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仏教

2021年8月18日 (水)

法隆寺と聖徳太子・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第251回

仏陀入滅から1000年、7世紀、日本に到達した。仏像彫刻、寺院は、建設されたが、仏陀の思想と学んは、この国において学ばれたのか。
仏陀入滅から1000年
522年、来朝した梁の司馬達等(止利仏師の祖父)が仏教伝来。百済の聖明王(聖王)は中国南朝梁の武帝から冊封され仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うために、欽明天皇に公伝。
【仏教1000年の旅】仏陀入滅80歳(BC485年383年)、アレクサンドロス大王バクトリア征服(BC328)、ガンダーラ美術(1世紀-3世紀頃)、ヴァスバンドゥ(世親320-400年) 『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』、アジャンタ石窟寺院(グプタ朝時代5世紀)、鳩摩羅什(4世紀)、魏晋南北朝(司馬炎-589年まで)、北魏の孝文帝、皇帝菩薩と称された梁の武帝、北魏様式南梁様式(6世紀)、隋帝国(581~618)、飛鳥(7世紀)、唐帝国(618-907)、玄奘三蔵(7世紀)、敦煌莫高窟、白鳳美術(7世紀)、天平美術(8世紀)、不空(705-774)、恵果(746-805)、空海(774-835)、密教美術(9世紀)
【仏教公伝】7世紀、聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【密教への旅】『華厳経』4世紀頃中央アジアで成立、漢訳は東晋の仏駄跋陀羅訳の60巻本、唐の実叉難陀訳の80巻本、唐の般若訳の40巻本の3種。7世紀『大日経』『金剛頂経』『理趣経』(不空が763年から771年にかけて訳した訳本)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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殺戮の飛鳥、厩戸皇子の謎、法隆寺の謎
蘇我馬子は物部守屋一族を滅亡させ、崇峻天皇暗殺、推古天皇を即位、厩戸皇子を摂政とした。蘇我馬子は厩戸皇子とともに『天皇記』『国記』を編纂。蘇我馬子の画いたシナリオによって生きた厩戸皇子。中大兄皇子と中臣鎌足を動かした皇極天皇と軽皇子、姉弟。中大兄皇子と中臣鎌足の使嗾によって蘇我入鹿により滅亡させられた山背大兄王一族。蘇我入鹿により炎上した斑鳩宮。天智天皇時代に炎上した斑鳩寺。天武天皇の后、持統天皇によって再建された法隆寺。聖武天皇、光明子、阿倍内親王によって建築された夢殿。
【厩戸皇子の謎】王位継承権をもつ王家。49歳で死去。死因は諸説紛々。聖徳太子は、物部守屋一族襲撃に参加し、推古1年、四天王寺創建。物部氏一族を四天王寺の奴婢とした。聖徳太子の子、山背大兄王一族は、中大兄皇子と中臣鎌足に使嗾された蘇我入鹿によって襲撃され滅亡。斑鳩宮炎上、斑鳩寺にて自刃。
【法隆寺の謎】厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺は炎上、飛鳥時代の伽藍は一つも残存せず。夢殿は、天平時代の伽藍。聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王が関与。法隆寺、西院伽藍は、世界最古の木造建築と言われるが、持統天皇時代に建立、正確な建築年代不明。鞍作登利様式の飛鳥時代彫刻はどこにあったか謎である。
【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【四天王寺創建、推古天皇、1年】【四天王、仏法を守護する王】四天王を支配するのはインドラ。須彌山の中腹にある四王天の主で、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天または毘沙門天のそれぞれを主宰する王の総称。八部衆を支配して帝釈天に仕え、仏法と仏法に帰依する人々を守護する。
【法隆寺、東院伽藍】上宮王院といい、八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿【山背大兄王一族滅亡643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮】跡に【739年(天平11)僧行信により造営】され、北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。西院伽藍の東方に隣接する。
【夢殿、夢違観音】法隆寺の大宝蔵殿に安置されている聖観音菩薩立像。国宝。銅製鍍金で像高 87.3cm。頭部の三面宝冠と台座は別鋳で本体は一鋳になり,内部は空洞。像名の「夢違」は,江戸時代に書かれた『古今一陽集』に、「悪い夢を見たとき,この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来し、一般に親しまれている。白鳳時代の代表作の一つ。なお台座は江戸時代の後補。
【金堂、薬師如来】推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。
【阿弥陀三尊像、橘夫人念持仏と伝える】光明子の母、橘三千代=県犬養三千代は阿弥陀如来を信仰。唐代のより完成した様式への接近を窺わせる。飛鳥初期ではない。白鳳時代。
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 - 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
当館と法隆寺ではこれを記念して、特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」を開催します。 2004年3月2日(火)~4月11日(日)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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美術史の謎
1,飛鳥美術

【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
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【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
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【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
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【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
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2,白鳳美術
【白鳳時代】奈良時代にこの時代を白鳳・朱雀と呼んだのに基づく。白鳳は白雉(650年-654年)、朱雀は朱鳥(686年)という年号の美称。壬申の乱(672年)を境に2期に区分できる。後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてのインドの影響も現れる。「薬師寺金堂の薬師三尊像、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩」の豊満な彫刻、焼失した「法隆寺壁画」「夢違い観音」「阿弥陀三尊像」「山田寺仏頭」。
飛鳥時代と天平時代とにはさまれる、大化元年(645)から和銅三年(710)の平城京遷都まで。前期には飛鳥時代の様式も残しているが、中国北斉・北周の影響が見られ、後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてインド(アジャンタ)の影響がある。
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3,天平美術
【天平美術】不空羂索観音像、日光菩薩、月光菩薩、執金剛神像、釈迦十大弟子像、八部衆像734年、阿修羅像(734年)、鳥毛立女屏風 樹下美人図。
【東大寺】毘盧遮那仏、平重衡による南都焼討(再興は重源、陳和卿)、松永・三好の兵火(再興は公慶)で二度焼失。天平時代のオリジナル部分が残っているのは、台座の三千蓮華像世界。
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参考文献
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎
https://bit.ly/3yCIpDo
法隆寺と聖徳太子・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
――
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
――
「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

2021年8月12日 (木)

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第250回

法隆寺と厩戸皇子は、謎に満ちている。厩戸皇子は、何を理想とし、何を苦悩し、何を成し遂げたのか。
【法隆寺の謎】斑鳩宮と斑鳩寺は、なぜ焼失したのか。斑鳩寺は、なぜ、法隆寺として再建されたのか。斑鳩宮は、なぜ、夢殿として再建されたのか。
厩戸皇子の子、山背大兄王一族は、なぜ襲撃され、斑鳩寺で自刃し一族滅亡したのか。山背大兄王を襲撃した真犯人はだれか。
根本的な謎が蘇る。厩戸皇子は49歳で死ぬ。前年、生母、穴穂部間人皇女が死す。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人死す。疫病といわれるが、死因は何か。
厩戸皇子は、いつから、聖徳太子、となったのか。斑鳩寺の焼失後、釈迦三尊像、救世観音、薬師如来坐像、鞍作登利様式の仏像は、どこに保存されたのか。
――
理念を探求する精神は、現実と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
1,
厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。
飛鳥時代は、知性のない殺戮の時代。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡【厩戸皇子】厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。「和を以て貴しとなす、厚く三宝を敬え仏法僧」十七条憲法、法華義疏。推古天皇元年(593)四天王寺創建。【丁未の乱】蘇我馬子の物部守屋一族滅亡、祝勝の寺。斑鳩寺創建。
【蘇我馬子の権力闘争と厩戸皇子=聖徳太子は一体化】王位継承問題、相続問題。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡

2,
【斑鳩宮、斑鳩寺の謎】なぜ、消失したのか。
厩戸皇子(聖徳太子)が建てた、斑鳩宮(601)、斑鳩寺(607)は、なぜ、僅か42-63年で消失したのか。皇極時代、天智時代、炎上した。

【法隆寺の謎】2度、炎上。皇極時代、天智時代、
【斑鳩寺】厩戸皇子、推古天皇15年(607年)、斑鳩寺創建。推古天皇30年(622年)、厩戸皇子、49歳で死去。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、聖徳太子の子山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、斑鳩寺にて自刃。襲撃の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画。【乙巳の変】中大兄と中臣、蘇我入鹿、殺害。山背大兄王襲撃と一体のクーデタ。
【斑鳩宮】『日本書紀』によれば、聖徳太子=厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、炎上。
夢殿、天平11年、行信によって再建。
――
【中大兄皇子と中臣鎌足によって粛清、殺された人々】蘇我入鹿。山背大兄王自刃。【天武天皇によって粛清、殺された人々】中大兄皇子、皇極天皇の子。皇極天皇は、女帝であり、その子は王位継承できない。
――
3,
【法隆寺の謎。なぜ、再建されたのか】
【斑鳩寺と斑鳩宮、炎上の原因】1,斑鳩宮炎上、山背大兄王自刃一族滅亡(643年)の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画、皇極天皇の子が、天智・天武。2,斑鳩寺、炎上は、天智時代(670)。
【斑鳩寺】厩戸皇子、607(推古15)年、斑鳩寺を創建。605年、推古天皇、太子に「丈六仏像 銅像と塑像」作らせる詔。606年、銅像を飛鳥寺に納める。621(推古29)聖徳太子、薨去。622(推古30)推古天皇、「金堂釈迦三尊像」完成。若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』

【法隆寺、再建したのはだれか】
【法隆寺】法隆寺金堂、天智9年(670)の火災後に建立された、現存の西院伽藍、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成。

【斑鳩宮、再建したのはだれか】
【斑鳩宮】厩戸皇子、601年(推古9)斑鳩宮を創建。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。斑鳩宮、炎上。
【救世観音像】『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙)に奏聞し、天平十一年(739) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂(夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
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4,
【厩戸皇子、聖徳太子の謎】厩戸皇子は、いつから、聖徳太子と呼ばれたのか。聖徳太子の意味は何か。斑鳩寺、607年、創建。いつから、法隆寺と呼ばれたのか。釈迦三尊像光背銘、法華義疏。「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。
しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」(623年)
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【厩戸皇子『十七条憲法』】推古天皇12年(604年)厩戸皇子(聖徳太子)31歳の時、作った。
「以和爲貴。無忤爲宗」。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、聖徳太子49歳で死亡、山背大兄王自刃。殺人と疫病の飛鳥時代、以和爲貴(和をもって貴しと爲し)とは、ありえない夢。
以和為貴。無忤為宗。
第一条、「和をもって貴しと爲し、忤(さから)うること無きを宗と爲せ」
二に曰く、篤く三寶を敬へ、三寶とは佛と法と僧となり
日本の名著I「日本書紀」』責任編集・井上光貞。
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5、聖徳太子と蘇我馬子
【蘇我馬子】穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇を暗殺。女帝推古天皇を擁立、聖徳太子を摂政とする。聖徳太子は、49歳で死ぬ。推古女帝は、推古36年、統治74歳。蘇我馬子は、73歳で天寿を全うする。

【蘇我馬子、飛鳥寺】武略と弁才を有し、三宝を恭敬した。法興寺(飛鳥寺)の造営に着手。推古1 (593) 年に塔に仏舎利が奉安。本尊は606年(推古天皇14)止利仏師作、丈六の金銅釈迦如来像。桃原墓に埋葬、明日香村石舞台古墳に比定される。子は蝦夷。孫、入鹿。
――
★★★★★
仏教美術史の謎 飛鳥、白鳳、天平
【仏教美術史】飛鳥(北魏、南梁様式)、白鳳、天平、弘仁貞観、平安後期、鎌倉時代。
推古天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王、孝謙女帝、嵯峨天皇。仏教美術は、古代王家の文化として展開。日本美術史で、最も美しい仏教彫刻は何か。
1、
【法隆寺、仏像の謎】斑鳩寺の仏像、飛鳥時代の仏像は、斑鳩寺炎上とともに保管する場所を失った。どこに所蔵されていたのか。
【飛鳥美術、北魏様式、南梁様式】飛鳥美術は、北魏様式、南梁様式。法隆寺、鞍作止利は、北魏様式。板耳、杏仁形の目の表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座、鰭のような裳裾、男性的な容姿。623年、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像。南梁様式は、中宮寺、広隆寺、半跏思惟像。
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2.
【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
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【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
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【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
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【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
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★参考文献
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

2021年7月25日 (日)

聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第249回

灼熱の上野公園を歩いて、博物館に行く。斑鳩寺、飛鳥、白鳳美術に、心癒される。
【厩戸皇子、何を夢み何に苦悩したのか】厩戸皇子はなぜ「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と言ったのか。厩戸皇子は、何を理想とし何に苦悩したのか。「法華義疏」を見ると微細な文字で書かれ、訂正と消字と貼り紙が施されている。神経質な性格が感じられる。606年に皇子が推古天皇に講義した草稿であるとされる。「花あれば必ず実あり。善あれば必ず成仏することを表せんと欲す」「法華義疏」
【血に塗れた飛鳥、厩戸皇子】587年、馬子と厩戸皇子、守屋を襲撃、物部氏一族滅亡。622年、厩戸王子、49歳で死す。生母、穴穂部間人皇女、妃の膳大郎女が死去、三人が死ぬ。643年、入鹿、斑鳩宮を襲撃山背大兄王自刃、一族滅亡。645年、中大兄皇子と中臣鎌足、入鹿を襲う、蘇我氏一族滅亡。649年、右大臣、蘇我倉山田石川麻呂、斬首。658年、有間皇子、絞首刑。中大兄皇子と鎌足が関与。
【天智と天武の死闘】672年、大海人皇子、大友皇子を襲撃、大友皇子、自刃。672年(天武1)天武天皇、飛鳥板葺宮で即位。686 年(朱鳥2)、器量才幹が抜群な大津皇子、謀反自害。689年、草壁皇子急逝。690年、持統、即位。持統は天武を神格化。
【謎の生涯、聖徳太子、厩戸皇子】754年誕生。585年、12歳の時、父、用明天皇、即位。587年、14歳の時、父、用明天皇、崩御。蘇我馬子、物部守屋を襲撃する、厩戸皇子、蘇我軍に加わり、守屋を殺害。592年19歳の時、崇峻天皇、馬子に暗殺される。593年20歳の時、推古天皇、即位。皇太子、摂政となる。四天王寺、建立。601年、斑鳩宮、造営。607年、小野妹子、第2回遣隋使として派遣。法隆寺を創建。620年馬子とともに『天皇記』『国記』編纂。622年、聖徳太子、斑鳩宮で死す。49歳。
【蘇我馬子、物部守屋を襲撃、物部氏一族滅亡】仏教の受容をめぐって蘇我馬子と物部守屋の戦いが起き、聖徳太子ら加わり、襲撃して物部氏を滅ぼす。
【丁未の乱】587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。物部守谷の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされた『四天王寺御手印縁起』。
【法隆寺木造四天王立像】日本書紀によれば、587年の蘇我馬子と物部守屋との戦いに加わるに際し、聖徳太子が「勝利した暁には四天王寺を建てる」と誓いを立て、593年、戦勝に感謝して建立したとされる。広目天、増長天、持国天、多聞天の順。法隆寺金堂所蔵。
【仏教公伝】聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【厩戸皇子、聖徳太子、墓】聖徳太子は、三経義疏を著。法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7寺を建立した。墓は磯長(しなが)谷(大阪府太子町)の叡福寺の伽藍北側にあり,叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まる。厩戸皇子の心の声、魂の言葉は何か。
「世間虚仮、唯仏是真」(せけんはこけなるも、ただほとけのみこれまことなり) 『天寿国繍帳』、「諸悪莫作、諸善奉行」(もろもろのあしきことをばなせそ。もろもろのよきわざをおこなへ) 『舒明即位前紀』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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斑鳩寺、斑鳩宮、法隆寺、西院伽藍、東院伽藍、夢殿
【仏教公伝】『日本書紀』(720年成立)で、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記される。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされる。
【三経義疏】『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存している。梁の法雲(476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文である。
【斑鳩寺、法隆寺】厩戸皇子は、自らが住む斑鳩宮に隣接して法隆寺を創建。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年(607)、同年、小野妹子が遣隋使として中国大陸に派遣される。法隆寺の創建は冠位十二階制定(603年)以降の目覚ましい転換期。その名が意味する「仏法興隆」を推し進める中心地であった。
【法隆寺最初の伽藍、若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』】再建された現在の西院伽藍。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築、創建以来変化なく伝えられた内陣は、奇跡の空間。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像が安置されている。金堂と五重塔ゆかりの仏像を中心に、その荘厳な世界がある。
【東院伽藍】聖徳太子が住んだ斑鳩宮。天平11年(739)、その跡地に建立されたのが東院伽藍、行信が創建した上宮王院。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像であり、創建にあたって太子の遺品類も集められた。
【山背大兄王一族滅亡、斑鳩宮消失】皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があった。
夢殿後方の絵殿・舎利殿には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点であった。聖徳太子の遺徳を称える聖霊会、10年に一度行われる大会式等、東院伽藍にまつわる華やかな法要がある。
天平13年(741)、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇、盧舎那大仏の造立を企図。天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖徳太子信仰の変遷
【平安時代後期12世紀、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰】太子も中心的な信仰の対象となった。その代表作が聖徳太子の500年遠忌に制作された法隆寺聖霊院の秘仏本尊「聖徳太子および侍者像」保安2年(1121)。
【鎌倉時代13世紀、孝養像】角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿が作られる。太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。
【金銅阿弥陀三尊像、光明皇后の母、橘夫人念持仏厨子】法隆寺蔵の厨子、7-8世紀。なかに橘夫人(橘三千代)の念持仏であった金銅阿弥陀三尊像を安置する。厨子、像ともに奈良時代の作。屋蓋の形式は法隆寺金堂内部の天蓋に似、龕身四方の扉と須弥座に描かれた絵は法隆寺金堂壁画の手法に近い。透彫の光背,流麗な浮彫で菩薩を表した後屏(こうへい)、三尊をささえる床に施した精緻な蓮池。
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聖徳太子の謎、だれが聖徳太子と呼んだのか
【厩戸王子、聖徳太子、死の謎】推古30(622)年、厩戸王子、49歳で死す。前年、生母、穴穂部間人皇女が死亡。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人が死ぬ。3人は同じ墓に埋葬された。疫病説。暗殺あり。馬子が関与か。
【王陵の谷、古代の道、飛鳥と難波宮を結ぶ、竹内街道、推古天皇陵、聖徳太子の墓】推古天皇21(613)年に難波から飛鳥の都に至る「大道」が置かれた『日本書紀』。推古天皇15(607)年に遣隋使として派遣された小野妹子が、翌年帰京の際に裴世清という使者を連れてくる。難波津から飛鳥へ。斑鳩寺(法隆寺)は、厩戸皇子。飛鳥寺(法興寺は、蘇我馬子が創建。聖徳太子の墓、南河内郡太子町、叡福寺にある。
【中大兄と中臣鎌足、蘇我氏を滅ぼす。645年、乙巳の変】天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取すること。田村圓澄『仏教伝来と古代日本』。その後、王権神授説(『金光明経』)で天皇支持を明確にした仏教、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教。第45代聖武が大仏造営。
【物欲、名誉欲、地位欲、腐敗した魂に蝕まれた国】持ち物を捨てれば捨てるほど、あなたの魂の表面から所有欲という曇りが消え、その魂は真実の輝きを取り戻す。『ガンディー 魂の言葉』)【動物は食欲と性欲と生存欲だけである。本能で動く。物欲があるのは人間だけである。池田清彦】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
「法華義疏」天平19年(747)法隆寺伽藍縁起に、上宮聖徳法王の著とされている。
重要文化財 菩薩立像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵、釈迦三尊像の脇侍と同型
国宝 天寿国繡帳、飛鳥時代・推古天皇30年(622)頃 奈良・中宮寺蔵
「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」と書かれている。正しくは「王所告”世 間虚仮唯 仏是真玩」となり、この中の「世間虚仮 唯仏是真」だけを抜き出している。聖徳太子が亡くなった後、橘妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという帷(とばり)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繡によって表されており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品。
国宝 薬師如来坐像、飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺蔵
金堂東の間の本尊。口もとに微笑みを浮かべた神秘的な顔立ち、文様的な裳懸座(もかけざ)などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。光背背面の銘文によれば、丁卯(ひのとう)年(607)にこの薬師如来像を造立したとある。しかし、癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した、金堂中の間の釈迦三尊像に比べ、鋳造技術などに進歩がみられるため、制作年代は釈迦三尊像よりも後だと考えられている。飛鳥時代を代表する仏像の一つだが、謎も多い。
国宝「阿弥陀如来脇侍像(伝橘夫人念持仏)」厨子。光明子の母、橘夫人、橘三千代(県犬養三千代)、天平5年(732)に没した。阿弥陀浄土信仰をもっており、光明皇后が母の供養のため法隆寺金堂に奉納した。白鳳時代。法隆寺蔵
国宝「四天王像」広目天、多聞天、
国宝 行信僧都坐像 奈良時代・8世紀 奈良・法隆寺蔵
夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置される。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝える。意志の強そうな風貌の威厳ある姿が、写実的に表現されている。奈良時代肖像彫刻の傑作のひとつ。
重要文化財 聖徳太子(孝養像)鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺蔵【後期展示:8月11日(水)~9月5日(日)】
角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、病床に侍って看病した際の様子を描く。太子の肖像のなかでも代表的な作例の一つである。
国宝 聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子、平安時代・保安2年(1121)、奈良・法隆寺蔵
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参考文献
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
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奈良・斑鳩の地に悠久の歴史を刻む法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建されたと伝えられます。太子は仏教の真理を深く追究し、また冠位十二階や憲法十七条などの制度を整えることで、後世に続くこの国の文化的な基盤を築き上げました。聖徳太子を敬う人々の心は、その没後に信仰として発展し、今日もなお日本人の間に連綿と受け継がれています。
令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、これを記念して特別展「聖徳太子と法隆寺」を開催します。会場では、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、また飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて、太子その人と太子信仰の世界に迫ります。特に金堂の薬師如来像は日本古代の仏像彫刻を代表する存在であり、飛鳥時代の仏教文化がいかに高度で華麗なものであったかを偲ばせてくれます。
本展覧会は1400年という遙かなる時をこえて、今を生きる私たちが聖徳太子に心を寄せることでその理想に思いを馳せ、歩むべき未来について考える絶好の機会となることでしょう。聖徳太子と法隆寺、東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)

2021年6月22日 (火)

「国宝 聖林寺十一面観音」・・・十一面観音、疫病退散の祈りを込めた秘仏

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第245回
六月の青天、ゆりの木の緑陰に、微風吹く日、東京国立博物館、に行く。
十一面観音は、怒りと争いの修羅を救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、美しい精神を救う。
大神神社、大神寺の十一面観音は、東京国立博物館の研究員によれば、奈良時代8世紀、東大寺仏師によって制作された。奈良時代、十一面観音が流行した。十一面観音は、疫病退散の祈りを込めた秘仏である。大神寺の十一面観音は、東大寺二月堂、秘仏十一面観音と関係があると考えられる。東大寺、修二会は、十一面観音に疫病退散の祈りをささげる火と水の行法である。
【東大寺、修二会、韃靼の行法】752年大仏開眼の年に天下泰安・疫病退散を願って始まって 以来、1270年一度も途絶えず続けられてきた。不退行法。二月堂、修二会、【練行衆、11人、和上、大導師、堂司、咒師、総衆之一、南座衆之一、北座衆之二、南座衆之二、中灯之一、権処世界。処世界】。しっちへん、走り。752年始まる。厨子の周りを周る。敦煌、莫高窟、韃靼の行法が淵源である。
【二月堂、秘仏、十一面観音】【天平の疫病、藤原四子の死】735年(天平7年)から738年(天平10年)。聖武天皇、光明子は、天平の疫病退散のため、東大寺を建立した。
永遠の 果てしない野に 夢みる 睡蓮よ 現在に めざめるな 宝石の限りない 眠りのように(西脇順三郎 宝石の眠り「宝石の眠り」)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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聖林寺十一面観音は、薬師寺聖観音の姿形に相似する。薬師寺聖観音は、日光菩薩、月光菩薩、薬師如来と薬師三尊像の一群である。
【藤原京、薬師寺】奈良の西の京にある薬師寺の前身、本薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して藤原京に建立した薬師寺である。この後、持統天皇として 即位した鸕野讚良皇后が夫の意志を継ぎ建立を続け、持統11年(697)開眼仏会、そして着工からおよそ16年の月日を要して建立。【平城京、薬師寺】養老2年(718)平城京の西ノ京で薬師寺は建立を開始された。
【六道輪廻、衆生の運命】すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六道の世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人。衆生を救う六体の観世音菩薩。密教では、地獄に聖観音、餓鬼に千手観音、畜生に馬頭観音、修羅に十一面観音、人間に准胝または不空羂索観音、天人を如意輪観音が救う。六観音の思想
【六観音菩薩】聖観音菩薩は、地獄道を救う。千手観音菩薩、飢えと渇きの餓鬼道を救う。馬頭観音菩薩、動物の弱肉強食の畜生道を救う。十一面観音菩薩、怒りと争いの修羅道を救う。准胝観音菩薩(不空羂索観音)、四苦八苦の人道を救う。如意輪観音菩薩、神通力をもつ天人を救う。
【『日本書紀』崇神天皇5年条】〈国内に疾疫(えのやまい)多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。(国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く、民の半分ほどだった)〉ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)と称され、ヤマト王権の実質的初代天皇とされる第10代崇神は、磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)に宮都を定めた。
次の年、崇神は天神地祇に祈ったが民の離反は止まらない。その後、夢やお告げの通り、太田田根子を探して(三輪山の)大物主神を、長尾市(ながおち)に倭大国魂神を祀らせたところ、崇神7年に疫病は収まり、五穀が実り国内は安定した。
■十一面観音
十一面観音は、その深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩である。観音菩薩の変化身の一つ。
十一面観音(ekadaśamukha)の容姿は、通例、頭頂に仏面、頭上の正面に菩薩面(3面)、左側に瞋怒面(3面)、右側に狗牙上出面(3面)、背面に大笑面(1面)をもつ。右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている。(玄奘訳『十一面神咒心経』に基づく)。
■『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』によれば、
10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。病気にかからない、一切の怨敵から害を受けない、毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病にならない、一切の凶器によって害を受けない、不慮の事故で死なない。
【三界、無色界、色界、欲界】織田信長は、欲界第六天魔王と自称した。
【欲界、第六天。他化自在天。六道の天道(天上界)の最下部である、六欲天の第六天。欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬(はじゅん、Pāpīyas)の住処。天人の身長は三里、寿命は1万6千歳という。ただし、その一尽夜は人間の1600年に相当するという。天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【十一面観音菩薩立像、7世紀】大化改新で名を馳せた中臣(藤原)鎌足の長男・定恵(次男は不比等)が唐の留学から帰国した時に持ち帰った。【藤原氏長子出家の謎】中臣真人、定恵、飛鳥時代の学僧。653年(白雉4年)5月、遣唐使とともに唐へ渡る。長安懐徳坊にある慧日道場に住し、玄奘の弟子の神泰法師に師事した。(皇極天皇2年(643年)- 天智天皇4年12月23日666年2月2日)。唐時代、玄奘三蔵や王玄索が天竺から持ち帰ったことが契機でインド風の仏像が流行した。東京国立博物館
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展示作品の一部
国宝聖林寺十一面観音、奈良時代、8世紀
日光菩薩、正暦寺、平安時代、10~11世紀
月光菩薩、正暦寺、平安時代、10~11世紀
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参考文献
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
法華寺「十一面観音」の美・・・純粋な魂に舞い降りる
https://bit.ly/2NKS5IP
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
図録「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」2021
「国宝 聖林寺十一面観音」・・・十一面観音、疫病退散の祈りを込めた秘仏
https://bit.ly/3d1h6Kh
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特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」
『国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵』
本館 特別5室 :2021年6月22日(火) ~ 2021年9月12日(日)
仏教伝来以前の古い日本では、神は山、滝、岩や樹木等に宿ると信じられ、本殿などの建築や、神の像はつくらず、自然のままの依り代を拝んでいました。その形が現在まで続いているのが三輪山を御神体とする大神神社です。その後、国家的に仏教を興隆した奈良時代には神仏関係の接近が見られ、神に密接にかかわる寺がつくられました。三輪山にも大神寺(鎌倉時代以降は大御輪寺)が造られ、仏像が安置されました。幕末、新政府により神仏分離令が発せられると、廃仏毀釈の危機にさらされますが、大御輪寺の仏像は、同寺の住職や周辺の人々の手によって、近傍の寺院に移され、今日に至ります。
本展では、かつて大神寺にあった国宝 十一面観音菩薩立像(聖林寺蔵)、国宝 地蔵菩薩立像(法隆寺蔵)などの仏像と、仏教伝来以前の日本の自然信仰を示す三輪山禁足地の出土品などを展示します。国宝 十一面観音菩薩立像が奈良県から出るのは初めてのことです。その比類ない美しさをこの機会にぜひご覧ください。
――
三輪山信仰
日本人は古来自然に畏敬の念を抱き、神が宿る依り代として、山や滝、岩、樹木などを信仰しました。三輪山はその代表的な例で、大神神社には神をまつる本殿はなく、三輪山を御神体として礼拝します。
『古事記』の神話に、大物主大神が大国主神に、国造りに協力するから「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」(私を、大和を囲む青い垣根のように連なる山々の東の山にまつりなさい)と望み、三輪山にまつられたと語られています。三輪山には人々が入ることができない禁足地があり、そこから古代の祭祀を物語る子持勾玉や、造酒に用いる器具の小さな土製模型が出土しており、古くからの信仰の存在を確認できます。
大神神社の由緒には、三輪山の頂上の磐座(神の宿所)に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座には少彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まるとあります。三輪山を御神体とする大神神社拝殿とその奥の禁足地の間には結界として鳥居と瑞垣が設けられています。その鳥居は、一列に3つ組み合わせた独特の形式で「三ツ鳥居」といい、中央には扉が付けられています。拝殿がはじめてつくられたのは鎌倉時代のことで、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川家綱が再建したものです。国宝 聖林寺十一面観音菩薩立像をかつて安置していた大御輪寺は、大直禰子(おおたたねこ)神社(若宮)となっています。
「国宝聖林寺十一面観音」東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2013
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「国宝聖林寺十一面観音」東京国立博物館6月22日(火)~9月12日
2021年6月22日(火)~9月12日(日)、東京国立博物館 本館特別5室
2022年2月5日(土)~3月27日(日)、奈良国立博物館 東新館

2021年5月 2日 (日)

高山寺「鳥獣戯画」・・・快僧、明恵の夢、40年間、夢記を記録

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第242回

八重桜咲く森を歩いて、博物館に行く。うこん桜、御衣黄桜、咲き乱れ、紫の躑躅燃える森。1200年で最も早く桜が開花した春。拈華微笑御衣黄桜ひらきけり。春愁のかぎりを躑躅燃えにけり(秋桜子)。明恵上人自身も絵巻を目にしていない。
【明恵上人と犬】明恵にとって犬は特別な存在で、しばしば明恵「夢記」にあらわれる。元久2(1205)年6月18日の夢に2匹の子犬があらわれる。明恵は犬を慈しんだ。子犬(湛慶作)は明恵に所属する。明恵は慶派の仏師と交流した。(皿井舞)
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遁世僧、華厳学問僧、明恵
【「夢記」で18歳から59歳まで41年間、夢を記録。世界でも希な夢判断の創始者として稀有なる存在。夢により自己を見つめ、仏陀の精神を獲得。明恵34歳のときに「十五六歳許りの美女」現れる。以来「命生れさせ給へ」で「姫君の夢」をみる。
1220年承久2年の「善妙の夢」がある。華厳経は宇宙的な壮大な思想を表現した。752年開眼された東大寺毘盧遮那仏である。
【明恵「夢記」48歳。美女が現れ、毘盧遮那仏であると分かる】1220(承久2)年11月3日、6日。
【「鳥獣人物戯画」高山寺】兎と猿が水遊び、兎と蛙が相撲を取り、弓を的に当て合戦する、蛙が田楽を踊り、双六盤を担いだ猿が画面を横切る。蛙本尊の法会に猿が参加する。擬人化された動物たちの愉快で滑稽な姿を、白描画、墨一色で自由闊達に描いた。12世紀平安時代末期、13世紀鎌倉時代。明恵上人自身も絵巻を目にしていない。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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明恵(1173年2月21日 - 1232年2月11日)60歳で没す。
【両親と別れ】1173年、明恵は紀州有田郡に生まれる。この年、親鸞と湛慶が生まれた。治承4年(1180年)、9歳(数え年)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に叔父の上覚に師事(文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読む。文治4年(1188年)16歳、出家、東大寺で具足戒を受けた。
1190年(建久元年)18歳 、「夢記」を書き始める。41年間描き続ける。
【紀州白峰で修行】1196年(建久七年)24歳、東白上に移り、自ら右耳を切る。翌日、文殊菩薩が現れ霊感を得る。
【釈迦への思慕、天竺への憧れ】元久元年(1205年)、釈迦への思慕の念が深い明恵は『大唐天竺里程記』をつくり、天竺へ渡って仏跡巡礼を企画。
【高山寺、成立】遁世僧、明恵、1206年(建永元年)34歳、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜され、華厳宗興隆の地として高山寺を開山。
【承久の乱、女人救済、善妙寺】承久3 (1221 )年、承久の乱、後鳥羽上皇が北条義時に敗れる。後鳥羽上皇側の女人たちが明恵を頼った。西園寺公経の助力を得て尼寺、善妙寺を建てた。1223年、高山寺金堂にあった快慶作の釈迦如来坐像を善妙寺の本尊とした。
華厳教学の研究、学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじて顕密の復興に尽力。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称された。
1232年(貞永元年)60歳 、1月19日、高山寺禅堂院にて示寂。
高山寺の寺号は、『華厳経』の「日出でて先ず高山を照らす」という句による。
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展示作品の一部
国宝「華厳宗祖師絵伝」。古代朝鮮で華厳宗の祖となった義湘(ぎしょう)と元暁(がんぎょう)の求法の旅が描かれる。義湘絵と元暁絵があり、明恵上人の事跡とも重なるテーマを異国の高僧を借りて描いた長編ドラマ。
【義湘に美女、善妙が、一目惚れ】
唐の時代。朝鮮半島の新羅の国から、ひとりの優秀な修行僧が、唐の国に留学して、修行を積んでいた。その修行僧に一目惚れした、高貴な身分の女性が、勇気を出して、『私はあなたを、愛しています。』と告白。その修行僧は、『私は仏に仕える僧侶です。しかも留学中で、女性を愛することは出来ない。』と、丁寧に断る。そこで、その女性は、『私に出来る限りのことをさせて下さい。』と言って、修行僧が唐の国に滞在中、経済的な援助を十二分にする。やがて時を経て、その修行僧はその女性に別れを告げずに、新羅に帰って行きます。それを知った彼女は、大切な経典や仏具を持って、港まで追いかけて行くのですが、港に就いたら、すでに修行僧の乗った船は、沖合まで出て行ってしまっています。そこで、その女性は嘆き哀しんで、持ってきた大切な経典や仏具は海に投げ捨て、海の中に身を投げて、空飛ぶ龍になって、その修行僧が乗っている船を背にして、安全に新羅の国まで送り届ける。
重要文化財 明恵上人坐像 鎌倉時代 13世紀 京都・高山寺 通期
重要文化財 湛慶作、子犬 鎌倉時代 13世紀 京都・高山寺 通期
明恵「夢記」鎌倉時代・承久2年、京都・高山寺蔵。1232年(貞永元年)。
国宝「明恵上人歌集 高信筆」鎌倉時代・宝治2年(1248) 京都国立博物館蔵
詠草 明恵筆 鎌倉時代・13世紀 京都・高山寺蔵
重要文化財 仏涅槃図 鎌倉時代 13世紀 京都・高山寺蔵
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参考文献
図録「国宝 鳥獣戯画のすべて」東京国立博物館2021
図録「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」東京国立博物館2015
特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」2015年4月28日(火)から2015年6月7日(日)まで
「鳥獣戯画のすべて」・・・謎の絵巻、怪僧・明恵
https://bit.ly/32XqQ2H
高山寺「鳥獣戯画」・・・快僧、明恵の夢、40年間、夢記を記録
https://bit.ly/3xCNL1o

図録「国宝 鳥獣戯画のすべて」東京国立博物館2021
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2009
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「国宝 鳥獣戯画のすべて」東京国立博物館、2021年4月13日(火)~5月30日(日)

2020年4月 3日 (金)

「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第211回
桜の森を歩いて、博物館に行く。圧倒する嵐、いかなる危機にあっても、私は運命と戦う。理念を追求して、運命と戦い、邪知暴虐な敵と戦い、聖なる目的を成し遂げる。人は運命と戦うために生まれた。「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」。
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【法隆寺の謎、血に塗れた歴史】再建法隆寺はいつ建てられたのか。再建法隆寺はだれによって建てられたのか。天智天皇9年(670)4月「災法隆寺一屋無余」法隆寺が全焼した『日本書紀』。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。壬申の乱(671年)天武は、法隆寺再建とどうかかわるのか。夢殿の扉は、なぜ1000年以上、閉ざされたのか。なぜ、厩戸皇子は48歳で暗殺されだのか。なぜ、山背大兄皇子一族は自害させられたのか。なぜ、厩戸皇子は天武によって「聖徳太子」神聖化されたのか。金堂壁画は、いつ描かれたのか、何を描くのか。
この世の生存競争、利害名利を求める者、邪知暴虐の人が栄える時、天罰下る。邪知暴虐の人が栄え、知ある者が滅びるとき、天誅下るべし。
【上智と下愚は移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者はどんなによい境遇にあっても向上しない。美しいものを美しいと感じる心が美しい。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
【権力闘争史】石上神社物部氏と蘇我氏の争い、出雲と大和の権力抗争が根源。物部と蘇我の崇仏論争、物部御輿と蘇我稲目との争い、蘇我馬子、物部守屋を討つ。蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。厩戸皇子暗殺の謎、蘇我蝦夷と厩戸皇子の争い。皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を自害に追いつめる。乙巳の変、蘇我入鹿と中大兄皇子の争い。壬申の乱、中大兄皇子の子大友皇子と大海人皇子の争い。天智系と天武系の殺し合いが始まる。
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【斑鳩寺607年、若草伽藍、法隆寺693年739年、西院伽藍693年、東院伽藍738年】
1、斑鳩寺の歴史 607年
法隆寺の起源【斑鳩寺】金堂薬師如来像光背銘によれば、斑鳩寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と厩戸皇子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造った。
【607年、斑鳩寺、厩戸皇子】創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)とされる。若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡、この伽藍が推古朝の建立であった。発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説。
【法隆寺再建・非再建論争】『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は厩戸皇子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが【法隆寺再建・非再建論争】若草伽藍の発掘調査により、厩戸皇子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説である。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。

2、厩戸皇子の死と山背大兄皇子一族滅亡
【厩戸皇子、斑鳩寺】厩戸皇子(574年2月7日〈敏達天皇3年1月1日〉-622年4月8日〈推古天皇30年2月22日〉)、厩戸皇子、48歳で死す。 なぜ、厩戸皇子は死んだのか。疫病による病死、膳大郎女との自殺、暗殺。議論を呼ぶ暗殺説には、蘇我氏、唐からの暗殺者、中大兄皇子と中臣鎌足、等がある。
【643年、山背大兄皇子一族滅亡、斑鳩宮炎上】皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った。この時、斑鳩宮は焼失した。斑鳩寺はこの時は無事だったと考えられる。八角堂、夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738年)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立した。

3、法隆寺の歴史 693年、739年
【法隆寺の謎、再建法隆寺はいつ建てられたのか】
金堂の天井板の材の伐採年667年、668年。五重塔の材673年、中門の材699年。壬申の乱(671年)の前後。武澤『法隆寺の謎を解く』P19。五重塔の心柱の材は594年。塔の二層軒下の材は673年。『法隆寺の謎を解く』P33。
【法隆寺の謎、再建法隆寺はだれによって建てられたのか】
壬申の乱(671年)の後。天武天皇と天武妃、持統天皇が、厩戸皇子を神聖化、聖徳太子として命名、再生、利用した。持統天皇7年(693年)法隆寺で仁王会(『法隆寺資財帳』)。
【670年、法隆寺、全焼】『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事があり、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建された。焼失した寺院は、斑鳩寺、推古天皇15年(607年)創建。若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡、この伽藍が推古朝の建立。発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説。
【671年、壬申の乱】671年12月、天智が亡くなると大海人皇子は挙兵を決意する。大友皇子の即位を阻止する。壬申の乱で大海人皇子、大友皇子を死に追いつめ自害させた。
【693年、西院伽藍】金堂、五重塔を中心とする。金堂「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。
【693年、西院伽藍】現存の西院伽藍は、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)。少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成、この頃までに五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していた。
【739年、東院伽藍】天平11年(739年)に行基菩薩、僧行信によって夢殿を中心として建てられた聖徳太子を祀る寺院。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。
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救世観音像の謎
救世観世音菩薩像、東院伽藍、夢殿に秘蔵された。救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名。名称の由来は「法華経」観世音菩薩普門品の中の「観音妙智力 能救世間苦」の表現にあると推測される。聖徳太子の等身の御影と伝わる。止利様式。鞍作止利は、渡来系の司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。 7世紀の仏師、謎の人。
【夢殿解扉】1886
1886(明治19)年、法隆寺に、外国人フェノロサを代表とする調査使節(岡倉覚三、九鬼隆一)が現れ、明治政府の身分証明書を提示し、夢殿の厨子を開扉するよう要求した。救世観音像を発見。法隆寺650体の仏像の中で、最も謎に満ちた仏、東院伽藍の夢殿に祀られている救世観音像。【岡倉天心1863-1913】美術評論家、思想家。
百済観音の謎
謎の様式、謎の伝来。法隆寺西院、金堂本尊の釈迦三尊像、東院夢殿の救世観音像のような止利式の仏像とは様式を異にする。止利式の仏像は正面観照性が強く、側面感がほとんど考慮されていない。法隆寺の根本史料である天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には百済観音に相当する仏像についての記載はない。本像がいつ、どこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されていたものか、正確なことは全く不明。法隆寺幡の模様と同一の腕飾り、山背大兄皇子を追悼するために作られたものか。
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法隆寺の仏像
【法隆寺、救世観音】東院伽藍、夢殿。739年。
【法隆寺、薬師如来】西院伽藍。金堂「東の間」本尊。光背に丁卯年(607年)、用明天皇のために作った旨の造像銘があり、
【法隆寺、釈迦三尊像】西院693年、金堂「中の間」本尊。推古31年(623年)止利仏師作の銘を有する銅造釈迦三尊像。
【法隆寺、夢違観音】大法蔵院所蔵。「夢違」は江戸時代に書かれた『古今一陽集』に「悪い夢を見たとき、この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来する。白鳳時代の金銅像。薄い裳や三面宝冠はこの像が白鳳時代の作の根拠である。金堂薬師如来は推古15年(607)造顕の銘を持ち、古拙な表現であるが、金堂完成後の擬古作説もあり、その銘の信憑性が疑われている。白鳳時代を代表する仏像は、夢違観音の名で親しまれる聖観音像、橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像がある。
【法隆寺、西院。金堂】西院伽藍の中心的な建物である金堂の内陣には「中の間本尊」の釈迦三尊像、「東の間本尊」の薬師如来像、「西の間本尊」の阿弥陀三尊像の3組の本尊が安置されている(以上の仏像はいずれも銅造)。なお、「中の間」「東の間」「西の間」は相互に壁などで明確に仕切られているわけではなく、柱の位置と、天井に吊るされた3つの箱形天蓋とによってゆるやかに区切られているにすぎない。3組の本尊のうち「中の間」の釈迦三尊像の光背裏面には推古31年(623年)造立、「東の間」の薬師如来像の光背裏面には推古15年(607年)造立の銘文がある。
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参考文献
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館2020
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
「正倉院の世界」東京国立博物館・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り
https://bit.ly/33VYRiy
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz
国宝 興福寺仏頭展・・・白鳳文化の香り
https://bit.ly/2T7N50o
坂本勝『図説 古事記と日本書紀』2009
坂本勝『図説 万葉集』2009
聖徳太子のいまだ解けざる三つの謎、『暗黒の日本史 闇に消えた歴史の真相』青春出版社、2015
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特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館
2020年、公開日未定 ~ 2020年5月10日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984

2020年3月22日 (日)

「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第210回 
桜開花の午後、北風が吹く中、森を歩いて博物館に行く。東京国立博物館は、コロナウィルス感染防止のため2月27日から休館中である。
天平時代、首都、平城京でも大量に感染した。735年から737年6月には疫病、天然痘の蔓延によって朝廷が停止される事態となり、政権を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死。原因は遣唐使、遣新羅使である。千年に一度の感染症拡大、資本主義史上最大の感染爆発、ヨーロッパ都市封鎖、イタリア医療崩壊の危機。救世観音に生命と運命の守護を祈る。
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法隆寺は謎に満ちている。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。救済観音は厩戸皇子の姿形なのか。救世観音、等、法隆寺の仏像は、止利様式であるが、百済観音はなぜ止利様式でないのか。百済観音は、いつどこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されたのか。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)。厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601)、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。斑鳩宮に接して建立された斑鳩寺『日本書紀』。
【法隆寺の謎、血に塗れた歴史】再建法隆寺はいつ建てられたのか。再建法隆寺はだれによって建てられたのか。天智天皇9年(670)4月「災法隆寺一屋無余」法隆寺が全焼した『日本書紀』。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。壬申の乱(671年)天武は、法隆寺再建とどうかかわるのか。夢殿の扉は、なぜ1000年以上、閉ざされたのか。なぜ、厩戸皇子は48歳で暗殺されだのか。なぜ、山背大兄皇子一族は自害させられたのか。なぜ、厩戸皇子は天武によって「聖徳太子」神聖化されたのか。金堂壁画は、いつ描かれたのか、何を描くのか。
この世の生存競争、利害名利を求める者、邪知暴虐の人が栄える時、天罰下る。邪知暴虐の人が栄え、知ある者が滅びるとき、天誅下るべし。
【上智と下愚は移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者はどんなによい境遇にあっても向上しない。美しいものを美しいと感じる心が美しい。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【権力闘争史】石上神社物部氏と蘇我氏の争い、出雲と大和の権力抗争が根源。物部と蘇我の崇仏論争、物部御輿と蘇我稲目との争い、蘇我馬子、物部守屋を討つ。蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。厩戸皇子暗殺の謎、蘇我蝦夷と厩戸皇子の争い。皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を自害に追いつめる。乙巳の変、蘇我入鹿と中大兄皇子の争い。壬申の乱、中大兄皇子の子大友皇子と大海人皇子の争い。天智系と天武系の殺し合いが始まる。
天智系桓武天皇、平城天皇が継ぎ、嵯峨天皇に譲位。保元の乱、清和源氏と桓武平氏との殺し合い。平氏と源氏の戦い。平治の乱、平清盛軍、源義朝軍に勝利。1185年、壇ノ浦の戦い、平氏滅亡。源氏、征夷大将軍となる。三代、源実朝で滅亡。源氏と北条の戦い。
【1221年、承久の乱】後鳥羽上皇と北条義時の戦い、義時、後鳥羽を討つ。室町幕府と織田信長の戦い。信長は義昭を追放。階級社会に挑む天下布武の信長。織田信長を討つ明智光秀。明智を討つ豊臣。豊臣を討つ徳川。徳川は源氏を名乗り、征夷大将軍となる。
【後白河天皇、日本第一の大天狗】天狗は人を魔道に落とす魔物。後白河法皇と関わった人々は追い落とされる。保元の乱において、兄・崇徳院と対立し配流、平氏と源氏を身内同士で争わせる。平治の乱で、平氏と源氏を争わせ源氏は棟梁を失う。平氏政権は法皇と対立、壇ノ浦で滅亡。
【夢殿解扉1886】夢殿、救世観音、厨子を開扉。フェノロサ『東亜美術史綱』「二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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展示作品の一部
【法隆寺金堂壁画】釈迦浄土図や阿弥陀浄土図など仏の群像を描いた大壁(高さ約3.1メートル、幅約2.6メートル)4面と、諸菩薩を単独で描いた小壁(高さ同、幅約1.5メートル)8面の計12面から成る巨大な壁画群です。そのしなやかで力強い描線と緻密な色彩によって、インドのアジャンター石窟群や中国の敦煌莫高窟と並ぶ世界的な傑作。昭和24年(1949)に火災に焼損。
法隆寺金堂壁画(模本)第6号壁 阿弥陀浄土図、桜井香雲模 明治17年(1884)頃  東京国立博物館蔵
法隆寺金堂壁画(模本) 第1号壁 釈迦浄土図
桜井香雲模 明治17年(1884)頃 東京国立博物館蔵 【前期展示】金堂内東南大壁の第1号壁は、釈迦三尊と十大弟子が土坡の上に並ぶ、釈迦浄土図
法隆寺金堂壁画(模本) 第10号壁 薬師浄土図
鈴木空如模 大正11年(1922)  秋田・大仙市蔵 【前期展示】
法隆寺金堂壁画(再現壁画) 第12号壁 十一面観音菩薩像
前田青邨ほか筆 昭和43年(1968)  法隆寺蔵 【後期展示】写真:便利堂
国宝 観音菩薩立像(百済観音)飛鳥時代・7世紀
国宝 毘沙門天立像、平安時代・承暦2年(1078)法隆寺蔵 【通期展示】
国宝 吉祥天立像、平安時代・承暦2年(1078)、法隆寺蔵
【法隆寺、釈迦三尊像】スーパークローン文化財、東京藝術大学COI拠点、2017
【百済観音】
蓮華座の上にすらりと立ち、左手は下げて水瓶を軽くつまみ、右手を前方に差し伸べた観音菩薩。両腕と天衣を除く本体は頭頂から台座蓮肉までクスノキの一木造りで、顔や胸、両肩や腰の膨らみには乾漆が盛り上げられています。頭部が小さく長身の姿は飛鳥彫刻のなかでは特異で、風をはらんだように前方に巻き上がる天衣の流麗な曲線も魅力的。宝冠や胸飾り、腕の飾りには、唐草文様を彫り透かした金銅製の金具が用いられており、特に宝冠正面には阿弥陀如来の姿が表わされています。宝珠形をした光背は竹を模した柱に支えられ、その根本には山岳文様が表わされています。広大無辺な大きさであるという観音菩薩の姿を、山岳との対比によって表現したものでしょう。本像は法隆寺金堂に安置されていたことが『元禄諸堂仏体数量記』(1698年)によって知られ、同記録にある「百済国より渡来」との伝承から、大正時代以降は「百済観音」の名で親しまれています。
【百済観音】「百済観音」と呼ばれるようになったのは明治時代以降。史料の中に出てきたのは『和州法隆寺堂社霊験幷仏菩薩像数量等』江戸時代元禄11年(1698)に奉行所に提出された書類が初出。それまで1000年近く、百済観音に関する明確な記録は発見されていない。
第6号壁の阿弥陀浄土図
【和辻哲郎と法隆寺金堂壁画】哲学者の和辻哲郎(1889-1960)は奈良付近の古寺を巡り歩いた旅の印象記『古寺巡礼』の中で、法隆寺金堂壁画のとくに第6号壁の阿弥陀浄土図について「この画こそは東洋絵画の絶頂である」と絶賛。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984
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参考文献
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館2020
「正倉院の世界」東京国立博物館・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り
https://bit.ly/33VYRiy
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz
国宝 興福寺仏頭展・・・白鳳文化の香り
https://bit.ly/2T7N50o
薬師寺の歴史680年
薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して天武天皇9年(680)藤原京の地で建立を発願したのが草創である。造営の経過については『日本書紀』に記録がみえず不明だが、持統天皇2年(688)に法会、同11年(697)には仏像の開眼供養の記載があり、7世紀末には完成したことが知られる。ところがそれからまもない和銅3年(710)に都が平城京に遷されると、薬師寺も移転した。
興福寺の歴史734年
光明皇后は、母の橘三千代が天平5年(733)に亡くなると、一周忌の供養のため興福寺に西金堂を建立し、釈迦如来、釈迦の十大弟子、四天王、八部衆像などの28体の像、また菩提樹や金鼓(こんく)などの荘厳具を安置した。釈迦の浄土を立体的に表した。
――
特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館
2020年3月17日(火) ~ 2020年5月10日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984

2019年10月22日 (火)

「正倉院の世界」・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り

Shosoin2019-2
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』195回
大風が吹き荒れた嵐の秋の午後、多摩川を渡って、銀杏の実が落下して散り敷いた広場にて友人と会い、森を歩いて博物館西門に行く。
【螺鈿紫檀五絃琵琶、千二百年前からきた旅人】沙漠を超えて、千二百年前からきた旅人。琵琶に刻まれた、駱駝に乗って琵琶を演奏する人。裏面に散り乱れる宝相華文。琵琶を奏でる、千二百年の旅人。天平の音色が漂う。56歳で亡くなった聖武天皇の遺愛の品、五絃琵琶を光明皇后が東大寺盧遮那仏に献じた。苦悩から生まれた盧遮那仏の蓮華蔵世界。天平文化の偉大と頽廃。
【蘭奢待】天正二(1574)年3月27日、織田信長は正親町天皇の勅許をえて切らせ、四月三日畫相國寺にて蘭奢待を千宗易に下賜した(『天王寺屋会記』)。寛正6(1465)年、足利義政が蘭奢待を截り取り。天下の名香、天平の香りが立ち昇る。天平勝宝8(756)年、光明皇后が盧遮那仏に献じた黄熟香。『国家珍宝帳』記載。
【天平文化の偉大と頽廃】聖武朝は、長屋王の変、藤原四子の死、藤原広嗣の乱を経験、740恭仁京、742紫香楽宮、745難波京、3回にわたり遷都、天平17(745)年、平城京に戻り、盧遮那仏を造立、天平勝宝4(752)年開眼。天皇は56歳で死に、光明子は60歳で死す。王の栄光と苦悩。苦悩を癒すため、華厳経の教主、盧遮那仏に祈った。光明子の偉大と頽廃。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
――
【天平時代 血に塗れた天平時代(729-749年) 】
729年、長屋王の変。737年、藤原四子の死(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)藤原四子が姉妹の光明子を聖武天皇と政略結婚させようとしたが、長屋王が反対した。そこで彼らは長屋王を謀殺。長屋王の変である。ところが新羅からやって来た天然痘で藤原四子は次から次へと死亡。聖武天皇は崇りを恐れた。その後、740年、藤原広嗣の乱が起り、聖武天皇の恐れは増大。天平勝宝元(749)年、孝謙天皇に譲位。 重祚した称徳天皇は道鏡に太政大臣禅師と法王の位を与えた。 
【天平文化】東大寺、盧遮那仏、天平勝宝4年(752年)開眼供養。東大寺を建立し、金光明最勝王経と妙法蓮華経を崇拝し配置、東大寺盧遮那仏、東大寺法華堂、転害門、薬師寺東塔、法隆寺東院夢殿が建立された。天平文化は、周(武周)の武則天や唐の玄宗皇帝の文化、爛熟した盛唐の文化の影響を受けた仏教文化である。
【阿修羅像】阿修羅像は、三面六臂、734年(天平六年)、脱活乾漆造。天平彫刻の最高傑作。憂いを秘めた顔貌。聖武天皇の后、光明皇后が母、県犬養橘三千代の冥福を祈って、天平六年に建立された西金堂に造立安置された八部衆のうちの一躯。
【阿修羅像の謎】女性か男性か、モデルはだれか。実在のモデルが存在する。光明子の娘、15才の少女、阿倍内親王(孝謙天皇)であるとする説あり。阿修羅像の三面、中央は、憂い、左は怒り、右は困惑を表す。749年孝謙天皇、即位。
【絶世の美女、美しき王妃】聖武天皇后、光明子。嵯峨天皇皇后、橘嘉智子。織田信長の愛妻、生駒吉乃、信長の娘、徳姫。信長の妹、お市の方、お市の娘、浅井三姉妹、茶々、初、江。*嵯峨天皇の后、橘嘉智子(檀林皇后嘉智子)は「法華寺十一面観音立像」(9世紀)のモデル。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデアへの旅』
―――
【正倉院】756年に営まれた聖武天皇の七七忌(四十九日)に、光明皇后が大仏にささげた天皇の遺愛品六百数十点が起源。東大寺の正倉院宝庫に納められたが、薬物が治療用に使われたり、大量の武器が藤原仲麻呂(恵美押硝の乱(764年)で持ち出された。庫内に現存する宝物は約9千点。
【光明皇后】(701-760)。光り輝く美しさから光明子という。大宝元年生まれ。藤原不比等と県犬養美千代の娘。孝謙天皇の母。長屋王の変の後、天平元年(729)臣下からはじめて皇后となり、藤原氏の勢力拡大に寄与。仏教に帰依し、国分寺の建立、東大寺大仏の造営をすすめ、施薬院、悲田院をもうけて病人や孤児をたすけた。天平勝宝6年、聖武、孝謙と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒。天平宝字4年6月7日死去。60歳。名は安宿媛(あすかべひめ)光明子。王羲之の書「楽毅論」を臨書した巻物は名筆として著名。
【盧舎那仏像】東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像。聖武天皇の発願で天平17年(745年)紫香楽宮にて制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会。
【聖武天皇】701-756。在位724-749。大宝元年生まれ。文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。元正天皇の譲位をうけ即位。蝦夷の反乱、長屋王の変、天然痘の大流行、藤原広嗣の乱、政情・世情が安定せず、たびたび都を遷した。仏教に帰依して諸国に国分寺、国分尼寺、,東大寺の大仏造立。天平勝宝(756)8年5月2日死去。56歳。
――
【聖武と天平文化】遣唐使を2回送って唐の文化をとり入れ、その治世に天平文化が頂点に達した。仏教に深く帰依。国分寺・国分尼寺、東大寺を建て、東大寺の盧遮那仏を造立。その造営事業は740恭仁京、742紫香楽宮、745難波京と3回にわたる遷都とともに膨大な費用を要し、国家財政は乱れた。749年孝謙天皇に譲位。
――
★展示作品の一部
『国家珍宝帳』東大寺献物帳、奈良時代・天平勝宝8歳(756)正倉院宝物[前期展示]
「宝物はみな聖武天皇の御遺愛品などです。昔のことを思い出し、目を触れるたび悲しみでくずれそうになります。謹んで盧遮那仏に奉納します」光明皇后は天皇が早く盧遮那仏の世界「花蔵の宝刹」に安住されることを願って、東大寺の盧遮那仏に天皇ご遺愛の品々をはじめとする、六百数十点の宝物を献納。
平螺鈿背八角鏡、中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物[後期展示]
黄熟香、東南アジア 正倉院宝物[通期展示]
【「蘭奢待」】天下の名香。この雅名の中には「東」「大」「寺」の三文字が組み込まれている。足利義政や織田信長らがこの香木を得たいと熱望し、一部を切り取った出来事は有名、近代になっても明治天皇が行幸した折に切り取られている。沈丁花科のジンコウ属植物に樹脂が沈着することで出来た沈香(じんこう)であり、いまだに高い香りを放っている。『国家珍宝帳』記載
螺鈿紫檀五絃琵琶、中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物 [前期展示]
【螺鈿紫檀五絃琵琶】古代インドに起源を持つ五絃琵琶。その唯一の作例として著名な本作は、紫檀を刳り抜いた本体に別材の腹板をあて、全体に玳瑁(たいまい、ウミガメの甲羅)と螺鈿で装飾を施している。背面に表わされた宝相華文は圧巻の造形美。撥を受ける部分にはラクダに乗って琵琶を演奏する人物が表され、シルクロードを通じて遠い異国の音楽が伝えられたことを象徴する。『国家珍宝帳』記載の品、古代東洋の工芸史上、最高の傑作と言うべき至宝。
紫檀木画槽琵琶したんもくがのそうのびわ中国 唐または奈良時代・8世紀 正倉院宝物 [後期展示]
伎楽面 酔胡王、奈良時代・8世紀 正倉院宝物 [前期展示]
漆胡瓶、中国 唐または奈良時代・8世紀 正倉院宝物 [後期展示]
――
★参考文献
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
東大寺大仏-天平の至宝・・・蓮華蔵世界、蓮の花弁に香る天平文化.
https://bit.ly/2xC6IE4
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2CQlxoY
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
林陸朗著『光明皇后』1961
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
――
★「正倉院の世界-皇室がまもり伝えた美-」東京国立博物館、10月14日(月)~ 11月24日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1968

2018年10月 7日 (日)

「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」・・・純粋な美しい魂に舞い降りる

Kaikeijoukei2018大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第158回
金木犀の香る森を歩いて、博物館に行く。夕暮れの森、夕暮れの諧調、夕暮れの寺院、観音菩薩は、純粋な美しい魂に舞い降りる。
【六観音菩薩】聖観音菩薩、地獄道の者を救う。千手観音菩薩、飢えと渇きの餓鬼道の者を救う。馬頭観音菩薩、動物の弱肉強食の畜生道の者を救う。十一面観音菩薩、怒りと争いの修羅道を救う。准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、四苦八苦の人道を救う。如意輪観音菩薩、神通力をもつ天人を救う。
この世は、競争社会。弱肉強食の畜生、怒りと争いの修羅。強奪と詐欺と殺戮と裏切りの悪鬼に満ち充ちている。神通力をもつ天人を救うのは、如意輪観音である。
競争社会のフランスを逃れて、ポルトガルに移住するフランス人。金権社会のイギリスを逃れて、イタリアに移住するイギリス人。織田信長は、階級社会の日本を嫌悪して、天下布武、既存の階級社会、価値観を拒否、戦いと茶会を展開した。天道を追求した織田信長。
【信長の弟信行、病いの織田信長を殺しにやってくる】信行、弘治3 (1557)年11月2日、二度目の謀反を企て、清洲城へ信長の見舞いに行った。清洲城北櫓天主、次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら、あるいは池田恒興らによって返り討ち。復讐する信長24歳。
【織田信長、天下布武、茶会】織田信長は、1567(永禄10年) 天下布武から、戦いと茶会を展開する。1568(永禄11年)9月26日、信長、入京。1571年(元亀二年)、織田信長、東福寺にて茶会。
*大久保 正雄『戦う知識人の精神史』
――
【六観音菩薩】聖観音菩薩、千手観音菩薩、馬頭観音菩薩、十一面観音菩薩、准胝観音菩薩(不空羂索観音菩薩)、如意輪観音菩薩
六観音菩薩は、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音。*六観音菩薩は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道。六道から生きものを救う。(天台智顗『摩訶止観』)
衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(境涯)、六趣、六界。
【六道輪廻】天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、
【死生学】【六道輪廻】責め苦の地獄道、飢えと渇きの餓鬼道、弱肉強食の畜生道、争い殺し合う修羅道、四苦八苦の人間道、天人は神通力が使えるが苦に悩む天道。六道輪廻から生きものを救う観音菩薩。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
――
天台僧の義空(1172~1241)は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという『法華経』の教えにもとづいて、1220(承久2年)大報恩寺を創建した。快慶作の十大弟子立像と、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像は、法華経の世界を表現する。
運慶一門の慶派仏師、定慶作の六観音菩薩像が伝来する。貞応三年(1224)に、定慶が造ったと准胝観音の像内墨書銘にある。運慶の長男である湛慶より十歳ほど若い定慶は、運慶の弟子。
――
展示作品の一部
運慶の晩年の弟子、定慶が41歳の時に制作した「六観音菩薩像」。大報恩寺の秘仏本尊、快慶の弟子、行快作「釈迦如来坐像」、快慶作「十大弟子立像」、運慶の弟子、行快とほぼ同じ世代である肥後定慶作「六観音菩薩像」。
行快作「釈迦如来坐像」、鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵
快慶作「十大弟子立像」、鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵
阿難陀(あなんだ)、羅睺羅(らごら)、優婆離(うぱり)、阿那律(あなりつ)、迦旋延(かせんえん)、富楼那(ふるな)、須菩提(すぼだい)、大迦葉(だいかしょう)、目犍連(もくけんれん)、舎利弗(しゃりほつ)
肥後定慶作「六観音菩薩像」、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音 鎌倉時代・貞応3年(1224)京都・大報恩寺蔵
――
★参考文献
法華寺「十一面観音」の美・・・純粋な魂に舞い降りる
https://bit.ly/2NKS5IP
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz
妙心寺展・・・禅の空間、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq
――
京都市上京区に所在する大報恩寺は、鎌倉時代初期に開創された古刹です。釈迦如来坐像をご本尊とし、千本釈迦堂の通称で親しまれています。本展では、大報恩寺の秘仏本尊で、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像、快慶作の十大弟子立像、運慶の弟子で、行快とほぼ同じ世代である肥後定慶作の六観音菩薩像など、大報恩寺に伝わる鎌倉彫刻の名品の数々を展示いたします。
――
特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」、東京国立博物館
2018年10月2日(火) ~12月9日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1914

2017年9月29日 (金)

「運慶」 東京国立博物館・・・魂の深淵

Unkei2017大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第126回
秋の午後、銀杏の森を歩いて博物館に行く。運慶の全作品31点のうち22点が勢揃いする。運慶の魂の深淵にあるものは、何か。魂は何に葛藤したのか。20代の運慶が作った「大日如来」と、40代の「大日如来」との間にある時間は何を意味するのか。
「金剛力士像 阿吽、東大寺南大門」制作に挑む運慶は、怪物に挑む者のようだ。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが深淵を覗くならば、深淵もまたおまえを見返すのだ。(『善悪の彼岸』146節)
平安後期の定朝様式、平等院鳳凰堂、阿弥陀如来。これに革命をもたらしたのが奈良仏師、康慶・運慶親子による慶派。玉眼を入れる写実的でリアリティある造形、筋肉描写が力強く衣の襞の彫りが深い。運慶の最初の作品は、「大日如来坐像」(圓城寺1176)。一年かけて一人で製作した。
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
「大日如来坐像」(光得寺)、光背の太陽光線、雲に乗る菩薩、蓮華座の4頭の獅子、蓮弁の水の滴り。運慶「大日如来」(光得寺)、鑁阿寺より伝来。1196年(建久7年)。足利義兼が制作依頼した像で、義兼が自ら背負って諸国を歩いたとされる。
運慶は、建久八年(1197)、東寺講堂(839)の立体曼荼羅の二十一体を修復した。このとき、三百年前の奈良仏師の息づかいに触れ、弘仁貞観の密教仏から学んだ。東寺の立体曼荼羅は、雲に乗る36躯体の菩薩、蓮華座の8頭の獅子、中心に大日如来、「金剛界曼荼羅」成身会を表している。
「毘沙門天立像」(願成就院蔵)鎌倉時代・文治2年(1186)を作ったころから、運慶の作風は研ぎ澄まされたようだ。
運慶の刻印として仏像の内側に納められている「像内納入品」、「五輪塔」、「心月輪」は何を意味するのか。
興福寺北円堂の無著・世親菩薩立像(1212年)は、日本彫刻史上の最高傑作といわれる。
――

平重衡による南都焼討1180年、興福寺が全焼、東大寺は主要伽藍が焼け落ちる。平家、壇ノ浦にて滅亡1185年。承久の変1221年、北条義時が後鳥羽上皇を破る。激動の嵐のなかで、運慶は何を考えたのか。
藤原定家、妖艶の極致を示す御室五十首の歌は、建久七年の政変(1196年11月)の無慚の世の不遇の中で詠まれた。 
春の夜のゆめのうき橋とだえして峰にわかるる横雲のそら 新古今三八
藤原定家、御室五十首は、憂愁と妖艶の極致である。

――
美しい夕暮れ。美しい魂に、幸運の女神が舞い降りる。美しい守護霊が救う。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保 正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【彫刻1600年の旅】紀元前334年アレクサンドロス大王の東征によって、1世紀ガンダーラ彫刻が生まれ、南北朝の北魏様式、南梁、飛鳥白鳳の彫刻に辿りついた。7世紀、飛鳥文化、白鳳文化、天平文化、9世紀、弘仁貞観文化、国風文化、13世紀、運慶にいたる彫刻史。
法隆寺夢殿救世観音菩薩像、薬師寺金堂薬師三尊像、東大寺法華堂、不空検索観音、日光月光菩薩像、東寺講堂立体曼荼羅、仁王経曼荼羅の二十一体の仏像。平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像。
――
運慶(生年不詳 1150- 貞応2年12月11日(1224年1月3日))73歳で亡くなる。
定朝の流派は、3つに分かれる。院派、円派、奈良仏師。慶派は、定朝の孫弟子、頼助から始まる奈良仏師の流派である。慶派の祖、康慶の子、運慶。
運慶の父・康慶、運慶の実子・湛慶、康弁ら親子3代が慶派の盛期である。
運慶・快慶「東大寺南大門、金剛力士像 阿吽」1203、湛慶「蓮華王院、千眼千手菩薩像」、慶派の頂点である。
「四天王立像」(興福寺南円堂)は、運慶の父・康慶の作とされてきたが、運慶作と判明している興福寺北円堂の無著・世親陵菩薩立像などと同じ桂材製であることから、運慶作の可能性がある。
―――
展示作品の一部
国宝 大日如来坐像、 運慶作、平安時代・安元2年(1176)、円成寺蔵
重要文化財 仏頭、運慶作、鎌倉時代・文治2年(1186)、興福寺蔵
国宝 運慶願経(法華経巻第八)、平安時代・寿永2年(1183)
国宝 毘沙門天立像、運慶作、鎌倉時代・文治2年(1186)、静岡・願成就院蔵
国宝 八大童子立像のうち恵光童子・制多伽童子、運慶作、鎌倉時代・建久8年(1197)頃、和歌山・金剛峯寺蔵
重要文化財 阿弥陀如来坐像および両脇侍立像、重要文化財 不動明王立像、重要文化財 毘沙門天立像、運慶作、鎌倉時代・文治5年(1189)、神奈川・浄楽寺蔵
国宝 無著菩薩立像・世親菩薩立像、運慶作、鎌倉時代・建暦2年(1212)頃、興福寺蔵
重要文化財 聖観音菩薩立像、運慶・湛慶作、鎌倉時代・正治3年(1201)頃、愛知・瀧山寺蔵
重要文化財 十二神将立像、京都・浄瑠璃寺伝来、鎌倉時代・13世紀
静嘉堂文庫美術館蔵(子神・丑神・寅神・卯神・午神・酉神・亥神)
東京国立博物館蔵(辰神・巳神・未神・申神・戌神)
国宝 天燈鬼立像・龍燈鬼立像、康弁作(龍燈鬼立像)、鎌倉時代・建保3年(1215)、興福寺蔵
大日如来坐像  1軀 鎌倉時代・12~13世紀 栃木・光得寺
―――
★ 特別展「運慶」 東京国立博物館、 平成館 特別展示室
2017年9月26日(火) ~ 2017年11月26日(日)
――
運慶の生年は不明ですが、息子・湛慶が承安3年(1173)生まれであること、処女作と見られる円成寺の大日如来坐像(国宝)を安元元年(1175)に着手していることから、おおよそ1150年頃と考えられます。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(国宝、天喜元年(1053))の作者である大仏師・定朝から仏師集団は三つの系統に分かれましたが、運慶の父・康慶は興福寺周辺を拠点にした奈良仏師に属していました。院派、円派の保守的な作風に対して、奈良仏師は新たな造形を開発しようとする気概があったようです。ここでは、運慶の父あるいはその師匠の造った像と、若き運慶の作品を展示し、運慶独自の造形がどのように生まれたのか、その源流をたどる。東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

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