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2026年6月

2026年6月21日 (日)

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

Gr-delph-theather-0424-2025
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Gr-delph-theather-2025
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回

ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
――
★★★★★
参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回
ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
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参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
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2026年6月18日 (木)

没後50年、ピカソmeetsポール・スミス・・・パブロ・ピカソ、7つの時代

2026-meetsnact-2026
2026-1933-meetsnact-2026
2026-1953-meetsnact-2026
Picaso-1937-meets-nact-2026

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第437回
パブロ・ピカソ(1881–1973)は、7つの時代を生き、変貌し続けた。愛人、妻、恋人、娘らによって代物弁済された遺産によって膨大な作品宝庫となった、国立ピカソ美術館、富豪の遺産収蔵庫である。
1901年、友人カサジェマスの死を描く。彼は社会の最貧困層を深い青で描き、孤独や憂鬱を表現した。貧しい生活のなかで夜間にランプの下で制作された作品は、憂鬱な雰囲気を醸し出す独自の様式へと深化。1906年、キュビスム、1924年から1935年シュルレアリスムの時代は、世界に衝撃を与えた。
パブロ・ピカソ(1881–1973)、
ピカソ、7つの時代。
1881から1990 幼少期と教育 
1916から1923 バレエ・リュス チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールにて、ダダによる音楽と文学のパフォーマンス 《アルルカンに扮したパウロ》1924年、《初聖体拝領者たち》1919年
1901年から1904年「青の時代、薔薇色の時代」
1906年から1915年 キュビスム《アヴィニョンの娘たち》(1907年)。
1924年から1935年 シュルレアリスム パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年、パブロ・ピカソ《読書》1932年、パリ国立ピカソ美術館、《ゲルニカ》(1937年)
1936年から1945年 スペイン内戦とドイツによるフランス占領
1946年から1945年 コートダジュールにて
1965年から1973年 ピカソの晩年
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
★★★★★
【ピカソと7人の恋人】
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)の作品数は4万5000点で絵画1885点、彫刻1228点、陶器2280点、スケッチ4659点と 3万点に及ぶ版画作品などを手がけた。
【最初の恋人フェルナンドゥ・オリヴィエ Fernande Olivier】
ピカソが初めて愛した女は人妻。 1904年にパリで永住したときに出会ったフランス女フェルナンドゥオリビエはピカソのモデルであり、二人は恋に落ちてしまう。 ピカソと同い年で、1904年(23歳)に会った。
【第二の恋人エヴァ・グエルEva Gouel】
肌がすごく白かった女性。 ピカソは九年にわたるフェルナンドゥと同居生活に終止符を打ち、彼女を選ぶ。 体が弱かったエヴァ。 第一次世界大戦翌年の1915年12月14日この若い女性は、結核で死ぬ。
【第三の恋人-オルガ・クルロバOlga Kokhlova】
<パレード>公演の時に会ったロシアダンサー、ピカソが26歳のときに初めて結婚をした女性。オルガは庶民的で快適なことを楽しんだピカソとは異なり、上流社会的な気質を持った。 彼女はピカソの最初の息子パウロを生んだが、結婚4年で夫婦関係が解消。
【第四の恋人-マリーテレーズ・ヴァルターMarie Therese Walter】
ピカソが45歳になった年1927年当時17歳の健康で官能あふれた少女を6ヶ月間作業室に連れて来て超現実主義シュルレアリスムの時代の傑作<鏡の前に立っ処女>のモデルに立てた。 フェルナンドゥとエヴァ、オルガが茶色の髪を持っていたのとは異なり、彼女は金髪だった。 彼女が二十二歳の時ピカソの二番目の子供の娘マリアを生む。 ピカソに最も創造的なインスピレーションを与えた女性だったと言われている、ピカソが死んだときに死後もピカソを守らなければならならないと自殺した女性がテレーズだった。
【5番目の恋人-ドラ・マールDora Maar】
1936年ピカソは親しくしていシュールレアリズム詩人ポール・エリュアールから写真家ドラ・マール(本名マルコ・ヴィッツアンリエトロ)を紹介される。 ピカソの母国語であるスペイン語で彼と芸術を論じることができるほど知的だった。
1936年(55歳)ピカソが「ファシズムの狂気との戦いを取る時代」 彼女はピカソの「ゲルニカ」の時代を一緒にしており、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に「泣く女」に登場する。うつ病のための心理療法を受けなければならなかったが、ピカソの友人であり、有名な精神分析学者であるジャック・ラカンの精神分析を長く受けることになった 。
【第六の恋人-フランソワーズ・ジロットFrançoiseGilot】
第二次世界大戦中に出会った彼女は非常に若くて美しい女流画家である。 ピカソが六十三歳の時、1945年から一緒に暮らするが、このとき、彼女は二十歳だった。 完璧主義者であり、独占力が強かったフランソワーズは、息子クロードと娘パロマを生む。 ピカソは自分の子供を素材にして魅惑的で躍動感あふれる肖像画を残した。 ここで、子供たちは、時には母の懐に抱かれた姿で、時には自分たち同士で遊ぶ姿で登場する。
後日フランソワーズは当時を率直に回想してこう書いた。
オルガ、テレーズ、ドラ・マールとの関係が続いて、彼らは継続的にピカソと私の生活の中に存在するという事実により、私は、ピカソの表現になり、それはまた、自分が収集したすべての女性個人所有の小さな博物館に展示しようとするピカソの欲望を確信するようになった。
【1953年、72歳で出会ったジャクリーヌ・ロックJacqueline Roque】
ピカソの末期の作品は、外在的にも暗黙的に性愛が目立つ。 このときピカソが陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期であった。
ピカソが作品に専念できるように内助してくれた最後の女性ジャクリーヌ・ロックは、ピカソが72歳になった年に会った女性である。彼女は前夫との間に娘がいる離婚女性で、ピカソと8年間同棲した後、結婚した。 ジャクリーヌ・は料理をよく家事もよくしスペイン語で芸術家たちにも話を交わすことができた。
また、ピカソの客を楽しませてくれる魅力的なホステスの役割をした。ジャクリーヌはピカソよりも13年より住んでいた。 そして、これまで無私にピカソの複雑な財産の問題を処理した。1986年10月15日ピカソの生誕105年を十日前に彼女はピカソの墓の前で自ら命を絶った。
【ピカソの死1973】
20世紀の現代美術の巨匠ピカソは1973年にこの世を去った。 彼が死ぬ彼に会った多くの女性たちと子孫たちは一様に悲劇的な最後を迎えた。
ピカソが死んだという知らせを聞いてテレーズは首を毎月吊り、ジャクリーヌは1986年に マドリードの展示会を控えて拳銃自殺をした。 オルガとピカソの間の息子サンパウロは、薬物中毒で死に、ピカソの孫パヴェルリートは、 ピカソの葬儀に出席しに来てジャクリーヌは毒を食べて自殺した。
ピカソにとって女性と会話は筆 のようなもの、つまりなくてはならないし、本質的であり、致命的なものであった。
最初の恋人だったオリビエビーズマイヤーピカソは、後にこう回想した。果たしてピカソの恋人たちは、ピカソの絵画で筆のような存在だったのか。
【ピカソと恋人たちは、2本の映画に出た】最初は、1956年にアンリ・ジョルジュクルー趙監督の ドキュメンタリーThe Mystery of Picasso(ピカソ出演)、カンヌ映画祭審査員賞。ベニス映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受け。第二の映画は、1996年にジェームズ監督のSurviving Picasso(アンソニー・ホプキンス出演)である。
参考文献 https://matome.naver.jp/odai/2146640490474122401
★★★★★
参考文献
没後50年、ピカソmeetsポール・スミス・・・パブロ・ピカソ、7つの時代
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-69dab0.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
https://art.nikkei.com/picasso_ps26/gallerytour/
ポール・スミスがピカソ没後50周年展の会場デザインを担当。ルイーズ・ブルジョワなど現代アートと対比
https://artnewsjapan.com/article/856
★★★★★
展示作品の一部
パブロ・ピカソ《男の肖像》1902-1903年、パリ国立ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《女の胸像 (《アヴィニョンの娘たち》のための習作)》 1907年、パリ国立ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《初聖体拝領者たち》1919年、
パブロ・ピカソ《アンドレ・ドランの肖像》1919年
パブロ・ピカソ《アルルカンに扮したパウロ》1924年
パブロ・ピカソ《トラックの玩具で遊ぶ子ども》1953年
パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年
パブロ・ピカソ《読書》1932年
★★★★★
「ピカソmeetsポール・スミス 遊び心の冒険へ」国立新美術館
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
パリの国立ピカソ美術館が所蔵する20世紀を代表する芸術家パブロ・ピカソ(1881-1973)の作品からインスピレーションを得て、伝統的な仕立てと遊び心あふれる色使いで知られる英国人デザイナー、ポール・スミスが会場のレイアウトを考案します。自由な発想で創り上げられた会場構成は、ポール・スミスがデザインする洋服や小物のような色鮮やかさと楽しさに満ちています。ピカソの初期から晩年までの作品群を緩やかな時系列に従って展観します。
パブロ・ピカソ(1881–1973)
20世紀で最も影響力のある芸術家の一人。伝統的な絵画の概念を根底から覆した革新者です。「青の時代」やキュビスムなど多様な様式を切り拓き、陶芸、舞台芸術にも挑みました。《ゲルニカ》に象徴される社会的・政治的メッセージを込めた作品も知られています。
ポール・スミス(1946–)
英国ノッティンガム出身のデザイナー。サイクリストから転身し、デザイン、音楽、ファッションの道へ。「ひねりのあるクラシック」という哲学を軸に豊かな色彩を用いたファッションデザインで知られています。
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
――
00 トロンプ・レスプリ (精神を欺くもの)

《牡牛の頭部》は自転車のサドルとハンドルという既製品を組み合わせ、牛の頭部を形づくった作品。これが牛の頭部なのか、あるいはサドルとハンドルなのか、鑑賞者の心に混乱を呼び起こします。ポール・スミスは青年期にはプロの自転車選手を目指していたほど、自転車を愛好しています。ピカソの本作に着想を得たスミスは、幾つもの自転車のサドルを用いて部屋のレイアウトを考案しました。

※展示風景は全てパリ国立ピカソ美術館で2023年に開催された「Picasso Celebration: The Collection in a New Light!」のものです。 フォトクレジット コピーライト Vinciane Lebrun/Voyez-Vous, courtesy of the Musée National Picasso-Paris.

パブロ・ピカソ《牡牛の頭部》1942年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF

01 『ヴォーグ(流行)』中の 芸術家

ピカソは子供のころから雑誌や漫画を愛読していました。その後は書物に絵をじかに描き込むようになり、バルザックやフロベールの小説のページに人物像をスケッチするようになります。こうした書物への描き込みは、1951年の雑誌『ヴォーグ・パリ』でも行われました。ピカソはウェディングドレスを纏う女性の写真の上にいくつか線を加え、その姿を不条理かつグロテスクなものへと変えました。

02 青の憂鬱

1901年から1904年にかけて、ピカソは青を基調とした絵画を数多く制作しました。「青の時代」と呼ばれるこの時代は、親友カサジェマスの死を契機に始まりました。彼は社会の最貧困層を深い青で描き、孤独や憂鬱を表現しました。貧しい生活のなかで夜間にランプの下で制作された作品は、やがて憂鬱な雰囲気を醸し出す独自の様式へと深化していきました。
パブロ・ピカソ《男の肖像》1902-1903年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


03 バラ色の女性たち 《アヴィニョンの娘たち》への前奏曲

1906年から1908年にかけて、ピカソは形態と空間の簡素化を追求し、キュビスムの基盤を築きました。彼はイベリア美術やアフリカ彫刻に着想を得て、バラ色を基調とした幾何学的で荒々しい新たな造形言語を模索しました。膨大な習作を経て完成した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)において、鑑賞者を圧倒するような暴力的なまでの視覚的革新を成し遂げたのです。ここではその習作を中心に紹介します。

パブロ・ピカソ《女の胸像 (《アヴィニョンの娘たち》のための習作)》 1907年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Adrien Didierjean / distributed by AMF


04 キュビスムの実験室

1906年頃からピカソは、イベリア美術やアフリ力美術から影響を受けつつ、対象を立方体のように単純化するキュビスムという新たな表現に取り組みます。ピカソは最初、テーブル、グラス、新聞、楽器などの日用品を主題としました。限られた色彩で抽象的に描かれた画面は主題の識別が難しいときもありますが、モノや装飾、あるいは身体など、かならず手がかりとなる細部が取り込まれています。

05 アッサンブラージュとコラージュ

ピカソは日用品を実践に組み込み、芸術は忠実に現実を再現するものだという規範に対抗します。木や大理石などに似た壁紙をカンヴァスに貼り付け(コラージュ)、現実の断片を直接作品に取り込んだのです。このアイデアは二次元にとどまらず、三次元の表現にも及びました。スプーンや自転車のサドルなどの日用品で作られた作品がアッサンブラージュです。

06 古典主義の画家

1910年代末から1920年代初頭にかけて、「秩序への回帰」という具象表現や古典的主題を復活させる風潮が芸術界に起こりました。こうした中で、1920年代にピカソはきわめて古典主義的な方法で、人物像を油彩とデッサンに描いています。妻でロシアのダンサーであったオルガ・コクローヴァや、息子パウロといった新しい家族がモデルに選ばれました。
パブロ・ピカソ《初聖体拝領者たち》1919年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn
(musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF
パブロ・ピカソ《アンドレ・ドランの肖像》1919年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF


07 子ども時代

ピカソはスペインでの幼少期に親しんだ闘牛やフラメンコ、パリのキャバレーやサーカスの鑑賞体験を通じて、生涯にわたり舞台芸術に深い関心を持ち続けました。特にアルルカン(道化師)には自身を投影し、多くの作品の主題となりました。オルガ・コクローヴァとの息子パウロがアルルカンに扮した作品や、マリー=テレーズ・ワルテルとの娘マヤを描いた作品などを紹介します。
パブロ・ピカソ《アルルカンに扮したパウロ》1924年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF
パブロ・ピカソ《トラックの玩具で遊ぶ子ども》1953年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF

08 闘牛

ピカソは生涯を通じて闘牛を重要なテーマとし、その力強さに焦点を当て続けました。1930年代には牡牛が馬や闘牛士を襲う激しく悲劇的な瞬間を好んで描き、闘牛場を生と死、あるいは性と死が交錯する象徴的な劇場として表現しました。一方、ヴァロリスに滞在した戦後に制作した軽快な筆致の版画の連作〈ラ・タウロマキア〉では、闘牛の儀式の躍動感や祝祭性を巧みに捉えています。
パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


09 ストライプ

1930年代にピカソはストライプ模様を実験的に用いて、愛する女性たちの肖像を描きました。柔らかな曲線とパステル調の色彩で描かれたマリー=テレーズ・ワルテルは官能性と安らぎを象徴し、鋭角的な形と暖色で描かれたドラ・マールは強い存在感を示していました。しかし、スペイン内戦やファシズムの影が忍び寄ると、連作〈泣く女〉に代表されるように、戦争の苦しみや絶望を投影した哀愁的な表現へと変容します。
パブロ・ピカソ《読書》1932年、パリ国立ピカソ美術館
コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


10 戦時中

ピカソはスペイン内戦から第二次世界大戦にかけて、ファシズムや抑圧への抵抗を続けました。大作《ゲルニカ》(1937)は蛮行に対する告発の象徴です。ナチス占領下のパリで、不安と窮乏の中で、彼は「死」や「飢え」を暗示する作品を制作しました。肖像画では人体が歪められ、生者と死者が混ざり合うような非人間性を強調し、静物画では動物の死骸や頭蓋骨を暗い色調で描き人間の虚しさを表現しました。
パブロ・ピカソ《室内のフクロウ》1946年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト
GrandPalaisRmn(musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


11一点もの

ピカソは1940年代後半、南仏のヴァロリスに定住し、陶芸に没頭しました。主にマドゥラエ房で制作された数千点に及ぶ作品は、水差しや皿に、女神、鳥、動物、闘牛士のモティーフを、ユーモア溢れる方法で施しました。熟練の職人と協力した、絵画、彫刻、工芸の境界を曖昧にした陶芸の実験は、晩年の芸術活動において喜びと生命力に満ちた中心的な役割を果たしました。
パブロ・ピカソ《表面に牧神の頭、裏面に花が装飾された長方形の陶器の皿》1948年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn
(musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF


12 《草上の昼食》

1950年代、ピカソは西洋美術の巨匠エドゥアール・マネの絵画《草上の昼食》(1863)の再解釈に取り組みました。27点の絵画や約140点のデッサンを含むこの連作において、彼は古典的な構図を解体し、人物の配置やポーズを大胆に変容し、絵画の平面性と装飾性を追求しました。この探求は三次元へと広がり、厚紙の模型をコンクリートで巨大化させた彫刻作品へと結実します。
パブロ・ピカソ《草上の昼食(マネに基づく)》1960年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn(musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


13 ピカソのボーダーシャツ

メディアで彼のイメージが本格的に固まったのは報道写真が興隆をきわめ、テレビが登場した第二次世界大戦後のことでした。すなわち白髪の薄い頭でボーダーシャツを着た男性、というイメージです。このイメージを決定的なものとした写真家ロベール・ドアノーによるポートレートは、ピカソが南仏のカンヌやヴァロリスで陶芸に熱中していたころに撮影されました。

14 晩年:1969—1972

ピカソは 1961年以後、南仏ムージャンで過ごし、ここでも精力的に絵画や版画の制作を続けました。最晩年の並外れた創造性と生産性は大きな特徴です。このころ彼は、以前よりも筆の動きが自由になり、人物像を好んで主題に取り上げました。晩年の作品でも衰えを見せない技量を見せつけ、これらの絵画は新世代の画家たちにも大きな影響を与えました。

15 展覧会のピカソ

ピカソのキャリアにおいて、数々の展覧会は彼の名声を世界的なものにする重要な役割を果たしました。1901年のパリでの初個展から、晩年の1970年のアヴィニョンでの大規模な個展に至るまで、展覧会ポスターは街中に掲げられることで芸術活動を大衆へ開放する役割を担いました。「ポスターの集積」に着想を得たスミスは、ピカソの膨大なエネルギーを象徴する展示空間を創出しました。


パブロ・ピカソ《ポンポン帽子と柄ブラウスを着た女の肖像》1962年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Adrien Didierjean / distributed by AMF
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
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国立新美術館
2026年6月10日(水) ~ 2026年9月21日(月・祝)
休館日:毎週火曜日
*ただし8月11日(火・祝)は開館、8月12日(水)は休館

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