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戦国時代

2017年5月 5日 (金)

桃山の孤高の巨匠、海北友松・・・孤高の絵師、運命との戦い

20170411kyotoKaihou_kashiwanisaru桃山の孤高の巨匠、海北友松・・・孤高の絵師、運命との戦い
『雲龍図』に刻まれれた、戦国武将の血の叫び、藝術家の沈思、運命と戦う人間の苦悩。
戦国時代、「親子は敵、兄弟は第一の敵」の時代。戦いに破れた武将は、新しい人生を生きる。新たな世界に向かって旅立つ。
戦略構築する武将、指南する家臣団、孤高の画家。絶叫する英雄、百家争鳴の論客、沈思する詩人。沈黙する画家。占夢官。妙心寺派の禅僧は、運命をどう占うのか。
戦国時代、武将は殺し合い、画家は殺し合う。狩野永徳は、安土城に障壁画を描き48歳で死ぬ。
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永遠を旅する哲学者、時を超え、黄昏の丘を超えて、美へ旅する。マエストロの究極の夢は何か。
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
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海北友松の生涯
海北友松は、天文2年、1533年、近江・湖北で誕生した。海北綱親の子。天文4年、友松3歳の時、海北綱親討ち死に。友松、東福寺に入門。
長谷川等伯、天文8年、1539年、生まれる。1610年没。71歳。
狩野永徳、天文12年1月13日(1543年)生まれる。1590年没。48歳
天正元年、1573年、7月12日、織田信長、二条城を焼却。足利義昭追放。室的幕府を滅ぼす。
8月27日、織田信長は浅井家を滅ぼす。浅井長政、自害。この時兄・大膳は戦死、41歳の友松の人生に大きな影響を与えた。
誤落藝家。「武家出身だった海北友松は間違って芸術家になった」。
友松は、初め狩野永徳に師事した。「菊恵童図屏風」は友松の狩野派時代の作品である。永徳の作品と比較すると岩の峻法などに類似点がある。
1574年、織田信長、狩野永徳『洛中洛外図屏風』を1574年上杉謙信に贈る。
狩野永徳、安土城に障壁画(1576年—1579年)を描き『安土城之図』(1581)を描いた。織田信長は、屏風をヴァリニャーノに与えた。
天正18年、狩野永徳、没。
1593年、長谷川久蔵(1568年生—1593年)没。26歳。
慶長2年、1597年、海北友松、建仁寺方丈に障壁画を描く。
友松は建仁寺方丈に多数の襖絵を描く以前に、建仁寺塔頭に襖絵を描いた。霊洞院「花鳥図襖」と禅居庵の松竹梅図襖」である。
時の権力者、豊臣秀吉は海北友松のことを知っていた。「1594年、上杉景勝が秀吉を自邸に招待した際に、秀吉から友松筆の「濃彩松鳥画屏風一双」を賜ったという記述が『歴代年譜 景勝公』に残る。
慶長20年、1615年、海北友松、83歳で死す。
*狩野永徳、天文12年1月13日(1543年2月16日)—天正18年9月14日(1590年10月12日)
*狩野山楽、永禄2年(1559年)—寛永12年8月19日(1635年9月30日)、浅井長政の家臣・木村永光の子光頼として近江国蒲生郡に生まれる。
*狩野山雪、天正18年(1590年)—慶安4年3月12日(1651年5月1日))、狩野派の絵師。京狩野の画人狩野山楽(光頼)の婿養子で後継者。
*海北 友松1533—1615(天文2年(1533年)—慶長20年6月2日(1615年6月27日))
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。海北派の始祖。83歳で死す。
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展示作品の一部
海北友松「雲龍図」(建仁寺)
海北友松「花卉図屏風」(妙心寺)
海北友松「雲龍図」(勧修寺)
海北友松『琴棋書画図』(建仁寺塔頭霊洞院)
海北友松『柏に猿』(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)
海北友松『月下渓流図屏風』(ネルソン・アトキンス美術館蔵)
「雲龍図」(建仁寺)「花卉図屏風」(妙心寺)「月下渓流図屏風」に秘められた孤高の絵師の運命との戦い。
海北友松の到達点とされる『月下渓流図屏風』(ネルソン・アトキンス美術館蔵)、今回米国から「奇跡の帰還=約60年ぶりの里帰り」を果たした。
靄に煙る山深い渓谷に、雪解け水が流れ出す。蒲公英、土筆が描かれている。空には朧月が浮かび、光が渓流、松、白梅、椿、土筆、蒲公英を淡く照らし出す。
河合正朝氏は古今集の和歌を引用して説明した。「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」凡河内躬恒 春の夜、梅の花をよめる『古今集』巻1・春歌上・41
*「日曜美術館」
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参考文献
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
http://odyssey2000.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-9379.html
織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-d48d.html
海北友松 京都国立博物館プレスリリース
http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/pdf/2017_yusho_press.pdf
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桃山孤高の巨匠 海北友松 「日曜美術館」
桃山文化、狩野派、長谷川派が画壇を席巻する中、独自の画境を開いた絵師・海北友松。武家に生まれた友松は刀を絵筆に持ちかえて活躍。雲間から妖しく現れる「雲龍図」、金ぺきに濃い色を施した豪華な「花卉図屏風」など独自の画風で、武家から朝廷まで魅了した。最晩年の作品「月下渓流図」は、“奇跡”の名画とも称される傑作。戦後アメリカに渡り、今回60年ぶりに里帰りするこの神秘的な絵の魅力に迫る。
桃山の巨匠・海北友松。大迫力の龍、豪華な牡丹(ぼたん)、独自の画風で武家から朝廷まで魅了。60年ぶりに帰還する最晩年の傑作「月下渓流図屏風」の神秘的な世界に迫る
http://www4.nhk.or.jp/nichibi/
桃山の孤高の絵師、海北友松
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開館120周年記念特別展 海北友松、京都国立博物館
2017年4月11日(火)~5月21日(日)
http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/tenrankai/20170411_yusho.html

2017年1月24日 (火)

織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術

Kano_eitoku_1590Kano_eitoku_1565織田信長と狩野永徳 戦国武将と藝術
明晰透徹な武将、織田信長は、藝術を愛し、美的趣味に耽溺した。狩野永徳は、信長の安土城を、最高傑作で装飾した。
織田信長は、たぐい稀なる美的趣味に卓越した武将である。

織田信長と狩野永徳は、1574年ころから交流し始めた。『洛中洛外図屏風』を1574年上杉謙信に贈り、狩野永徳は安土城に障壁画(1576年—1579年)を描き、『安土城之図』(1581)を描いた。織田信長は、屏風をヴァリニャーノに与えた。織田信長は、天正十年1582年、48歳で死す。狩野永徳は天正18年1590年47歳で死す。

*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』

狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
1574【織田信長】将軍足利義輝が日本最高の絵師、狩野永徳に描かせ、永禄8年(1565)に完成。義輝没後に織田信長が入手して、1574年、上杉謙信へ贈った。
狩野永徳
天文12年1月13日(1543年2月16日)-天正18年9月14日(1590年10月12日))。安土桃山時代の絵師。狩野派の代表的な画人、日本美術史上もっとも著名な画人の一人。現存する代表作、『洛中洛外図屏風』1565、『唐獅子図屏風』1582、『聚光院障壁画』1583、『檜図屏風』1590。『洛外名所遊楽図屏風 四曲一双』天正4-7年(1576-1579年)、
弟の狩野宗秀に家屋敷を譲った後、安土城に障壁画を描き(『信長公記』)、天正11年(1583年)に大坂城、天正14年(1586年)に聚楽第の障壁画を担当する。足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、など天下人に仕える。
壮大雄大な障壁画が有名。人物画も描いた。細密画にも秀でたことは『洛中洛外図屏風』が示している。過労で心筋梗塞、47歳で死す。
安土城 天正4年—天正13年
儒教、道教、仏教の屏風画が描かれていた。
1576年(天正4年)1月、築城開始、1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城された。天守内部の宝塔、絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が見られる。
狩野永徳『安土城之図』天正9年(1581年)
天正九年、織田信長が安土を訪れた宣教師ヴァリニャーノに贈った。安土城下や京で展示され、後、天正遣欧使節の手によって渡欧。バチカンにてローマ教皇(グレゴリウス13世)に献納された。教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれる。現在、行方不明。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
戦国時代年代記 織田信長と芸術、明晰透徹
https://t.co/TtfGTKcUEL
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天正遣欧使節
天正10年(1582)、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)からなる使節団。日本におけるキリスト教布教の支援をローマ教皇から得ることを目的とした。しかし、旅立ちから8年後、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令だった。
★泉秀樹「天正少年使節-信仰と政治に翻弄された少年たちの生涯」
https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/10194-09.html
★幻の屏風絵「安土城之図」、バチカンに「痕跡」確認 朝日新聞2007年02月10日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200702100034.html
http://ameblo.jp/ukitarumi/entry-12053828491.html
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小和田哲男「洛中洛外図 日付から読み取れた信長の恐るべき外交術」2002
小和田哲男『日本国宝物語』ベスト新書
黒田日出男『謎解き洛中洛外図』岩波新書1996
黒田日出男「狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》金雲に輝く名画の謎を読む」
http://artscape.jp/study/art-achive/1207045_1982.html
安土城天主復元のために参考にされる史料
ルイス・フロイス『日本史』
太田牛一『安土日記』 信長の家臣であった太田牛一は、天正7年1月『安土日記』に村井貞勝による天主に関しての記述を引用。
★狩野永徳「檜図屏風」1590年(天正18年)
狩野永徳「梅花禽鳥図」(四季花鳥図襖)1566年(永禄9年)
★狩野永徳『洛中洛外図屏風』(1565)
大久保正雄2017年1月24日

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