どうぶつ百景 江戸東京博物館コレクションより・・・歌川広重「名所江戸百景」1857
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』278回
【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、20歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【葛飾北斎、七変化】葛飾北斎(1760-1849)の最初期、勝川派の絵師として活動した春朗期(20~35歳頃)、勝川派を離れて浮世絵画派とは一線を画した作画活動を行った宗理期(36~44歳頃)、読本の挿絵に傾注した葛飾北斎期(46~50歳頃)、多彩な絵手本を手掛けた戴斗期(51~60歳頃)、錦絵の揃物を多く制作した為一期(61~74歳頃)、自由な発想と表現による肉筆画に専念した画狂老人卍期(75~90歳)
【源為朝の冒険、曲亭馬琴との共作】弓の名人、腕の腱を切られても弓を引く。「為朝図」は北斎が「戴斗」という画号を名乗っていた50代の時の作品。曲亭馬琴の小説「椿説弓張月」の完成1811年、全5編29冊を祝って描かれた肉筆画、金の切箔がまかれる豪華な作品。
【椿説弓張月、源為朝、保元の乱】少納言入道信西との不和で九州へ追われた源為朝は、八町礫紀平治を家来にし、白縫姫を妻として九州を平定したが、保元の乱に敗れて伊豆大島に流される。そこでも為朝は善政を敷いたが、官軍に攻め寄せられ、鬼夜叉を身代り死にさせて、九州を経て琉球に漂着した。琉球では、尚寧王の暗愚に乗じて妖術使い濛雲が実権を奪い、奸臣利勇と対決していたが、為朝は世継ぎの王女を助けて、孤島に漂着していたわが子舜天丸や紀平治とともに濛雲を破り、琉球を平定した。舜天丸は王位につくが、為朝は昇天する。
【89歳、小布施にて『怒涛図』男浪・女浪、『八方睨み鳳凰図』(1848)】北斎が波を主題に描き始めたのは40代の頃。何十年もかけてあらゆる波を描いた。70代でたどり着いた『神奈川沖浪裏』の大波。冨嶽三十六景は大成功したが、北斎は満足せず。15年後、祭屋台の天井絵として怒濤図を描いた。なぜ小布施で怒濤図を描いたのか。天保の改革で贅沢が禁止され、浮世絵も弾圧された。小布施の豪商・高井鴻山が後ろ盾となり、工房を提供した。北斎は小布施を拠点に内面を表現する肉筆画を描く。岩松院にある八方睨み鳳凰図も北斎最晩年の大作。
【不老不死、不死身の象徴】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)。ボストン美術館肉筆浮世絵、江戸の誘惑(2006)
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》横大判錦絵 江戸時代 天保元-4年(1830-33)頃 大英博物館蔵2008,3008.1.JA The Trustees of the British Museum
葛飾北斎《諸国瀧廻り 和州吉野義経馬洗滝》大判錦絵 江戸時代 天保4年(1833)頃 大英博物館蔵1937,0710,0.195 The Trustees of the British Museu
葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》横大判錦絵 江戸時代 天保元-4年(1830-33)頃 大英博物館蔵1906,1220,0.525 The Trustees of the British Museum
肉筆浮世絵
葛飾北斎《弘法大師修法図》一幅 江戸時代 弘化年間(1844-47年) 西新井大師總持寺蔵
葛飾北斎《為朝図》一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館蔵 1881,1210,0.1747 The Trustees of the British Museum
葛飾北斎《流水に鴨図》一幅 江戸時代 弘化4年(1847) 大英博物館蔵 1913,0501,0.320 The Trustees of the British Museum
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参考文献
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
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「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」・・・北斎、最後の旅
https://bit.ly/3rGjzkF
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江戸時代後期を代表する浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849)は、世界で最も著名な日本の芸術家の一人です。《冨嶽三十六景》や『北斎漫画』など、一度見たら忘れられないインパクトを持つ作品の数々は、国内外で高い人気を誇っています。
北斎と海外との関係については、モネ、ドガ、ゴッホら印象派およびポスト印象派の画家たちによる北斎への傾倒や、フランスを中心としたジャポニスムへの影響が有名ですが、イギリスにも多くのコレクターや研究者がおり、その愛好の歴史は19世紀まで遡ることができます。なかでも大英博物館には、複数のコレクターから入手した北斎の優品が多数収蔵されており、そのコレクションの質は世界でもトップクラスです。本展では、この大英博物館が所蔵する北斎作品を中心に、国内の肉筆画の名品とともに、北斎の画業の変遷を追います。約70年におよぶ北斎の作画活動のなかでも、とくに還暦を迎えた60歳から、90歳で亡くなるまでの30年間に焦点を当て、数多くの代表作が生み出されていく様子をご紹介します。また、大英博物館に北斎作品を納めたコレクターたちにも注目し、彼らの日本美術愛好の様相を浮き彫りにします。
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「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」サントリー美術館にて、2022年4月16日(土)から6月12日(日)まで
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第243回
八重桜咲く道を歩いて、美術館に行く。紫の躑躅燃える春の午後。拈華微笑御衣黄桜ひらきけり。春愁のかぎりを躑躅燃えにけり。
北斎は、75歳で画狂老人卍となった。鳳凰、波濤、富士越えの龍、麒麟、北斎は時の彼方へ旅する。
高校生の時、愛誦した詩を思い出す。(覆された宝石)のやうな朝 何人か戸口にて誰かとさゝやく それは神の生誕の日。(Ambarvalia「天気」)。永遠の 果てしない野に 夢みる 睡蓮よ 現在に めざめるな 宝石の限りない 眠りのように(宝石の眠り「宝石の眠り」)
【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、20歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『冨嶽三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【葛飾北斎、富嶽百景】冨嶽三十六景、1831-34年(天保2-5年)版行。全46図。大判錦絵、版元は西村屋与八(永寿堂)。最初に36図が完成し、後に10図が追加出版。
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
【歌川広重、35歳で北斎『富嶽三十六景』に出会い、『東海道五拾三次』天保5~7年(1834~36)を描く。20年後晩年60歳で「名所江戸百景」安政4年(1857)を描く。「富士見百図」「富士三十六景」。最後まで富士を描き続ける】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【北斎の祈り】【葛飾北斎、富嶽百景、跋文】天保五1834年。九十才にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん欤百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願くは長壽の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし。七十五齢 前北齋為一改 画狂老人卍筆。
七十五齢 前北齋為一改 画狂老人卍筆
己六才より物の形状を写の癖ありて半百の比より数々画図を顯すといへども七十年前画く所は実に取に足ものなし七十三才にして稍(やゝ)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十才にしては益/\進み九十才にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん欤百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願くは長壽の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし
画狂老人卍述
書林 天保五甲午年春三月發行 尾州名古屋 永樂屋東四郎・江戸麴町四丁目 角丸屋甚助・同馬喰町二丁目 西村與八・同 西村祐藏
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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参考文献
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
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「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
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「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
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「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」
https://bit.ly/3uJ9eUs
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展示構成
プロローグ ― 広重、絵師を目指す
物語の冒頭は、歌川広重こと、安藤徳太郎が10歳で描いた「三保松原図」から始まります。徳太郎少年の夢は「もっと上手に絵を描けるようになること」。やがて浮世絵師・歌川豊広に弟子入りし、その夢を実現していきます。しかし、その前に立ちはだかる高い壁は、天才絵師・葛飾北斎の存在でした。
広重が生涯手元に置いた少年時代の夢の原点
「三保松原図」安藤徳太郎(歌川広重)/筆 文化3年(1806) 当館蔵
【第1章 風景画への道 ― 北斎のたゆまぬ努力】
幼少期から絵を描くことが好きだった北斎(幼名時太郎、のち鉄蔵)。安永7年(1778)に勝川春章に入門し、翌年から「勝川春朗」の名で作品を出し始めます。第1章では、「冨嶽三十六景」に至るまでの北斎20歳代後半から60歳代までの挑戦の数々をたどっていきます。
遠近法を駆使して臨場感を出した忠臣蔵討ち入りの場面
「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」葛飾北斎/画 享和末~文化初(1803~1806)頃、当館蔵
北斎45歳頃の肉筆画「万歳図」(『風流勧化帖』より)葛飾北斎/筆 文化元年(1804)頃 当館蔵
【第2章 葛飾北斎「冨嶽三十六景」の世界】
第2章では、江戸東京博物館所蔵の「冨嶽三十六景」全46図を一挙公開!70歳を越えた北斎の並々ならぬ気迫、多彩に変化する富士の情景、計算し尽くされた大胆な構図、そして抜群の色使い。広重も多大な影響を受けたことでしょう。日本だけでなく、世界中で愛される本シリーズ全作品を展示します。
また、会期中は当館常設展示室より「北斎の画室模型」が1階特別展示室にお引越し。生涯93回も引越しをした北斎の暮らしぶりを再現します。
世界で最も有名な浮世絵 “Great Wave”、
通称「浪裏」
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」葛飾北斎/画 天保2~4年(1831~33)頃 当館蔵
通称「赤富士」、夏の朝の富士山の威容を見事に表現した作品
「冨嶽三十六景 凱風快晴」葛飾北斎/画 天保2~4年(1831~33)頃 当館蔵
美しく弧を描く橋とその下から望む富士山
「冨嶽三十六景 深川万年橋下」葛飾北斎/画 天保2~4年(1831~33)頃 当館蔵
職人が作る大きな桶の中に小さな富士山、北斎らしい大胆な構図
「冨嶽三十六景 尾州不二見原」葛飾北斎/画 天保2~4年(1831~33)頃 当館蔵
【第3章 新たな風景画への道 ― 広重の挑戦と活躍】
北斎に触発された広重は、自分らしさを出した「東海道五拾三次之内」シリーズを始めとした数々の名所絵により、風景画の中心を担う浮世絵師へと成長していきます。第3章では、そんな広重の風景画の名品をご紹介します。
北斎の富士を意識しながらも、広重らしい叙情性豊かな風景画
「東海道五拾三次之内 原 朝之冨士」歌川広重/画 天保5~7年(1834~36)頃 当館蔵
夕立に旅急ぐ往来の人々の心像風景を描いた広重の傑作
「東海道五拾三次之内 庄野 白雨」歌川広重/画 天保5~7年(1834~36)頃 当館蔵
【エピローグ ― 広重、“富士”を描く】
北斎没後、広重も多くの富士を描きました。そこには、影響を受けただけでなく、北斎の富士を越えようとする広重の対抗心とあくなき挑戦がうかがえます。エピローグでは、広重の描いた「名所江戸百景」シリーズや様々な富士を描いた「富士見百図」、広重が愛用した煙草入れなどの貴重な遺品も展示します。
近景の大きな鯉のぼりと遠景の富士の大胆な対比
「名所江戸百景 水道橋駿河台」歌川広重/画 安政4年(1857)当館蔵
「万年橋」と「亀は万年」、富士を眺める亀のユニークな構図
「名所江戸百景 深川万年橋」歌川広重/画 安政4年(1857)当館蔵
PressReliese
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特別展「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」
2021年4月24日(土)~6月20日(日)東京都江戸東京博物館
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第236回
「江戸の誘惑 肉筆浮世絵展」、画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)を思い出す。北斎の最高傑作である。晩年の北斎は肉筆浮世絵に沈潜した。葛飾北斎「合鏡美人図」「立美人図」「登龍図」。北斎が生涯、愛し求めたものは何か。岩佐又兵衛は、波乱の生涯の果てに何を見たのか。
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【岩佐又兵衛は、織田信長に謀反した戦国武将、有岡城主、荒木村重の末子】母方の姓を名乗り、数奇な運命をたどり絵師として活躍した。重要文化財「弄玉仙図」、桐木のもとで簫をふく弄玉は妖艶である。又兵衛の母の面影である。母、荒木村重の妻は、有岡城の戦い(天正7年1579年)で敗れ信長軍に処刑された。「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」『信長公記』。
岩佐又兵衛(1578-1650)「山中常盤物語絵巻」は、奥州へ下った牛若を訪ねて、都を旅立った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺され、牛若がその仇を討つ物語、これには岩佐又兵衛の体験が滲んでいる。
信長の息子・織田信雄に近習小姓役として仕える。大坂の陣(1614-15)の直後、40歳ころ、福井藩主・松平忠直に招かれ、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍・徳川秀忠の招き、あるいは大奥の同族の荒木局の斡旋で、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、73歳で波乱に満ちた生涯を終える。
【荒木村重、信長に命を狙われる、有岡城の戦い】村重は単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ移ってしまった。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ殺害。肝心の村重本人は息子・村次と共に、親族の荒木元清がいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で自刃すると堺に戻りそこに居住。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰、千利休らと親交をもつ。秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見。利休十哲の一人。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。
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【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、20歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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肉筆浮世絵
江戸時代の浮世絵師60名が登場、黎明期から幕末に至る浮世絵の系譜を辿る。初公開作品含む「肉筆浮世絵」125点が展示。特に北斎晩年の作品群は瞠目。
浮世絵は、錦絵や刷り物の版画が想起されるが、絵師が絵筆をふるった肉筆画のほうが起源が古い。肉筆画とは、「肉」が「生身」を指すように、絵師が絵筆で紙や絹に描いた一点ものの作品であり、複雑で奥深い彩色技法や、描き手の自由な筆遣いを直接見ることができる。
肉筆画一点一点を通して、絵師たちの意志の赴くままの筆づかいや、面や点で表された色づかいを楽しみ、絵師が筆に込めた魂も感じることができる。
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主な展示作品の一部
岩佐又兵衛(1578-1650)
岩佐又兵衛「和漢故事説話図 浮舟」福井県立美術館蔵
重要文化財 岩佐又兵衛「弄玉仙図」笙で鳴き声を出して鳳凰を呼ぶ姿。
(旧 金谷屏風)摘水軒記念文化振興財団、千葉市美術館寄託
歌川国芳「文読美人図」摘水軒記念文化振興財団蔵、千葉市美術館寄託[後期]
浮世絵の先駆・岩佐又兵衛による重要文化財「弄玉仙図」・重要美術品「龐居士図」二幅
菱川師宣「二美人と若衆図」個人蔵、福井県立美術館寄託[前期]
東洲斎写楽「中山富三郎・市川男女蔵・市川高麗蔵図」摘水軒記念文化振興財団蔵、千葉市美術館寄託[後期]
葛飾北斎(1760-1849)
葛飾北斎「合鏡美人図」個人蔵[前期]
葛飾北斎「立美人図」個人蔵[後期]
晩年の北斎が数多く手掛けた龍の肉筆画
葛飾北斎「登龍図」個人蔵[前期]
葛飾北斎、勝川春英、歌川豊国、勝川春扇、勝川春周、勝川春好「青楼美人繁昌図」個人蔵、北斎「不仲」説の兄弟子と合作、(前期)
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参考文献
「筆魂(ふでだましい) 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」青幻舎
「新・北斎展」・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
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「江戸の誘惑 肉筆浮世絵展」江戸東京博物館2006
【青楼美人繁昌図】北斎、「不仲」説の兄弟子と合作…肉筆画見つかる :読売新聞
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「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
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浮世絵といえば版画が連想されますが、絵師が絵筆をふるった一点ものの肉筆画のほうが発生は古く、複雑で奥深い彩色技法や、描き手の筆づかいを直接感じることができます。本展では、浮世絵の先駆とされる岩佐又兵衛をはじめ、浮世絵の始祖である菱川師宣、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川国芳などの60人に及ぶ浮世絵師の肉筆画約125点を展観します。なかには重要文化財、重要美術品、新発見、再発見、初公開作品約40点を含む見どころ満載の展覧会です。浮世絵の源流である肉筆画を通して、300年に及ぶ浮世絵の歴史を体感いただくとともに、それぞれの絵師の巧みな線の引力、色の魔力、そして絵に宿る筆魂をご堪能ください。
肉筆画の「肉」とは「生身」を意味し、錦絵や摺物といった浮世絵版画とは異なり、絵師が絵筆で直接紙や絹に描くことを示します。本展は浮世絵の中でも肉筆画のみを約125点あつめ、以下の構成で浮世絵の歴史を縦覧します。
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「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」すみだ北斎美術館
2021年2月9日(火)~4月4日(日) 前後期で一部展示替えを実施予定
[前期 2月9日(火)~3月7日(日) / 後期 3月9日(火)~4月4日(日)
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』222回
夏の午後、六本木に行く。人影まばらである。資本主義史上、最大のウィルス感染危機に襲われている。人の密集した都市文明は異常であるが、江戸人は、料理茶屋、歌舞伎、花見の宴、料亭の遊宴、都市人の楽しみに耽溺した。今、東京人は人形町「㐂寿司」、銀座「久兵衛」飯倉「野田岩」銀座「てんぷら近藤」に行く。
浮世絵は、有岡城主、荒木村重の遺児、岩佐又兵衛『洛中洛外図屏風』舟木本(1614‐15)が起源とされるが、菱川師宣(1618‐1694)が浮世絵の祖とされ、美人画が江戸人に流行した。
浮世絵の題材は、美人画、役者絵、芝居絵、名所絵、春画、花鳥画、多岐にわたるが、江戸の風俗史に欠かせない食事も、多くの絵師によって描かれたテーマである。
東京、日本橋には今も名店が軒を連ねる。すし・うなぎ・天ぷら・そば、季節に移ろう江戸を代表する料理。描かれた「日本の料理を食する」場面。食を描いた浮世絵の魅力、現代の暮らしにも通じる江戸の食文化、そして四季折々、江戸人が楽しんだ食材と料理法。
葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳も、江戸の食事の風景を描いた。
嬉々とした表情で喜んですしを嗜好する女を描いた国芳「縞揃女辨慶 (松の鮨)」、うなぎを手にする女「春の虹蜺」、名絵師が描いた食の場面。
北斎の「北斎漫画」、そばを食する姿を描いた作品がある、満開の桜に宴を楽しむ男女の姿を活写した三代歌川豊国「見立源氏はなの宴」。
「東海道五十三次、鞠子、名物茶店」は「梅若菜、丸子の宿のとろろ汁」芭蕉。安藤広重は、江戸の名店を主題とした「江戸高名會亭盡 両国柳橋 河内屋」、東海道の宿場町の連作「東海道五十三次」には、料理を楽しむ人々がいる。
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【後藤新平、島村抱月、松井須磨子、与謝野晶子】後藤新平は、125年前1895年、日清戦争帰還兵を似島で3か月で30万人、コレラを検査と隔離によって防疫に成功した。
1918年、島村抱月がスペイン風邪で死去、2カ月後、女優松井須磨子が後追い自殺。与謝野晶子は、子供11人がいたが、1人が学校で感染して、家族全員が感染。スペイン風邪は、世界で5000万人死亡した。(『NationalGeogrephics』)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
葛飾北斎「北斎漫画」
安藤広重「東海道五十三次」「鞠子、名物茶店」
安藤広重「江戸高名會亭盡 両国柳橋 河内屋」
国芳「縞揃女辨慶 (松の鮨)」「春の虹蜺」
三代歌川豊国「見立源氏はなの宴」
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参考文献
「おいしい浮世絵展~北斎 広重 国芳たちが描いた江戸の味わい~」・・・江戸人の味覚
https://bit.ly/3kwMEK0
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
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「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
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「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
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「おいしい浮世絵展~北斎 広重 国芳たちが描いた江戸の味わい~」
六本木ヒルズ52階、森アーツセンターギャラリーにて
2020年7月15日(水)~9月13日(日)〈事前予約制〉
夏の森を歩いて、美術館に行く。浮世絵は、浮き世の遊宴と快楽と美女から生まれた。憂き世の憂いを忘れ、遊宴、劇場、歌舞伎役者、有名な英雄、有名な美女を愉しむ、江戸人の享楽。
菱川師宣「見返り美人図」1693から歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救ふ図」1851まで。歌川国芳(1798-1861)は、幕末の混沌のなかで、英雄の武勇を表現した。
【浮世絵と美人画】菱川師宣から始まる浮世絵は、錦絵創始期の第一人者鈴木春信、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画、八頭身美人の江戸のヴィーナスと呼ばれる鳥居清長、青楼の絵師と謳われた喜多川歌麿へと展開した、5人の絵師。美人画の歴史である。
【浮世絵の黄金時代】18世紀末、19世紀、浮世絵は黄金時代を極める。熾烈な競争と幕府の弾圧と我身の運命と戦う浮世絵師。歌麿、写楽、北斎、広重、国芳、5人の絵師は、波瀾のなかで偉大な作品を残した。歌川国芳(1798-1861)は、幕末の混沌のなかで、英雄の武勇を表現した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【美人画の系譜】浮世絵の祖・菱川師宣から、鈴木春信、勝川春章、鳥居清長、喜多川歌麿、17世紀から19世紀
菱川師宣(1618-1694)、安房国 (千葉県) の縫箔を家業とする家に生れる。寛文年間 (1661~73) 、画家を志して江戸に出てから死没 (元禄7(1694).6.4、77歳) まで。菱川派の祖としてその配下の画工たちと,絵本、挿絵本、一枚絵の組物といった版画作品 (好色本)、遊楽の場面を描いた肉筆画を精力的に制作した。墨摺絵(万治年間 (1658~61)と呼ばれる墨一色の世界に、明暦の大火 (57) 以後、江戸庶民の生活、風俗を表現。美人のタイプは「菱川様の吾妻おもかげ」と呼ばれ、普及した。浮世絵の元祖。主要作品、版画『伽羅枕』 (1661~73)、『秘戯図』、肉筆画では『北楼及演劇図巻』 (1672~89,東京国立博物館) 、『見返り美人図』 (1693頃、東京国立博物館) 。76歳で死す。
五大、美人画絵師
鈴木春信(1725-1770)、錦絵の創始者。浮世絵師としての活動はわずか10年。江戸時代中期の浮世絵師であり、錦絵(多色摺木版画)の誕生に大きく寄与した。明和2 (1765) 年鈴木春信らが多色摺木版画である錦絵を創始し、浮世絵の黄金時代を迎える。人形のように華奢な春信美人は一世を風靡。45歳で死す。
勝川春章(1726-1792)、江戸中期、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画で有名である。葛飾北斎は、【春朗期(20~35歳)】勝川派として活動する。春章は、68歳で死す。
鳥居清長(1752-1815)、63歳で死す。江戸時代後期、鳥居清満の門人となり師没後に鳥居家4代目を襲名。美人画に転じて清長風と呼ばれる八頭身、長身で端麗な美人を描き、群像表現、風景との組合せ、天明期 (81~88) の浮世絵界で活躍。代表作『当世遊里美人合』『風俗東之錦』『美南見十二候』、三大揃物。
喜多川歌麿(1753-1806)は、反骨の絵師、寛政の改革の弾圧に抵抗、52歳まで描きつづけ、54歳で死す。
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展示作品の一部
史上初の3点同時出品となる鈴木春重(後の司馬江漢)「雪月花」
世界に唯一現存するとされる東洲斎写楽「曾我五郎と御所五郎丸」(重要美術品)
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」横大判錦絵、天保元~4年(1830-1833)頃
太田記念美術館
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」大判錦絵、寛政6年(1794)5月、日本浮世絵博物館
石川豊信「花下美人」重要文化財 大々判漆絵、延享期(1744-1748)、平木浮世絵財団
葛飾北斎「富岳三十六景」神奈川沖浪裏
安藤広重「名所江戸百景」深川万年橋
歌川国芳「人をばかにした人だ」大判錦絵、弘化4年(1847)頃、日本浮世絵博物館
歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救ふ図」 1951
歌川国芳「相馬の古内裏」
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参考文献
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」・・・浮き世の遊宴と快楽と美女
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「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
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「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
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「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」東京都美術館・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
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「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
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鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳まで、浮世絵の歴史を網羅する総勢約60名の絵師たちの代表作、450点。
浮世絵は、江戸時代の庶民たちに愛好された、日本を代表する芸術の一ジャンルです。その人気は海を渡り、印象派の画家をはじめとする欧米のアーティストたちに大きな影響を与え、ジャポニスム旋風を巻き起こしたことはよく知られています。また、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は、世界で最も有名な日本の絵として、多くの人々に愛されています。
本展覧会は、質、量ともに日本の三大浮世絵コレクションと言っても過言ではない太田記念美術館、日本浮世絵博物館、平木浮世絵財団の名品をはじめて結集し、選りすぐった約450点の浮世絵版画を展示します。浮世絵版画の名品は海外に流出したと言われることもありますが、実は日本国内に世界最高水準の浮世絵コレクションが存在するのです。浮世絵の初期から幕末まで、代表的な浮世絵師たちによる名品の数々をお楽しみください。
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「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館、7月23日—9月22日
前期展示:7月23日(木・祝)~8月23日(日)
後期展示:8月25日(火)~9月22日(火・祝)
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第200回
黄葉の舞う午後、江戸東京博物館に行く。「肉筆浮世絵展 江戸の誘惑」における北斎『鳳凰図屏風』天保6年(1835)を思い出す。
【浮世絵と美人画】菱川師宣から始まる浮世絵は、錦絵創始期の第一人者鈴木春信、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画、八頭身美人の江戸のヴィーナスと呼ばれる鳥居清長、青楼の絵師と謳われた喜多川歌麿へと展開した、美人画の歴史である。
【浮世絵の黄金時代】18世紀末、19世紀、浮世絵は黄金時代を極める。熾烈な競争と幕府の弾圧と我身の運命と戦う浮世絵師。歌麿、写楽、北斎、広重、国芳、5人の絵師は、波瀾のなかで偉大な作品を残した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【喜多川歌麿、40代で開花、美人大首絵】歌麿の努力は40代で一気に開花。狂歌絵本と春画で得た人気、蔦重のプロデュースで、酷評された美人画において実験的な作品を発表。
役者絵の大首絵の構図を美人画に応用した美人大首絵。斬新な発想、意匠によって創作。「ポペンを吹く女」、『婦人相学十躰』『婦女人相十品』『歌撰恋之部』等のシリーズが大流行。
【喜多川歌麿、狂歌絵本『画本虫撰』(むしえらみ)】驚嘆する歌麿の画力。円山応挙とおよそ同時代の十八世紀末の天明八年(1788)に刊行された。木版色摺の美本。(『江戸博物学集成』平凡社1994)
【歌麿、寛政の改革】幕府は浮世絵が風紀を乱すものと判断し、老中、松平定信による寛政の改革により美人画に遊女以外の名を記すことを禁止、これに対して句を添え絵の中に名前を暗示する象徴を描いて対抗する。これも禁止。
寛政12(1800)年、美人大首絵の制作が禁止。半身像、3人組を描き、弾圧の裏をかく工夫を次々と発案。歌麿は、幕府の規制の盲点を突いて、新しい分野を開拓、意欲作を発表し続ける。
【反骨の絵師、喜多川歌麿、54歳で死す】反骨の絵師を幕府は黙って見逃がさず。52歳の時、美人画ではない「絵本太閤記」に取材した作品の筆禍事件により、手鎖50日。2年後復活するが、画力が衰え意欲も喪失した歌麿は54歳で、寂しい最期である。大人気を博した絵師とは思えぬ最期。
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【歌川広重と円山応挙】広重は火消同心、安藤家に生まれる。13歳で両親を亡くし広重は家計を助けるため、浮世絵師を志し歌川豊広に弟子入り、16歳で広重の画号。歌川派は美人画や役者絵を得意としたにもかかわらず、広重は円山応挙の影響を受けて写生を追求。独自に腕を磨く。広重が自信を持って世に出した風景画『東都名所』。評判は今一つ冴えず。原因は、同年、北斎『冨嶽三十六景』が発表されたからである。72歳の老人北斎が描いた富士山は、35歳の広重から見ても斬新で革新的、衝撃を受ける。2年後、有名版元「保永堂」に依頼を受けて世に送り出す『東海道五拾三次』シリーズ。
【北斎と広重の対決、72歳と37歳】東海道の53宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大ウケ。『東海道五拾三次』に対して、北斎は『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『富嶽百景』を発表して対抗する。花鳥画でも競合、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的、感傷的な画風を追求。
【広重、安政の大地震】広重は、60歳になる前に隠居を決心したが、安政の大地震に遭う。江戸市中は火の海となる、7000人を超える死者を出した大災害。生家が火消同心の広重は落胆、江戸の町の無残な景色に心を痛める。還暦を機に髪を剃る。江戸の風景を絵に残すことを決意する。
【不朽の名作『名所江戸百景』、61歳で死す】広重は各地を鮮烈に表現するために、アイコンを大きく目前に配置する大胆な構図の手法を用いる。中国、南宋の画法に学んだ手法。
歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」大判錦絵 安政3(1856)、歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」大判錦絵 安政4(1857)年、「名所江戸百景 亀戸梅屋鋪」安政4年(1857)年木版多色刷 大判錦絵、36.8×25.0cm。1858年、この作品の翌年、没す。61歳。
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【歌川国芳、夢と冒険とロマンの世界】物語の夢と冒険とロマンの世界。江戸、神田の染物屋、柳屋吉右衛門の子として生まれる。幼少期から絵を学び、12歳の時に描いた絵が幕末の浮世絵界で隆盛を誇る歌川派の初代、歌川豊国の目にとまり15歳で歌川派に入門。武者絵を展開、夢と冒険とロマンの世界を構築。「源為朝弓勢之図」「水滸伝」。63歳で没。
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展示作品の一部
喜多川歌麿(1753頃~1806)
喜多川歌麿「婦女人相十品 ポペンを吹く娘」江戸時代/寛政4-5年(1792-3)頃、大判錦絵、メトロポリタン美術館蔵
喜多川歌麿「当時三美人」江戸時代/寛政5年(1793)頃、大判錦絵、ギメ東洋美術館蔵
東洲斎写楽(生没年不詳)1794年(寛政6)5月に役者の大首絵で鮮烈なデビュー
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」江戸時代/寛政6年(1794)、大判錦絵、ベルギー王立美術歴史博物館蔵
東洲斎写楽「市村鰕蔵の竹村定之進」江戸時代/寛政6年(1794)、大判錦絵、ボストン美術館蔵
葛飾北斎(1760~1849)
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」江戸時代/天保2-4年(1831-33)頃、横大判錦絵、ミネアポリス美術館蔵
葛飾北斎「諸国瀧廻り「下野黒髪山きりふりの滝」江戸時代/天保4年(1833)頃、大判錦絵
葛飾北斎「諸国瀧廻り「木曽路の奥阿弥陀ケ瀧」1830
歌川広重(1797~1858)
「東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪」江戸時代/天保5-7年(1834-36)、横大判錦絵、ミネアポリス美術館蔵
「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」江戸時代/安政4年(1857)、大判錦絵、東京都江戸東京博物館蔵
歌川国芳(1797~1861)
歌川国芳「相馬の古内裏」江戸時代/弘化2-3年(1845-46)、大判錦絵3枚続
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」江戸時代/弘化4年(1847)、大判錦絵3枚続
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参考文献
「新・北斎展」・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
https://bit.ly/2HAZJ5y
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
https://bit.ly/2BUy4rl
特別展「写楽」東京国立博物館2011
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=706
歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎 サントリー美術館
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2010_05/index.html
原安三郎コレクション 広重ビビッド サントリー美術館
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_2/
ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展 江戸の誘惑(2006)
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2006_01_boston.html
「大浮世絵展」国際浮世絵学会創立50周年記念・江戸東京博物館開館20周年記念特別展
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/special/
特別展「北斎」東京国立博物館2005
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=476
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大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演
江戸東京博物館、11月19日-2020年1月19日
福岡市美術館、2020年1月28日(火)~3月22日(日)
愛知県美術館、2020年4月3日(金)~5月31日(日)
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第199回
黄葉の舞う午後、江戸東京博物館に行く。「肉筆浮世絵展 江戸の誘惑」における北斎『鳳凰図屏風』天保6年(1835)を思い出す。
葛飾北斎、苦節四十年、波瀾の人生を生きて、72歳で『富嶽三十六景』、75歳『鳳凰図屏風』、90歳『富士越龍図』、画狂老人卍、絵画藝術を追求して天に昇る。反骨の絵師、喜多川歌麿、「婦人相学十躰」「婦女人相十品」で女性の魅力を追求して54歳で死す。謎多き絵師、写楽、28枚の大首絵で衝撃のデビュー、10ヵ月で140点をこえる浮世絵版画を制作して姿を消す。歌川国芳、奇想の絵師、物語の夢と冒険とロマンの世界の武者絵を必殺技とする、63歳で死す。広重『名所江戸百景 亀戸梅屋鋪』の翌年、死す、61歳。
葛飾北斎、不屈の画狂老人卍。6期90歳。
【春朗期(20~35歳) 】最初期、勝川派の絵師として活動した。
【宗理期(36~44歳) 】勝川派を離れて浮世絵画派とは一線を画した作画活動を行った。琳派。
【葛飾北斎期(46~50歳) 】読本の挿絵に傾注した。
【戴斗期(51~60歳) 】多彩な絵手本を手掛けた。
【為一期(61~74歳) 】錦絵の揃物を多く制作した。『富嶽三十六景』。
【画狂老人卍期(75~90歳) 】自由な発想と表現による肉筆画に専念した。『鳳凰図屏風』、『富士越龍』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【葛飾北斎、苦節四十年、不死鳥の画狂老人卍】葛飾北斎、十九歳で勝川春章に弟子入り、二十歳で浮世絵師になるが三十歳でも売れず。苦節四十年。72歳で『富嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」を描く。追い求めていたのは唯一つ。画業を極めること。75歳『鳳凰図屏風』。90歳で『富士越龍』、画狂老人卍、90歳で死す。
【北斎と広重の対決、72歳と37歳】東海道の53の宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大ウケ。広重『東海道五拾三次』に対して北斎は『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『富嶽百景』を発表して対抗する。花鳥画でも競合、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的、感傷的な画風を追求。
【画狂老人卍、90歳】北斎は自ら独創した風景画に執着することなく肉筆画へ沈潜。90歳になっても画業に対する情熱は衰えることなく、死ぬ間際まで絵筆を執り続ける。『富士越龍』『雨中の虎』嘉永2年(1849)。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【謎多き絵師、写楽】寛政6年(1794)5月、豪華な黒雲母摺りの役者大首絵28枚を出版して浮世絵界に突然姿をあらわし、翌年1月までに140点をこえる浮世絵版画を制作しながら、その筆を断って忽然と姿を消した東洲斎写楽。寛政6年(1794)5月、江戸三座の役者を個性豊かに描いた大判雲母摺りの豪華な作品28図を一度に出版するという華やかなデビューを果たした東洲斎写楽は、翌年正月忽然と姿を消しました。その間10ヵ月(寛政6年(1794)は、閏11月が含まれる)に残した146図の作品は、題材となった歌舞伎が上演された時期によって研究者により4期に分けられている。
【写楽、何者か。斎藤十郎兵衛】「写楽 俗称は斎藤十郎兵衛。八丁堀に住む。阿波の能役者。号は東洲斎」出典『増補浮世絵類考』天保年間(1830~44年)。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
喜多川歌麿(1753頃~1806)
喜多川歌麿「婦女人相十品 ポペンを吹く娘」江戸時代/寛政4-5年(1792-3)頃、大判錦絵、メトロポリタン美術館蔵
喜多川歌麿「当時三美人」江戸時代/寛政5年(1793)頃、大判錦絵、ギメ東洋美術館蔵
東洲斎写楽(生没年不詳)1794年(寛政6)5月に役者の大首絵で鮮烈なデビュー
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」江戸時代/寛政6年(1794)、大判錦絵、ベルギー王立美術歴史博物館蔵
東洲斎写楽「市村鰕蔵の竹村定之進」江戸時代/寛政6年(1794)、大判錦絵、ボストン美術館蔵
葛飾北斎(1760~1849)
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」江戸時代/天保2-4年(1831-33)頃、横大判錦絵、ミネアポリス美術館蔵
葛飾北斎「諸国瀧廻り「下野黒髪山きりふりの滝」江戸時代/天保4年(1833)頃、大判錦絵
葛飾北斎「諸国瀧廻り「木曽路の奥阿弥陀ケ瀧」1830
歌川広重(1797~1858)
「東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪」江戸時代/天保5-7年(1834-36)、横大判錦絵、ミネアポリス美術館蔵
「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」江戸時代/安政4年(1857)、大判錦絵、東京都江戸東京博物館蔵
歌川国芳(1797~1861)
歌川国芳「相馬の古内裏」江戸時代/弘化2-3年(1845-46)、大判錦絵3枚続
歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」江戸時代/弘化4年(1847)、大判錦絵3枚続
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参考文献
「新・北斎展」・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
https://bit.ly/2HAZJ5y
「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」・・・世に背を向け道を探求する、孤高の藝術家
https://bit.ly/2BUy4rl
特別展「写楽」東京国立博物館2011
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=706
歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎 サントリー美術館
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2010_05/index.html
原安三郎コレクション 広重ビビッド サントリー美術館
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_2/
ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展 江戸の誘惑(2006)
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2006_01_boston.html
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/past/special/
特別展「北斎」東京国立博物館2005
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=476
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大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演
江戸東京博物館、11月19日-2020年1月19日
福岡市美術館、2020年1月28日(火)~3月22日(日)
愛知県美術館、2020年4月3日(金)~5月31日(日)
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第172回
美しい魂は、永劫回帰の時を超える。時を超えて蘇る。【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、20歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで雌伏。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
【葛飾北斎、苦難の旅立ち】北斎最初期、19歳で勝川春章に弟子入り、20歳で勝川春朗として絵師となる。勝川派の絵師として活動した春朗期(20~35歳頃)。弟弟子に追い出される。勝川派を離れて浮世絵画派と一線を画した作画活動、俵屋宗理となる(36~44歳頃)。
【葛飾北斎、苦難の人生】北斎、画狂老人卍期(75~90歳)。72歳で絵は売れても、実生活は貧困。孫が不良で神奈川浦賀に逃れる。店屋物をとり絵画制作に没頭。引越し93回、画号を30回変える。80歳の時、火事に遭う、大八車一台の絵画資料を失う。90歳まで絵画藝術を追求する。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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怨敵調伏する空海、運命と戦う北斎
【怨敵調伏する空海、運命と戦う北斎】北斎88歳の作品、『弘法大師修法図』(1844-47)西新井大師總持寺所蔵。空海が法力によって鬼(病魔)の調伏を祈る場面。暗闇の背景に鬼の存在が浮き立つ。三日月の夜、空海と鬼が対決、犬が咆哮する。運命と戦う北斎自身の姿である。北斎晩年における最大級の肉筆画である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
永遠を旅する哲学者は、時を超えて、理念を追求する。黄昏の丘に降り立ち、不滅の魂の神殿に到達する。美のイデアへの旅。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
葛飾北斎『弘法大師修法図』1844-47、永田生慈氏が1983年に発見した。北斎88歳
紙本1幅 弘化年間(1844-47)西新井大師總持寺
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」大判 天保初期(1830-34)頃
島根県立美術館(新庄コレクション)
葛飾北斎「富士越龍図」絹本1幅 嘉永2年(1849)正月 北斎館
肉筆画《向日葵図》(1847)88歳、アメリカ・シンシナティ美術館所蔵
葛飾北斎「隅田川両岸景色図巻」紙本一巻 文化2年(1805)すみだ北斎美術館
葛飾北斎「雨中の虎図」嘉永2年(1849、北斎90歳)紙本一幅 太田記念美術館
葛飾北斎「雲龍図」嘉永2年(1849、北斎90歳)紙本一幅 ギメ美術館、永田生慈氏が2005年に発見した。
葛飾北斎「円窓の美人図」絹本額面 文化2年(1805)頃 シンシナティ美術館
葛飾北斎「酔余美人図」公益財団法人 氏家浮世絵コレクション
葛飾北斎「鎌倉勝景図巻」木版着彩紙本1巻 寛政5-6年(1793-94)島根県立美術館(永田コレクション)
「津和野藩伝来摺物」(永田コレクション)118枚を4期に分けて展示。旧津和野藩主家、秘蔵
葛飾北斎「美人愛猫図」ウェストンコレクション
葛飾北斎「鯉亀図」紙本1幅 文化10年(1813)埼玉県立歴史と民俗の博物館
葛飾北斎「富嶽三十六景」46枚
葛飾北斎「富嶽百景」
葛飾北斎「諸国瀧巡り」(天保4年から天保8年(1833-1837)
葛飾北斎「諸国名橋奇覧」
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北斎とジャポニスム、国立西洋美術館・・・『富嶽三十六景』『北斎漫画』
http://bit.ly/2lJOXz9
北斎への旅 『旅する哲学者 魂への旅』より
https://bit.ly/2kMuogC
永田生慈(著)『葛飾北斎の本懐』角川選書
北斎 決定版(別冊太陽 日本のこころ 174)
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葛飾北斎(1760-1849)の最初期、勝川派の絵師として活動した春朗期(20~35歳頃)、勝川派を離れて浮世絵画派とは一線を画した作画活動を行った宗理期(36~44歳頃)、読本の挿絵に傾注した葛飾北斎期(46~50歳頃)、多彩な絵手本を手掛けた戴斗期(51~60歳頃)、錦絵の揃物を多く制作した為一期(61~74歳頃)、自由な発想と表現による肉筆画に専念した画狂老人卍期(75~90歳)、描いた年代別に北斎の作品を観覧する。これまで見えてこなかった北斎の成長や趣向の変化を感じることができる。
永田コレクション、最後の東京公開
本展監修者、故・永田生慈氏のコレクションは本展に出品された後は、島根県のみで公開される。本展は永田コレクションを東京で見ることができる最後の機会である。
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★「新・北斎展」、森アーツセンターギャラリー、2019年1月17日(木)~3月24日(日)
https://macg.roppongihills.com/jp/exhibitions/hokusai/index.html
葛飾北斎『弘法大師修法図』(1844-47、北斎88歳)
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