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現代美術

2024年10月14日 (月)

「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第379回

【ルイーズ・ブルジョワ 《蜘蛛》1997年】1932年、ソルボンヌを退学。ルイーズは芸術部門の最高学府エコール・デ・ボザールに入学する。父ルイは仕送りを打ち切った。なぜなら家業を継いだ際に役に立つ能力への投資だったからだ。家を出て、ルーブル美術館で働き始める。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】母はタペストリー修復工房を経営する。彼女にとって蜘蛛は、親でもあり、「親友」でもあり実母を象徴。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。彼女の自画像でもある「蜘蛛」。【毒親、父ルイの呪縛を解く】藝術は悪魔祓いエクソシズム。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ルイーズ・ブルジョワ(1911年パリ生まれ、2010年ニューヨークにて没)20歳1932年、母が死ぬ。エコール・デ・ボザールに入学。1938年、美術史家ロバート・コールドウォーターと結婚、ニューヨークへ移住。1982年ニューヨーク近代美術館で大規模個展。1993年ベネチア・ビエンナーレ・アメリカ代表。
20世紀を代表する最も重要なアーティストの一人。彼女は70年にわたるキャリアの中で、インスタレーション、彫刻、ドローイング、 絵画など、さまざまなメディアを用いながら、男性と女性、受動と能動、具象と抽象、意識と無意識といった二項対立に潜む緊張関係を探求。
ブルジョワは一生を通じて、見捨てられることへの恐怖に苦しみ。第一章で紹介する作品群は、この恐れが、母親との別れにまで遡ることを示唆している。ブルジョワは両義的かつ複雑性に満ちた「母性」というテーマのもと《自然研究》をはじめとする作品を制作する中で、母と子の関係こそが、将来のあらゆる関係の雛形になるという確信に至った。
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【毒親との戦い、父ルイ】父ルイは美貌の持ち主で、常にエレガントで見栄えよく着飾る人だ。しかし、見た目の良い経営者のナルシシストならではの闇があった。仕切りたがり屋でいじめっ子。常に他人をコントロールし、リーダーとして家族を操作することに喜びを感じていた彼は、毎日一家全員(当時、母方の兄弟やルイーズの従兄たちも一緒に暮らしていた)が食卓に揃わないと気が済まず、勝手に食卓でしゃべろうものなら無言でソーサーを投げつけることもしょっちゅう。食事のあとは、ひとりずつ歌や詩を強制的に披露させるなどやりたい放題だった。あるとき、父は食卓でオレンジの皮をナイフで人の顔や乳房や脚の形に器用にに切り抜いていき、人型の展開図にして見せた。その人型は両脚の間に丁度オレンジの芯が位置するようになっていた。それがルイーズだとふざけた。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】ブルジョワ芸術を代表するモチーフ。彼女にとって蜘蛛は、ブルジョワにとって親でもあり、「親友」でもあった実母を象徴している。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。本展では、いわば彼女の自画像ともいえる 「蜘蛛」をモチーフとした様々な作品が登場する。
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★展示作品の一部
ルイーズ・ブルジョワ《ママン》1999/2002年 ブロンズ、ステンレス、大理石 9.27× 8.91 ×10.23 m 所蔵:森ビル株式会社(東京)
ルイーズ・ブルジョワ《かまえる蜘蛛》2003年 パティナ、ブロンズ、ステンレス鋼 270.5×835.7×627.4 cm 撮影:Ron Amstutz コピーライト The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
おわりに
本展の副題「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」はハンカチに刺繍で言葉を綴った晩年の作品からの引用です。自らを逆境を生き抜いた「サバイバー」だと考えていたルイーズ・ブルジョワ。生きることへの強い意志を表現するその作品群からは、戦争や自然災害、病気など、人類が直面するときに「地獄」のような苦しみを克服するためのヒントが得られるかもしれません。
ルイーズ・ブルジョワ《無題(地獄から帰ってきたところ)》1996年 刺繍、ハンカチ 49.5×45.7 cm 撮影:Christopher Burke コピーライト The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
自身の版画作品《聖セバスティアヌス》(1992年)の前に立つルイーズ・ブルジョワ。ブルックリンのスタジオにて。1993年 撮影:Philipp Hugues Bonan 画像提供:イーストン財団(ニューヨーク)
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★参考文献
森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful”、図録 プレスリリース
父に“いらない子”と呼ばれたルイーズ・ブルジョワ【短期連載:アート界の毒親たち】
「女なんていらない」。父に呪われ虐げられた天才彫刻家がたどり着いた救いの境地。https://www.elle.com/jp/culture/ellelovesart30/g29842557/louise-bourgeois-and-her-toxic-father-191120/
「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-90e3d1.html
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ハーバードの研究で「明確な目標と具体的な計画を設定して紙に書き残している人ほど、目標設定していない人に比べて10年後の収入が10倍になっていた」という結果があるけど、大谷翔平選手が高校時代に使った目標達成シートがまさにそれでしかない。
https://x.com/jinji_990/status/1838330216474907022
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★森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful” 
Mori Art Museum, 森美術館、2024年9月25日(水)~2025年1月19日(日)
https://www.mori.art.museum/jp/

2024年8月 8日 (木)

田名網敬一 記憶の冒険・・・永遠に熟さず、老いず、極彩色の彼岸と此岸

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第374回
田名網敬一は、45歳の時、大病するが生還。生死の境を彷徨し、以後、死を意識して今がある。いつまでも熟さず、老いず。不熟。1936年生まれ、88歳で、サイケデリックなデザイナー。横尾忠則、村上隆、彼らも、老いず。混沌、豊穣、奇想天外なモチーフと極彩色。極彩色の彼岸と此岸。
「彼岸と此岸」をつなぐ橋
展示室の始めに「聖なるものと俗なるもの」「彼岸と此岸」をつなぐ暗喩としての太鼓橋がうず高く積み上げられた新作インスタレーション《百橋図》がお出迎え。内覧会に、田名網敬一の水色と黄色の極彩色の着物を着た若い女性がやってきた。
You are never too old to learn.学ぶのに老いすぎているということはない。いくつになっても学ぶことはできる。
老いるまで生き、老いるまで学ぶ。人不会因为上了年纪而不能学习,活到老学到老。(年老いたからといって学べないということは無い、一生勉強)
【イメージディレクター】武蔵野美術大学デザイン科に入学後、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作らと出会い、彼らの活動に最前線で触れながら、1957年に日本宣伝美術会主催の日宣美展で特選を受賞。在学中からデザイナーとして仕事を依頼されるようになり、卒業後は博報堂に入社。2年ほどで退職した後は画廊での展示に固執せず、1966年にはアーティストとしての出発点ともいえる作品集『田名網敬一の肖像』を出版。自らを「イメージディレクター」と名乗る。
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勝利に溺れる人々。スポーツ・映画・性欲に溺れる大衆。勝つこと、名誉を崇拝する勝利主義に異議を唱えるソクラテス・プラトンは現代社会で軽蔑される。成功は人生の価値であるか。考えるべき時である。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《Gold Fish》1975年、アクリル絵具/イラストレーションボード、36.4×51.5cm
《キリコ劇場》2009年、アクリル絵具/カンヴァス、195×145.5cm
《彼岸の空間と此岸の空間》2017年
《森の掟》2024年、顔料インク、アクリル・シルクスクリーン、ガラスの粉末、ラメ、アクリル/カンヴァス、251×200cm
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参考文献
田名網敬一 記憶の冒険・・・永遠に熟さず、老いず、極彩色の彼岸と此岸
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-44855a.html
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現代の越境者 田名網敬一
近年、急速に再評価が進む日本人アーティスト、田名網敬一。武蔵野美術大学在学中にデザイナーとしてキャリアをスタートさせ、1975年には日本版月刊『PLAYBOY』の初代アートディレクターを務めるなど、雑誌や広告を主な舞台に日本のアンダーグラウンドなアートシーンを牽引してきました。その一方で、1960年代よりデザイナーとして培った方法論、技術を駆使し、現在に至るまで絵画、コラージュ、立体作品、アニメーション、実験映像、インスタレーションなど、ジャンルや既存のルールに捉われることなく精力的に制作を続け、美術史の文脈にとって重要な爪痕を残してきました。 本展は、現代的アーティスト像のロールモデルとも呼べる田名網の60年以上にわたる創作活動に、初公開の最新作を含む膨大な作品数で迫る、初の大規模回顧展です。
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田名網敬一(たなあみ けいいち)
1936 年東京生まれ。武蔵野美術大学卒業。アートディレクター、実験映像及びアニメーション作家、アーティストなど、そのジャンルを横断した類まれな創作活動により、他の追随を許さない地位を築いている。近年の田名網の主要な展覧会として、「パラヴェンティ: 田名網 敬一」(プラダ青山店、東京、2023 年)、「マンハッタン・ユニヴァース」(ヴィーナス・オーヴァー・マンハッタン、ニューヨーク、2022 年)、「世界を映す鏡」(NANZUKA UNDERGROUND、東京、2022 年)、「Keiichi Tanaami」(ルツェルン美術館、スイス、2019 年)、「Keiichi Tanaami」(ジェフリー・ダイチ、ニューヨーク、2019 年)。また、グループ展としてポップアートの大回顧展「インターナショナル・ポップ」(ウォーカー・アート・センター、ダラス美術館、フィラデルフィア美術館、アメリカ、2015-2016 年)、「世界はポップになる」(テート・モダン、ロンドン、2015 年) などがある。パブリックコレクションに、ニューヨーク近代美術館(アメリカ)、ウォーカー・アート・センター(アメリカ)、シカゴ美術館(アメリカ)、M+(香港)、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(アメリカ)、ハンブルガー・バーンホフ(ドイツ) など多数。
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田名網敬一 記憶の冒険
Keiichi Tanaami: Adventures in Memory
国立新美術館、2024年8月7日(水) ~ 2024年11月11日(月)

2024年6月27日 (木)

ブランクーシ 本質を象る・・・真なるものとは、外面的な形ではなく、観念、つまり事物の本質である

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Brancusi-1876-1957-2024
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第372回

ブランクーシは世界最高峰の彫刻家ロダンの工房に就職したが、1か月で退職した。ブランクーシ彫刻は、概念ではなく、本質を表している。概念ではなく、本質である。概念は、言葉があって、はじめて存在する。本質と現象、生成消滅する自然界に対して、本質が存在する。原範型と似像、原範型があって、似像は存在する。普遍は、個物に対して存在する。プラトン哲学は本質の探究である。
【アリストテレス『形而上学』】アリストテレス哲学は科学主義、自然学者であり論理学者、普遍(類)と概念の探究である。「何であるか」の問いに対する答えが「ト・ティ・エーン・エイナイ」である。アリストテレス『形而上学』の「ウーシア」(実体)には、第一実体と第二実体があり、第一実体は本質であり、第二実体は基体(ヒュポケイメノン)である。アリストテレス、4原因論、形相因・質料因・始動因・目的因。可能態と現実態・完全現実態は、『自然学者』である。『形而上学』「第一哲学は、存在する限りの存在する者を探究する。
「真なるものとは、外面的な形ではなく、観念、つまり事物の本質である」ブランクーシ What is real is not the outer form, but the idea, the essence of things.
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質】師が優れているか否かが最も重要【先生が持っている世界観、基礎認知力、持っている体系】【知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は稀である】人生が夢を作るのではない。夢が人生をつくる。先入観は可能を不可能にする。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
コンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》 1910–11年頃 石膏 大阪中之島美術館
コンスタンティン・ブランクーシ《接吻》1907-10年 石膏 石橋財団アーティゾン美術館
コンスタンティン・ブランクーシ《雄鶏》1924年(1972年鋳造)ブロンズ 豊田市美術館
コンスタンティン・ブランクーシ《空間の鳥》1926年(1982年鋳造)
ブロンズ 大理石(円筒形台座)、石灰岩(十字形台座) 横浜美術館
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参考文献
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
ブランクーシ 本質を象る・・・真なるものとは、外面的な形ではなく、観念、つまり事物の本質である
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-a42dd8.html

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コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)83歳
ルーマニアのホビツァに生まれる。ブカレスト国立美術学校に学んだ後、1904年にパリに出て、ロダンのアトリエに助手として招き入れられるが、1か月で辞職、独自に創作に取り組み始める。「ロダンの彫刻に失望した」。同時期に発見されたアフリカ彫刻などの非西欧圏の芸術に通じる、野性的な造形を特徴とするとともに、素材への鋭い感性に裏打ちされた洗練されたフォルムを追求。同時代および後続世代の芸術家に多大な影響を及ぼした
真なるものとは、外面的な形ではなく観念、つまり事物の本質である
What is real is not the outer form, but the idea,the essence of things.
20世紀彫刻の先駆者ブランクーシ 
その唯一無二の創作の全容が明らかに
ルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)は、純粋なフォルムの探究を通じて、ロダン以後の20世紀彫刻の領野を切り拓いた存在として知られます。本展は、彫刻作品を中核に、フレスコ、テンペラなどの絵画作品やドローイング、写真作品などが織りなす、ブランクーシの創作活動の全体を美術館で紹介する、日本で初めての機会となります。ブランクーシ・エステートおよび国内外の美術館等より借用の彫刻作品約20点に、絵画作品、写真作品を加えた、計約90点で構成されます。
https://www.artpr.jp/artizon/brancusi2023
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ブランクーシ 本質を象る、アーティゾン美術館、2024年3月30日(土)〜2024年7月7日(日)

2024年3月 3日 (日)

マティス 自由なフォルム・・・《豪奢、静寂、逸楽》、旅路の果て

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第360回
一瞬の出会い、運命は変わる。岐路を導く人は、師である。藝術家、ミューズ、母の恩。魔術師の旅、旅路の果て。よき師と出会い、美しい人と出会い、幸運の女神に会い、美しい卓越性を成し遂げよう。
【《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 優雅な生活】
マティスは「精神安定剤のような、肉体の疲れを癒す、良い肘掛け椅子のような存在」を芸術の理想としていた。戦争で息子を徴兵され、大病を患い、人生には辛い事もあった。それでも画中に苦しみを持ち込まず、調和に満ちた作品を創作し続けた。
自分が感じた深い感動に対する繊細な感覚、芸術を探求する精神。マティスは20世紀初頭の絵画運動であるフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動した後、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と形の探求に捧げた。
マティスの理想の境地は、南フランスの《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活であり、50年間《豪奢、静寂、逸楽》であり続けることは幸せである。
*Luxe, Calme, et Voluptéボードレールの『悪の華』の詩「L'Invitation au voyage」旅へのいざない
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【一瞬の出会い、運命は一瞬で変わる】よき師と出会い、美しい人と出会い、不滅の魂で、美しい徳を成し遂げよう。
世界には君以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、問うてはならない。ひたすら進め。
There is only way no one can walk besides you in the world. A field's reaching where or, you aren't supposed to care. Advance earnestly.
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図】【先生が持つ基礎認知力、持っている体系】【知的卓越性とともに人格の卓越性をもつ人は稀である】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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アンリ・マティス(1869~1954) 色彩の魔術師 84歳で死す
20世紀美術を代表する画家の一人、アンリ・マティス(1869~1954)、フォーヴィスム(野獣派)で有名だが、生涯、色彩と線への旅をつづけ、84歳で死す。
裕福な家庭に生まれ、法律家の道を歩んでいたマティス。画家を志したのは21歳のとき、病気で療養中だった彼に母親が絵具箱を贈ったことがきっかけである。法律の学位を得て代訴人の仕事をしていたマティスは、23歳でギュスターヴ・モローの弟子となる。
美術学校や画家のもとで教えを受け、ルーヴル美術館で古典作品の模写をし技術を磨いていったマティスは、次第に自分自身の表現を探求する1898年、アメリー・パレイルと結婚。同年、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーを研究した。
【ポール・シニャックとの出会い、コリウール1905、36歳】
ポール・シニャック『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象派まで』1899に影響を受け、筆触分割の技法を用いる。D'Eugène Delacroix au Néo-impressionisme
1905年、家族とともに、海辺の町、コリウールで夏を過ごす。《日傘を持つ婦人》1905年、を描く。《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 1904年、35歳。《豪奢、静寂、逸楽》は、ポール・シニャック(1863-1935)の招きで南仏に赴いたマティスがパリで仕上げた実験的作品、新印象派の筆触分割(絵具を混ぜず直接筆で)に実験的に取り組んだマティス転換期の重要作品。色彩と線描の衝突というテーマをそのまま残す作品となる。
【「フォーヴィスム(野獣派)」】
荒々しい筆遣いと鮮やかな色彩が特徴的な作品が1905年サロン・ドートンヌに出品されると、批評家ルイ・ヴォークセルによって展示室は「野獣の檻」と呼ばれ、「フォーヴィスム(野獣派)」の画家と呼ばれるようになる。美術界に確かな地位を築きつつ、マティスはさらなる進化を続ける。本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。
『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、コペンハーゲン国立美術館
フォーヴィスム(野獣派)「豪奢1(Luxe)」1907年
【窓、部屋の中と外の世界とをつなぐ】
生涯にわたり室内のアトリエを創作の場としたマティスにとって、窓は部屋の中と外の世界とをつなぐ重要なモティーフ。金魚もマティスが繰り返し描いたモティーフで、《金魚鉢のある室内》1914年、で窓際に置かれた金魚鉢が内と外の世界を映り、小宇宙のような空間を生み出す。生前には公開されなかった《コリウールのフランス窓》。黒く塗りつぶされた部分は当初、外の眺めが描かれていた。第一次世界大戦勃発直後に描かれた。
【第一次世界大戦が終わりニースへ、南仏の光 1917-1930】
拠点を移したマティスは、南仏の光の中で精力的な創作活動を展開。多数描かれた「オダリスク」もこの時期に取り組んだ、《赤いキュロットのオダリスク》1921年はその皮切りとなった作品。旅先のモロッコで仕入れた布に、手作りのアクセサリーや衣装。マティスの装飾へのこだわり。マティスが色と同じく大事にした、線の表現。デッサンは「自分の中に芽生えた創作の気持ちを観る人の心にダイレクトに伝えることができる方法」。
1917年から30年ごろにかけては、おもに南フランスのニースを制作の場として活動。この時期、優美で官能的なオダリスクをはじめ、開放的な作品を制作。通常この頃のマティスの活動は「ニース時代」と呼ばれる。
【マティス60代、リディア・ディクトルスカヤ1935】
《夢》1935以降モデルとして彼のミューズとなったリディア・ディクトルスカヤ。その後マティスが亡くなるまでの20年間、リディアはそばで彼を支え続ける。
《座るバラ色の裸婦》は少なくとも13回描き直されていて、リディアの顔がだんだん抽象的に、そして最終的には線姿。マティスは鑑賞者の想像力をつぶすすべての制限から作品を解放した。
多くの芸術家が国外へ逃げる中、齢70近かったマティスは国を離れることを断念。同時 期に十二指腸癌を患い大手術を受ける。その後、空爆を避けニースからヴァンスに移ったマティスが最後の油絵連作として取り組んだ「ヴァンス室内画」シリーズ。《黄色と青の室内》はその第1作。奥行のない不思議な画面構成なのに、調和した空間。シリーズ最終作《赤の大きな室内》1948。直角で隣り合うふたつの壁、その角を表す黒線はベンチの背までで切れている。
【切り紙絵、色彩と線描1947】
一日の大半をベッドで過ごすようになりカンヴァスに向かうことが難しくなったマティスは、絵筆をはさみに持ち替え、切り紙絵を創作するようになる。色彩と線描(ドローイング)の対立をどう超えるか。色彩と線描(ドローイング)という造形作業が同時にできる切り紙絵は、マティスにとって到達点ともいえる表現方法。
《イカロス(版画シリーズ「ジャズ」)》1947年
【ヴァンス・ロザリオ礼拝堂1951】
最後はマティス最晩年の作品、ヴァンス・ロザリオ礼拝堂。建物の設計、装飾、什器、祭服や典礼用品に至るまでを手がけた総合芸術作品、マティスの集大成。マティスはこれを「運命によって選ばれた仕事」として、光、色、線が一堂に会する静謐な空間を創りあげた。
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参考文献
『マティス 自由なフォルム』図録、読売新聞社、2024
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
マティス 自由なフォルム・・・《豪奢、静寂、逸楽》、旅路の果て
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-34a6f3.html
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展示作品の一部
アンリ・マティス《日傘を持つ婦人》1905年
アンリ・マティス《森の中のニンフ(木々の緑)》1935-1943年
油彩/カンヴァス、245.5 × 195.5 cm、オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
アンリ・マティス《森の中のニンフ(木々の緑)》1935-1943年
油彩/カンヴァス、245.5 × 195.5 cm、オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
アンリ・マティス《ブルー・ヌード IV》1952年、切り紙絵、103 × 74 cm
オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
アンリ・マティス《花と果実》1952-1953年
切り紙絵、410 × 870 cm、ニース市マティス美術館蔵
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
ヴァンスに建つロザリオ礼拝堂
コピーライト Succession H. Matisse Photo: François Fernandez
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アンリ・マティス《豪奢、静寂、逸楽》Luxe, Calme, et Volupté 1904年、オルセー美術館
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20世紀最大の巨匠アンリ・マティス(1869-1954)。自然に忠実な色彩から解放された大胆な表現が特徴のフォーヴィスムの中心人物としてパリで頭角を現します。後半生の大半を過ごすこととなるニースではアトリエで様々なモデルやオブジェを精力的に描く一方で、マティスは色が塗られた紙をハサミで切り取り、それを紙に貼り付ける技法「切り紙絵」に取り組みます。
本展はフランスのニース市マティス美術館の所蔵作品を中心に、切り紙絵に焦点を当てながら、絵画、彫刻、版画、テキスタイル等の作品や資料、約150点を紹介するものです。なかでも同館が所蔵する切り紙絵の代表的作例である《ブルー・ヌードⅣ》が出品されるほか、大作《花と果実》は本展のためにフランスでの修復を経て日本初公開される必見の作品です。
本展ではさらに、マティスが最晩年にその建設に取り組んだ、芸術家人生の集大成ともい えるヴァンスのロザリオ礼拝堂にも着目し、建築から室内装飾、祭服に至るまで、マティスの至高の芸術を紹介いたします。
https://www.nact.jp/exhibition_special/2024/matisse2024/index.html
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マティス 自由なフォルム、国立新美術館
2024年2月14日(水) ~ 2024年5月27日(月)

2023年11月 4日 (土)

春陽会誕生100年 それぞれの闘い、岡鹿之助、長谷川潔、岸田劉生・・・孤高の藝術家、静謐な空間、時の旅人

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孤高の藝術家、岡鹿之助は何を探求したのか。海の町、古城、窓と花。静謐な空間、黄昏の色調を帯びた建築、郷愁を感じさせる世界。献花は、亡くなった人に捧げられた絵画である。失われた時の旅人。世界の果て、魂の宇宙に、美を実現することを、探求する精神。
長谷川潔の版画は、日夏耿之介『転身の頌』光風館書店大正6年、『黒衣聖母』、を飾った。耽美派詩人の世界、失われた世界への旅。
庭に樫の大樹が枝を広げ、竹林が笹の葉擦れの潮騒、金色の玉虫が庭に落下し、母の愛犬トイプードルが庭を散歩する。朝夕、愛犬が吠える。部屋の南隅にギリシア語『エウリピデス』のページが翻る。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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岡鹿之助(1889-1978)孤高の藝術家、静謐な空間 89歳で死す。
岡鹿之助、父、劇評家・岡鬼太郎。1919年、東京美術学校入学、岡田三郎助の指導を受け24年卒業、1924年、渡仏、渡仏後、藤田嗣治の指導を受ける。1926年6月から3か月、トレガステルに滞在する。同地で描いた《信号台》1926年、等4点が、1926年サロン・ドートンヌで入選。ブルターニュでの制作は、それまで学んだアカデミックな作風を変え、新しい作風の契機となる。海街で描き魚釣りする。1939年まで15年間パリ滞在【独自の顔料・技法を研究】ボナール・マルケらと交流。39年帰国。1940年、春陽会会員に推挙。1960年,フランスに3年滞在。1969,日本芸術院会員、1972、文化勲章。《段丘》1978年、絶筆、死去。
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長谷川潔(1891-1980)深遠な精神世界 89歳で死す。
長谷川潔(1891-1980)は、1911年,黒田清輝に素描を習い、1912年、本郷洋画研究で岡田三郎助、藤島武二に油絵を習った。岡田三郎助とバーナード・リーチに銅版画の手ほどきを受ける。1912年に版画の制作を始めた。長谷川潔は、1913年、日夏耿之介と西條八十が創刊した『聖杯』に版画を寄稿。日本を去る1918年まで文芸同人雑誌『仮面』の版画家として活動。渡仏して第二次世界大戦が始まるまで創作活動。長谷川は、南仏の風景や神話に登場するヴィーナスのような女性像、机上の静物などを描きながら、独自の表現を確立。《思想の生れる時》 1925年 ドライポイント、《仏訳『竹取物語』挿絵》 1934(1933)年 エングレーヴィング。メゾチント(マニエール・ノワール)という版画の古典技法を研究し、現代版画の技法としてよみがえらせる。【長谷川の転機】第二次世界大戦中、見慣れた一本の樹が不意に人間と同等に見えるようになり「自分の絵は変わった」。日常に潜む神秘を表現する。長谷川は50年代末から60年代末まで、細粒な点刻で下地をつくり、漆黒のなかからモティーフを浮かび上がらせる「メゾチント」による静物画を多数制作した。《コップに挿した枯れた野花》1950年 エングレーヴィング、《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》1969年 メゾチント。オブジェや草花、小鳥など、深遠な精神世界を探求。サロン・ドートンヌやフランス画家・版画家協会に所属してパリ画壇で高く評価され、1935年レジオンドヌール勲章受章、1966年フランス文化勲章受章、1967年勲三等瑞宝章受章を授与された。パリを拠点に活躍した銅版画家。89歳で死す。
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岸田劉生(1891-1929)内なる美、東洋の美 38歳で死す。
「内なる美」岸田劉生は写実を追求した芸術家であるが、写実を通して対象物がもつ「存在の神秘性」を引き出すことを狙って描かれている。「深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは『神秘』である」(『劉生画集及芸術観』1920年)
岸田劉生は、対象物をリアルに再現するだけではなく自身の内面から呼び起こされた「内なる美」をその作品に投影している。
写実を極めた岸田劉生は、次第に東洋の美術に惹かれるようになっていきました。岸田劉生は東洋の美術が持つ独特の美を「卑近美」という言葉で表現しています。「東洋の美は、倫理的感銘が欠けているのではない。ただ、その露骨性を避けられているのである。匿くされているのである。東洋のものの渋さがそこにある。東洋のものは、一皮剝ぐと、そこに深さ、無限さ、神秘さ、厳粛さ、そういうものがある。」(『純正美術』第2巻第3号、1922年)岸田劉生は、初期肉筆浮世絵や中国の古典絵画に魅力を感じ、東洋美術の独特の美を自らの作品に落とし込むことに成功した。
岸田劉生は1891(明治24)年、東京銀座に岸田家の第9子(4男)として生を受けた。岸田劉生は、楽善堂(らくぜんどう)という大きな薬屋を営んでいた父親の岸田吟香(きしだぎんこう)のもとで、裕福な家庭に育つ。1908年、白馬会洋画研究所に入り、1910、第4回文展入選。2012年、ヒュウザン会結成に参加【第2の誕生】1912(明治44)年、21歳のころに岸田劉生はゴッホやゴーギャンに代表されるポスト印象主義に出会った、「絵の中に自分の内面を表現する」「自分が描きたいように描く」という表現スタイルがあることに気が付き衝撃を受ける。【北方ルネサンス】草土社結成。1913(大正2)年、岸田劉生は結婚し、清貧のうちに代々木に居を移す。この頃、肖像画を描くことに熱中し「岸田の首狩り」「千人斬り」などとも呼ばれた。デューラーやファン・エイクを代表とする「北方ルネサンス」の絵画に出会い、その細密に描きこまれた写実的な作品に引き込まれる。1916(大正5)年の夏、岸田劉生は体調を崩して肺結核と診断を受け、翌年、転地療養を兼ねて神奈川県の鵠沼へ転居、6年半を過ごした。1921(大正10)年より、妻・蓁からのすすめで歌舞伎や文楽を観劇。【東洋美術への傾倒】1923(大正12)年、関東大震災によって家屋が半壊したため、劉生一家は京都へ引っ越し。京都で2年半ほど過ごしたのち、劉生一家は1926(大正15)年に神奈川県の鎌倉町に転居。その2週間後には長男の鶴之助が生まれた。1929(昭和4)年、岸田劉生は南満州鉄道会社の招待で大連に赴き。帰国後、慢性腎炎に胃潰瘍を併発、絶筆の『銀屏風』を描いた20日後に息を引き取った。
岸田劉生の娘麗子は、2018年、5歳から16歳までの間に何度も作品のモデルをつとめた。「麗子像」のなかでも人気があるのが、東洋美術に惹かれ始めた頃に描かれた『麗子微笑(青果持テル)』(1921年)東京国立博物館所蔵。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。《「論語」陽貨》【どんなに地位、名誉、職業が高くても、智慧と慈悲がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【最高権力者が最下愚の国】最上の知者は悪い境遇にあっても戦う。
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
【千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず】一日に千里も走ることのできる名馬は常に存在するが、それを見いだす伯楽は常に存在しない。世の中に有能な人はたくさんいるが、その才能を見いだせる人物は少ない。いつの時代でも有能な人材はいるが、才能を見抜く名人はいない。韓愈『雑説』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
岸田劉生《麗子弾絃図》1923年、京都国立近代美術館
岡鹿之助《魚》1939年、横須賀美術館
岡鹿之助《窓》1949年、愛知県美術館
岡鹿之助《測候所》1951年、静岡県立美術館
岡鹿之助《山麓》1957年、京都国立近代美術館
岡鹿之助《段丘》1978年、個人蔵、群馬県立近代美術館寄託
岡鹿之助《群落》1962年、東京国立近代美術館
長谷川潔《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年、碧南市藤井達吉現代美術館
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参考文献
憧憬の地 ブルターニュ・・・最果ての地と画家たち
https://bit.ly/3ZkZsX8
「岡鹿之助展」ブリヂストン美術館・・・昼餐の対話、海と廃墟と古城
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_e8e2.html
甲斐荘楠音の全貌・・・退廃の美薫る、謎多き画家、東映京都の時代考証家、趣味人、レオナルドの面影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-6cb36a.html
長谷川潔 1891-1980展 ― 日常にひそむ神秘 - 町田市立国際版画美術館
https://www.artpr.jp/hanga-museum/hasegawa1891-1980
孤高の画家、岸田劉生の魅力とは。銀座、鈴木美術画廊
春陽会誕生100年 それぞれの闘い、岡鹿之助、長谷川潔、岸田劉生・・・孤高の藝術家、静謐な空間、時の旅人
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-4d7b04.html
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展覧会概要
春陽会は1923年に第1回展が開催された、現在も活発に活動を続ける美術団体です。民間最大の美術団体だった日本美術院の洋画部を脱退した画家たちで構成された創立会員を中心に、新進気鋭の画家たちが加わり新団体「春陽会」を結成しました。
彼らは同じ芸術主義をもつ画家たちの集団であろうとはせず、それぞれの画家たちの個性を尊重する「各人主義」が大事であると考えました。また、春陽会の展覧会には油彩だけではなく、版画、水墨画、さらには新聞挿絵の原画などが形式にとらわれずに出品されました。そして、春陽会では画家たちが互いの作品を批評しながら芸術のために研鑽を積み、次世代育成をも念頭に基盤を固めていったのです。
出品作品のなかに、自らの内面にある風土(土着)的なもの、日本的ないしは東洋的なものを表現しようとする傾向が早くからみられたことは、注目すべき点でしょう。
すでに知名度のある花形の画家たちにより組織され、帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として誕生した春陽会。本展は、その創立から1950年代までの葛藤に満ちた展開を100点以上の作品で辿ろうとするものです。
春陽会創立メンバー
創立会員:足立源一郎、梅原龍三郎、倉田白羊、小杉未醒(放菴)、長谷川昇、森田恒友、山本鼎  創立客員:石井鶴三、今関啓司、岸田劉生、木村荘八、椿貞雄、中川一政、山崎省三、萬鐵五郎
プレスリリース https://www.artpr.jp/tsg/shunyokai100
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春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ、東京ステーションギャラリー、9月16日(土)~11月12日

2023年10月17日 (火)

キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある

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Cubisme-blacki-pompidou-2023
Cubisme-centre-pompidou-paris-muse-natio
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第344回

美の革命というが、美の根拠はどこにあるのか。抽象絵画の起源は、キュビスムとフォーヴィスムから始まる。と美術史家は言う。
キュビスム絵画で最も有名な作品は何か。キュビスムのピカソ『アヴィニョンの娘たち』1907『マンドリンを持つ少女』1909-1910年、ジョルジュ・ブラック、ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』1899 オルセー美術館.から始まる。ピカソ『泣く女』1937,『アルジェの女』1955、はキュビスム以後の展開とされる。
【キュビスム1907-1914】
キュビスム(1)複数の視点から見た物の形を、一つの画面に表す(2)物の形を、立方体、球、円筒、円錐、など幾何学的な形にする。セザンヌ。
古典的技法を用いた「青の時代」などを経て、新しい表現を求めていたピカソは1907年に訪れたパリの民族誌博物館でアフリカやオセアニアの造形物と出合う。表現に衝撃を受け、描き上げたのがセザンヌの水浴図にもヒントを得た《アヴィニョンの娘たち》(1907、ニューヨーク近代美術館蔵)。
「自然を円筒形と球形、円錐形によって扱う」と言うセザンヌ。セザンヌの単純化された幾何学形を積みかさねる品群は、パリの批評家から「すべてをキューブ(立方体)に還元している」と批判され「キュビスム」の名称で呼ばれる。
ピカソによる《アヴィニョンの娘たち》の習作の女性像と、ジョルジュ・ブラック《大きな裸婦》(1907冬ー1908・6月)、マリー・ローランサン《アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)》(1909)。マリー・ローランサンが恋人の詩人ギヨーム・アポリネールとピカソらを描いた作品。アポリネールは、非難を浴びたキュビスムを「芸術の大革命」と呼んで擁護。
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「芸術家アトリエ『ラ・リュッシュ』」「東欧からきたパリの芸術家たち」
ブランクーシやモディリアーニが住んだモンパルナスの集合アトリエ『ラ・リュッシュ』(蜂の巣)は、キュビスムが浸透した場のひとつで、ロシア(現ベラルーシ)出身のマルク・シャガールも住人である。パリ移住後まもなく描いた《婚礼》は、幾何学形を取り入れた画面構成とドローネー風の鮮やかな色彩が目を引く。故郷のユダヤ系風物を追慕したシャガールは、キュビスムの影響も受け、現実と幻想が入り混じる独自の作風を成熟させる。
マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887-1985)ロシア出身のユダヤ系の画家で、存命中から現在に至るまで、世界中で高い人気と誇る。1887年、マルク・シャガールは帝政ロシアの一部であった現ベラルーシ共和国のヴィテブスクのユダヤ人街に生まれた。この地域はドイツ語、ヘブライ語、スラブ系言語の混合言語であるイディシュ語を話す人々によって形成された地域で独特の文化をを築いていた。そんな中で育ったシャガールはヴィテブスク特有の風土や文化の影響を受け、シャガールの精神形成に大きな役割を果たした。
1910年、シャガールはパリに到着する。パリのモンパルナスに住み着いた彼はモディリアーニやスーチン、パスキンなど後のエコール・ド・パリの巨匠たちと交流を結びサロン・ドートンヌやアンデパンダン展などに出品を続け次第にその評価を高めていった。97歳で死す。
【キュビスム以後、アメデ・オザンファンとル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム(純粋主義)」】
キュビスムは、1914年の第一次世界大戦勃発とともに収束へ向かった。ブラックやレジェ、グレーズらは前線に送られ、銃後のピカソは写実的な「新古典主義の時代」へ移行した。
第一次大戦後、アメデ・オザンファンとル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム(純粋主義)」。ふたりは、工業化社会を前提として秩序立った普遍的な「機械の美学」を唱え、キュビスムを乗り越えようとした。
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【美の根拠はどこにあるのか】思想が美しいということは、美の根拠である。
【美しい詩の根拠】①内容が深い、②映像が鮮烈、③連想イメージの豊饒、④余韻が深い、⑤思想が高い、高い知性、⑥物語が深い、⑦容姿が美しい。ウィリアム・ブレイク『毒のある木』、宮澤賢治『インドラの網』、藤原定家「夢の浮橋」、プラトン『饗宴』、空海『三教指帰』序文
藤原定家『定家十体』藤原定家著と伝えられる。1213年以前に成立か。和歌を幽玄様・有心様などの一〇体に分類し、例歌を示す。幽玄様 長高様 有心様 事可然様 麗様 見様 面白様 濃様 有一節様 拉鬼様。
『毎月抄』藤原定家、承久元年(1219)中心は、和歌を十体(じってい)に分けて説き、その中心として「有心体(うしんてい)」をたてた点であるが、それは十体の一つであるとともに十体のすべてにもわたるとする。「有心」として説くのは作歌にあたっての観想の深さで、それが表現上に表れていることである。理想的な完成態は「秀逸体」として十体とは別に説かれる。藤平春男。そのほか心詞・花実の論,秀逸体論,本歌取りの技巧,題詠の方法,歌病,詠歌態度などについて説く。
【無心の境地】思想の中に、藝術の中に、美を発見するとき、学問僧は無心の境地になる。思想の書を書き、洗練していくことに没頭するとき、無心の境地に至ることができる。密教の三密、身密、口密、意蜜、の修行に没頭するとき、無心の境地に至る。大谷翔平の技を支える業は、修行僧のようである。秘密の身・口・意の三業。すなわち、仏の身体と言語と心によってなされる不思議なはたらき。また、密教の行者が手に契印を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に大日如来を観ずる意密。三密加持すれば速疾に顕わる『即身成仏義』(823-824頃)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ジョルジュ・ブラック《レスタックの道》(1908)、ブラック《レスタックのテラス》(1908夏)、ブラック《レスタックの高架橋》(1908初頭)
ジョルジュ・ブラック《ヴァイオリンのある静物》(1911・11月)、同《円卓》(1911秋)
フェルナン・レジェ《婚礼》 1911-1912年
油彩・カンヴァス/257 x 206 cm /ポンピドゥーセンター(1937年寄贈)
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne – Centre de création industrielle
コピーライト Centre Pompidou, MNAM-CCI/Philippe Migeat/Dist. RMN-GP
コンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》 1910年
ブロンズ/16 x 27.3 x 18.5 cm /ポンピドゥーセンター(1963年寄贈)
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne – Centre de création industrielle
コピーライト Centre Pompidou, MNAM-CCI/Adam Rzepka/Dist. RMN-GP
アメデオ・モディリアーニ《女性の頭部》(1912)
マルク・シャガール《ロシアとロバとその他のものに》(1911)、同《婚礼》(1911-1912)
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参考文献
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-00e373.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
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20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。
西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道も開きます。慣習的な美に果敢に挑み、視覚表現に新たな可能性を開いたキュビスムは、パリに集う若い芸術家たちに大きな衝撃を与えました。そして、装飾・デザインや建築、舞台美術を含む様々な分野で瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。
本展では、世界屈指の近現代美術コレクションを誇るパリのポンピドゥーセンターの所蔵品から、キュビスムの歴史を語る上で欠くことのできない貴重な作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品となります。20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など約140点を通して紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる本格的な展覧会はおよそ50年ぶりです。
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023cubisme.html
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キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ、国立西洋美術館、10月3日(火)~2024年1月28日(日)

2023年8月17日 (木)

マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第338回

20世紀美術を代表する画家の一人、アンリ・マティス[1869~1954]、フォーヴィスム(野獣派)で有名だが、生涯、色彩と線への旅をつづけ、84歳で死す。
裕福な家庭に生まれ、法律家の道を歩んでいたマティス。画家を志したのは21歳のとき、病気で療養中だった彼に母親が絵具箱を贈ったことがきっかけである。法律の学位を得て代訴人の仕事をしていたマティスは、23歳でギュスターヴ・モローの弟子となる。
美術学校や画家のもとで教えを受け、ルーヴル美術館で古典作品の模写をし技術を磨いていったマティスは、次第に自分自身の表現を探求する。
《豪奢、静寂、逸楽》1904年、35歳
《豪奢、静寂、逸楽》は、ポール・シニャックの招きで南仏に赴いたマティスがパリで仕上げた実験的作品、新印象派の筆触分割(絵具を混ぜず直接筆で)に実験的に取り組んだマティス転換期の重要作品。色彩と線描の衝突というテーマをそのまま残す作品となる。
フォーヴィスム(野獣派)「豪奢1(Luxe)」1907年
本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。荒々しい筆遣いと鮮やかな色彩が特徴的な作品がサロンに出品されると、批評家によって「フォーヴィスム(野獣派)」の画家と呼ばれるようになる。美術界に確かな地位を築きつつ、マティスはさらなる進化を続ける。
窓、部屋の中と外の世界とをつなぐ
生涯にわたり室内のアトリエを創作の場としたマティスにとって、窓は部屋の中と外の世界とをつなぐ重要なモティーフ。金魚もマティスが繰り返し描いたモティーフで、《金魚鉢のある室内》1914年、で窓際に置かれた金魚鉢が内と外の世界を映り、小宇宙のような空間を生み出す。生前には公開されなかった《コリウールのフランス窓》。黒く塗りつぶされた部分は当初、外の眺めが描かれていた。第一次世界大戦勃発直後に描かれた。
第一次世界大戦が終わりニースへ、南仏の光 1921年
拠点を移したマティスは、南仏の光の中で精力的な創作活動を展開。多数描かれた「オダリスク」もこの時期に取り組んだ、《赤いキュロットのオダリスク》1921年はその皮切りとなった作品。旅先のモロッコで仕入れた布に、手作りのアクセサリーや衣装。マティスの装飾へのこだわり。マティスが色と同じく大事にした、線の表現。デッサンは「自分の中に芽生えた創作の気持ちを観る人の心にダイレクトに伝えることができる方法」。
マティス60代で出会ったリディア・ディクトルスカヤ1935
《夢》1935以降モデルとして彼のミューズとなったリディア・ディクトルスカヤ。その後マティスが亡くなるまでの20年間、リディアはそばで彼を支え続ける。
《座るバラ色の裸婦》は少なくとも13回描き直されていて、リディアの顔がだんだん抽象的に、そして最終的には線姿。マティスは鑑賞者の想像力をつぶすすべての制限から作品を解放した。
第二次世界大戦が勃発、ヴァンスへ1941
多くの芸術家が国外へ逃げる中、齢70近かったマティスは国を離れることを断念。同時 期に十二指腸癌を患い大手術を受ける。その後、空爆を避けニースからヴァンスに移ったマティスが最後の油絵連作として取り組んだ「ヴァンス室内画」シリーズ。《黄色と青の室内》はその第1作。奥行のない不思議な画面構成なのに、調和した空間。シリーズ最終作《赤の大きな室内》1948。直角で隣り合うふたつの壁、その角を表す黒線はベンチの背までで切れている。
切り紙絵、色彩と線描1947
一日の大半をベッドで過ごすようになりカンヴァスに向かうことが難しくなったマティスは、絵筆をはさみに持ち替え、切り紙絵を創作するようになる。色彩と線描(ドローイング)の対立をどう超えるか。色彩と線描(ドローイング)という造形作業が同時にできる切り紙絵は、マティスにとって到達点ともいえる表現方法。
《イカロス(版画シリーズ「ジャズ」)》1947年
ヴァンス・ロザリオ礼拝堂1951
展覧会の最後はマティス最晩年の作品、ヴァンス・ロザリオ礼拝堂。建物の設計、装飾、什器、祭服や典礼用品に至るまでを手がけた総合芸術作品、マティスの集大成。マティスはこれを「運命によって選ばれた仕事」として、光、色、線が一堂に会する静謐な空間を創りあげた。
《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活
マティスは「精神安定剤のような、肉体の疲れを癒す、良い肘掛け椅子のような存在」を芸術の理想としていた。戦争で息子を徴兵され、大病を患い、人生には辛い事もあった。それでも画中に苦しみを持ち込まず、調和に満ちた作品を創作し続けた。
自分が感じた深い感動に対する繊細な感覚、芸術を探求する精神。マティスは20世紀初頭の絵画運動であるフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動した後、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩と形の探求に捧げた。
マティスの理想の境地は、南フランスの《豪奢、静寂、逸楽》の優雅な生活であり、50年間《豪奢、静寂、逸楽》であり続けることは幸せである。
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展示作品の一部
アンリ・マティス 《豪奢、静寂、逸楽》 1904年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle
「豪奢1(Luxe)」1907年、本作品が制作された当時、マティスは「野獣派」と呼ばれ、常に批判と称賛が紙一重だった。西欧の伝統的な主題「浴女」を描いているが、アフリカ彫刻を思わせる単純で幾何学的な人物の形態は、当時の批評家の反感を買った。マティスは「異境的」な文明に、新たな芸術へのインスピレーションを求めた
《金魚鉢のある室内》1914年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《赤いキュロットのオダリスク》1921年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《ニースの室内、シエスタ》 1922年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《マグノリアのある静物》1941年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
マティスが78歳から手がけ始めた最後の絵画連作「ヴァンス室内画群」シリーズ
《黄色と青の室内》1946年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《イカロス(版画シリーズ「ジャズ」より)》1947年 ポショワール/アルシュ・ヴェラン紙 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
マティス最後の油彩画 《赤の大きな室内》 1948年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle
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参考文献
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-00e373.html
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
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20世紀を代表するフランスの巨匠、アンリ・マティス(1869-1954年)。強烈な色彩によって美術史に大きな影響を与えたフォーヴィスム(野獣派)の中心的な存在として活動したのち、絵画の革新者として、84歳で亡くなるまでの生涯を、感覚に直接訴えかけるような鮮やかな色彩とかたちの探求に捧げました。彼が残した仕事は、今なお色あせることなく私たちを魅了し、後世の芸術家たちにも大きな影響を与え続けています。
世界最大規模のマティス・コレクションを所蔵するパリのポンピドゥー・センターの全面的な協力を得て開催する本展は、日本では約20年ぶりの大規模な回顧展です。絵画に加えて、彫刻、素描、版画、切り紙絵、晩年の最大の傑作と言われる南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂に関する資料まで、各時代の代表的な作品によって多角的にその仕事を紹介しながら、豊かな光と色に満ちた巨匠の造形的な冒険を辿ります。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_matisse.html
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マチス展、東京都美術館、2023年4月27日~8月20日
2024年2月14日から5月27日まで

2023年6月27日 (火)

ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第333回
抽象絵画の起源は、キュビスムとフォーヴィスム、から始まる。と美術史家は言う。
鍵岡リグレ・アンヌ(1987-)、さんに「何を表現しているのですか」と問うた。「Reflection」2023。
抽象絵画で最も有名な作品は何か。キュビスムのピカソ『アヴィニョンの娘たち』1907『マンドリンを持つ少女』1909-1910年、ジョルジュ・ブラック、ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』1899 オルセー美術館.から始まる。ピカソ『泣く女』1937,『アルジェの女』1955、はキュビスムではないらしい。
フォーヴィスムは、アンリ・マティス『豪奢』1907『帽子の女』1905、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンクから始まる。
ルネサンスの遠近法、立体透視図法、などを否定して、キュビスムの多視点・幾何学化する方法はどこがよいのか。
フォーヴィスムの原色を多用した強烈な色彩、粗々しい筆使い、どこがよいのか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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キュビスムは、「パブロ・ピカソ」と「ジョルジュ・ブラック」によって提唱された絵画表現。どのような絵画表現か、(1)複数の視点から見た物の形を、一つの画面に表す(2)物の形を、立方体、球、円筒、円錐、など幾何学的な形にする。
キュビスムの作品は、ピカソ『アヴィニョンの娘たち』1907『マンドリンを持つ少女』、ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』。セザンヌは、自然を幾何学化することにより、対象の立体感や、存在感、空間を強調することを試み。キュビスムは、多視点・幾何学化を魅力的な表現(調和した魅力的な構成、物の存在を強調する)の手段としてではなく、多視点・幾何学化するという手段自体が目的。
フォーヴィスムは、20世紀初頭のフランスで発生した前衛運動。1905年、パリの第二回サロン・ドートンヌ展に出品した画家たち、アンリ・マティス『豪奢』1907『帽子の女』、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンク。批評家のルイ・ヴォークセルが、その原色を多用した強烈な色彩、また粗々しい筆使いに驚き、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫んだ。
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展示作品の一部
フランティセック・クプカ《赤い背景のエチュード》1919年頃 石橋財団アーティゾン美術館【新収蔵作品】
ヴァシリー・カンディンスキー《「E.R.キャンベルのための壁画No.4」の習作(カーニバル・冬)》1914年 宮城県美術館
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モーリス・ド・ヴラマンク《色彩のシンフォニー(花)》1905-06 年頃 石橋財団アーティゾン美術館【新収蔵作品】
© ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo,2023 C4125
ジョージア・オキーフ《オータム・リーフⅡ》1927年 石橋財団アーティゾン美術館【新収蔵作品】© 2023 The Georgia O’Keeffe Foundation/ ARS, New York/ JASPAR,Tokyo C4125
ウィレム・デ・クーニング《一月》1947-48年 石橋財団アーティゾン美術館【新収蔵作品】© 2023 The Willem de Kooning Foundation, New York/ ARS, New York/ JASPAR, Tokyo C4125
ジャン・デュビュッフェ《ピエール・マティスの暗い肖像》1947年 ポンピドゥー・センター、パリ 国立近代美術館/産業創造センター © ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo 2023 C4125 Photo ©Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist.RMN-Grand Palais / Philippe Migeat / distributed by AMF
鍵岡リグレ・アンヌ(1987-)、Reflection 2023
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参考文献
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-00e373.html
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ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ、アーティゾン美術館、2023年6月3日~8月20日

2023年3月 3日 (金)

マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、1920狂乱のパリ、カール・ラガーフェルド


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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第316回
事業家として成功する藝術家、ファッション・デザイナー。事業家、欲望を管理するデザイナー。成功の秘訣は何か。
【マリー・ローランサン、パブロ・ピカソの紹介で詩人ギヨーム・アポリネールと出会い恋人となる(1907年~1912年)。集合アトリエ洗濯船に出入りする。キュビスムとアンリ・ルソーに傾倒する。『ギヨーム・アポリネールと友人たち』。1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命、パリに戻ってくる、1921年の個展で成功を収め、1956年73歳で死す。
【19世紀末】アール・ヌーヴォー、エミール・ガレとドーム兄弟1889~1900年。1892年、ヴォーグ創刊、アメリカ。1883年、ガブリエル・シャネル、生まれる。
【20世紀】第1次大戦(1914年7月~1918年11月)、1918年スペイン風邪感染爆発(1918年(大正7年)~1920年)、1925年アールデコ博覧会、1929年世界大恐慌。1930年代、ファシズム抬頭。スペイン風邪死亡者数は、世界全体で2,000万人から4,500万人
【ココ・シャネル、帽子デザイナー】1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店。1920年代、ココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレス。1921年、シャネルNo5、発売。1926年、シャネル「リトル・ブラック・ドレス」。1971年88歳で死す。
【事業家、シャネル、マリー・ローランサン】事業家として成功。画家、流行を作る。成功するファッション・デザイナー。成功の秘訣は何か。
【群れない人】自分が何を欲しいかが分かっている。他人にどう思われようが気にしない。他人にない強みを持っている。世間に流されない。自分の価値観と同じ人とだけつき合う。心を許す人とだけつき合う。レヴェル高い友人が何人いるか。事実、事例は言葉より強い。【自走できるチーム】モチベーション、やりたい意欲。ルーティン、仕事の習慣。業務の流れ。能力。ツール。方法論をもって問題解決。【烏合の衆】群れる。付和雷同。価値なし。世間に流される。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
マリー・ローランサン「ニコル・グルーと二人の娘」1922
マリー・ローランサン「わたしの肖像」1924
マリー・ローランサン「マドモアゼル・シャネルの肖像」1923
マン・レイ「ココ・シャネル」1955
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参考文献
「マリー・ローランサンとモード」図録2023
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道、国立新美術館・・・装飾に覆われた運命の女、黄金様式と象徴派
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」・・・黄金の甲冑で武装した騎士、詩の女神に出会う、純粋な愛と理想
マリー・ローランサンとモード・・・ココ・シャネル、狂乱のパリ1920、カール・ラガーフェルド
https://bit.ly/3YirToj
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ココ・シャネル(Coco Chanel)(1883年~1971)とフランスの画家 マリー・ローランサン(Marie Laurencin)(1883年~1956)
二人に焦点を当てた展覧会。作品を通して女性的な美を追求したローランサンと、男性服の素材やスポーツウェアを女性服に取り入れたシャネルの2人にフォーカス。美術とファッションの垣根を超えて活動した両氏と、ファッション・デザイナーのポール・ポワレ(Paul Poiret)やマドレーヌ・ヴィオネ(Madeleine Vionnet)、芸術家のジャン・コクトー(Jean Cocteau)、画家のマン・レイ(Man Ray)といった人々との関係に触れながら、モダンとクラシックが融合した20世紀前半のパリの芸術を振り返る。
ともに1883年に生まれ、生誕140年を迎える両氏の展覧会として、パリのオランジュリー美術館や、長野県蓼科高原や東京のホテルニューオータニ内に構えていたマリー・ローランサン美術館などの国内外のコレクションから約90点の作品をラインナップする。
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モダンガールの変遷
1920年代、新しい女性たち、“モダンガール”が登場します。第一次世界大戦を契機とした女性の社会進出、都市に花開いた大衆文化、消費文化を背景に、短髪のヘアスタイル、ストレートなシルエットのドレスをまとった女性が街を闊歩しました。彼女たちは欧米各国に出没し、アジアまでも波及し世界的な現象となります。 こうした身体の解放や服飾の簡素化は、すでに世紀末やアール・ヌーヴォーの時代から進行していました。特に1910年代にはポール・ポワレが、コルセットから解放されたエキゾチックなスタイルを提案し、賛否両論を巻き起こします。やがて1920年代に入ると、ポワレの優雅なドレスよりもより活動的、実用的な服装が打ち出され、中でもココ・シャネルのリトル・ブラック・ドレスは時代を代表するスタイルに。さらにマドレーヌ・ヴィオネがバイアスカットを駆使したドレスで注目されるなど、他のデザイナーたちも競ってモダン・ファッションに取り組み、女性服を大きく変革しました。
世界恐慌やファシズム台頭による不安な情勢から、1930年代には復古調のロングドレスや装飾が復活します。パリ・モード界でも、シュルレアリスムに影響された装飾デザインのエルザ・スキャパレッリが時代の寵児となり、ファッション雑誌はマン・レイなど気鋭の写真家を起用して斬新な表現や躍動感ある女性像を提示しました。モダンガールもまた時代の息吹を吸って、どんどん変化していったのです。
1910年代
ポワレのファッション
ポール・ポワレは1906年に発表したハイ・ウェストのドレスによってコルセットから女性を解放したことでモードの改革者と位置づけられます。ヘレニズム(古代ギリシャ)、オリエント(中近東、日本、中国など)から影響を受けたエキゾチックな彼のファッションは、版画技法を駆使したポショワール画※が見事に表現しています。こうした革新的な手法によるイメージ戦略も相まって、ポワレは瞬く間にパリのモード界を席巻しました。
1910-1920年代
帽子ファッションの流行
ココ・シャネルは帽子デザイナーとしてそのキャリアをスタートしました。1909年にパリのマルゼルブ大通り160番地で帽子を売り始め、過剰な装飾を取り払ったデザインで評判を呼びました。続いて1910年にパリのカンポン通り21番地に「シャネル・モード」を開店すると、ホテル・リッツの裕福な客層がシャネルの帽子店を訪れるようになります。ローランサンの絵画に描かれているように、帽子は重要なファッションアイテムでした。
1920年代
モダンガールの登場
「ポワレが去り、シャネルが来る」、これはジャン・コクトーの言葉です。複雑で東洋的、演劇的な要素の多いポワレのドレスよりも、人々は短いドレスを夢見るようになります。1926年、アメリカのファッション雑誌ヴォーグで発表されたシャネル「リトル・ブラック・ドレス」はまさに新しい時代の到来を告げるものでした。ユニフォームのようなニュートラルなドレスに、ジュエリー、スカーフなど、それぞれの女性が好きなように装飾を与えることができる、まさに「新しいエレガンスの方程式」を打ち出したのです。
1930年代フェミニンへの回帰
1930年になると、復古調のロングドレスや装飾が復活します。シンプルなファッションよりも女性らしさが求められ、スカート丈は長く、女性的な曲線が好まれ、花柄などのモチーフも多く見られるようになります。ファッションの動向に呼応するように、1920年代末頃からローランサンの作品には、鮮やかな色彩が見られ、真珠や花のモチーフが多用されるように。30年代にはそれまであまり用いられなかった黄色や赤に挑戦し、色彩の幅を一層広げていきました。
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/23_laurencin/commentary.html
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「マリー・ローランサンとモード」、Bunkamura ザ・ミュージアム、2月14日から4月9日

2023年2月19日 (日)

諏訪敦「眼窩裏の火事」・・・亡き人の魂の召喚、生と死の狭間の対話

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諏訪敦「眼窩裏の火事」・・・亡き人の魂の召喚、生と死の狭間の対話
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第315回
諏訪敦氏と名刺交換したのは、2010年1月、佐藤美術館である。新進気鋭の写実画家として活躍していた。その時は、今のような方向に展開するとは想像できなかった。生と死の狭間を生きる、亡き人の召喚、亡き人の記憶を写実絵画に描く。写実絵画は、リアリズムの絵画だが、それを超える試みである。宮澤賢治、プラトン哲学、空海の密教のような試みである。
亡き人の魂の召喚 亡き人の魂との対話
宮澤賢治『銀河鉄道の夜』『雁の童子』『インドラの網』は亡き人の魂の物語、亡き人の魂の召喚である。プラトン『パイドン』『饗宴』『国家』『パイドロス』は、亡き人の魂との対話である。プラトン哲学は生と死を超える知恵の探求であり、密教真言はこの世を超える法身、魔訶毘盧遮那仏への祈りである。
――
旅する哲学者、美への旅。海を超え、砂漠を越えて、美しい人と歩く黄昏の地中海。この世の最も美しいものは何か。
在りし日の己を愛するために思い出は美しくある。遠い過去よりまだ見ぬ人生は夢を実現するためにある。運命の扉を開けるのはあなた。鍵は手のひらの上にある。
黄昏の密教寺院、大日如来、愛染明王、密教真言を唱える。
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護精霊が天人を救う。美しい魂は、輝く天の仕事を成し遂げる。
運命の美女が現れる。諦めずに鍛えてきたことが、次の舞台へ、運命の扉を開く。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1,
『father』1996年は、父が死にゆく病院の姿である。父の脳裏には戦争末期、異国に残してきた祖母の姿が生きている。
『HARBIN1945WINTER』1995-96年は、父がハルビンに50年前残してきた、雪原に祖母が朽ち果てていく姿である。
『依代』2016-17年は、朽ち果てた祖母のありし日の蘇った姿である。
亡き人の召喚 亡き人の記憶を体験する
緻密な描写は写真と見紛うほど精細、生と死の狭間を行き交うイメージ、精緻に描き出された美しい女性や老齢の男女たち、この世ならぬ現実離れした印象である。
諏訪敦氏は、日本の写実絵画界の第一人者とされる画家である。写実絵画は、いかに描く対象に従順、忠実に写し出すかが使命である。諏訪敦氏が取り組んできたのは「写実性からの脱却」。絵画を制作するうえでの認識の質を追求し、写実主義の限界を越える取り組みを続けている。「基本的に美術は視覚がつかさどり、絵画は特に視覚に偏重したメディアです。ですが、誰が観ても同じと思われているものは、果たして本当に同じでしょうか?」。
2、
「眼窩裏(がんかうら)の火事」2020
18世紀に作られたワイングラスと、現代に作られたグラスとを描き分けたこの絵画には白濁した閃光が描かれている。画家が長年悩まされてきた、閃輝暗点(せんきあんてん)の症状を絵画に取り込んで描いたもの。実際には存在しない光だが、作者には見える現実が描かれている。
3、
「Mimesis」2022 亡き舞踏家の召喚 
舞踏家大野一雄は2010年に亡くなるが、パフォーマー川口隆夫の協力を得て、亡き舞踏家の召喚を試みる。
満州で病死した祖母をはじめとする家族の歴史を描いた第1章『棄民』、第2章『静物画について』、第3章『わたしたちはふたたびであう』で描かれた舞踏家・大野一雄氏の作品群のプロジェクトは、膨大な調査を要する取材過程を経て、写実絵画として制作されている。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
諏訪敦『HARBIN1945WINTER』1995-96年、広島市現代美術館蔵
『目の中の火事』2020年 白亜地パネルに油彩 27.3 × 45.5cm、東屋蔵
『Mimesis』2022年 キャンバス、パネルに油彩 259.0×162.0cm、作家蔵
『Solalis』2017年、作家蔵
『大野一雄立像』 1999 / 2022年 綿布、パネルに油彩 145.5×112cm、作家蔵
《大野一雄》2007。1200 × 1939 mm。Oil on Canvas、作家蔵
『father』1996年 パネルに油彩、テンペラ 122.6×200.0cm、佐藤美術館寄託
『依代』2016-17年 紙、パネルにミクストメディア 86.1×195.8cm、個人蔵
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参考文献
諏訪敦「眼窩裏の火事」、府中市美術館HP
「諏訪敦、複眼リアリスト」佐藤美術館 2008
『諏訪敦作品集 Blue』2017
「芸術新潮」2023年2月号100年前のパンデミックで逝ったあの男が、いま甦る!エゴン・シーレ特集
諏訪敦さん「『画家の眼』で認識を問い直す」:KKH-BRIDGE.com-KKH-BRIDGE 文化の枠を越えるメディア
諏訪敦「眼窩裏の火事」・・・亡き人の魂の召喚、生と死の狭間の対話
https://bit.ly/3I6MRjM
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諏訪敦「眼窩裏の火事」、府中市美術館
《依代》2016-17年 紙、パネルにミクストメディア 86.1×195.8cm 個人蔵
緻密で再現性の高い画風で知られる諏訪敦は、しばしば写実絵画のトップランナーと目されてきました。
しかしその作品を紐解いていくと彼は、「実在する対象を、目に映るとおりに写す」という膠着した写実のジャンル性から脱却し、認識の質を問い直す意欲的な取り組みをしていることが解ります。
諏訪は、亡き人の肖像や過去の歴史的な出来事など、不在の対象を描いた経験値が高い画家です。丹念な調査の実践と過剰ともいえる取材量が特徴で、画家としては珍しい制作スタイルといえるでしょう。彼は眼では捉えきれない題材に肉薄し、新たな視覚像として提示しています。
今回の展覧会では、終戦直後の満州で病死した祖母をテーマにしたプロジェクト《棄民》、コロナ禍のなかで取り組んだ静物画の探究、そして絵画制作を通した像主との関係の永続性を示す作品群を紹介します。
それらの作品からは、「視ること、そして現すこと」を問い続け、絵画制作における認識の意味を拡張しようとする画家の姿が立ち上がってきます。
展示構成
第1章 棄民
死を悟った父が残した手記を手がかりに、幾人もの協力者を得ながら現地取材にのぞみ、諏訪はかつて明かされてこなかった家族の歴史を知り、絵画化していきます。
敗戦直後、旧満州の日本人難民収容所で母と弟を失った、少年時代の父が見たものとは。
《father》1996年 パネルに油彩、テンペラ 122.6×200.0cm 佐藤美術館寄託
《HARBIN 1945 WINTER》 2015-16年 キャンバス、パネルに油彩 145.5×227.3cm 広島市現代美術館蔵
第2章 静物画について
《不在》2015年 キャンバス、パネルに油彩 32.5×45.3cm 個人蔵
《まるさんかくしかく》2020-22年 キャンバスに油彩 50.0×72.7cm 作家蔵
コロナ禍のさなか諏訪は、猿山修と森岡督行の3人で「藝術探検隊(仮)」というユニットを結成し、『芸術新潮』(2020年6月~8月号)誌上で静物画をテーマにした集中連載に取り組みました。静物画にまつわる歴史を遡行し制作された作品の数々。そこには、写実絵画の歴史を俯瞰した考察が込められています。
第3章 わたしたちはふたたびであう
《Solaris》 2017-21年 白亜地パネルに油彩 91.0×60.7cm 作家蔵
人間を描くとは如何なることか?絵画にできることは何か?
途切れることのない肖像画の依頼、着手を待つ制作途中の作品たち。ときには像主を死によって失うなど、忘れがたい人たちとの協働を繰り返してきた諏訪がたどり着いたのは「描き続ける限り、その人が立ち去ることはない」という確信にも似た感覚でした。
1999年から描き続けていた舞踏家・大野一雄は2010年に亡くなってしまいます。しかし、諏訪はさらに、気鋭のパフォーマー・川口隆夫の協力を得て亡き舞踏家の召喚を試み、異なる時間軸を生きた対象を写し描くことの意味を再検討します。
《Mimesis》2022年 キャンバス、パネルに油彩 259.0×162.0cm 作家蔵
展覧会タイトル「眼窩裏の火事」について
《目の中の火事》2020年 白亜地パネルに油彩 27.3×45.5cm 東屋蔵
ときに視野の中心が溶解する現象や、辺縁で脈打つ強烈な光に悩まされることが諏訪にはある。それは閃輝暗点という脳の血流に関係する症状で、一般的には光輪やギザギザした光り輝く歯車のようなものが視野にあらわれるという。したがってここに描かれているガラス器を歪め覆う靄のような光は現実には存在しない。しかしそれは画家が体験したビジョンに他ならない。
諏訪敦(すわあつし)画家
1967年北海道生まれ。
1994年に文化庁派遣芸術家在外研修員としてスペイン・マドリードに滞在。帰国後、舞踏家の大野一雄・慶人親子を描いたシリーズ作品を制作。制作にあたり、緻密なリサーチを行った上で対象を描くスタイルで、祖父母一家の満州引き揚げの足跡を辿った《棄民》シリーズなどを展開している。成山画廊、Kwai Fung Hin Art Gallery(香港)など、内外で発表を続けている。
2011年NHK『日曜美術館 記憶に辿り着く絵画〜亡き人を描く画家〜』で単独特集、2016年NHKETV特集『忘れられた人々の肖像〜画家・諏訪敦“満州難民”を描く〜』が放送された。2018年 武蔵野美術大学造形学部油絵学科教授に就任。画集に『どうせなにもみえない』『Blue』など。
(2020年11月16日大野一雄舞踏研究所にて川口隆夫を描く諏訪敦 撮影:野村佐紀子)
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諏訪敦「眼窩裏の火事」、府中市美術館、12月17日(土)〜2月26日(日)

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