寺に兵が集まっていると知ると、清玉上人が駆けつけ、上人は信長の亡骸を持って本能寺を出て供養したと伝わる。阿弥陀寺には信長、信忠、一門の墓がある。
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9、復讐する精神
【戦国史 親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
【織田信長、復讐する精神】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信勝の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信勝2度目の謀反、病気の信長を殺しにきた信勝、清州城北櫓次の間で返り討ち誘殺。弘治三1557年24歳。愛妻、生駒吉乃、嫡男信忠を生む。
【醍醐寺三宝院 元亀4天正元(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信「天下布武」印。1573三方が原の戦い、武田信玄死す4月12日53歳。三年間秘匿。信長包囲網瓦解。
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参考文献
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
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絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
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織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
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10、
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
【この世に不幸な家族に生まれた人物】孔子、アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、カトリーヌ・ド・メディチ、織田信長、武田信玄、伊達政宗。針の筵の日々を生きる、苦悩の人生、怨憎会苦、愛別離苦。人生の旅の窮極は人格を磨くことである。この世に苦しむ人がいることを想え
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
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【東寺、講堂、立体曼荼羅】五智如来と明王の象徴。【五智如来】大日、宝生、阿弥陀、不空成就、阿閦【五菩薩】金剛波羅密、金剛宝、金剛法、金剛業、金剛薩埵【五大明王】不動明王、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉【四天王】持国天、増長天、広目天、多聞天【二天】梵天、帝釈天。
【空海、立体曼荼羅、五大明王、怨敵調伏する】忿怒の形相をもつ五大尊、五忿怒。悪魔を調伏し、仏法を守る守護神。大日如来の変化身。密教で不動明王を中心として四方に配され、魔を降伏させる五明王で、中央が不動、東方が降三世、南方が軍荼利、西方が大威徳、北方が金剛夜叉。
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』274回
織田信長の長女、五徳は、波乱の人生を生き78歳で死す。シェイクスピア復讐悲劇のような人生。織田信長は、天の理念を探求した。信長は、何を愛し、何のために戦い、何故死んだのか。信長に五徳と名付けられた長女、五徳は、仁義礼智信である。徳姫は何と戦ったのか。徳姫と浅井三姉妹江は、女織田弾正忠と呼ばれる。
濃姫、帰蝶は、織田信忠、信雄、五徳を育てた養母である。小説家、諸田玲子氏『帰蝶』は帰蝶の目から見た「織田信長、五徳、明智光秀、武井夕庵、立入宗継」を描いた。いつか私は五徳の目から見た、織田信長、徳川家康、織田信雄、豊臣秀吉、明智光秀、太田牛一、「戦国の美女 愛と美と復讐の世界」を描きたい。
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【理念を追求する精神】理念を探求する人は、知恵をもって邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方にイデアと美を探求する。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1
【織田信長の長女、五徳、波乱の人生】
【織田信長、長女、徳姫、五徳】絶世の美女、信長最愛の美女、生駒吉乃の娘。シェイクスピア復讐悲劇のような人生。弘治三年、信長、弟信勝に復讐、正義のための戦い。天正七年、信康と築山殿に復讐して正義を成就する徳姫。築山殿は信長と家康の共通の敵、今川氏。
20歳で家康に見送られて安土城に旅立つ。天正十年、本能寺の変、安土城落城。徳姫、京都へ。78歳まで生きる。長女の登久姫は小笠原秀政室、次女の熊姫は本多忠政室。
【絶世の美女、織田信長の長女、五徳】永禄2(1559) 10月清州城で生まれる。絶世の美女、生駒吉乃の娘。永禄3年(1560)桶狭間の戦い。織田徳川同盟の絆として、永禄10(1567)年9歳で三河国岡崎城主の信康に嫁ぐ。小牧山城から岡崎城に行く。築山殿も岡崎城に同居。家康は浜松城にあって父子共に武田勢と攻防を繰り返した。【徳姫、十二ヶ条の訴状】築山殿と信康が武田氏に内通したと信長に訴えた。夫の不行跡を信長に告発。
徳姫は夫信康と築山殿を信長に告発。信長は伺候した家康の家臣酒井忠次に確かめ家康に命じて天正7(1579)年信康と築山殿を自刃させた。
【徳姫、安土城への旅立ち】
【徳姫21歳、安土城、本能寺の変、信雄、秀吉、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦い】
【信康自刃事件後】徳姫は天正8(1580)年の2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰される。2人の娘達、福子、国子は家康の元に残す。近江八幡市あたりに居住、化粧料田が近江長命寺に設定。天正10年(1582)【本能寺の変】父・長兄ともに死去する。次兄の織田信雄に保護されたが【小牧・長久手の戦い】後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた(『顕如上人貝塚御座所日記』)。
天正18(1590)年信雄が秀吉によって改易されたため、生駒氏の尾張国小折に移り住んだ。「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らか、その後すぐにまた京都に居住する、徳姫の処遇は秀吉の支配下にあった。
【関ヶ原の戦い】後、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉から1761石の所領を与えられた。その後は京都に隠棲した[1]。寛永7年(1630年)、蜂須賀忠英と正室繁姫(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、乳母の選定について相談されている。
徳姫、永禄2(1559) 10月12日生まれ寛永(1636)13年1月10日死去。78歳。通称は五徳、岡崎殿、見星院。<参考文献>『人物日本の女性史』8巻
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2
【信康自刃の原因、父子の確執】
【織田信長、徳姫、壮絶な復讐、十二ヶ条の訴状】稲生の戦い、弟信勝の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。弘治3年、信勝2度目の謀反、清州城北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。天正7年、信長の長女徳姫、十二ヶ条の訴状。信康切腹、築山殿を成敗。19歳。五徳=仁義礼智信。
【信康自刃の原因、父子の確執】永禄10(1567)年、信康9歳は信長の娘、徳姫と結婚、元亀元(1570)年、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主岡崎城の城主に。信康切腹通説の元、幕府旗本、大久保彦左衛門『三河物語』。徳姫は信長に信康の乱暴な言動を告発する手紙を書き、酒井忠次に託した。忠次が信康をかばわなかったため、信長は信康に切腹を命じた。信康21歳。家康と信康が対立。熱田伸道『信康自刃の真相』。
【家康、信康を二俣城で切腹、築山殿、佐鳴湖畔で殺害、太刀洗の池、天正7年】『武功夜話』。天正(1576)年、徳姫18歳の時、夫信康との間に長女福子を産んだ。翌年には次女国子が誕生。
参考文献、大久保彦左衛門『三河物語』『武功夜話』、熱田伸道『信康自刃の真相』
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【織田信長、天の理念】【五徳】仁義礼智信、『論語』『孟子』。徳姫、永禄2年生まれ【桶狭間の戦い、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり】永禄3年【麒麟の城、小牧山城】永禄6年【天下布武、岐阜城】武の七徳『書経』永禄10年【第六天魔王、欲界の他家自在天】元亀4年【天正『老子』】天正元年7月【天下一の名人、本因坊算砂】天正6年【安土城、天主】太田牛一『信長公記』『安土記』天正4年⁻10年
【『理趣経』の教主、欲界第六天】『理趣経』の教主は、大日如来であり、その場所は、欲界、第六天、他化自在天である。三界(無色界、色界、欲界)のうち、欲界の支配者が第六天魔王。信玄への返書に織田信長は第六天魔王と自ら称した1573(元亀4)年。ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、元亀4年(天正元年)の展開】1573年4月、武田信玄、突然死。1573年7月18日、足利義昭、追放。7月21日。信長は、改元を内覧した。信長に勘文を見せてその意向に応じて元号を「天正」、信長が容喙。28日決定。8月13日、浅井朝倉連合軍に大勝
【織田信長の戦い、天皇による勅命講和】生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、元亀元(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い。信長37歳。天正元(1573年)足利義昭との戦い。天正8年(1580年)石山本願寺との10年戦争、顕如退去。正親町天皇の勅命講和。
【織田信長、5つの城】那古野城21歳まで【清州城】天文23年(1554)【麒麟の城、小牧山城】永禄6年(1563)6月【天下布武の城、岐阜城(稲葉山城)】永禄10(1567)年8月【天下一の城、安土城】天正四年(1576)2月から本能寺の変(1582)まで
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【濃姫、帰蝶】
【蝮の道三の娘、濃姫、帰蝶、蝮の子は蝮、3度の結婚】一人目、土岐八郎頼香(よりたか)に嫁ぐ。天文十三1544年9月、尾張国の織田信秀との戦い、頼香に刺客を差し向け自刃に追い詰め、濃姫10歳。二人目の夫、土岐次郎頼純(よりずみ)、1547年11月17日、頼純、急死。死因不明、享年24。三人目、1549年、濃姫15歳で信長と婚姻。弘治2(1556)年、斎藤道三、美濃を信長に譲ると遺言状。
【蝮の道三の娘、濃姫、帰蝶、蝮の子は蝮】濃姫を土岐氏の一門である土岐八郎頼香(よりたか)に嫁がせた。天文十三1544年9月、尾張国の織田信秀との戦いにおいて、どさくさに紛れて頼香に刺客を差し向け自刃に追い詰め、濃姫10歳。二人目の夫・土岐次郎頼純(よりずみ)、天文十五1546年9月、道三は土岐次郎頼純(頼香の甥)を守護職に就けて傀儡化し、濃姫を嫁がせ美濃国の支配権を掌握、濃姫12歳。1547年11月17日、頼純、急死。死因不明、享年24。濃姫15歳で信長と婚姻。
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【本能寺の変、三職推任本能寺の、将軍を阻止した明智光秀】【光秀、秀吉は殺人部隊】
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
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【戦国史 親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
【武田信玄、父、武田信虎は賢い信玄を嫌い、弟の武田信繁に家督を譲ろう】甲斐国の守護、信玄の父・武田信虎は有力な国衆を酷使、利益を独占。21歳でクーデタ。天文10年(1541年)国衆は信虎を追放、下剋上。武田信玄は人望あり「人は石垣、人は城」。元亀4年52歳で病死。自分の死を3年間隠すよう命じる。
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参考文献
小和田哲男『明智光秀』
小和田哲男『集中講義 織田信長』
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書
今谷明『日本史の論点』中公新書
岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018
和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
ルイス・フロイス『回想の織田信長、日本史』中公文庫
諸田玲子『帰蝶』2015
絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
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織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
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織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城
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織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
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理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
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ヴィーナス、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
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織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』258回
美と復讐の精神史、第4巻
絶世の美女は、運命に翻弄され運命と戦い、波瀾の人生の果てに、何を観るのか。絶世の美女は、知性と美をもって、時間と空間と社会と富と戦い、前人未到の境地に辿りつく。
北方に佳人あり、絶世にして独立。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。
美しい者は、美しさゆえに、戦いと苦悩がある。智慧ある者、美しい魂をもつ者は、美しいゆえに、天人の苦悩、天人と鬼畜との戦いがある。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『美と復讐の精神史』
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1、
【戦国の絶世の美女】織田信長、最愛の妻、生駒吉乃、永 禄9年5月13日(1566年5月31日)39歳で死す。信長の娘、徳姫。信長の妹、お市の方。お市の娘、浅井三姉妹、茶々、初、江。信長、第三の妻、興雲院。斎藤道三の娘、濃姫は、土岐頼純、土岐八郎頼香に嫁ぎ、天文18(1549)年、織田信長と政略結婚、生没年不詳。
――
2、
【織田信長:3人の遺児。絶世の美女、生駒吉乃の子】信忠(1557-82)26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
【絶世の美女、織田信長の最愛の妻、生駒吉乃。美人薄命39歳で死す】生駒屋敷、生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)。織田信長の子を3人産む。嫡男、奇妙丸(信忠1557-82)、信雄、徳姫。吉乃は1566年、小牧山城にて39歳で死ぬ。信長は号泣した。
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3、
【絶世の美女、五徳、徳姫、織田信長に十二箇条の手紙】松平信康の正室・徳姫が、実父である織田信長に送った十二箇条の手紙。夫である信康及び姑である築山殿との不仲を訴え、信康の不行状、築山殿が敵の武田家と内通、信康にも武田家への内通を勧誘していると糾弾。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】天正4(1576)年、徳姫18歳の時、夫信康との間に長女福子を産んだ。翌年には次女国子が誕生、幸せに暮らしていた。信康の母、築山殿は信康に「そなたの妻は女の子しかいない。早く男子をもうけなければ。そなたは国守になる身、側室をもつことが国のため」武田家臣の16歳の娘を信康に強引にひき合わせた。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を、使者として信長の元に赴く重臣・酒井忠次に託した。築山殿は武田勝頼と内通
【絶世の美女、徳姫、信長の長女】信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康は信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
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4、
徳姫、織田信長、徳川家康、築山殿、武田勝頼
【絶世の美女、徳姫】「当代記」信長、家康に判断を任せると記載。【岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立】が背景にある。築山殿は信長に討たれた今川義元のめい。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る。夫婦仲も冷える。十四歳で家康の元を離れ、母親寄りの信康
5、
武田勝頼、織田信長の侵攻である甲州征伐を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡。
6、
徳姫の弟、織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う。大坂夏の陣で家康側につく。信雄72歳で死す。
7
徳姫、関ヶ原の戦い、
【絶世の美女、徳姫、信長の長女】天正10年6月2日、本能寺の変、父信長、自刃。弟、信忠、自刃。独り、徳川家に残された徳姫。1600年、関ヶ原の戦い。1614年、大阪夏の陣。1615年、家康72歳で死す。1636年2月16日(寛永13年1月10日)76歳まで生きる。
8、
【織田信雄、清須会議、大坂夏の陣】
天正10年6月27日の清洲会議の結果、織田家の家督は信雄でも、3男信孝でもなく、長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり、信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後、豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り、その後切腹に追いこんだ。やがて秀吉と対立、天正12年には,徳川家康と結び、小牧・長久手の戦で秀吉と戦う。このときは単独で秀吉と講和を結び、以後秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍。ところが小田原攻めののち、家康旧領への転封を拒んで、秀吉の怒りを買い、下野烏山に配流され,出家して常真と号した。家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが、一貫して家康サイドで動き、大坂夏の陣後、家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられる。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び茶人として知られる。(小和田哲男)
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【「毒のある木」】私は私の敵に腹を立てた。私は黙っていた。私の怒りはつのった。そして私は それに恐怖の水をかけ 夜も昼も 私の涙をそそいだ。そして私は それを微笑の陽にあて、口あたりのよい欺瞞の肥料で育てた。ウィリアム・ブレイク「毒のある木」寿学文章訳
【毒のある木】その木は 日ごと夜ごと大きくなり ついに きらきら光る 林檎の実を結んだ。そして 私の敵は それが輝くのを見 それが私のだと知り 私の庭へ忍び込んだ 夜が 天空をすっかりおおいつくしたとき ウィリアム・ブレイク『無心の歌、有心の歌』「毒のある木」
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資料遍
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】徳姫は夫の無謀さに落胆。鬼神のようなその残忍さには城下の農民たちも恐れていた。築山殿は家康に見放され、唐人医師と密通。医師を通じて武田勝頼(信玄の四男)に、自分自身のことや長男信康の先のことを任せる旨の企みを誓紙に取り交わしていた。誓紙のことを知った徳姫は、もろもろの事件を安土城の父信長に、十二カ条の手紙にしたためて伝えた。
手紙を呼んだ信長は、家康の重臣、酒井左衛門尉忠次を呼び寄せて、一条一条自ら読み上げた。「その通りです」と忠次が認めると、信長は即座に信康の切腹を家康に命じた。信康の父、家康は苦しい選択を迫られた。信長との同盟は欠くことができないこと。命令に背く恐さも肝に銘じている。家康は信康の処分を避けられなかった。また、すべての元凶となった築山殿の成敗も自ら決心し、実行した。家康は築山殿を浜松に呼び寄せ、佐鳴湖の湖畔で家臣に刺殺させた。その二週間後、信康は二俣城(浜松市)で自刃。20歳。
【絶世の美女、徳姫、織田信長の長女】
織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。 信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康はやむをえず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
【信康 なぜ自刃 家康と確執説】
戦国時代、若くして自害した悲劇の武将として知られる徳川家康の長男、信康(一五五九~七九年)。織田信長に謀反を疑われ、家康がやむなく命じたというのが通説だが、最近の研究ではむしろ、家康と信康の父子間対立が原因だったといわれている。
「当代記」には、信康、築山殿を殺害するよう命令があったわけではなく、家康に判断を任せるという異なる書き方になっている。
【岡崎の信康家臣団と、浜松の家康家臣団との対立】が背景にあった。
築山殿は信長に討たれた今川義元のめいに当たる。夫の家康は信長と同盟を結び、今川を裏切る形になり夫婦仲も冷え込んだ。十四歳ほどで家康のもとを離れ、同じ城で暮らし母親寄りとみられる信康が二十歳過ぎころから自立を図ろうとして、家臣団も対立する中、家康はわが子より自身の重臣とのつながりを重視した。https:/
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【本能寺の変1582】織田信長の遺体は、信長とともに育った幻の弟、清玉上人が持ち去った。信長と信忠の遺体を阿弥陀寺にて焼き埋葬。『信長公阿弥陀寺由緒之記録』清玉上人は19歳から阿弥陀寺住職。秀吉は信長の葬儀を大徳寺で行う。清玉上人は変から3年後に亡くなる。
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信長の愛刀【義元左文字】桶狭間合戦(1560)の際に、織田信長が分捕った今川義元の愛刀。初め三好政長(法號宗三)の愛刀であつたが、其後武田信虎に傳はり、信虎より今川義元に譲られ、義元戦死の際織田信長之を得て、其の刀身を磨上げた。本能寺の変の時、流失した。
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★参考文献
絶世の美女、地中海奇譚、戦国奇譚・・・『美と復讐の精神史』第1巻
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絶世の美女、中国奇譚、地中海奇譚、運命と戦う美女・・・『美と復讐の精神史』第2巻
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絶世の美女、憂愁の王妃、強欲な魔女、才色兼備の美女・・・ゾフィア・ドロテア、ガラ、クレオパトラ7世
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★「黄金の羅針盤」Golden Compass 2007
Jan MassysまたはMetsys Flora, 1559
Jan MassysまたはMetsys Venus of Cythera, 1561
Caravaggio Yudith 1599
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第219回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「この世は舞台であり、人は役者にすぎぬ」『お気に召すまま』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【天人午睡 :世界の果てへの旅】
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、夕暮れのアポロン神殿に行く。糸杉の丘、仏陀の智慧が覚醒する。奇想の画家、若冲は「千歳、具眼の士をまつ」といった。
天人はこの世に舞い降りて、餓鬼道の者に嫉妬され虐げられることがある。如意輪観音菩薩は、この世に生きる天人を救う。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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1、
【織田信長と斉藤道三、復讐の嵐】尾張守護代織田彦五郎の家老坂井大膳が守護斯波義統を暗殺。義統の嫡男義銀が織田信長を頼る。信長の叔父信光が彦五郎を暗殺。親信長派の斎藤孫四郎・喜平次が勢いづく。反信長派の斎藤高政が孫四郎・喜平次を暗殺。斎藤道三と高政、全面戦争へ。孫四郎様と喜平次様の亡骸を確認して悲嘆、そして狂乱する斉藤道三。
【斉藤道三と斎藤高政の戦い】
斎藤道三に反旗を翻した後、斎藤高政は一時期「范可」と名乗る。これは中国の故事で父親殺しを行った人物の名に因んだもの。逆に言えば、高政は道三を実の父親だと認識していた。長良川の戦い、弘治2年(1556年)4月、道三、死去。
【斉藤道三の最後】孫四郎と喜平次の亡骸を確認して、悲嘆し、そして狂乱する道三、リア王。リア王は生来の気性の荒さと老いからくる耄碌で、2人の娘の腹の底を見抜けず、裏切られ、悲嘆と狂乱のうちに哀れな最期を遂げる。
道三の状況とよく似ている。「麒麟がくる」
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2、
【織田信長の逆境、連動する尾張と美濃】長良川の戦い、弘治2年(1556年)4月、斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去。織田信勝は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵。8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死(稲生の戦い)。信長、報復を果たす。弘治3年(1557年)弟信勝、信長を殺害しにくる。信長、返り討ち。
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3、
【織田信長の妻。帰蝶、生駒吉乃】
帰蝶は、ただの政略結婚。帰蝶は斉藤龍興と対立、斉藤道三は龍興に敗れ、闇に消える。
【絶世の美女、生駒吉乃】吉乃の子。信忠(1557-82)26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
【織田信長3人の妻:帰蝶、生駒吉乃、お鍋の方】道三の娘、帰蝶、奇蝶・濃姫、行方不明。生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)、信忠・信雄・徳姫。お鍋の方、側室、七男の信高と八男の信吉、娘・於振の母。近江の豪族・高畑源十郎の娘。本能寺の後、いち早く岐阜城へ戻り、信長の遺品を「龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し」
【織田信忠】信長の長男。母は側室の生駒吉乃。信長の後継者として、甲斐武田家を滅ぼした甲州征伐(1582年)では織田軍の総大将を務めた。
【蝮の道三の娘、帰蝶、奇蝶・濃姫】美濃国の戦国大名、守護代、斎藤道三(利政)と正室である小見の方の唯一の子、政略結婚で尾張国の織田信長に嫁ぐ。信長の正室であるが『信長公記』にその名は無く、後半生の逸話が極めて少ない。早くから死別、或いは離縁されたとの説が立つ。謎の人生
【蝮の道三の娘、帰蝶、奇蝶・濃姫】斎藤道三(利政)は、稲葉山城を斎藤義龍(高政)に譲って出家、再び道三と号して鷺山城に退く。翌年、この城から古渡城の織田信長のもとに嫁いだため、鷺山殿とも呼ばれた。江戸時代に成立した「美濃国諸旧記」では帰蝶、歸蝶、奇蝶、「武功夜話」では胡蝶。
【織田信長13人の子、政権争い】清州会議
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4、尾張と美濃、連動する戦い
【道三と高政、美濃を二分する戦い、高政と帰蝶、敵対】斉藤道三、大桑城から出陣、明智軍、明智城から出陣、鶴山に集結。稲葉山城の高政、岩倉城の織田信賢と内通、さらに今川義元と内通。清州城の織田信長、織田信賢と敵対。【桶狭間の戦い】信長と義元の戦いに発展する。
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参考文献
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
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織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃
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織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城
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織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第209回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【織田信長、謀反に始まり、謀反に死す】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。本能寺の変、光秀1万3千人に信長70人。自刃。49歳。
【織田信長、稲生の戦い、信長の評価が一変した兄弟対決】弘治2年8月(1556年)24日、信長も700人たらずの手勢で清洲を出陣し、正午頃には稲生原で信勝方と衝突する。信長軍はまず柴田軍を攻めたが、佐々孫介ら屈強な家臣が討たれ劣勢。奮戦して信長が大声で敵に怒鳴る
【織田信長、稲生の戦い】弘治2年8月24日。5月26日、信長が弟の安房守秀俊(信時)と二人だけで信勝のいる那古野城に赴いた。絶好の機会とばかりに林通具が信長の暗殺を企てるが、兄の林秀貞が「主君をここで殺害するのは恥知らずで天罰が恐ろしい」として諌める。
【復讐する精神 織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。争った弟側が滅亡。弘治3(1557)年、織田信長は、弟信行を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放、弟信繁と共存。伊達政宗は実弟小次郎を手打ち。天正十八年4月7日
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【天下布武】「武とは戈を止め(止戈)て用いない」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』
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【織田信長 本能寺の変】天正十(1582)年6月2日、払暁。明智光秀軍1万3000人、本能寺を襲撃。信長勢70人。信長、弓矢をとって自ら戦うが「是非もない」、自刃。女たちを逃がす。光秀謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。反信長包囲網。アンシャンレジームの反撃。
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【織田信長と絶世の美女、生駒吉乃、最愛の妻】信長、最愛の妻、生駒吉乃、38歳で死す。生駒屋敷、家宗の娘。信長の嫡男、信忠。信雄、徳姫を生む。織田信忠は、本能寺の変で、二条城にて自刃。徳姫は、徳川家康の嫡男、夫、松平信康の謀反を、信長に知らせる。
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【織田信長、本能寺の変の黒幕】1、羽柴秀吉説 中国大返しが実現できた理由2、徳川家康説 変の後に甲信地方を獲得3、長宗我部元親(四国)説 手紙の発見4、足利義昭説 陰謀将軍が備後の鞆の浦から5、本願寺教如説 仏敵 第六天魔王信長6、安国寺恵瓊説7、朝廷・公家
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【本能寺の変、本因坊算砂】天正 10 (1582) 年6月本能寺の変前夜に鹿塩利賢 (のちの好敵手利玄坊とは別人) の紹介で織田信長に召し出され、鹿塩との対局で三劫(コウ)を生じたと伝えられる。
【織田信長「そちはまことの名人なり」】1578年(天正6年)上洛した織田信長が寂光寺に立ち寄って僧、日海(後の本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露した所、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒め讃え、これが「名人」の用語の起源とされる。
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【信長の孤立、安土城】
天正七年、安土城、天主完成時より信長の孤立は極まる。天主5層八角形の仏教建築、天主5層は金閣の楼閣建築、信長は家臣団から屹立。謀反から始まり謀反に終わる。正義は信長にあり。「復讐は正義の実現である」。天正10年、本能寺の変の13日後、天主炎上。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主閣、地上5階地下2階。
7階、信長の部屋、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。天正十年6月2日、本能寺の変の後、8日後、炎上する。太田牛一『安土日記』『信長公記』
【安土城】天正4(1576)年に築城を開始。普請総奉行丹羽長秀、奉行森可成、天正5(1577)年5月11日、天主完成、5月27日、安土城にて安土宗論。結構は山城から平城に移行する過渡的形式、天正7年(1579年)に石造 5層 7重の天守閣を中核とする城完成。安土城、総見寺、天正9 (1581) 年頃、安土城郭内に信長が自らの菩提寺として創建。
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【織田信長と天下三肩衝】信長が入手当時、「初花肩衝」は「新田肩衝」に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていた。信長は当時「楢柴」を所持していた島井宗室に対して献上するよう申し入れていた。本能寺で、三肩衝を披露する。本能寺の変の前日。
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【織田信長の言葉】攻撃を一点に集約せよ。臆病者の目には、常に敵が大軍に見える。必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。器用というのは、他人の思惑の逆をする者だ。人城を頼らば城人を捨てん。仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事をやるのは、雑兵だ。
【織田信長の価値観】1、天下第一の名人。美しい人。卓越性のある人。2、役に立つ人。3、地位、肩書き、外面だけで役立たずな人。詐欺師。地位と権力の奴隷。4、地位、肩書、権力を悪事に使う人。
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★参考文献
織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
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織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
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織田信長 安土城、琵琶湖のほとりに聳える、築城した3つの城
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孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
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【運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー】トロイの王子パリスは、3人の女神からアプロディーテを選択し、スパルタの王妃ヘレンをつれ去り、アカイア軍の総攻撃を受け、トロイは滅亡する。傾国の美女、ヘレネー。
アトレウス王家、血族の抗争、エウリピデス『オレステス』・・・トロイア戦争の起源
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和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級資料』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団、派閥と人間関係』中公新書
藤田達生『謎解き本能寺の変』講談社現代新書
今谷明『信長と天皇』講談社現代新書
本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い』祥伝社新書
谷口克広『天下人の父、織田信秀』祥伝社新書
小島毅『織田信長 最後の茶会~「本能寺の変」前日に何が起きたか~』光文社新書2013
『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』中公新書
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』193回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、【織田信長、元亀の争乱】1570年、足利義昭に5か条の条書。浅井長政、離反。姉川の戦い、織田徳川連合軍、浅井朝倉を破る。1571年9月12日、比叡山焼き討ち。1572年10月3日、武田信玄は織田信長とは親戚関係にあったがこれを反故、西上作戦を開始。12月22日、三方が原の戦い、織田徳川連合軍、信玄に敗れる。1573年武田信玄の死と包囲網瓦解。
2、武田信玄の死、天正
【織田信長、元亀4年(天正元年)の展開】1573年4月、武田信玄の突然の死。1573年7月、18日、足利義昭、追放。7月21日。信長は、改元を内覧した。信長に勘文を見せてその意向に応じて元号を「天正」と定め、信長が武家政権の長として改元に容喙した。28日決定。8月13日、浅井朝倉連合軍に大勝。今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』
【織田信長、天正】清い静けさ(自然の静寂)は、天下を正しく在るようにあらしめ、成るように為す。成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若詘、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。『老子』45章
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3、室町幕府滅亡
【信長、足利義昭へ、五箇条条書】1570年(永禄13年)織田信長は、将軍・足利義昭への要求五箇条を列記した条書を、明智光秀と朝山日乗宛てに送った。足利義昭はこれを承認し黒印を捺した。
【信長、足利義昭へ、十七箇条】1572(元亀3)年9月、岐阜に帰国した信長は、武田信玄出陣間近の危機的状況の中、将軍足利義昭に対し、十七箇条に及ぶ異見書を突きつける。 表向き義昭との対立を避けていた信長も、信玄まで動き出したこの状況に我慢も限界に達しての最後通牒。将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。
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4、絶世の美女、生駒吉野、無償の愛
【絶世の美女、織田信長の最愛の妻、生駒吉乃、美人薄命39歳で死す】生駒屋敷、生駒家宗の娘、生駒吉乃(1527-1566)。織田信長の3人の子を産む。吉乃1566年、小牧山城にて三十九歳で死ぬ。信長は、吉乃の死に号泣した。
【絶世の美女、生駒吉乃の子。信長の3人の遺児】嫡男、奇妙丸、信忠(1557-82)、本能寺の変により、26歳で非業の死。徳姫(1559-1636)は松平信康に嫁ぐ。76歳で死ぬ。織田信雄(1558-1630)は徳川家康とともに豊臣秀吉と戦う。信雄72歳で死す、信長の血を残す。
絶世の美女、徳姫、政略結婚
【徳姫、織田信長に十二箇条の手紙、信康切腹】松平信康の正室・徳姫が、実父である織田信長に送った十二箇条の手紙によって、夫である信康及び姑である築山殿との不仲を訴え、信康の不行状、信康の実母である築山殿が武田家と内通、信康にも武田家への内通を勧誘していると糾弾。家康は松平信康に切腹を命じた。
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5、織田信長の言葉
【織田信長】攻撃を一点に集約せよ。臆病者の目には、常に敵が大軍に見える。必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。器用というのは、他人の思惑の逆をする者だ。人城を頼らば城人を捨てん。仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事をやるのは、雑兵だ。
【信長の価値観】1、美しい人。卓越性のある人。2、役に立つ人。3、地位、肩書き、外面だけで役立たずな人。『旅する哲学者 美への旅』
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6、【復讐する精神】織田信長は、病で伏せる信長を殺しに来た信行の二度目の謀反を清州城で復讐を果たす。弘治三(1557)年、11月2日、信長24歳。アレクサンドロスは、父王フィリッポス2世を側近貴族によって暗殺。人生の旅に旅立つ。紀元前336年、20歳。
【織田信長、稲生の戦い】織田信長は、長男。兄弟は11人。次男、信行は謀反、稲生の戦い、弘治二(1556)年、弟信行の軍勢1700人に信長700人で戦う。弘治三(1557)年、11月2日、病の信長を殺しに来た信行の二度目の謀反を清州城で復讐を果たす。
【織田信長、壮絶な戦い】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。本能寺の変、光秀1万3千人に信長70人。自刃。49歳。
【親は敵、兄弟は第一の敵】織田信長は、謀反した弟織田信行を清州城にて返り討ち。武田信玄は、父、信虎を追放。弟、信繁に家督相続させようとした信虎。斉藤道三は、子、義龍に殺される。徳川家康は、嫡男、信康に自害を強要。信玄は、嫡男、義信に自害を強要。伊達政宗は、同母弟、小次郎を殺害。毛利元就は、異母弟、元綱を殺害。
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参考文献
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2CQlxoY
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2FkeiJX
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級資料』
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第178回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
【死生学 復讐劇】復讐劇の傑作、『オレステス』、『ハムレット』、『モンテ・クリスト伯』、ウィリアム・ブレイク『有心の歌』「毒のある木」、『スウィーニー・トッド』。復讐する人は、絶望に立ち向かう。絶望を超えて、
美の理念を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、天下布武
【天下布武】「武とは戈を止め(止戈)て用いない」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』宣公12年「武有七徳」楚の荘王の「七徳の武」。
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2、第六天魔王
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」
【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。空海『秘密曼荼羅十住心論』第三住心、嬰童無畏心『秘蔵宝鑰』第三章。
★『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。
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幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。
化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。
下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。
なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、
生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
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『般若理趣経』経典の《教主》は五智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智・清浄法界智)を具えた大毘盧遮那如来であり、《時》はあるとき、《住処》は三界(欲界、色界、無色界)のうち欲界の最頂上にある他化自在天である。
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3、堺と茶の湯と鉄砲
【織田勝長、堺、鉄砲、茶の湯】津田宗及と今井宗久、千宗易
信長は、かつての同朋衆に代わる「茶堂(さどう)」として、堺の政商である津田宗及と今井宗久をまず起用。津田宗及は貿易商、今井宗久は千宗易の師である武野紹鷗の娘婿で、武具と鉄砲とを商いとする。津田宗及と今井宗久が、千宗易を信長に推薦した。
堺は鉄砲の火薬の原料である硝石を独占輸入し、鉄砲を生産する技術もあった。堺の商人たちは逸早く為替システムを創って、各地の情報も色々入ってきた。今日で言う金融・経済、流通、情報を一手に握っていたのが堺という町。
天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後、妙覚寺での茶会で、千宗易が「濃茶(こいちゃ)」の担当になる。茶堂のトップに位置付けられた。利休52歳。
信長の茶会は、信長が入京した永禄十一年(1568年)から安土城が出来る天正四年(1576年)までは、禅宗か日蓮宗の大寺院で催されていた。
信長の茶会は、「天目台」に茶碗を載せて出す格式の高い作法。
★生形貴重「信長と秀吉、そして利休の至高の美意識」
*千宗易:利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号。
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4、戦いと茶会
【織田信長と茶会、本能寺の変】天下布武、天下の三肩衝
1567年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国、周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
岐阜城には、山のふもとに迎賓館を作り、山の上に茶室を作る。銀閣寺「漱蘚亭」にならった。*
1568年、10月2日、堺に矢銭を課した織田信長に抗戦しようとする町衆を今井宗久らが説得。この日、今井宗久は、織田信長に、松島茶壺、紹鴎茄子を献上。
1569年、織田信長、丹羽長秀、松井友閑らに命じて、洛中洛外の茶器の名物狩り。
1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会を催す。茶頭は、今井宗久。この年、比叡山焼き討ち。
天正元年(1573年)、最後の将軍、足利義昭を追放した後、妙覚寺で茶会。
1574(天正2)年、相国寺、茶会が開かれ、松井友閑、千利休、今井宗久、津田宗及らが集い、織田信長は方丈で点前を披露した。(『津田宗及茶湯日記』)。
1574年天正二年、4月3日、織田信長、相国寺にて茶会を催す。蘭奢待を千利休、山田宗及に下賜する。
千利休は51歳の1573年、1574年(52歳)、1575年(53歳)に、織田信長主催の京都の茶会に参加。茶会は宴。利休は、信長と48歳、1570年、出会う。
羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀などの織田家臣、茶の湯に励む。
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。
【信長、物欲に執着せず】
【織田信長と茶の湯】岐阜城と家督を嫡男、信忠に譲って、お気に入りの茶器だけを持って出て行った。尾張、美濃を譲る。『信長公記』。織田信忠へ初花肩衝・松花茶壷・竹子花入・藤波の釜・道三茶碗・珠徳茶杓を譲る。天正三(1575)年、11月28日、信長42歳。
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5、復讐する織田信長
【織田信長、壮絶な生涯】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主次の間で返り討ち、24歳。本能寺の変、信長70人に光秀1万3千人。自刃。49歳。
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参考文献
大久保正雄『織田信長、戦う知識人の精神史』
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・『戦う知識人の精神史』『旅する哲学者 美への旅』
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2FkeiJX
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
若き織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵、復讐する精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2lbezTP
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
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