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日本美術史

2025年4月12日 (土)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第395回
11歳で就任した3代将軍・足利義満は、相国寺を創建、夢窓派の祖・夢窓疎石、高弟の春屋妙葩を迎える。鹿苑寺金閣を開き、北山文化を生み、孫の足利義政は、慈照寺銀閣を作り、東山文化、東山御物を残した。
夢窓疎石、春屋妙葩、絶海中津、大典顕常(1719年-1801年)は、雪舟、若冲、如拙と周文、円山応挙に影響を与える。
――
臨済宗、禅宗は、中国仏教であり、老荘思想であり、ニヒリズムであり、無の宗教である。無、無為自然、無用の用、玄徳、道(万物の根源)は無、混沌、大道廃れて仁義あり、『老子』。万物斉同、逍遥遊、邯鄲の夢『荘子』。
「大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章」。★
【明代初期の花鳥画家、文正『鳴鶴図』1376年】6世、絶海中津、中国から帰朝する時に、招来した。この絵画を雪舟、伊藤若冲、狩野探幽が学んだ。
【狩野永徳『洛中洛外図屏風』】足利義輝が発注、1566永徳が制作、1574織田信長が上杉謙信に贈呈。どこから見た洛中洛外図か。
【相国寺七重塔。1339年三代将軍・足利義満が建立(11歳で将軍就任)】1470年、猿物により炎上(『相国寺七重塔炎上之事』応仁記)。
【伊藤若冲「乗興舟」】1767年頃、若冲が交流の深い相国寺の禅僧、梅荘顕常(大典)と淀川下りをした感興を表した。季節は春、京都・伏見から大坂・天満橋まで6時間ほどの船旅を、幅約29センチ、長さ約11.5メートル。漆黒の空に白い松並木や遠くの家並み、淡い灰色の川
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、足利義満の時代、相国寺創建 夢窓疎石 春屋妙葩
【足利義満】[1358~1408]室町幕府第3代将軍。在職1369~1395。義詮(よしあきら)の子。南北朝合一を果たし、明と勘合貿易を開いて室町幕府の最盛期を現出した。能楽の保護、金閣の建立などこの時代の文化を北山文化とよぶ。北山殿義満。
第一章 開山の祖、夢窓疎石、相国寺に関わる高僧の墨蹟。
相国寺は、11歳で将軍職についた室町幕府三代将軍・足利義満が永徳 2 年(1382)に発願し、開山・創建された禅宗の古刹。夢窓派の祖・夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山に迎え、高弟の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を実質的な創建開山とした。京都の地、御所の北側の広い敷地に伽藍を構える大寺で、金閣寺、銀閣寺の通称で名高い鹿苑寺、慈照寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山。
相国寺は美術の発展にも尽力。640年以上の歴史の中で数々の芸術家を育て上げ、名作の誕生を導いてきた。1984年には相国寺をはじめ、鹿苑寺、慈照寺などに伝わる文化財の保存修理、展示公開、禅文化の普及を目的に相国寺承天閣美術館を創設。現在、国宝5点、重要文化財145点を含む優れた作品を収蔵する。寺に伝わる什物(じゅうもつ=代々伝わってきた宝)は美的価値だけでなく歴史的価値も高いものが揃っている。明から伝来した名品を見ることができる。相国寺は創建当初から中国との文化的交流の中心地であった。
展示作品
《鳳凰》室町時代 15世紀 鹿苑寺 応永五年(1398)の創建当初から金閣の頂上にあった。
重要文化財《鳴鶴図》 文正筆 中国・元-明時代 14-15世紀 相国寺 絵の前から立ち去り難い端正さを持つ。

2、雪舟の時代 室町幕府の御用絵師・如拙と周文を師とする
第二章「中世相国寺文化圏 ―雪舟がみた風景」雪舟が目にした文化的風景を偲ぶ
開山から間もない15世紀の相国寺には、相国寺文化圏と称するべき美の営みがあった。室町幕府の御用絵師であった相国寺の画僧・如拙と周文は室町水墨画の様式を確立、さらに二人を師と仰いだと書き残している雪舟は、若き日を相国寺にて過ごした。室町水墨画の巨匠・雪舟が目にしたと想像される文化的風景が展開される。
展示作品
重要文化財 雪舟《毘沙門天》 室町時代 15世紀 相国寺蔵
林良筆《鳳凰石竹図》明、16世紀、雪舟から若冲にまで影響を与えた。重要文化財
周文筆《十牛図巻》より 右から「尋牛」「見跡」「見牛」 伝 周文筆 室町時代 15世紀 相国寺
相国寺の画僧・周文が描いた《十牛図巻》では、禅や悟りを人と牛との関係にたとえ、十の過程で示した。牛の姿は「真の自己」を表し、真の自己を求める自己は牧人として描かれている。
《花鳥図》伝呂紀筆 :《花鳥図》兪増筆 いずれも中国・明時代 16世紀 相国寺
雪舟は相国寺を出たのち、明に渡って約3年を過ごし、その間、多くの中国絵画を目にした。室町時代には数々の明代絵画が相国寺にもたらされ、日本の絵師に影響を与えた。

3、92世住持・西笑承兌
第三章「『隔蓂記』の時代 ―復興の世の文化」
室町時代に文化的興隆を見せた相国寺、1467年に応仁の乱が勃発し、続いて戦国の世になると荒廃した。戦国時代以降の相国寺を復興したのは 92世住持・西笑承兌(せいしょうじょうたい)。天下人秀吉、家康のブレーンとなり外交僧として活躍、相国寺中興の祖となった。続いて1600年代、復興の相国寺に登場するのが鳳林承章(ほうりんじょうしょう)。西笑承兌の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を伝えられた弟子)で鹿苑寺の住持を務め、75歳で亡くなるまで34年間にわたって日記『隔蓂記(かくめいき)』を書き残した。鳳林承章をめぐる風雅の時と場を再現する。
狩野派とのかかわり
『隔蓂記』の時代は江戸時代前期と重なり当時、文化の中心にいたのが文芸復興に尽くしたことで知られる後水尾(ごみずのお)天皇である。鳳林承章とは親戚関係にあり、相国寺には後水尾天皇からの寄進による作品が残されている。当時もっとも勢いのあった狩野派の作品も含まれている。京都に滞在していた探幽に鳳林自身が画絹を持参し、制作を依頼したと『隔蓂記』に記されている。
展示作品
西笑承兌墨蹟「檀忌香偈(だんきこうげ)」 西笑承兌筆 桃山時代 天正13年(1585) 相国寺
《西笑承兌像》 江戸時代 17世紀 豊光寺 ※いずれも前期展示
『隔蓂記』鳳林承章筆 江戸時代 寛永12-寛文8年(1635-1668)鹿苑寺
狩野探幽《観音猿猴図》狩野探幽・狩野尚信・狩野安信筆 江戸時代 正保2年(1645)相国寺 両側の猿がユーモラスな本作は「後水尾天皇寄進状」に記載のある作品。

4、奇想の画家・若冲を開花 第113世住持・梅荘顕常 維名周奎
第四章「新奇歓迎!古画礼讃! ―若冲が生きた時代」
若冲は京都・錦市場の青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、絵を描くことが好きだったものの、40歳まで枡屋当主として家業に励んだ。
★★★
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。
「老子」第45章。大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
愚者よ、外見で無用と決める愚かさに気づけ。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成。若冲は梅荘の尽力によって、鹿苑寺大書院を飾る襖絵50面を描くという大プロジェクトを任される。当時、若冲は44歳の無名絵師。梅荘の存在がなければ、これほどの大仕事を得られることはなかった。
★★★
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた文化的背景を探る。
展示作品
《竹虎図》絵:伊藤若冲筆 賛:梅荘顕常筆 江戸時代 18世紀 鹿苑寺
伝李公麟「猛虎図」(朝鮮・朝鮮時代)に依拠して描かれており、虎のユーモラスな表情、猫のように拳を舐める仕草、体躯の力強い表現。虎の背後には風に揺れる竹の葉が筆勢の強い墨線で表現。梅荘顕常の賛は「いずこの竹林、長く嘯く声の中。突如もの寂しげな夕刻の風が巻き起こる」と詠む。虎嘯風生(こしょうふうしょう)の故事「虎の遠吠えが風を生む」、「英雄が出現すると天下に風雲が巻き起こる」という喩えである。若冲と梅荘は、虎が巻き起こす風をそれぞれの手法で表現した。
重要文化財《鹿苑寺大書院障壁画 一之間襖絵 葡萄小禽図》伊藤若冲筆 江戸時代 宝暦9年(1759)鹿苑寺蔵

5、近世・近代 俵屋宗達 円山応挙
第五章「未来へと育む相国寺の文化 ―”永存せよ”」
相国寺の什物は中世より伝来するものもあれば、近世や近代の寄進などの新規受入により加わったものもある。今回の展覧会では、什物の経歴や履歴という視点も重視した。現在、相国寺に集まった数々の什物は、今後も相国寺で活かされ、価値を見いだされ、永く伝えられてゆくことが期待されている。そのような近代に収集された作品群。
長谷川等伯《萩芒図屏風》(前期3/29~4/27展示)は金地着色画の大作。花を咲かせた萩が風になびく右隻、芒の茂みに野菊が顔を覗かせる左隻。シンプルで明快な構図ながら、繊細な情緒にあふれている。
円山応挙筆《七難七福図巻》より「福寿巻」江戸時代 明和5年(1768) 相国寺 ※前期・後期で場面替えあり
応挙初期の作品。天災を描く上巻、人災を描く中巻、そして福寿を描く下巻からなる大作、応挙は制作に3年を費やし、三巻の全長は39メートルに及ぶ。人の世の苦難と寿福とを絵解きするために制作された絵巻。人々が天災や大蛇から逃げまどう様子などがリアルに、時にユーモラスに描かれている。
重要文化財《蔦の細道図屏風》伝 俵屋宗達筆 烏丸光広賛 江戸時代 17世紀 相国寺 ※後期展示
『伊勢物語』より宇津の山の場面を表し、大胆な構成、金箔の地に緑青という鮮やかな色使いが目を引く。
《百鳥図》伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。
【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
――
参考文献
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L

「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj

禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B

「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz

妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺承天閣美術館開館40周年記念 相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史
東京藝術大学美術館、3月29日~4月27日、後期(4/29~5/25)

2024年11月26日 (火)

特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第383回
 
美術探訪、美への旅、「はにわ 挂甲の武人」ひとみの謎・・・見返り鹿。大久保正雄
はにわの最高傑作「埴輪 挂甲の武人」が国宝に指定されてから50周年を迎える2024年秋、東京国立博物館で特別展「はにわ」が開催される。本展では、全国各地から東京国立博物館に約120件もの選りすぐりの至宝が空前の規模で集結。素朴で本質的な人物、愛らしい動物から、精巧な武具、家に至るまで、埴輪の魅力が満載な展覧会。
とくに注目すべきは、ひとみである。素朴な人物、挂甲の武人、踊る人々、愛すべき動物、犬、馬、穴が開いた眼、ひとみは、不思議な表現である。シュメール美術、ガンダーラ彫刻、エジプト彫刻、ギリシア彫刻、アルカイック・スマイル彫刻、どの美術と比べても、比類なく、シンプルで、引き込まれる。穴の開いた空間が心を表現している。ひとみの謎である。
現代彫刻、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)《眠れるミューズ》(1910–11年)のひとみを思い起こさせる。ブランクーシ彫刻は、概念ではなく、本質を表している。概念ではなく、本質である。概念は、言葉があって、はじめて存在する。
犬型埴輪をみると、母の愛犬、トイプードルを思い出す。愛犬は、ときどき家の門に佇み、門番をしていた。県犬養三千代家は、天皇の門番をしていたのか。犬のひとみも謎である。
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プロローグ 埴輪の世界、古墳時代3世紀から6世紀
埴輪が作られたのは、古墳時代の3世紀から6世紀にかけて。日本列島で独自に出現、発達した埴輪は、服や顔、しぐさなどを簡略化し、丸みをもつという特徴があり、世界的にもその珍しい造形と評価されている。プロローグでは東京国立博物館の代表的な所蔵品の一つ「埴輪 踊る人々」を紹介。
この埴輪は、東京国立博物館が創立150周年を機に国立文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行いました。2024年3月末に修理が完了し、本展が修理後初のお披露目となります。
第1章 王の登場 古墳時代前期(3~4世紀)司祭者、中期(5世紀)武人、後期(6世紀)官僚的
埴輪は王(権力者)の墓である古墳に立てられ、古墳から副葬品が出土する。副葬品は、王の役割の変化と連動するように、移り変わる。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割で、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割であり、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王から配布された。
各時期において、中国大陸や朝鮮半島と関係を示す国際色豊かな副葬品も出土する。ここでは国宝のみで古墳時代を概説。埴輪が作られた時代と背景を顧みる。
第2章 大王の埴輪 倭の五王の陵、百舌鳥・古市古墳群、体大王の陵今城塚古墳
ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒する。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わります。古墳時代前期は奈良盆地に築造され、中期に入ると大阪平野で作られるようになる。
倭の五王の陵としても名高い、大阪府の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群は世界文化遺産に登録されている。そして後期には、継体大王の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造された。本章では、古墳時代のトップ水準でつくられた埴輪を、その出現から消滅にかけて時期別に見ることで、埴輪の変遷をたどる。
第3章 埴輪の造形
埴輪が出土した北限は岩手県、南限は鹿児島県。日本列島の幅広い地域で、埴輪は作られた。それらの埴輪は、当時の地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、また大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いが生まれた。
各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。第3章では各地域の高い水準で作られた埴輪や、独特な造形の埴輪を紹介する。
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間5体
埴輪で初めて国宝となった「埴輪 挂甲の武人」は頭から足まで完全武装しており、古墳時代の武人の様子を眼前に見せる。考古学的価値のみならず、その造形美から美術的にも高い評価を得ている。バンク・オブ・アメリカから支援を受け、2017年3月から2019年6月まで、およそ28か月間にわたり解体修理を実施した。第4章では、修理を経て得られた最新の研究成果や知見を紹介する。
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展示作品の一部
国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
埴輪 踊る人々 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金製耳飾 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金銅製沓 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
家形埴輪 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀 大阪・高槻市立今城塚古代歴史館蔵
馬形埴輪 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県蔵(三重県埋蔵文化財センター保管)
重要文化財
埴輪 天冠をつけた男子 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀
福島県蔵(磐城高等学校保管) いわき市教育委員会
犬型埴輪 古墳時代・6世紀群馬県伊勢崎市 剛志天神山古墳出土
見返り鹿《鹿形埴輪》静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 古墳時代・5世紀 静岡・浜松市市民ミュージアム浜北
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挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」
会場:東京国立博物館 平成館
会期:2024年10月16日(水)~12月8日(日)
休館日:月曜日、ただし11月4日(月)は開館、11月5日(火)は本展のみ開館
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2660

巡回情報:九州国立博物館 2025年1月21日(火)~5月11日(日)
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。
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土偶と埴輪
土偶は、今から約1万3千年前~約2千400年前の縄文時代に作られた。縄文時代の後に弥生時代、その次の古墳時代、3世紀後半~6世紀ころに埴輪が作られた。
土偶は、基本的には女性を表す。妊娠した姿も多く、安産や豊穣を祈った。精霊の姿。意図的に壊されたものも多い。祈りと祭祀に用いられた。
埴輪は古墳の副葬品、権力者の墓の周りに立てられた。功績を表している。河野正訓(東京国立博物館主任研究員)
参考文献
「縄文-1万年の美の鼓動」東京国立博物館・・・狩猟人の行動様式
https://bit.ly/2mG25my
特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-72d881.html

2023年11月10日 (金)

「やまと絵−受け継がれる王朝の美−」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第349回
金木犀の香りがする森を歩いて、博物館に行く。やまと絵、平安時代12世紀から室町時代15世紀の壮大な歴史。
【やまと絵とは何か】やまと絵は、唐絵に対して12世紀平安時代に始まる。中国の風景を描く唐絵対して、日本の王朝の宮廷を描くやまと絵は、飛鳥、奈良時代には描かれなかった。雪舟『四季花鳥図屏風』(室町時代15世紀)は、日本人によって描かれた中国の風景画であり漢画と呼ばれる。4大絵巻、源氏物語絵巻は、貴族のみならず武家に愛好され展開した。源氏物語絵巻、華麗なる王朝の美は、なぜ貴族と武家を惹きつけたのか。紫式部と源氏物語の始まりに遡ってその源泉を探る。
――
王朝の美の闇にひそむ魔界【源氏物語絵巻、源氏物語作品群】400年にわたって展開した。源氏物語絵巻(平安時代12世紀、徳川美術館)、紫式部日記絵巻断簡(鎌倉殿時代13世紀、東京国立博物館)、源氏物語図扇面張交屏風(室町時代16世紀、浄土寺)。源氏物語絵巻のみならず、紫式部日記絵巻まで、作られ続いているのは驚異である。
「源氏物語図扇面貼交屏風」は、俵屋宗達「扇面貼交屏風」「扇面散し屏風」の先駆形である。扇は折れ目があり使用した形跡がある。
【光源氏の謎】光源氏のモデルは源融(嵯峨天皇の皇子)か藤原道長である。源融(822-895)は天皇の皇子だが、天皇になれなかった美貌の貴公子。源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。藤原道長(966-1028)は中宮彰子の父。紫式部の召人(愛人)。【予言の書『源氏物語』天下人の晩年の精神的没落】光源氏40歳で身分も地位も財産も高みに登りつめるが、個人的な運命は急降下。正妻女三の宮に裏切られ、愛妻紫の上に先立たれる。「高い身分に生まれながら、心の満たされぬ人生」「幻」巻。息子の夕霧に会えず引き籠る。
【紫式部の謎、源氏物語と紫式部と中宮彰子】1001年(長保3)夏に宣孝が死に、1001年の秋ごろから『源氏物語』を書き始めた。05年(寛弘2)ごろ年末に一条天皇の中宮彰子のもとに出仕。はじめ〈藤式部〉やがて〈紫式部〉と呼ばれる。〈紫〉は『源氏物語』の女主人公紫の上にちなみ、〈式部〉は父為時の官職式部丞による。
【六条河原院の謎、なぜ六条御息所は幽霊となるのか】源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。基経は源定省を宇多天皇として即位させる。怒った源融は宇治の棲霞観、六条河原院の別邸に隠棲。宇多上皇の河原院に源融の幽霊が出る『今昔物語集』巻27第二、世阿弥『融』【六条河原院】源融の嫡男・昇に相続され、昇により宇多上皇に献上され、仙洞御所となる。源氏物語の六条御息所、上村松園『焔』1918は『謡曲「葵の上」の六条御息所の幽霊を描いている。【光源氏の栄華と衰亡】光源氏の人生に仮託された源融と藤原道長の運命に王朝の階級制の閉鎖社会のピラミッド上昇の困難と個の苦悩と葛藤を、貴族と武家たちはどう見つめたのだろうか。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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国宝「日月四季山水図屏風」金剛寺、室町時代15世紀、11/7~12/3
やまと絵で描かれた六曲一双(6扇の屏風が2つで1組)の屏風で、四季の山水と日月が描かれ、密教の灌頂の儀式に用いられた。右隻には春から夏への景色に金の太陽、左隻には秋から冬への景色に銀の月を配する。山並みはうねり、躍動感に満ちた絵画。天野山金剛寺
――
国宝 神護寺三像。「伝源頼朝像」、「伝平重盛 像」「伝藤原光能」として伝わる鎌倉時代(13世紀)の肖像絵画は、等身大のスケールに圧倒。近寄ると漆黒の装束の黒い文様も見える。日本肖像画の最高峰。
伝源賴朝・平重盛・藤原光能像 (神護寺三像)3点共、作者は藤原隆信と伝わる。隆信は、歌人として有名な藤原定家の異父兄で、画業では似絵(にせえ)を得意とした。
空海は、唐に渡って密教を学び、帰国後は神護寺を本拠に真言密教を広めた。空海のあとの真済によって寺勢は隆盛し、壮大な伽藍が建てられたが、2度の火災で沈滞、荒廃した。
荒廃した神護寺を再建したのは、文覚上人。【文覚は神護寺再興を後白河法皇に強訴】したが、法皇の怒りを買い、伊豆に流罪。同じ伊豆の流人の境遇の頼朝と会見し、平家打倒に決起せよと説得。やがて流罪を解かれ、京に戻った文覚は法皇に神護寺復興を願って許された。平家を倒し幕府を立てた【頼朝の援助もあって、神護寺は復興した】
――
国宝「平家納経 薬王菩薩本事品 第二十三」「平家納経 分別功徳品 第十七」「平家納経 平清盛願文」平安時代 長寛2年(1164)厳島神社蔵 
三大装飾経、国宝「平家納経」(平安時代1164年)「久能寺経」「慈光寺経」。
――
展示作品の一部
「年中行事絵巻」模本は、展示されるのが1974年の絵巻展(東京国立博物館)以来。
源氏の名場面を四季に再編成して60面揃えた室町時代の「源氏物語図扇面貼交屛風」、国宝「源氏物語絵巻」、「紫式部日記絵巻」など華やかな作品が続々と登場。
「山水屛風」京都国立博物館、「山水屛風」神護寺、国宝「蒔絵筝」春日大社、
国宝「地獄草紙」「餓鬼草紙」、「辟邪絵」「病草紙」重文「百鬼夜行絵巻」
「源氏物語図扇面貼交屛風」室町時代 16世紀 広島・浄土寺(展示期間:10/11~11/5)
国宝「蒔絵箏(本宮御料古神宝類のうち)」奈良・春日大社蔵(11/5まで展示)
神に捧げるために作られた楽器。王朝貴族の美意識が結実した工芸品。蒔絵(まきえ)で表わされた美しい山岳図。
国宝「源氏物語絵巻」12世紀、徳川美術館、「伴大納言絵巻」12世紀、出光美術館蔵)、国宝「鳥獣戯画」平安~鎌倉時代12~13世紀 高山寺、国宝「信貴山縁起絵巻」平安時代12世紀 朝護孫子寺、国宝「平治物語絵巻」六波羅行幸巻、鎌倉時代13世紀、重文「紫式部日記絵巻」鎌倉時代13世紀
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【手に入らない愛は、永遠に美しい】実らない恋は永遠に輝いている【上智と下愚とは移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者は、どんなによい境遇にあっても向上しない。『「論語」陽貨』【どんなに地位、名誉、職業が高くても、智慧と慈悲がなければ生きる価値がない】最下の愚者は、向上しない。【千里の馬は常にあれども伯楽は常には非ず】
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉
https://bit.ly/2ZCzN3x
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館・・・絢爛たる装飾藝術、16世紀から18世紀
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c300.html
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
https://bit.ly/3hIroVg
大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』新潮社
「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-1388ed.html
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日本絵巻史上最高傑作と言われる「四大絵巻」が揃い踏み(10/11~10月22日まで)。

四大絵巻「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」が30年ぶりに集結する。壮観。
神護寺三像「伝源頼朝像」(鎌倉時代13世紀)「伝平重盛像」「伝藤原光能像」、が集結する。横幅1m等身大の大作。仙洞院に「後白河法皇像」「平業房像」とともに5幅掛けられていた。10月24日(火)~11月5日(日)
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国宝53件、総件数270件、絢爛豪華な展覧会。
国宝53件、総件数270件のうち、7割超が国宝・重要文化財、絢爛豪華展な展覧会。
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国宝「源氏物語絵巻」徳川美術館、「伴大納言絵巻」(出光美術館蔵)は10月22日まで
国宝「鳥獣戯画」平安~鎌倉時代 12~13世紀 高山寺 展示期間:甲巻10/11~10/22 乙巻10/24~11/5 丙巻11/7~11/19 丁巻11/21~12/3
国宝「信貴山縁起絵巻」平安時代 12世紀 朝護孫子寺 展示期間:飛倉巻10/11~11/5 延喜加持巻11/7~11/19 尼公巻11/21~12/3
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画像
国宝「平治物語絵巻」六波羅行幸巻 鎌倉時代13世紀、東京国立博物館、
重要文化財「紫式部日記絵巻」鎌倉時代13世紀、東京国立博物館
国宝「日月四季山水図屏風」室町時代15世紀、金剛寺
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特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」東京国立博物館、2023年10月11日~12月3日

2023年9月15日 (金)

楽しい隠遁生活・・・山水に遊ぶ、桃源郷、李白「望廬山観瀑」、北斎「李白観瀑図」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第341回

隠者は、竹林の七賢人、王義之、陶淵明、蘇東坡、李白、抵抗する知識人の精神史である。
竹林の七賢人は、権力に抵抗し、難を避け、隠遁した者、老荘思想に基づいて、桃源郷に遊び、詩書、無弦琴を愛でる。王羲之『蘭亭序』、陶淵明『桃花源記』、蘇東坡『赤壁の賦』、李白『望廬山観瀑』『山中問答』、遊山慕仙の世界は、嵯峨天皇と空海の生きかたに反映している。嵯峨天皇は、流水濫觴の宴を催し、嵯峨院に隠退、空海は、天長8年、大僧都を辞するが、許可されず。
九十老人卍筆、北斎「李白観瀑図」(1849)ボストン美術館、北斎(1760~1849)90歳の作品。北斎「詩歌写真鏡・李白」千葉市美術館、天保4-5、1833-34
河鍋暁斎「李白観瀑図」が存在したが、今は行方不明。
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【中国の隠者】竹林の七賢人、3世紀中国三国魏末に、清談を行なったり交遊した七人、陰惨な状況で奔放な言動は死の危険があり、俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨、憤りと、その意図の韜晦。阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎。
【中国の隠者、山水に遊ぶ、桃源郷】王義之(303~361)東晋の官僚、書家、『蘭亭序』を書き隠退58歳で死す、陶淵明(365~427)魏晋南北朝の詩人62歳で死す、李白(701-762)諸国を放浪の後玄宗に仕えたが、安史の乱で入獄。762年に61歳で死す。
【竹林の七賢、王戎(234-305)】琅邪の王氏。王導、王羲之(303-361)、王献之を生む一族。
東晋の王羲之は、書の名人。権謀術数の官界を嫌い会稽県に赴任、永和九年(353)三月三日に会稽山の山陰の蘭亭にて曲水流觴の宴をひらき、『蘭亭序』を書き、上司王述を避け355年、49歳で官界を引退した。自由の身となり書を書き59歳で死す。*
【王羲之『蘭亭序』】【唐の太宗皇帝が王羲之の書を愛し】その殆ど全てを集めたが、蘭亭序だけは手に入らず、最後には家臣に命じて、王羲之の子孫にあたる僧の智永の弟子弁才の手から騙し取らせ、自らの陵墓である昭陵に副葬させた。唐の何延之『蘭亭記』。
旅する詩人
【李白、旅する詩人(701-762)】李白がはじめて長安にのぼったのは742年。42歳の時。長安で李白は賀知章(659-744)の知遇を得る。賀知章は玄宗皇帝に仕え、詩壇の長老。賀知章は李白の仙人的な人柄を気に入る。「お前の才能はこの世のものではない。まるで天から流されてきた仙人のようだ(謫仙人)」。742年、李白は賀知章の推挙を受けて翰林供奉となる。
【李白、旅する詩人】玄宗皇帝の側近、宦官の高力士と対立。李白が詩で楊貴妃の美しさを前漢の美人、趙飛燕になぞらえる。趙飛燕は前漢の成帝に愛され皇后になるが成帝の崩御後、庶民にまで落ち自殺した。李白は失脚、長安を追われる。744年、李白44歳。宮廷詩人として活躍したのは僅か3年間。長安を去り李白は再び遍歴生活に戻る。*『清平調詞』二
【李白 黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る】古くからの友人(孟浩然)は、西にある黄鶴楼に別れを告げ、花が咲き春の霞が立つ三月、揚州へと長江を下っていった。遠くに見える一そうの舟の帆も青空に消えて、ただ、長江が天の果てまで流れていくのを見るばかりである。
【李白「山中問答」】余に問う何の意ありてか碧山に棲むと。笑って答えず心自ら閑な り。桃花流水杳然として去る。別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り。
私に問いかける人がいる。なぜ山深い所に住んでいるのか。笑って答えず、心は静かである。満開の桃の花がひとひら、川面に散り、彼方まで流れ去る。ここは俗世間とは隔絶した場所
【李白「望廬山観瀑」】日は香炉を照らして紫煙を生ず。遥かに看る瀑布の長川(ちょうせん)を掛くるを。飛流直下三千尺。疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと。
香炉峰にたなびく美しい霧、そこを流れ落ちる滝、川の流れが縦に落下する、この雄大な絶景は銀河、宇宙に内包される、美しい「起承転結」の世界。
【廬山】長江の南にある仏教や道教の霊山。白楽天の詩で有名な香炉峰などがあり。雨や霧が多く、雲海の上に山が聳え立つ様子を見ることができる。ここは周代から道士や隠棲者とかかわりが深く、陶淵明もこの山のふもとに隠居した。
【旅する詩人、孟浩然】(689-740)。湖北省襄陽市の人。青年時代は故郷の鹿門山に隠棲。40歳ごろ長安に出て科挙を受験するが落第。郷里に戻る。一時張九齢の招きで任官するがすぐに官職を辞す。江南地方を放浪して一生を終える。生涯、出世には縁が無かったが、その詩才は高く評価される。王維・李白・張九齢らと交流があり。自然を歌った詩に名作が多い。王維と並んで「王孟」と並び称され、中唐の韋応物、柳宗元と並び王孟韋柳とも称される。『春暁』『洛陽にて袁拾遺を訪ふて遇はず』
【北斎「李白観瀑図」】「九十老人卍筆」、北斎「李白観瀑図」1849は90歳で亡くなる年に描かれている「ボストン美術館肉筆浮世絵展」。若い頃、北斎【北斎「詩歌写真鏡・李白」】千葉市美術館、天保4-5、1833-34、に描いている。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
石濤「廬山観瀑図」、
田能村竹田「梅渓閑居図」
伝 仇英《山水人物図(陶淵明図)》(部分) 中国・明時代 泉屋博古館
橋本雅邦《許由図》明治33年(1900) 泉屋博古館東京
重要美術品 伝周文《山水図》室町時代(15-16世紀)  泉屋博古館
長吉《観瀑図》(部分) 室町時代(16世紀) 泉屋博古館
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陶淵明『桃花源記』南北朝時代(4~5世紀)
中野美代子『中国の隠者』
中野美代子『酒池肉林』
「上兵は謀を討つ。最高の戦略は、敵の陰謀を討つことである」『孫子』謀攻篇
権力と戦う知識人の精神史 春秋戦国奇譚
https://bit.ly/2P3rfID
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
感染爆発、帝国と都市国家の戦い。この世の果てを超えて、旅する詩人・・・「時の関節が外れた」シェイクスピア
https://bit.ly/2XoaNcd
「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」・・・北斎、最後の旅
https://bit.ly/3rGjzkF
楽しい隠遁生活・・・山水に遊ぶ、桃源郷、李白「望廬山観瀑」、北斎「李白観瀑図」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-e3a559.html
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展示構成
1. 自由へのあこがれ「隠遁思想と隠者たち」
隠遁の根底にあるのは「脱俗」の考えです。人の心を惑わす富貴や栄華などの世俗的な欲望を絶ち、自然の中でその摂理に身をゆだねて生活することが、隠遁の理想とされてきました。その背景には、現実への絶望感が見てとれます。高い理想を持っていても、現実世界において理想を実現することはしばしば困難を伴うからです。自己を滅し世間に妥協して生きるよりも、理想を堅持しながら自然の中で暮らす道を選び生きたのが、隠遁者たちです。
彼らは知識階級に属しながら政治の世界を俗として仕官せず、世間から隠れて高潔に生きる人々で、隠者や隠逸、高士などともよばれています。
聖天子の尭に招かれても、これをけがらわしいとした「許由」など古代中国の著名な隠者や三国時代末(3世紀)の「竹林の七賢」、南北朝時代(4~5世紀)の「陶淵明」などは、後世まで絵画工芸の主題となっています。また、そうした隠者たちの静閑の暮らしは日本の文人たちの規範として享受もされています。平安・鎌倉時代の「西行」や、江戸時代の「芭蕉」らも俗世を離れた草庵暮らしを積極的に求めた隠者といえます。
https://www.artpr.jp/senoku-tokyo/joifulseclusion2023
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楽しい隠遁生活 文人たちのマインドフルネス、泉屋博古館東京、
2023年9月2日(土)~2023年10月15日(日)

2022年12月21日 (水)

「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎

Genji-met-2022
Genji-met-4-2022
Genji-met-3-2022
大久保正雄『旅する哲学者、美への旅』第304回
「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり」藤原俊成『六百番歌合』という程、基準となる。俊成『千載和歌集』の美の基準である。
【『源氏物語』の謎】
【光源氏の謎】光源氏のモデルは源融(嵯峨天皇の皇子)か藤原道長か。源融(822-895)は天皇の皇子だが、天皇になれなかった美貌の貴公子。源融は左大臣になり、天皇候補となったが、藤原基経に反対された。藤原道長(966-1028)は中宮彰子の父であり、紫式部は藤原道長の召人(愛人)。藤原道長は右大臣として君臨、栄華を極める『御堂関白記』、関白になった記録はない。
【源氏物語の時代背景】源氏物語の時代背景は、醍醐天皇(885生まれ、897-930)の時代、紫式部の曽祖父、藤原兼輔である。
【光源氏の生涯最愛の女】ヒロインは若紫(紫の上)。光源氏の生涯最愛の女は若紫(紫の上)、光源氏22歳のとき若紫14歳に出会った。若紫は走っていた。『若紫』、光源氏は14歳の幼女若紫を誘惑した、他の多数の女たちはどんな意味があるのか。若紫(紫の上)は死顔も美しい。
【紫式部の謎】父、藤原為時、花山天皇の退位(986年6月)とともに職を失い蟄居する父の傍らで娘盛りを迎えた式部。999年(長保1)初春に藤原宣孝と結婚、1001年4月、宣孝が他界、式部は若き寡婦としてほうり出された。『源氏物語』は現実の絶望を乗り越える手段として紡ぎ出された。紫式部はなぜ清少納言に反感を抱いたのか。『紫式部日記』1010。
曽祖父、藤原兼輔は、有力貴族。紫式部の歌や文章に、家の荒廃を嘆き、身の程の口惜しさを思うものが目だつ。その家は兼輔が建て『大和物語』などにその風流ぶりをうたわれた、賀茂川べりの堤第であった公算が強い。京都市上京区の廬山寺あたりがその跡地。
1006年(寛弘3)暮れ(5年説も)、一条天皇中宮彰子(藤原道長娘)のもとに出仕した。
【紫式部】973年(天延1)生まれ、1014年(長和3)春ごろに没したらしい(1019年以降説もある)伊藤博。これによると紫式部は41歳で没した。
【『桐壺』】桐壺の更衣への虐めはなぜエスカレートするのか。父のない最下位の妃の更衣を熱愛するミカド、皇子を産む桐壺。桐壺天皇の皇子が光源氏。
【六条河原院『夕顔』】源融の幽霊はなぜ六条邸に出るのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【感染爆発と平安文学】
【一条天皇は31歳で死す。中宮定子は24歳で死。中宮彰子88歳まで生きる】一条天皇は2人の皇后を持った(一帝二后)、一人の后でが中宮彰子(988-1074)、彼女に仕えたのが清少納言のライバル、紫式部(970頃-1019頃以降)。
中宮彰子は、藤原道隆の弟でのちに位人身を極める藤原道長(966-1028)の娘として生まれ、後一条天皇、後朱雀天皇の2人の帝を産み「国母」と称され、系図上では現在の明仁・徳仁天皇の祖先。
【インフルエンザ肺炎、中宮定子、中宮彰子、一条天皇】彰子の夫である一条天皇は《980-1011》31歳で亡くなり、死因は「咳逆=しわぶき」、インフルエンザ肺炎と伝えられる。清少納言が仕えた「年上の后」中宮定子は《977-1001》24歳で産褥のため亡くなる。
【中宮彰子と藤原道長】
大酒のみの父道隆が995年糖尿病のために42歳で死んだ後、にわかに権力を掌握した道長によって、12歳で「皇后」となっていた彰子は後一条天皇(1008-1036)と後朱雀天皇(1009-1045)を生んだ後、半世紀以上も生きながらえ、米寿まで存命する。
皇后彰子は20-21歳にかけての1008-1009年には、28-29歳だった一条天皇と同衾して子供を作っているが、1011年、一条天皇がインフルエンザに罹患した後は、その感染を免れ、その後63年間生き続ける。
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ『紫式部集』
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参考文献
大塚ひかり『源氏物語 平安王朝のロマンと時代背景の謎』2001
大塚ひかり『男は美人の嘘が好き ひかりと影の平家物語』
大塚ひかり『ブス論で読む源氏物語』講談社+α文庫
角田文衛『紫式部とその時代』(1966・角川書店)
前田 雅之「藤原俊成の古典意識」2012
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
https://bit.ly/3hIroVg
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主な展示作品
鷹野理芳《垣間見 玉鬘「蛍の巻」より》2022年 作家蔵
高木厚人《ふぢつぼのゆめ》2012年 作家蔵
玉田恭子《紫之にき》2019年 作家蔵
青木寿恵《源氏物語》1976年頃 寿恵更紗ミュージアム蔵
石踊達哉《真木柱》1997年 講談社蔵
守屋多々志《澪標「住吉詣」》1991年 個人蔵
渡邊裕公《千年之恋~源氏物語~》2016年 作家蔵
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「上野アーティストプロジェクト」は、「公募展のふるさと」とも称される東京都美術館の歴史の継承と未来への発展を図るために、2017年より開始したシリーズです。その第6弾となる本展は、「源氏物語」がテーマです。
平安時代に紫式部が執筆した源氏物語には、四季折々の美しい情景とともに、多数の登場人物が魅力的に描かれています。主人公の光源氏を中心に紡がれる人間模様は、現代の私たちにも通じるものがあります。読者は登場人物と自分とを重ね合わせ、物語に感情移入することができるからこそ、約1000年の間、変わらず読み継がれてきたのではないでしょうか。そして、長い間広く親しまれてきたことにより、美術工芸や芸能など他のジャンルにも影響を与え、源氏物語は時代や文化を超えて人びとを魅了してきました。
本展では、絵画・書・染色・ガラス工芸という多彩なジャンルの作家をご紹介します。人との出会いはもちろん、美術館で作品とめぐり逢うことも、ひとつの「えに(縁)」と言えます。人や社会とのつながり方が変化しているコロナ禍において、本展が私たちの生活を見つめ直す機会となれば幸いです。
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「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」、東京都美術館、11月19日(土)~2023年1月6日(金)

2022年11月13日 (日)

板谷波山の陶芸、その麗しき作品と生涯・・・葆光釉磁の輝き

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』295回
板谷波山(1872年~1963年)  貧困の果てに 前人未到の境地
1889年、東京美術学校彫刻科に入学。1898年、石川県工業学校に奉職。19世紀末1900年アール・ヌーヴォーの意匠を研究。1903年、石川県工業学校を辞職し、31歳、陶芸家として歩み始めた波山は、高火度焼成の窯を田端に構える。陶芸家として華々しいデビュー、しかし貧困との果てしない戦いが始まる。磁器焼成に挑み釉薬や顔料の調合も吟味した。完全主義で、作品を厳選し、膨大な作品を気に入らず破棄した。大正4(1915)年頃、43歳、マグネサイトを使った「葆光釉」に到達。70歳代まで貧困に苦しんだが、前人未到の境地に到達した。
「私は家を建て、翌年窯を作ると、一厘の余裕もなく、貧乏であった」板谷波山1931年
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至高の美を求めて 葆光彩磁の輝き
波山は、理想の作品づくりのために一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を追求した。大正4(1915)年頃、43歳、「葆光釉」に到達。
「葆光」とは『荘子』「斉物論篇」、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」に喩え幽遠な美の境地である。
荒川正明氏の記者発表会を聞く。「波山は東洋と西洋の美を融合、器の形はギリシアのアンフォラ、波山は新古典主義様式の最後の騎士である」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
《彩磁金魚文花瓶》1911(明治44)年頃 筑西市(神林コレクション)蔵
重要文化財《葆光彩磁珍果文花瓶》1917(大正6)年 泉屋博古館東京蔵
《彩磁草花文花瓶》大正後期 廣澤美術館蔵
《天目茶碗》1944(昭和19)年 筑西市(神林コレクション)蔵
《葆光彩磁珍果文花瓶》(重文)など約130点の名品を展示。陶芸を芸術の域に広げた板谷波山(1872年~1963年)の美の世界
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参考文献
『生誕150年 板谷波山の陶芸』展覧会図録、2022
『生誕150年 板谷波山の陶芸』プレスリリース
(荒川正明「板谷波山の陶芸―すべては美しく、やきものを生むために―」『没後50年 板谷波山展』展覧会図録、毎日新聞社、2013年)
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展覧会概要
近代陶芸の巨匠 板谷波山(本名・板谷嘉七)は、令和4(2022)年3月3日、生誕150年を迎えました。明治5(1872)年、茨城県下館町(現・筑西市)に生まれた波山は、明治22年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学、岡倉天心や高村光雲に師事しました。明治36年には東京・田端の地に移り、陶芸家「波山」として数々の名作を生みだします。昭和9(1934)年、帝室技芸員に任命され、昭和28年には陶芸家初の文化勲章を受章しました。
波山は、理想の作品づくりのためには一切の妥協を許さず、端正で格調高い作品を数多く手がけました。代表作の一つ、重要文化財 《葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん)》は、大正6(1917)年、波山芸術を愛した住友春翠によって購入され、泉屋博古館東京に継承されています。
この記念すべき年に、選りすぐりの名作と共に、波山が愛した故郷への思いや人となりを示す貴重な資料、試行錯誤の末に破却された陶片の数々を通して、「陶聖」波山の様々な姿を紹介いたします。波山の作品に表現された美と祈りの世界に癒され、彼の優しさとユーモアにあふれた人生に触れるひと時をお楽しみください。
展示構成
序章:ようこそ、波山芸術の世界へ
板谷波山が東京美術学校時代に薫陶を受けた恩師・岡倉天心は、自身が創刊した雑誌『国華』創刊の辞の一節に、「夫レ美ハ國ノ精華ナリ」と記しています。その意は、美しいものを愛おしみ、それを育んでいく精神にこそ、その国家の真髄があるということでしょう。
その恩師の言葉を糧に、波山は全身全霊で陶芸の世界に対峙した人物でした。波山の陶芸は、東洋の古陶磁がもつ鋭く洗練された造形を骨格として、そこに19世紀末の欧米のアール・ヌーヴォースタイル、つまり優雅で官能的な装飾性を加えた、いわば東西の工芸様式を見事に融合させたところに特徴があります。序章では、波山の代表作をご覧ください。

第Ⅰ章 「波山」へのみちのり
郷里・茨城県下館の街は、全国有数の木綿の産地であり、江戸時代後期には商都として町人文化が栄えていました。生家は下館藩の御用商人も務める富裕町人で、父・増太郎は文人趣味、茶道の嗜みもありました。この父親の美を愛する心は波山にも受け継がれ、生来の器用さもあり、幼い頃、すでにやきものへの関心も抱いていたと想像されます。
明治22年、開校して間もない東京美術学校に入学、古典の学習、写生や模写、工芸技術など一連の研鑽を経て、芸術家としての基礎を築きました。その後、工芸の街・金沢の石川県工業学校(県工)へ奉職、本格的に陶芸の世界に接近していき、デザインや窯業材料の研究、ロクロ成形や窯焼成など、土にまみれる7年間を過ごしました。
波山はこのように、岡倉天心のもと東京美術学校で芸術家としての魂を注入される一方、県工の同僚である北村弥一郎(ワグネルに連なる東工大窯業科系の俊英)などから、最新の窯業化学をも直に学びます。つまり、近代日本の「美術」と「工業」の両分野の最高峰に連なる環境で鍛えられ、次世代陶芸界の牽引者としての歩を進めていくこととなります。
Ⅰ-1 故郷・下館 —文人文化の街
Ⅰ-2 芸術家を志して —東京美術学校と石川県工業学校
第Ⅱ章 ジャパニーズ・アール・ヌーヴォー
19世紀後期、ジャポニスムブームに陰りが見え、日本の陶磁器輸出は斜陽期に突入します。素地を移入し「上絵付け」主体の東京や横浜の輸出業者は、次々と倒産に追い込まれていきました。この逆境の下、果敢に陶芸家として歩み始めた波山は、大きな賭けに出ます。それまでの陶工の常識を破り、個人で本格的な高火度焼成の窯(平野耕輔設計:三方焚口倒焔式レンガ丸窯、当時の日本では最新型)を東京・田端に構え、磁器焼成に挑みました。絵付けだけではなく、素地も自らつくり、釉薬や顔料の調合も吟味しました。
この頃、波山が熱心に取り組んだ課題は、西欧で流行したアール・ヌーヴォースタイルの意匠研究と、西欧渡来の釉や顔料の実用化です。日本陶芸界のアヴァンギャルドとして、造形や意匠の革新者として、波山は次第に注目を集める存在となっていきます。しかし、薪窯による焼成のリスクは大きく、製品の歩留りも悪い状況でした。陶芸家としての華々しいデビュー、しかしそこには貧困との果てしない戦いが待っていました。
Ⅱ-1 陶芸革新 —アヴァンギャルド波山
Ⅱ-2 アール・ヌーヴォー―いのちの輝き
第Ⅲ章 至高の美を求めて
天性のカラリストといっても過言ではないほど、鋭敏な感性の持ち主であった波山。彼の色彩の世界は、釉の下に絵付けする「釉下彩」(下絵)で表現されています。波山はこの「彩磁」から、さらに「葆光彩」へと表現の幅を広げていきました。「葆光彩」は今や波山の代名詞となっていますが、薄絹を被せたようマット釉は、作品に侵しがたい気品を加えることとなります。
「葆光」とは中国・春秋時代の思想家・荘子による『荘子』「斉物論篇」に記されており、荘子は「葆光」を「無尽蔵な天の庫」にたとえています。波山が老荘思想に興味をもった背景は明らかではありませんが、恩師・岡倉天心からの示唆があった可能性も。ともかく、波山の「葆光彩」の完成は、日本の磁器表現に広がりと深み、そして幽遠な美の境地をもたらしました。
Ⅲ-1 葆光彩磁の輝き
Ⅲ-2 色彩の妙、陶技の極み
Ⅲ-3 侘びの味わい —茶の湯のうつわ
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板谷波山の陶芸、その麗しき作品と生涯・・・葆光釉磁の輝き
https://bit.ly/3GbpXs1
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「板谷波山の陶芸―近代陶芸の巨匠、その麗しき作品と生涯」泉屋博古館東京
2022年11月3日(木・祝)〜12月18日(日)

2022年10月 4日 (火)

「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』291回

曜変天目は、織田信長の見果てぬ夢の残像。幻の曜変天目、もう一つあった。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。足利義政、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより。世に残らず。
織田信長【本能寺の変と三職推任問題】天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)。 4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。
【織田信長、三職推任問題】勧修寺晴豊『天正十年夏記』に記載、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」。5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。正親町天皇の皇子誠仁親王、信長の返答の内容は不明である。織田信長は、階級社会の地位に拘泥せず。これが悲劇を招いた。
6月1日、本能寺の茶会。6月2日、払暁、明智光秀の本能寺の変が起こる。
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
参考文献*今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』1992小和田哲男『明智光秀』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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岩崎彌太郎《一行書「猛虎一声山月高」》と書いたが、どのような青雲の志を抱いたのか。三菱創業の初代岩崎彌太郎、岩崎小彌太は、優れた美術コレクターである。
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》。完全な形で日本に現存するのは3点のみとされる。こちらは徳川将軍家より3代将軍家光の乳母・春日局の手を経て、淀藩主稲葉家に伝来した。家光が春日局に、服薬のために献じた。大小の斑文の周りを青色や虹色に輝く光彩が囲み、宇宙の星を覗き込むような心になる美しい茶碗。河野元昭(静嘉堂文庫美術館館長)は、「曜変天目 の美は言葉では語れない」と述べる。
華麗な光源氏の一行と船中の明石君とのすれ違う恋を描いた俵屋宗達の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》「澪標図」。
国宝《太刀 銘 泡永》、太刀の妖しいほどの輝き。
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★展示作品の一部
国宝《曜変天目 (稲葉天目)》建窯、南宋12-13世紀
重要文化財《油滴天目》建窯、南宋12-13世紀
国宝《太刀 銘 泡永》
唐物茄子茶入《付藻茄子》《松本(紹鷗)茄子》は、信長・秀吉・家康に伝来した大名物。これらは1615年大坂夏の陣で大破したが、その破片を集めて、塗師の名工である藤重藤元(ふじしげ とうげん)・藤巌(とうがん)父子によって漆繕いされて復元された。
国宝 伝 馬遠《風雨山水図》南宋時代・13世紀 静嘉堂文庫美術館蔵
[前期(10月1日(土)~11月6日(日))展示]
(国宝)《風雨山水図》馬遠筆の伝承を持つ
(重要文化財)画僧・牧谿の《羅漢図》
(重要文化財)酒井抱一《波図屏風》江戸時代・1815年(文化12)頃 静嘉堂文庫美術館蔵
[後期(11月10日(木)~12月18日(日))展示]
国宝 俵屋宗達《源氏物語関屋澪標図屏風》、17世紀
尾形光琳《住之江蒔絵硯箱》(重要文化財)、18世紀、酒井抱一《波図屏風》、
鈴木其一《雪月花三美人図》、19世紀
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【織田信長、中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」『敦盛 』、麒麟、岐阜城、天下布武、武の七徳、第六天魔王、天正、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論。千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人を求める。五徳、仁義礼智信。
【曜変天目、建窯、南宋12-13世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだった。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
★参考文献
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
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★静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展I「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」
静嘉堂文庫美術館、2022年10月1日(土)から12月18日(日)まで
(静嘉堂@丸の内)住所:東京都千代田区丸の内2-1-1 明治生命館 1階
明治生命館(昭和9年〈1934〉竣工)
https://www.seikado.or.jp/

2022年8月 2日 (火)

ボストン美術館展 芸術×力・・・藝術と権力の歴史

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』286回

【知恵ある王と暴虐な独裁者との戦い】プラトンは「知恵ある王が支配する国家」を理想としたが、現実には、独裁制、寡頭制、名誉支配制、衆愚制、が出現して、最悪の政治形態になると予想した(プラトン『国家』)。偉大な王、知的な王、明晰透徹な王、知恵ある王、理想を追求する王。【堕落した国家の諸形態】邪知暴虐な王、残虐王、民から税金を巻き上げる詐欺王、金を巻き上げる守銭奴、邪教を用いて金を巻き上げる邪宗王。権力の歴史は、権力闘争の歴史である。知恵ある王と暴虐な独裁者との戦いが、永遠に繰り広げられる。
【権力者と藝術】覇権争いで勝利した国家、封建領主、自由都市、王家の王女、富裕層、富裕商人。権力者は権力を争い、権力者は藝術を愛好し、藝術を外交に用いる。藝術と権力者の歴史をめぐる美術展。
私は思い出す。藝術を愛好した権力者【メディチ家とプラトン・アカデミー】コジモ(1389-1464)、1439年プラトン哲学の奥義を聴く。1463年プラトン・アカデミーをメディチ家カレッジ別荘(Villa Medici di careggi)に創設。【フィレンツェ包囲網】ロレンツォ・デ・メディチ、ナポリ王と和平。ヌムール公・ジュリアーノ・デ・メディチ、フランソワ2世。【ヴェネツィア】1508年、ローマ教皇ユリウス2世と対立、1538年、プレヴェザの海戦、地中海の覇権失う。
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【王と権力闘争、藝術を愛好した権力者】【アマルナ美術、エル・テル・アマルナ遷都】アクエンアテン王、ネフェルティティ、13歳の王ツタンカーメン。BC 14世紀中頃【カデシュの戦いBC1286】古代エジプト新王国ファラオ・ラムセス2世、ヒッタイト王ムワタリとカデシュの戦い、カデシュの和約。王妃ネフェルタリ、アブシンベル神殿。【ラムセス2世】生涯に8人の正妃、及び多くの側室を娶り、100人以上の子をもうける。67年間王位。第19王朝。【ネフェルタリ】ラムセス2世の第一王妃、8人の妃の中で最も美貌、若くして死す。在位、前1279-1213年。治世62年目、92歳薨去。
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【古代都市国家】アクラガス、カルタゴと戦うBC402、コンコルディア神殿。【ペロポネソス戦争】アテナイ、ペリクレス、スパルタと戦う。
【ルネサンス、メディチ家、対教皇庁戦争】メディチ家ロレンツォ、シクストゥス4世と戦う。ロレンツォ・デ・メディチ、ヌムール公・ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス・ルネサンス、フランソワ2世、ハプスブルク家マリア・テレジア。
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【ハプスブルク家の戦争】ロレンツォ=デ=メディチが死んだ1492年から2年後1494年、フランス王シャルル8世の軍のイタリア侵入が始まりイタリア戦争が勃発。【イタリア戦争(ハプスブルク・ヴァロワ戦争】第1-5次1494~1559年)。 1527年カール5世のローマ劫略、レパントの海戦(1571)、無敵艦隊の海戦(1588年)。スペイン継承戦争(1701-14)。オーストリア継承戦争(1740年)。シュレージエン戦争(1740年
【ハプスブルク家、蒐集家たち】デューラーを庇護したマクシミリアン1世、ボスを愛好したフィリップ美公、ティツィアーノを召し抱えたカール5世、ボスを蒐集したフェリペ2世、奇想画家アルチンボルトを擁したルドルフ2世、ベラスケスを官僚として重用したフェリペ4世。
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【嵯峨天皇と空海】平城上皇の乱、
【吉備真備、数奇な人生、度重なる左遷、72歳で右大臣、81歳で死す】真備は、23歳で遣唐使42歳で帰国、19年唐に渡った学者として出発。聖武天皇、阿倍内親王(孝謙天皇)、歴代の天皇に仕える。阿倍内親王は阿修羅像のモデル。右大臣・橘諸兄、僧正・玄昉、東宮博士
【平治の乱1159年】藤原信頼と源義朝が、藤原信西にクーデタ。平清盛、熊野詣から京都へ戻り、後白河上皇、二条天皇を六波羅の清盛邸に救出。天皇と上皇を女装させて牛車に乗せる。源義朝、敗北。後継者、源頼朝、13歳、伊豆国に流される。後白河上皇、天下一の大天狗。
【保元の乱1156年】後白河天皇、崇徳上皇、兄弟の対立。藤原信西、藤原信頼の対立。平清盛、後白河天皇を武力により支持。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
「平治物語絵巻」三条殿夜討巻、鎌倉時代・13世紀後半。
 平治元年(1159)に勃発した平治の乱は、その3年前に起きた保元の乱とともに、武士の台頭を示す大きな変革の1つであり、源平争乱の幕開けとなる戦い。「平治物語絵巻」はその約100年後に制作された絵巻、もとは十五巻近い大作。
増山雪斎《孔雀図》、1801、雪斎は、本名を正賢(まさかた)と言い、江戸時代中期に伊勢長島藩(現在の三重県桑名市長島町)を治めた大名。
狩野山雪、老子、西王母図屏風、17世紀
アンソニー・ヴァン・ダイク《メアリー王女、チャールズ1世の娘》1637年頃
Museum of Fine Arts, Boston, Given in memory of Governor Alvan T. Fuller by the Fuller Foundation
カナレット(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)《サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、サン・マルコ沖から望む》1726-1730年頃
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参考文献
https://bit.ly/2Jc9WBY
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館・・・美の宴2012
https://bit.ly/2C5NsU6
ボストン美術館の至宝展、東京都美術館・・・陳容「九龍図巻」2017
https://bit.ly/3Of7s6v
ボストン美術館、肉筆浮世絵「江戸の誘惑」江戸東京博物館2006
ボストン美術館展 芸術×力・・・増山雪斎「孔雀図」、「平治物語絵巻」三条殿夜討
https://bit.ly/3cMgcUC
ボストン美術館展 芸術×力・・・藝術と権力の歴史
https://bit.ly/3vzfsJ6
――
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」・・・絶対権力者が手に入れられない秘宝
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族
http://bit.ly/2kSINKR
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国
https://bit.ly/2C7rE7K
――
ボストン美術館展 芸術×力、東京都美術館
2022年7月23日(土)~10月2日(日)
https://www.tobikan.jp/exhibition/2022_boston.html

2022年7月28日 (木)

ボストン美術館展 芸術×力・・・増山雪斎「孔雀図」、「平治物語絵巻」三条殿夜討

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』285回

私は思い出す。藝術を愛好した権力者、ロレンツォ・デ・メディチ、ヌムール公・ジュリアーノ・デ・メディチ、フランソワ2世。
【藝術と権力者】覇権争いで勝利した国家、封建領主、自由都市、王家の王女、富裕層、富裕商人。権力者は権力争いし、権力者は藝術を愛好し、藝術を外交に用いる。藝術と権力者の歴史をめぐる美術展。
思い出す。藝術を愛好した権力者、古代エジプト新王国ファラオ・ラムセス2世、アクエンアテン王。古代都市国家、アクラガス、アテナイ。ルネサンス、メディチ家、ロレンツォ・デ・メディチ、ヌムール公・ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス・ルネサンス、フランソワ2世、ハプスブルク家マリア・テレジア。嵯峨天皇と空海、後白河上皇。
【ハプスブルク家、蒐集家たち】デューラーを庇護したマクシミリアン1世、ボスを愛好したフィリップ美公、ティツィアーノを召し抱えたカール5世、ボスを蒐集したフェリペ2世、奇想画家アルチンボルトを擁したルドルフ2世、ベラスケスを官僚として重用したフェリペ4世。
【吉備真備、数奇な人生、度重なる左遷、72歳で右大臣、81歳で死す】真備は、23歳で遣唐使42歳で帰国、19年唐に渡った学者として出発。聖武天皇、阿倍内親王(孝謙天皇)、歴代の天皇に仕える。阿倍内親王は阿修羅像のモデル。右大臣・橘諸兄、僧正・玄昉、東宮博士
【平治の乱1159年】藤原信頼と源義朝が、藤原信西にクーデタ。平清盛、熊野詣から京都へ戻り、後白河上皇、二条天皇を六波羅の清盛邸に救出。天皇と上皇を女装させて牛車に乗せる。源義朝、敗北。後継者、源頼朝、13歳、伊豆国に流される。後白河上皇、天下一の大天狗。
【保元の乱1156年】後白河天皇、崇徳上皇、兄弟の対立。藤原信西、藤原信頼の対立。平清盛、後白河天皇を武力により支持。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
展示作品の一部
海を渡った二大絵巻
「吉備大臣入唐絵巻」平安時代・12世紀後半
遣唐使として唐へ渡った奈良時代の学者・吉備真備(695~775)が、唐人の難問に不思議な力で立ち向かうという物語を絵画化した作品。後白河法皇 (1127~1192)が制作させた絵巻コレクションの1つ、当時の絵所預であった常盤光長の筆と伝えられる。
「平治物語絵巻」三条殿夜討巻、鎌倉時代・13世紀後半
 平治元年(1159)に勃発した平治の乱は、その3年前に起きた保元の乱とともに、武士の台頭を示す大きな変革の1つであり、源平争乱の幕開けとなる戦い。「平治物語絵巻」はその約100年後に制作された絵巻、もとは十五巻近い大作。
《吉備大臣入唐絵巻》12世紀、奈良時代に活躍した学者・政治家である吉備真備の活躍を描いた
《平治物語絵巻 三条殿夜討巻》13世紀、平安時代末期、上皇派と天皇派の対立を背景に起こった平治の乱をテーマ
増山雪斎《孔雀図》、1801、雪斎は、本名を正賢(まさかた)と言い、江戸時代中期に伊勢長島藩(現在の三重県桑名市長島町)を治めた大名。
狩野山雪、老子、西王母図屏風、17世紀
アンソニー・ヴァン・ダイク《メアリー王女、チャールズ1世の娘》1637年頃
Museum of Fine Arts, Boston, Given in memory of Governor Alvan T. Fuller by the Fuller Foundation
カナレット(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)《サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、サン・マルコ沖から望む》1726-1730年頃
オスカー・ハイマン社、マーカス社のために製作《マージョリー・メリウェザー・ポストのブローチ》アメリカ 1929年
――
【ボストン美術館、日本美術、公開禁止理由】ボストン美術館、肉筆浮世絵、多数収蔵されている。例えば、傑作、画狂老人卍、北斎『鳳凰図屏風』など、秘蔵。「江戸の誘惑」2006年、以来公開禁止。ビゲローの遺言書により、ビゲローコレクション41.000点の公開禁止。
「江戸の誘惑」江戸東京博物館(2006年)に展示されている作品は、全てウイリアムス・スターシス・ビゲローが収集したコレクション。ビゲローの職業は本来、医師で、モースの導きにより1882年(明治15年)に初来日、日本美術に魅せられて東京に居を構え、モースやフェノロサと共に日本美術品収集の旅をした。更に貧しい日本画家を経済的に援助したり、奈良地方の宝物保存の為の融資を引き受けたりした。岡倉天心による日本美術院(横山大観、下村観山ら)創設時に、2万円(現在の金銭価値にして約2000万円)の寄付をして援助した。約7年間の日本滞在中に収集したコレクションは、浮世絵を始め様々な流派の絵画、刀剣、刀装具類、染織品、漆器、彫刻等、広い分野に渡り、その数は約41,000点に上る。ビゲローが集めたコレクションは、1つ残らずボストン美術館に寄贈され保管されている。明治維新の開国とともに、西洋化の一途を辿る日本に於いて、軽んじられがちだった日本の美術を再び見出し、収集したビゲローは、貴重な日本の伝統文化を美しく保存してくれた人物の1人。
「江戸の誘惑」(2006年)、これらビゲローコレクションは同題目として、110年ぶりに日本へ里帰りしている(神戸、名古屋、東京で展示)。長期に渡ってビゲローの遺志で、門外不出を執り、その数の多さゆえ謎に包まれていたが、1997年に日本からボストンへと研究員による調査団が送られ、初めて陽の目を見た作品も多くあった。これらを代表とするビゲローの700点に及ぶ肉筆画のコレクションは、版画とは異なって注文によって特別に描かれた「特注品」の1点物であり、その価値は、到底計り知る事が出来ない。
ボストン美術館展、肉筆浮世絵「江戸の誘惑」江戸東京博物館2006より
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参考文献
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館・・・美の宴2012
https://bit.ly/2C5NsU6
ボストン美術館の至宝展、東京都美術館・・・陳容「九龍図巻」2017
https://bit.ly/3Of7s6v
ボストン美術館、肉筆浮世絵「江戸の誘惑」江戸東京博物館2006

ボストン美術館展 芸術×力・・・増山雪斎「孔雀図」、「平治物語絵巻」三条殿夜討

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理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族
http://bit.ly/2kSINKR
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国
https://bit.ly/2C7rE7K
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古今東西の権力者たちは、その力を示し、維持するために芸術の力を利用してきました。威厳に満ちた肖像画は権力を強め、精緻に描写された物語はその力の正統性を示します。
また、力をもつ人々は、自らも芸術をたしなんだほか、パトロンとして優れた芸術家を支援しました。その惜しみない支援によって、数多くのすばらしい芸術作品が生み出されたのです。
さらに、多くの権力者たちは貴重な作品を収集し、彼らが築いたコレクションは、今日の美術館の礎ともなっています。
本展では、エジプト、ヨーロッパ、インド、中国、日本などさまざまな地域で生み出されたおよそ60点の作品をご紹介します。私たちが鑑賞する芸術作品が本来担っていた役割に焦点を当て、力とともにあった芸術の歴史を振り返ります。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2022_boston.html
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ボストン美術館展 芸術×力、東京都美術館
2022年7月23日(土)~10月2日(日)

2021年7月 7日 (水)

三菱の至宝展・・・幻の曜変天目

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Youhentenmoku-2019-2021
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第247回

初夏の午前、三菱一号館美術館に行く。三菱150年。岩崎弥太郎、弥之助、久弥、小弥太、4代のコレクションの展示。岩崎弥太郎はどうして成功したのか。曜変天目をみると、茶の湯を愛好した織田信長を思い出す。
【織田信長、理念と中世的権力との戦い】「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。幸若舞」「敦盛 」、麒麟、天下布武、武の七徳、第六天魔王、明晰透徹、安土城天主七層五階、安土宗論、千宗易、狩野永徳、本因坊算砂、天下一の達人
【曜変天目、建窯、南宋12-12世紀】稲葉天目、大徳寺龍光院、藤田美術館。天下に3碗あるとされるが、もう一つあった。幻の曜変天目。それはだれが所持したか。天王寺屋、津田宗及を経て曜変天目が、大徳寺龍光院に伝った。
【曜変天目、稲葉天目、建窯、南宋12-12世紀、3代将軍家光の乳母春日局旧蔵】曜變、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり、茶碗四寸五分位、高臺ちひさし、土味黒く、薬たち黒く、粒々と銀虫喰塗の如くなるうちに、四五分位丸みにて鼈甲紋有之、めぐりはかな気にて見事なり、星の輝くが如し。(名物目利聞書)
【織田信長と耀変天目茶碗】永禄11(1568)年、織田信長が上洛。天王寺屋、津田宗及の屋敷で、会合衆の集会。永禄12年(1569)百人余りが終日宴を張った。本能寺の茶会、天正10(1582)年6月2日、信長は足利義政所伝の耀変天目茶碗を所持していたが本能寺の変で焼失した。
【織田信長、本能寺の茶会、本能寺の変、天正10年6月2日】
信長は、天正10年(1582)5月29日、僅かの供を連れただけで安土を出発、その日の内に京都の本能寺に入った。信長が京都における宿所としてよく使っていたのが本能寺と、法華宗寺院の妙覚寺で、この時、信長は本能寺を宿所とした。本能寺は、堀と土塁に囲まれ、城郭寺院。本能寺は自ら京都に城を持たなかった信長の定宿であった。
太田牛一『信長公記』によると、5月29日の信長一行は、「御小姓衆二、三十人召列れられ、御上洛」とある。御小姓衆が20~30人で、その他に警固の武士もいるので、少なくとも100人はいた。『当代記』には「百五十騎」とある。
【備中高松城水攻め、羽柴秀吉】信長は安土と京都を往き来している。このときの上洛の目的は何だったのか。ひとつは、備中への出陣のためである。備中高松城を水攻めしている羽柴秀吉からの要請を受け、明智光秀をその応援に向わせ、首尾を見届けるための形式的な出陣。
【三職推任】主目的と思われる朝廷からの「太政大臣か関白か征夷大将軍か、お好きな官に任命しよう」という、“三職推任”に対する返答をするためだったと考えられる。
【天下三肩衝】信長のねらいは、信長が安土城から名物茶器として名高い九十九茄子・珠光小茄子・紹鷗白天目・小玉澗の絵・牧谿のくわいの絵など天下の逸品38種を運ばせていた。本能寺で大茶会を開くのが目的だった。茶会には、博多の豪商島井宗室のほか、近衛前久ら公家たちが招かれている。茶会の後酒宴になり、信長は本因坊算砂の囲碁の対局をみて床についた。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

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展示作品の一部
国宝《曜変天目(「稲葉天目」)》建窯、南宋時代(12~13世紀)、(公財)静嘉堂蔵
国宝《源氏物語関屋澪標図屏風》のうち「関屋図」、俵屋宗達、江戸時代・1631(寛永8)年、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:8月18日(火)~9月22日(火)】
国宝《風雨山水図》伝馬遠、南宋時代(13世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
重要文化財《龍虎図屏風》のうち「虎図」、橋本雅邦、1895(明治28)年、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
『イエズス会士書簡集(アントワネット旧蔵書)』18世紀、(公財)東洋文庫蔵
重要文化財《太刀 銘 髙綱 (附 朱塗鞘打刀拵)》古備前高綱、鎌倉時代(12~13世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
大名物《唐物茄子茶入 付藻茄子》南宋~元時代(13~14世紀)、(公財)静嘉堂蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
『八千頌般若経』17~19世紀、(公財)東洋文庫蔵
国宝《倭漢朗詠抄 太田切》平安時代(11世紀)、(公財)静嘉堂蔵【会期中場面替えあり】
国宝『古文尚書』初唐時代(7世紀)、(公財)東洋文庫蔵【展示期間:8月18日(火)~9月22日(火)】
国宝『春秋経伝集解』平安時代(12世紀頃)、(公財)東洋文庫蔵【展示期間:7月8日(水)~8月16日(日)】
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参考文献
「桃山―天下人の100年」3・・・茶の湯、足利義政、織田信長、今井宗久、千宗易、豊臣秀吉、楽長次郎
https://bit.ly/35ZPK2F
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
三菱の至宝展・・・幻の曜変天目
https://bit.ly/3yzJMSK
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土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた岩崎弥太郎が、苦心惨憺の末、知人を誘って海運業を営む九十九商会――現在の三菱を興したのは、明治3年(1870)のことであった。今年令和2年(2020)は、それから数えて150周年の節目に当たっている。これを記念する特別展が、この「三菱の至宝展」にほかならない。
三菱ゆかりの静嘉堂文庫と東洋文庫、三菱経済研究所、三菱一号館美術館、さらに三菱金曜会や広報委員会が力を合わせ、その優れたコレクションの全貌を堪能していただけるよう智恵を絞った。三菱が文化的に果してきた貢献――現代の言葉でいえばフィランソロフィーをも感じ取っていただければ望外の喜びである。
三菱一号館美術館は、来日して我が国近代建築の基礎を築いたイギリスの建築家ジョサイア・コンドルが設計建設した、三菱一号館をそのままに復元してなったものである。またコンドルは、弥之助の深川邸洋館、高輪邸、久弥の茅町本邸、小弥太が弥之助3回忌に際して建てた世田谷区岡本の廟なども手がけている。
その後久弥が駒込に建てた東洋文庫、小弥太が岡本に造った静嘉堂文庫は、コンドルにも学んだ桜井小太郎が完成させたものである。このように三菱・岩崎家が愛して止まなかったコンドルが没してから、今年は100周年の節目にも当たっている。
饒舌館長 http://jozetsukancho.blogspot.com/
http://jozetsukancho.blogspot.com/2021/07/blog-post_03.html
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三菱創業150周年記念 三菱の至宝展、三菱一号館美術館、6月30日(木)-9月12日(日)

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