大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第327回
春爛漫、躑躅、咲く。桜満開の京都を思い出す。「法然と親鸞」(東京国立博物館2011年)。
親鸞の最も著名なことばである。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(唯円『歎異抄』第三条)、悪人正機。悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。仏教は、智慧と慈悲の獲得を目ざし実践する教えである。浄土仏教は、智慧を身につけさとるより、阿弥陀如来の慈悲による救いを他力本願すること。私を救わずにおかない阿弥陀如来の願いのままに、阿弥陀如来の智慧と慈悲に導かれて生きる生き方が他力本願。専修念仏を親鸞は説く。「親鸞は弟子一人ももたず候」(唯円『歎異抄』第六条)
【承元の法難】1204年、比叡山の衆徒から法然教団に対して専修念仏を禁止すべきという声が上がる。1205年、興福寺から朝廷に法然教団には9ヶ条の過失「興福寺奏上」提出。1206年、建永元年、後鳥羽上皇の女官が法然教団の法会に参加、外泊。承元元年1207年、後鳥羽上皇と興福寺とが一致して専修念仏を弾圧。専修念仏を禁止。法然は土佐国、親鸞は越後国、流罪。法然は75歳、親鸞は35歳。
親鸞「南無阿弥陀仏と念仏すれば、往生浄土、西方浄土に往生できる」と布教、多くの信徒を獲得、強大な浄土真宗教団を作る。九条兼実の娘と三善為教の娘と結婚、7人の子をなした。
【蓮如】本願寺派第8世宗主・蓮如(1415-1499)は、「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』)、「自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀仏の救いは向けられる」悪人正機、布教し、教団を再興。5度婚姻、27人の子を生じた精力家。
【石山戦争】本願寺派第11世宗主・顕如(1543-1592)は、摂津加賀の戦国大名と化した石山本願寺、教団を率いて、10年間、元亀元年~天正8年(1570~80)、織田信長と戦い、敗北、正親町天皇の勅命講和により、石山本願寺より退去。
「飢えた子どもは餓鬼となる。飢えた人は悪をなす。念仏で飢えた人を救うことができるのか。飢えた人の飢えを満たすのは親子丼、天丼、かつ丼である」「本願寺教団は軍事組織となり、百姓の国は飢餓を救うことができたのか。教団は新たな搾取階級となり、本願寺教祖階級は、どこまでも続くのか。」
【親鸞、2人の妻、7人の子。親鸞教団、王朝の始まり】親鸞(1173~1262)。『日野一流系図』に記される九条兼実の娘である玉日姫、『恵信尼文書』で知られる三善為教の娘である恵信尼、六角堂の夢告で親鸞が恵信尼を観音菩薩の化身と考え『恵信尼文書』において恵信尼も親鸞を観音菩薩の化身と考えていたと書かれる。互いを阿弥陀如来の慈悲のあらわれと思った。長男は玉日姫との間に生まれたとされる範意、第二子以降は恵信尼との間に生まれる小黒女房、慈信房善鸞、信蓮房明信、益方大夫人道有房、高野禅尼、覚信尼の計7人である『日野家一流系図』。
親鸞(1173~1262)、蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)、親鸞の教団は、民衆を救ったのか。専修念仏、南無阿弥陀仏、他力本願の浄土仏教は、阿弥陀如来の浄土へ往生浄土させることができるのか。
民衆に極楽往生の門を開いた法然。悪人女人救済の仏道を説いた親鸞。踊り念仏・遊行を勧めた一遍。念仏を唱えれば阿弥陀浄土に往生すると布教する浄土仏教、真実は何か。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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2023年は浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたります。1173年、親鸞は京都に生まれ、9歳で出家して比叡山で修行に励みますが、29歳で山を下り、法然上人の弟子となります。そこですべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏の教えに出遇うも、法然教団は弾圧を受け、親鸞も罪人として還俗させられ越後に流罪となります。その後、罪が赦された親鸞は、関東へ赴き長く布教に励み、やがて京都へと戻り、晩年まで主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)や「和讃」など多くの著作の執筆や推敲を重ねました。1262年没す。その90年の生涯と教えは、今も多くの人を魅了して止みません。京都国立博物館
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「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『歎異抄』第三条)
「親鸞、唯円『歎異抄』の思想を通じて近代の知識人は、宗教を考えてきた。西田幾多郎、司馬遼太郎、丹羽文雄、遠藤周作、五木寛之、吉本隆明、梅原猛、子安宣邦。「人は、生まれながら罪を背負っているという「原罪」の思想が浸透している。」釈徹宗
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蓮如(1415-1499)、顕如(1543-1592)
大坂本願寺 大坂の始まり
【妖怪、本願寺蓮如、5度婚姻、27人の子を生じた精力家。85歳】妻の死別を4回に渡り経験、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人。1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる【加賀一向一揆】は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出。浄土真宗大谷派、1496年晩年、大坂本願寺、建設。3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没【曾孫顕如の代に摂津・加賀の戦国大名へ繁栄、顕如、織田信長に降伏】
【石山本願寺戦争 本願寺顕如、摂津・加賀の戦国大名、織田信長に降伏】本願寺証如 と顕能尼の子。諱は光佐。天文23(1554)年12歳で継職。本願寺11世、教団を経営。1570年(元亀1)9月、浅井朝倉と呼応して織田信長と対立、諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。天正8年4月9日、正親町天皇の勅命によって講和し石山本願寺を退出。豊臣秀吉から天正19(1591)年3月京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地である。文禄1 (1592)年50歳で没す。
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親鸞の思想
1、他力本願
阿弥陀仏がすべての人を救う。自らの力でさとりをひらくことができないものが歩む仏道。阿弥陀仏がすべての人を救う願いの力。『仏説無量寿経』浄土に往生するためには信心と念仏が必要。と親鸞は説いた。
2、悪人正機
悪人とは、法律、道徳を基準による悪人ではなく、仏教を基準にした悪人。自力本願できない、自らの力で迷いを離れることができない人。煩悩具足の凡夫にこそ阿弥陀如来の救いはある。「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」『歎異抄』第三条。
3、往生浄土と南無阿弥陀仏
往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生まれること。浄土仏教において、仏の世界に往き生まれること。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏を敬いよりどころとする称名念仏。
4、法然の教え 親鸞の師「専修念仏」『選択本願念仏集』
長承2(1133)年4月7日 美作-建暦2(1212) 年1月25日 京都、没。79歳。
法然(1133-1212)浄土宗の開祖。諱は源空で,法然房と号した。幼名は勢至丸。9歳で父を失い,叔父の観覚に従って剃髪。15歳で比叡山に登り源光,皇円に師事。18歳黒谷の叡空に学び,24歳京都,奈良で各宗の奥義を研究,のち黒谷に帰って大蔵経を閲読。承安5 (1175) 年3月善導著『観無量寿経疏』の「散善義」を読んで浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えた。文治2 (86) 年勝林院で浄土の法義を談論 (大原問答 ) 。建永2 (1207) 年、帰依する者がふえると既成仏教教団の反感をまねき、念仏は禁止。諸宗の嫉視により土佐に配流。のち許されて建暦1 (11) 年吉水の禅房に帰り,翌年没す。80歳。
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展示作品の一部
国宝 三十六人家集 西本願寺 12世紀
国宝 親鸞聖人影像(安城御影副本)(賛・裏書)蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺 奈良国立博物館(3月25日~4月2日展示)
刺繡阿弥陀如来像 室町時代(15世紀)福井 誠照寺(3月25日~4月23日展示)
国宝 観無量寿経註 親鸞筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月30日展示〈巻替あり〉)
重要文化財 本願寺聖人伝絵(康永本)上巻 本(詞書)覚如筆 (絵)康楽寺円寂筆 南北朝時代 康永2年(1343)京都 東本願寺(5月2日~5月21日展示)
重要文化財 歎異抄 巻下 蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺(3月25日~4月9日展示)
重要文化財 善鸞義絶状(部分)顕智筆 鎌倉時代 嘉元3年(1305)三重 専修寺
覚信尼絵像 室町~桃山時代(16世紀)新潟 福因寺
重要文化財 顕智坐像 鎌倉時代 延慶3年(1310)栃木 専修寺
重要文化財「恵信尼書状類」のうち(第3通)(部分) 恵信尼筆 鎌倉時代(13世紀)京都 西本願寺(5月2日~5月21日展示)
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参考文献
釈徹宗『仏にわが身をゆだねよ』NHK出版
釈徹宗、佐々木隆晃「『歎異抄』に出会う」2023
梅原猛『地獄の思想』
末木文美土『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』新潮社1992
末木文美土『仏典を読む 死から始まる仏教史』新潮社2009
「法然と親鸞 ゆかりの名宝」東京国立博物館・・・宗教は麻薬
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝・・・『歎異抄』善人なほもて往生をとぐ
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親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞—生涯と名宝、京都国立博物館、3月25日(土)~5月21日(日)
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