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中国美術

2023年1月22日 (日)

不変/普遍の造形—中国青銅器名品選・・・饕餮文、鴟鴞文、殷周の謎の文様

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第310回
殷周時代の青銅器には、謎の器、謎の楽器、謎の文様が刻まれている。紀元前1600年~256年、殷周時代、行われた儀式何か。殷は、神権国家で、王は上帝(天)に仕える宗教的最高権威者として、卜占をもって天意を窺った。孔子は周公旦を理想とした「吾復夢に周公を見ず」(述而篇7-5)。
【夏】司馬遷『史記』によれば、三皇五帝に次いで出現し、殷(商)王朝に先立つ王朝。その始祖の禹は、黄河の治水に功績があり、先帝の舜から天子の位を譲られた。最後の天子の桀は暴君であったため人心が離れ、湯王に倒され殷王朝に交代した。
【殷】(前16世紀~前11世紀)「史記」殷本紀によれば、成湯王が夏の悪政で名高い桀王を滅ぼして創始し、前1050年第30代の紂王のとき周の武王によって滅ぼされた。神権国家で、王は上帝(天)に仕える宗教的最高権威者として、卜占をもって天意を窺った。
【周】 (前1050頃~256) 。伝説上の祖を后稷という。もともと陝西または山西の奥にいた部族、古公亶父 (ここうたんぽ) のとき,犬戎 (けんじゅう) の圧迫で渭水盆地に臨む岐山の麓に移り、子の季歴から西伯昌 (文王) 、武王の3代で体制を整備。
武王が殷を滅ぼし前 11世紀に建国した。都は鎬京。2代成王が東都洛邑 (河南省洛陽付近) を建設。3代康王にかけ天下は安定。10代 厲王 (れいおう) の失政により、一時王統が絶え、11代宣王が中興した。
【褒姒の一笑国を傾く】 12代幽王は褒姒 (ほうじ) への愛に溺れて暴政を行い戎狄の侵入を受け殺され、13代平王が洛邑に遷都した (前 770) 。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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遷都以前を西周 (前 1050~770) 、以後を東周 (前 770~256) と呼ぶ。東周期は春秋・戦国時代で、王の実権はなくなり、37代赧王 (たんおう) のとき、秦の昭王に滅ぼされた (前 256)。
【「周の粟は食まず」】前1024殷から周への王朝交替の時「周の粟(ぞく)は食まず」(不食周粟)という故事成句が生まれた。武王が殷の暴君紂王を倒そうとしたとき、武王の家臣の伯夷と叔斉は武王の行く手をさえぎり「父君が亡くなられ、葬儀もすまさずに戦争をすることは孝行の道にはずれます。臣下の身で主君(紂王)を征伐するのは仁義にもとります」と制止した。しかし武王はその制止を振り切り、軍勢を動かして紂王を討って殷を滅ぼし、周王朝を建てた。すると伯夷・叔斉の二人は「周の粟は食まず」との言葉を残し、首陽山に引きこもり、薇(わらび)を採って飢えを凌いだが、ついに餓死してしまった。周の粟を食まずとは、周の臣下となって俸禄を受けることを拒否する、という意味。つまり二人は、孝行と仁義の道にはずれた周の武王には仕えない、と筋を通したのだった。この話は司馬遷の『史記』列伝の最初に取り上げられて有名になった。「不食周粟」は、日本では旧幕臣が明治政府に出仕するのを拒んだときなどにも使われたが、もとの意味は「道に反する主君には仕えない」ということであり、2018年の日本でいえば、財務相や文科省の役人に不食周粟の気概のある人はいないのか?というのが正しい使い方となる。<井波律子『故事成句でたどる楽しい中国史』2004 岩波ジュニア新書 p.17-18
【周、封建制度】有力者に諸侯として領土をあたえて「封」じ、国を「建」てること、つまり封侯建国を略して封建制。周代は邑制(邑土)国家の時代。王室の直接支配地(王畿(おうき))は「郷遂制度」を中心にして、郊外の地には卿大夫(けいたいふ)の采邑や公邑が設置されていた。封建諸侯(貴族)は周王室を大宗(本家)として、それぞれの封地に城市(邑)を営み、これを国と称した。諸侯はこの国都を中心にして、周囲の諸邑を支配し、これを鄙邑(ひゆう)とした。国には宗廟(そうびょう)、社稷(しゃしょく)を奉ずる貴族(公、卿大夫)のほか士、農、工、商の民が住し、彼らは国人とよばれ、軍事、政治の面でも活躍した。これに対し鄙邑の民は野人とよばれ、貴族の采邑とされ、国都へのさまざまな義務を課せられた。[宇都木章]
【「吾復夢に周公を見ず」】「子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたることや。久しいかな、吾復夢に周公を見ず」(述而篇7-5)孔子は周公旦を理想とした。【周公旦】周の文王の第4子、武王の弟。武王が殷を滅ぼしてのち、魯に封じられたが、封地におもむかず首都鎬京にとどまって武王を助け、次の成王即位後は摂政として国事にあたった。三監の乱を鎮定してより封建制度を確立し、特に東方経営に力を注ぎ、新しく洛邑に東都成周を建設した。
『史記』によれば周王の第10代厲王は、外征と祭祀を盛んにするため国民に重税を課し、暴虐な行為が多かった。国民が蜂起して厲王を追放、その後は王を置かず召公と周公という二人の大臣が政務を執り、共に和して政治を執ったので「共和政」といわれ、前841年に始まり14年にわたって続いた。これが世襲王政ではない共和政の政体の最初だとされている。佐藤信也『周―理想化された古代王朝』2016中公新書p.115-120
宮本一夫『中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝』 (講談社学術文庫) 2020 p.354-358
白川静著『金文の世界――殷周社会史』平凡社・東洋文庫
岡村秀典『夏王朝 中国文明の原像』2003初版 講談社学術文庫版 2007年p.266-273
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展示作品の一部
虎卣(こゆう)殷後期(前11世紀)泉屋博古館蔵
饕餮文方罍(とうてつもんほうらい)殷後期(前12-11世紀)泉屋博古館蔵 以下全て
饕餮文平底爵(とうてつもんへいていしゃく)殷前期(前14世紀)泉屋
螭文方炉(ちもんほうろ)春秋前期(前8-7世紀)泉屋
金銀錯獣形尊(きんぎんさくじゅうけいそん)北宋 (10-12世紀)泉屋
鴟鴞尊(しきょうそん)殷後期(前13-12世紀)泉屋
夔神鼓(きじんこ)殷後期(前12世紀)泉屋
見卣(けんゆう)西周前期(前10世紀)泉屋
虎鴞兕觥(こきょうじこう)殷後期(前13-12世紀)泉屋
方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)前漢末(前1世紀)泉屋
戈卣(かゆう)殷後期(前12世紀)泉屋
犠首方尊(ぎしゅほうそん)殷後期(前12-11世紀)泉屋
鼎父己尊(ていふきそん)殷後期(前11世紀)泉屋
円渦文敦(えんかもんたい)戦国前期(前5世紀)泉屋
画文帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)重要文化財、後漢末~三国(3世紀)泉屋
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参考文献
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨
天皇
不変/普遍の造形—中国青銅器名品選・・・饕餮文、鴟鴞文、殷周の謎の文様
https://bit.ly/3HmqojF
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第1章 神々の宴へようこそ
今から約3,000年前、日本では長かった縄文時代も終わりにさしかかった頃、中国大陸では殷や周といった古代王朝が栄え、世界史上にもまれなほどの高度な青銅器文化が発達しました。中国の青銅器文化の最大の特徴は、神々に捧げるまつりのための器が発達した点にあります。なかでも、もっとも重視されていた祖先神をもてなす各種の器をつくるために、当時貴重であった青銅が惜しげもなく使われました。本章では、こうした性格をもつ中国青銅器のさまざまな種類を、その用途に着目してご紹介します。なかには日常生活ではまず使われることのない難読漢字も出てきますが、そうした名前がなぜつけられたのか、どういう意味があるのか、という点も詳しく解説していきます。
第2章 謎多き文様の世界
中国青銅器の最大の特徴のひとつは、器の表面を埋め尽くすようにあらわされた文様やモチーフの数々でしょう。器の機能という観点からは説明しがたい繊細複雑な造形には、中国古代の人々の思想や信仰があらわれていると考えられます。まつりのための器の表面を飾る文様であれば、さぞかしおめでたい意味合いがあったと考えたくなるところですが、後世に流行する吉祥文様とは異なり、実は中国青銅器の文様は、人間にとって危険であるがゆえに聖性を帯びているという、「二面性」が特徴となっています。しかも、実在の動物をそのままあらわすのではなく、動物のパーツをさまざまに組み合わせて、この世ならざる文様をつくりあげるという、「キメラ」としての性格もはっきりと認められます。本章では、謎多き中国青銅器の文様を、「二面性」と「キメラ」という2つのキーワードで読み解いていき、中国古代の人々の豊かなイマジネーションの世界を探っていきます。
第3章 古代からのメッセージ―金文―
青銅器の造形、文様の数々を一通り堪能した後は、続けて器の内側を見ることもお忘れなく。そこに深々と鋳込まれた文字は金文と呼ばれ、現在の私たちが使用している漢字の直接の祖先にあたる文字です。この金文を通じて、中国古代の人々がどのような思いをこめて青銅器を鋳造していたのかを多少なりとも知ることができます。そこに記されている内容はさまざまで、王から褒美をもらったことや、いくさで手柄を挙げたことなど、記念すべきことがらを後世にまで伝えるべく、そのことを青銅器の表面に鋳込んだのでした。古代からのメッセージを解読すると、器そのものからはなかなかわからない当時の人々の姿がぼんやりと見えてきます。展示会場では釈文・現代語訳もつけて丁寧に解説します。
第4章 中国青銅器鑑賞の歴史
殷周時代に盛んにつくられた祭祀儀礼用の器は、秦漢時代には衰えて、次第に日用品としての性格を強めていきました。しかしながら、宋代に入ると古器物に対する関心が高まり、殷周青銅器のリバイバルが起きるようになります。徽宗皇帝の命で宮中の青銅器コレクションの調査がおこなわれ、その成果をまとめた図録『宣和博古図録』(泉屋博古館の名称の由来)が刊行されるなど、研究も大いに進展しました。こうした背景の下、宋代では殷周青銅器を模した「倣古銅器」が数多くつくられるようになり、それらは交易を通じて中世日本にももたらされ、「唐物」として珍重されるようになります。本章では、中国青銅器の鑑賞の歴史と、それが美術工芸品に与えた影響について詳しく見ていきます。まったくの別世界に思える中国青銅器が、実は日本文化にも深く関係していたことをご紹介し、その存在をより身近に感じていただければと思います。
泉屋博古館東京にて、「泉屋博古館東京リニューアルオープン記念展Ⅳ 不変/普遍の造形 —住友コレクション中国青銅器名品選―」を開催いたします。東京館のリニューアルオープン記念展の掉尾を飾るのは、住友コレクションの象徴、中国青銅器の名品たちです。およそ3000年前の古代から受け継がれ、東アジアの美術工芸の源となった中国青銅器。造形や文様、銘文、鑑賞の歴史など、さまざまな角度からその魅力を余すことなくご紹介すべく、住友コレクションの選りすぐりの名品を一堂に会する特別な機会となっています。
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「不変/普遍の造形 —住友コレクション中国青銅器名品選―」泉屋博古館東京、1月14日(土)〜2023年2月26日(日)

2022年11月24日 (木)

「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』297回
【秦の謎、兵馬俑の謎】なぜ550年続いた春秋戦国の群雄割拠の世を、秦の嬴政が統一できたのか。始皇帝となりえたのか。なぜ始皇帝陵の等身大の兵馬俑を作ったのか。なぜ西方の秦が、東の関を守り抜き、東方の六国に勝利しえたのか。戦国時代、西の果ての秦は弱小国で、馬の飼育に長け、西方文化と接触した。
【アレクサンドロス大王、帝国の謎、前334年から前323年】マケドニアの騎馬隊と重装歩兵長槍密集隊を思い出す。
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【秦、始皇帝】嬴政・・・権力の頂点に立つ者の猜疑と残虐
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。父が、敵国趙の人質であったため、趙で苦労した。13歳で秦王となって、わずか9年にして、統一をなし遂げる。22歳で始皇帝となり、51歳で死にまで君臨した。秦は十数後滅亡。紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破って再び中国を統一。
死後なお地下帝国に君臨しようとした秦始皇帝の凄絶な欲望。権力に憑かれた人間の妄執。几帳面で、細部を一一記憶し、偏執狂的な性格。末梢にこだわる。一度の誤りも許さず、何年も記憶する。
権力の頂点に立つ皇帝の猜疑心と暴虐と妄執。周到な猜疑の目、苛烈、残忍な暴君。権力に盲従する取りまき、扈従の群れ。この世の悪霊。悪霊は、天によって滅ぼされる。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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【始皇帝、嬴政、政治と文化】
嬴政(えいせい)に仕えた兵法家尉繚によると、「目は切れ長で、鼻は非常に高く、鳩胸。」「声は山犬のよう」「他人を食い物とし、必要とあらばどんな人間にもへりくだる。」「王が中華統一をすれば、みな奴隷となる。」将軍、王翦は「大王は粗暴で、誰も信用しない。」「一度疑ったら死ぬまで疑い続ける」。
戦国の七勇のなかで、わずか9年にして、統一をなし遂げる。情報収集力にたけ、敵国に何人も間者を送った。中国史上最強の暴君として名を留める。
【暴君】「敵を殲滅する力と、維持をする力は別である。」「万里の長城建設など、人々の苦しみを理解しない。」
【法治主義 韓非子】秦の将軍蒙恬(もうてん)が匈奴を討伐した宴の席。(紀元前215年~214年)「古い王朝の在り方を見習うべき」という意見があった。嬴政は、丞相の李斯に相談する。「時代に合わせて変化しない法など、無意味である。」嬴政は、「韓非子」に基づいて判断した。
【焚書坑儒】「学者は古い書物を持ち出し、喚きあうだけ。」「現実を見ようとせず、机上の空論を正しいものとし邪魔をする。」紀元前213年。丞相の李斯は「国庫にある古い本以外、全て捨てるべき。」と進言。嬴政もこれに同意し、許可する。
【坑儒】学者廬生は「処刑を楽しんでばかりで中華は震え上がり、うわべの忠誠を尽くす。」「天下を我が物とする独裁者なり」と進言した。
嬴政は、460人近い学者を集め、質問攻めにする。しかしどの学派の学者に聞いても、誰かの悪口を言うのみで、正しい情報が得られない。その場の全員を捕え、紀元前212年、捕えた全員を生き埋めにする。
【戦国時代の学術、諸子百家】春秋末期から戦国中期、諸子百家があらわれた。古今の人を、上上聖人、上中仁人、上下智人、中上、中中、中下、下上、下中、下下愚人。九種類に分類する。(王充『論衡』)道家は上人以上を語り、法家は中人以下を管理する。諸子百家は、共存しうる。
【兵馬俑の謎】なぜ始皇帝は等身大の兵馬俑を作ったのか。殉葬を避けるため、兵馬俑を作った。空前絶後の等身大の兵馬俑。孔子は、俑について「人間の魂を吹き込んだような俑を作ったから殉葬の風習が生まれた」と批判した。
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【アレクサンドロス大王、東方遠征の謎、前334年から前323年】マケドニア王フィリッポス2世は、テーバイに人質となり、重装歩兵密集隊戦術を学んだ。祖国に帰り権力を統一し、騎馬隊の組織化、重装歩兵、長槍密集隊などの戦法を採用、ペロポネソス戦争後のギリシアの混乱に乗じてギリシア本土に侵攻した。哲学を学んだ。前338年、カイロネイアの戦いでアテネ、テーベなどのポリス連合軍を破り、ギリシア本土の都市国家を屈服。【フィリッポス2世暗殺事件】前336年春、フィリッポスは娘クレオパトラ(アレクサンドロスの妹)と隣国モロッソイの王子との結婚式。初夏の古都アイガイで、護衛官パウサニアスが王を刺殺。フィリッポス2世、46歳。暗殺事件の背後にフィリッポス2世の妻オリュンピアスとその子アレクサンドロスがいた。20歳でアレクサンドロス3世、マケドニア王即位。前334年から前323年まで、アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシア帝国からインドに及ぶ帝国建設。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
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展示作品の一部
鹿紋瓦当、戦国秦
青銅長剣、兵馬俑1号抗から出土、秦始皇帝陵博物院
鎏金青銅馬、前漢、前3世紀、漢の武帝、1981年、陝西省興平県出土、陝西省茂陵博物館蔵
里耶秦簡、秦、前3世紀、里耶博物館
金印「王精」、前漢、前3世紀、里耶博物館、秦始皇帝陵博物院
戦車馬、 統一秦 秦始皇帝陵博物院蔵 一級文物
2号銅車馬[複製]、原品=秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
 始皇帝の陵墓の西、銅車馬坑から見つかった2両のうちの1両。こちらの2号は、御者が立ち姿で操縦する1号の立車に対し、御者が正座で操縦しており、安車と呼ばれる。始皇帝が乗った馬車。実物を2分の1サイズで復元《2号銅車馬》(複製品)、6000件の部品がつなぎ合わされ復元。御者の手綱や部品が精巧に再現されている。
高さ106・2センチ、長さ317センチ、幅176センチの青銅製の銅車馬が作られたのは、始皇帝が生前に巡行した威容を残しておくため。4頭だての牽引(けんいん)力は、中2頭と外2頭で異なる。中2頭の首には軛が覆い被さり、横木で連結されている。その横木と車体中央から伸びた轅(ながえ)が十文字に結ばれ、車体を牽引する。両脇の2頭にも牽引用の綱はあるが、補助的な役割。
1号銅車馬(写真左)、2号銅車馬(写真右) [複製]、原品=秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
戦服将軍俑、高さ196cm秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
立射俑、高さ178cm、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵2号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
軍吏
俑、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
跪射俑、秦時代・前3世紀、西安市臨潼区秦始皇帝陵2号兵馬俑坑出土、秦始皇帝陵博物院蔵
跪座俑、 統一秦 高さ64cm 秦時代・前3世紀、秦始皇帝陵博物院蔵 一級文物
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★参考文献
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社2004
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書2015
平勢隆郎『都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国』講談社2005
吉川忠夫『秦の始皇帝』講談社学術文庫
「始皇帝と大兵馬俑」・・・皇帝の猜疑心と残虐
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」2022
始皇帝を守る最強地下軍隊「兵馬俑」に会いに行こう-AraChina中国旅行:
「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」・・・秦始皇帝の謎
https://bit.ly/3EBrm8O
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★展覧会概要
古代中国の知られざる秘密が明かされる
紀元前770年、周王朝は洛陽に遷都したが、次第にその権威は失われ、各地で有力な諸侯が独立していく時代に入った。約550年続いたこの群雄割拠の世が、後に言う春秋戦国時代である。
紀元前221年、秦の始皇帝がついにこの戦乱を終結させ、史上初めて中国大陸に強大な統一王朝を打ち立てた。わずか十数年のうちに秦は滅亡した、始皇帝の墓に眠る兵馬俑、万里の長城の遺物は、当時の絶大な国力を現代に伝える。
紀元前202年、漢の劉邦が西楚の項羽を破って再び中国を統一する。秦の国家制度を引き継いだ漢王朝は、古代中国における一つの黄金時代。この二国の治世は、中国の基礎を確立した時代。
本展では、秦漢両王朝の中心地域であった陝西省の出土品を中心に、日本初公開となる貴重な文物を多数展覧。それらが語る歴史を紐解いていく。戦国時代の極小の騎馬俑が、なぜ始皇帝陵の等身大の兵馬俑となり、漢代では再び小さくなったのか?なぜ西方の秦が、東の関を守り抜き、東方の六国に勝利しえたのか?日中国交正常化から50周年を数える2022年、古代中国の知られざる秘密が明かされる。
秦の始皇帝
趙の都邯鄲で生まれた秦王嬴政。約550年続いた群雄割拠の春秋戦国時代を終結させ、紀元前221年に史上初めて中国大陸に統一王朝を打ち立てた。1974年、秦始皇帝陵付近で、偶然、地中に埋まった素焼きの像が発見され、地下5メートルの巨大な地下空間に、おびただしい数の兵士や馬の素焼きの像が埋まっていることが発見された。
兵馬俑とは
兵士や馬をかたどった像で、陵墓に収められた。始皇帝陵に埋蔵が推定される約8,000体は、顔、体、服装のひとつひとつが異なる。
みどころ
過去最大級のスケール。兵馬俑36体が来日決定!
1974年、西安郊外の秦始皇帝陵墓付近で歴史的な発見がありました。そこには、一体一体違う顔をした等身大の人間の像が、おびただしく埋められていたのです。本展では、この世界的に有名な始皇帝の遺物をはじめ、戦国、漢時代を含めた総計36体の兵馬俑が一堂に会します。日中国交正常化50周年だからこそ実現した、破格のスケールの展示をお楽しみください。
ここに注目! 兵士や馬の俑、その数およそ8000体の埋蔵が推定される始皇帝陵の兵馬俑坑。中でも、かつて11体しか確認されていない希少な将軍俑から、日本初公開となる1体を展示。
日本初公開&国宝級を多数含む、約200点の文物が集結!
現在に至る中国の礎を確立した、秦・漢両王朝の中心地域・関中(現在の陝西省)。今回は中国の陝西省文物局の全面的な協力のもと、同地の出土品を中心とする約200点 ( 兵馬俑36体含む ) を展覧します。中国国家一級文物(国宝級を指す中国国内の区分)から、最新の発掘調査による出土品まで、日本初公開を多数含む貴重な文物をお見逃しなく。
ここに注目! 古代の青銅器から、選り抜きの名品が揃う。さらに、漢の武帝が作らせたと伝わる秘宝・鎏金青銅馬も36年ぶりに本邦で公開。
1,000年に渡る、歴史のドラマを追体験!
紀元前770年の周王朝の遷都から、220年の漢王朝の崩壊まで、およそ1,000年に渡る時代の歴史資料を紹介。群雄割拠の春秋戦国時代、わずか十数年の間に絶大な国力を示した秦時代、そして古代中国の黄金時代の1つを築いた漢時代。
ここに注目! 戦国時代に生まれた小さな副葬品は、始皇帝の意によって等身大の人の姿になった。古城の古井戸から発見された木簡には、何が記されているのか。
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★「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」上野の森美術館、2022年11月22日(火)〜2023年2月5日(日)

2019年7月14日 (日)

「三国志」東京国立博物館・・・曹操、劉備、孫権。虚構の英雄たち

Sangokushi2019
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』186回
初夏の森、緑陰の道を歩いて、博物館に行く。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。関羽、張飛、周瑜、諸葛孔明、すべて滅び、司馬炎が建てた西晋に征服される。桃園の誓い、赤壁の戦い、名場面の真実は何か。
虚構の英雄たち、『三国志演義』と『正史三国志』の挟間。赤壁の戦いの敗因は「火攻め」ではなく「病気の蔓延」である。「疫病が流行して、官吏士卒の多数が死亡したため撤退した」陳寿『正史三国志』。
【三国時代】三国時代は、220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪った時から、280年、司馬炎が建てた西晋王朝が呉を滅ぼし天下統一するまでである。
魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権。魏に対して、蜀と呉は、対立し互いに殲滅し合う。
263年、魏、蜀を滅ぼす。280年、晋、呉を滅ぼす。「晋、呉を平らげ、天下太平」。
――
『三国志演義』
【黄巾の乱】「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」。184年、太平道の教祖張角を指導者とする信者が各地で起こした反乱。【宦官派と反宦官派、清流派知識人の戦い】曹操は、清流派知識人に乱世向きの人材と注目される。「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価される。
【桃園の誓い】桃の花が咲き乱れる庭園で、劉備、関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを交わした。生まれた月日は違えど、死ぬ時は同年同月同日を願わん。
【赤壁の戦い】208年、2万の孫権軍は、80万の曹操軍と、赤壁において揚子江を挟んで対峙する。周瑜は火攻めを画策し、老将黄蓋とともに苦肉の計で敵を欺き、連環の計で曹操軍の船団を鎖でつなぎ合わさせる。最後に、諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷し、冬の最中に東南の風を吹かせ、投降を装って近づいた黄蓋の一団が一斉に火を放つ。逃げ場のない曹操軍は炎に包まれ、孫権軍の大勝利である。
【天下三分の計】たまたま劉表を頼って荆州に来た劉備は、その評判を聞くと、207年(建安12)に孔明の庵を訪れ、3度目にやっと会見できた。【三顧の礼】にこたえた孔明は、劉備のために〈天下三分の計〉を説き、華北を制圧した曹操に対抗して漢室を復興するためには、江南に割拠する孫権と連合、みずから荆州と益州(四川省)を確保して独立すべきことを勧めた。劉備はこの計略を喜び、孔明を不可欠な人物としてその関係を【水魚の交わり】に喩えた。
――
【三国戦史】184年、黄巾の乱。200年、官途の戦い。208年、赤壁の戦い。219年、定軍山の戦い。樊城の戦い。222年、夷陵の戦い。228年、石亭の戦い。234年、五丈原の戦い。諸葛亮、死亡。
『三国志演義』の内容は、三国時代以前から始まる。
1・黄巾の乱 2・桃園の誓い 3・董卓の専横 4・連合軍を結成
5・曹操の台頭 6・官途の戦い 7・孫策の死 8・三顧の礼
9・赤壁の戦い 10・天下三分の計 11・定軍山の戦い 12・関羽の死
13・曹操の死 14・夷陵の戦い 15・諸葛亮の「第一次北伐」 16・孫権の帝位
17・諸葛亮の死 18・蜀の滅亡 19・魏、滅亡。晋へ 魏の晋王・司馬炎(司馬昭の長子)が第5代皇帝・曹奐から帝位を簒奪し晋を建国。 20・三国統一 呉の第4代皇帝・孫皓が晋に降伏。呉、滅びる
――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護精霊があなたを救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
関羽像、明時代、15~16世紀
蝉文冠飾、西晋時代、3世紀
「晋平呉天下太平」碑
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参考文献
井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書
井波律子『故事成句でたどる中国史』岩波新書
『旅する哲学者 美への旅』より
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84   
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第1章 曹操・劉備・孫権
魏の基盤をつくった曹操は、父祖伝来の勢力基盤を引き継ぎつつ漢王朝の中枢で実権を握り、動乱の時代に覇をとなえた。蜀の劉備は漢皇室の血統を自認し、漢王朝の復興を掲げた。呉の孫権は海洋ネットワークを駆使して勢力を伸ばす、独自の路線を歩んだ。
第2章 漢王朝の光と影
2世紀末には王朝内部の政争が表面化し、皇帝は求心力を失っていった。黄巾の乱がおこり、漢の都では董卓が横暴のかぎりを尽くすなど、社会全体が混迷を深めていった。
第3章 魏・蜀・呉―三国の鼎立
魏・蜀・呉の鼎立は、後漢時代の末期に形づくられ、境界で争いはとくに熾烈を極めた。220年、曹操が没して息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪うと、蜀の劉備と呉の孫権はこれに反発し、おのおの正統性を主張し相次いで建国を宣言した。
第4章 三国歴訪
魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り、蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原をおさえ、呉は長江中・下流の平野部と沿岸域に割拠した。
第5章 悲惨な貧しい時代。
後漢時代の末期から三国時代になると、支配者たちは墓づくりに対してこれまでとは異なる路線を歩み出した。豪華さを競うのではなく、質素倹約を貴ぶようになった
エピローグ三国の終焉―天下は誰の手に
三国時代。最後に天下をおさめたのは魏でも蜀でもなければ呉でもなかった。280年、武将として力を強めていった司馬氏一族であり、司馬炎が建てた西晋王朝であった。
特別展「三国志」東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1953
――
「特別展「三国志」」東京国立博物館、7月9日(火)~9月16日(月・祝)

2019年1月26日 (土)

顔真卿、王羲之を超えた名筆・・・顔真卿「祭姪文稿」と懐素「自叙帖」

Yan2019大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第171回
冬枯れの森を歩いて博物館に行く。東晋の王羲之は、書の名人。権謀術数の官界を嫌い会稽県に赴任、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴をひらき、『蘭亭序』を書き、上司王述を避け355年、49歳で官界を引退した。自由の身となり書を書き59歳で死す。*
唐の第二代皇帝・太宗は、博学で文芸に通じ、王羲之の書を愛した。太宗皇帝が愛するあまり墓に埋葬させた書、『蘭亭序』。幻の『蘭亭序』は、今も人の魂を魅惑する。
太宗皇帝に仕えた虞世南、欧陽詢、褚遂良は能書としても活躍した。
顔真卿は、唐の玄宗皇帝の治世になる開元22年(734)、26歳で官吏登用試験に及第し、4人の皇帝に仕えた官僚。顔真卿筆「祭姪文稿」(758)は、安史の乱の際に、従兄、顔杲卿(がんこうけい)とその末子の顔季明を失った凄惨な思いを綴った書。激情あふれる名筆として著名、情感を発露する書風。
懐素筆「自叙帖」の流麗な恍惚とした速筆は、目くるめく美がある。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★参考文献
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
「書聖 王羲之」・・・苦悩と美意識から生みだされた美しき書
https://bit.ly/2kVbzeA
王羲之「蘭亭序」・・・詩人の宴、唐の太宗皇帝が愛するあまりあの世に持ち去った書
https://bit.ly/2Duczkn
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展示作品の一部
虞世南筆「孔子廟堂碑-唐拓孤本」、唐時代・貞観2~4年(628~630)三井記念美術館蔵
欧陽詢筆「九成宮醴泉銘」、唐時代・貞観6年(632)、台東区立書道博物館蔵
褚遂良摸「雁塔聖教序」、唐時代・永徽4年(653)、東京国立博物館蔵
褚遂良摸「黄絹本蘭亭序」 原跡:王羲之筆、唐時代・7世紀、台北 國立故宮博物院寄託
顔真卿筆「祭姪文稿」、唐時代・乾元元年(758) 台北 國立故宮博物院蔵
懐素筆「自叙帖」、唐時代・大暦12年(777) 台北 國立故宮博物院蔵
懐素筆「小草千字文(千金帖)」、唐時代・貞元15年(799)頃、台北 國立故宮博物院寄託
空海筆、国宝「金剛般若経開題残巻」、平安時代・9世紀、京都国立博物館蔵
蘇軾筆「行書李白仙詩巻」、北宋時代・元祐8年(1093)、大阪市立美術館蔵
嵯峨天皇「李嶠百詠断簡」。『李嶠百詠』の一首「霧」「玲瓏素月明」
橘逸成「伊都内親王願文」
最澄「久隔帖」
藤原佐理「詩懐紙」
藤原行成「臨王羲之尺牘」
聖武天皇「賢愚経残巻」
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東晋時代(317–420)と唐時代(618–907)
中国の歴史上、東晋時代(317–420)と唐時代(618–907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(303–361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。そして顔真卿(がんしんけい、709–785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。
本展は、書の普遍的な美しさを法則化した唐時代に焦点をあて、顔真卿の人物や書の本質に迫ります。また、後世や日本に与えた影響にも目を向け、唐時代の書の果たした役割を検証します。
虞世南、欧陽詢、褚遂良
唐王朝の基礎を築いた第二代皇帝・太宗は、博学で文芸に通じ、王羲之の書をこよなく愛した。太宗に仕えた虞世南、欧陽詢、褚遂良は能書としても活躍し、王羲之書法の伝統を受け継ぎながら、楷書の典型を完成させました。
初唐の三大家、虞世南、欧陽詢、褚遂良
虞世南は、王羲之の7世の孫の智永に教えを受けて、王羲之・王献之の正当に根ざした南朝の書法を継承しました。行書にその特色がよく表れ、楷書には温和で落ち着いた用筆の「孔子廟堂碑」があります。
これに対し、欧陽詢は北朝の書に基盤を置き、険しさをたたえた書風をよくしました。なかでも、文字の組み立てがきわめて緻密な「九成宮醴泉銘」は、細部にまで神経の行き届いた傑作で、「楷書の極則」と賞賛されています。この作において、楷書は隷書の束縛から完全に解放され、楷書独自の表現を確立しました。
褚遂良の晩年の作「雁塔聖教序」は、細身の線質に華やかさを盛り込んだ、初唐の楷書を代表するにふさわしい名品です。「雁塔聖教序」がひとたび世に出ると、この書風は一世を風靡し、多くの追随者を輩出することになりました。
――
顔真卿
顔真卿は、山東省の琅邪臨沂(ろうやりんぎ)の人。代々、訓詁と書法を家学とする名家に生まれ、唐の玄宗皇帝の治世になる開元22年(734)、26歳で官吏登用試験に及第し、4人の皇帝に仕えた官僚です。
天宝14年(755)、安史の乱が起こり、顔真卿とその一族は敢然と義兵を挙げ、唐王朝の危機を救いました。建中4年(783)、再び李希烈(りきれつ)によって反乱が企てられると、顔真卿は宰相の盧杞(ろき)の計略と知りながらも敵地に赴き、捕らえられて蔡州(河南省)の龍興寺で殺害されました。時に顔真卿77歳。顔真卿はのち忠臣烈士として尊ばれ、初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれたその書は、後世の多くの人々にきわめて大きな影響を与え続けています。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1925
――
★「顔真卿 王羲之を超えた名筆」東京国立博物館
2019年1月16日(水) ~2月24日(日)

2017年8月15日 (火)

ボストン美術館の至宝展、東京都美術館・・・陳容「九龍図巻」

Boston201707Boston2017kyuuryuu01大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第123回
蝉しぐれの森を歩いて、美術館に行く。
夏の花に舞う蝶を見るとある歌を思い出す。
友よいとしの我友よ、色香ゆかしき白百合の心の花と咲き出でし世に香ぐはしく馨るらむ。(*「色香ゆかしき白百合、『相思樹の譜』、ひめゆり学徒隊」)
雲のなかに舞う龍
南宋の文人画家の陳容「九龍図巻」(1244)は、雲のなかに九匹の龍が舞う。10メートルの水墨画。清の乾隆帝に愛蔵されていた名品。文人画家、陳容は、自然主義を超えて、破墨、発墨の技法を用いて、精神あふれる龍を描いた。闇のなかで、歴史を超えて生き生きと躍動する水墨画の美に瞠目する。
宋画6点、展示されていて圧巻である。 北宋徽宗「五色鸚鵡図巻」、南宋馬遠「柳岸遠山図」、夏珪「風雨舟行図」、大徳寺五百羅漢から周季常1178年頃「観舎利光図」「施財貧者図」、陳容1244年「九龍図巻」。
ボストン美術館は、1870年設立。顧問として招かれた岡倉天心は1905年、東洋美術の蒐集を始める。「ボストン美術館 日本美術の至宝」東京国立博物館2012年、「ボストン美術館 肉筆浮世絵展、江戸の誘惑」江戸東京博物館2006年を思い出す。
―――
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。
黄昏の丘、黄昏の森。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
―――
展示作品の一部
「ツタンカーメン王頭部」Head of King Tutankhamen
エジプト、新王国時代、第18王朝、ツタンカーメン王治世時
紀元前1336-1327年
高さ30.5cm×幅26.7cm×奥行22.2cm 砂岩
「メンカウラー王頭部」 Head of King Menkaura (Mycerinus)エジプト、古王国時代、第4王朝、メンカウラー王治世時、 紀元前2490-2472年  高さ29.2cm×幅19.6cm×奥行21.9cmトラバーチン(エジプト・アラバスター)
Harvard University - Boston Museum of Fine Arts Expedition, 09.203
陳容 「九龍図巻」(部分)Chen Rong Nine Dragons南宋、1244年(淳祐4年)
46.2cm×958.4cm 一巻、紙本墨画淡彩
徽宗「五色鸚鵡図巻」Emperor Huizong Five-colored parakeet on a blossoming apricot tree 北宋、12世紀初期 53.3cm×125.1cm 一巻、絹本着色
曾我蕭白 「風仙図屏風」Soga Shôhaku,Transcendent Attacking a Whirlwind江戸時代、1764年(宝暦14年/明和元年)頃 155.8cm×364cm 六曲一隻、紙本墨画
英一蝶「涅槃図」江戸時代、1713(正徳3)年
喜多川歌麿「三味線を弾く美人図」1804-06(文化1-3)年頃
Fenollosa-Weld Collection, 11.4642
フィンセント・ファン・ゴッホ「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」1888年
Gift of Robert Treat Paine, 2nd, 35.1982
フィンセント・ファン・ゴッホ「子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人」1889年
クロード・モネ 「ルーアン大聖堂、正面」Claude Monet
Rouen Cathedral, Façade 1894年
フィッツ・ヘンリー・レーン「ニューヨーク港」 Fitz Henry Lane, New York Harbor1855年頃
―――
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館、2012年3/20~6/10
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1416
ボストン美術館 肉筆浮世絵展、江戸の誘惑、江戸東京博物館
2006年10月21日(土)〜12月10日(日)
―――
★ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション、東京都美術館
2017年7月20日(木)~10月9日(月・祝)
http://www.tobikan.jp/exhibition/2017_boston.html

2015年11月25日 (水)

「始皇帝と大兵馬俑」・・・皇帝の猜疑心と残虐

20151027紅葉の森を歩いて、博物館に行く。博物館は、夢と冒険の宝庫。見果てぬ夢の果ての幻の地。
現代でも権力の頂点に立つ悪霊がいる。皇帝の猜疑心と残虐。恨みの血は、千年地中に埋もれて、土の中で宝玉となる。皇帝の悪霊は、天によって滅ぼされる。恨血千年土中碧。天誅下るべし。苦難を超えて、美と真実は蘇る。
博物館のソファで微睡んでいると岸田劉生の蒐集家に出会う。「岸田劉生の絵画40点、所蔵している。幻の麗子像がある。劉生は、写実で麗子を描いたのではなくわが子への強烈な思いが籠もっていた。初期伊万里200点所蔵。軍艦島端島に写真撮影に行ったが異民族の怨念の籠る島なので行かないほうがいい」と蒐集家は語る。
美への旅、大久保正雄『旅する哲学者』『哲学の迷宮』より
――――――――――
【秦、始皇帝】嬴政・・・権力の頂点に立つ者の猜疑と残虐
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。父が、敵国趙の人質であったため、趙で苦労した。13歳で秦王となって、わずか9年にして、統一をなし遂げる。
死後なお地下帝国に君臨しようとした秦始皇帝の凄絶な欲望。権力に憑かれた人間の妄執。几帳面で、細部を一一記憶し、偏執狂的な性格。末梢にこだわる。一度の誤りも許さず、何年も記憶する。
権力の頂点に立つ皇帝の猜疑心と暴虐と妄執。周到な猜疑の目、苛烈、残忍な暴君。権力に盲従する取りまき、扈従の群れ。この世の悪霊。悪霊は、天によって滅ぼされる。
大久保正雄『旅する哲学者』より
――――――――――
【戦国七勇】秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓
春秋時代は晋と楚の二大強国の時代、 戦国初期はその流れを受け、三晋(魏・趙・韓)と楚が強国でそれに次ぐ斉。群雄割拠する実力と騙し討ちと下剋上の時代。
【戦国時代の学術】春秋末期から戦国中期、諸子百家があらわれた。古今の人を、上上聖人、上中仁人、上下智人、中上、中中、中下、下上、下中、下下愚人。九種類に分類する。(王充『論衡』)道家は上人以上を語り、法家は中人以下を管理する。諸子百家は、共存しうる。
【嬴政】
嬴政(えいせい)に仕えた兵法家尉繚によると、「目は切れ長で、鼻は非常に高く、鳩胸。」「声は山犬のよう」「他人を食い物とし、必要とあらばどんな人間にもへりくだる。」「王が中華統一をすれば、みな奴隷となる。」将軍、王翦は「大王は粗暴で、誰も信用しない。」「一度疑ったら死ぬまで疑い続ける」。
戦国の七勇のなかで、わずか9年にして、統一をなし遂げる。情報収集力にたけ、敵国に何人も間者を送った。中国史上最強の暴君として名を留める。
【暴君】「敵を殲滅する力と、維持をする力は別である。」「万里の長城建設など、人々の苦しみを理解しない。」
【法治主義 韓非子】秦の将軍蒙恬(もうてん)が匈奴を討伐した宴の席。(紀元前215年~214年)「古い王朝の在り方を見習うべき」という意見があった。嬴政は、丞相の李斯に相談する。「時代に合わせて変化しない法など、無意味である。」嬴政は、「韓非子」に基づいて判断した。
【焚書坑儒】「学者は古い書物を持ち出し、喚きあうだけ。」「現実を見ようとせず、机上の空論を正しいものとし邪魔をする。」紀元前213年。丞相の李斯は「国庫にある古い本以外、全て捨てるべき。」と進言。嬴政もこれに同意し、許可する。
【坑儒】学者廬生は「処刑を楽しんでばかりで中華は震え上がり、うわべの忠誠を尽くす。」「天下を我が物とする独裁者なり」と進言した。
嬴政は、460人近い学者を集め、質問攻めにする。しかしどの学派の学者に聞いても、誰かの悪口を言うのみで、正しい情報が得られない。その場の全員を捕え、紀元前212年、捕えた全員を生き埋めにする。
★参考文献
鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社2004
鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書2015
平勢隆郎『都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国』講談社2005
吉川忠夫『秦の始皇帝』講談社学術文庫
――――――――――
★「始皇帝と大兵馬俑」東京国立博物館
2015年10月27日(火) ~ 2016年2月21日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1732
★「アート オブ ブルガリ 130年にわたるイタリアの美の至宝」東京国立博物館表慶館
2015 年9 月8 日(火)-11 月29 日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1733

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