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2026年5月

2026年5月27日 (水)

伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム・・・阿弥陀如来立像、慶俊作

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第436回

皿井舞、先生のギャラリートーク、専修寺の悉皆調査、研究、展示の模様を聴く。闇の中から14歳で留学した近衛篤麿の弟、堯猷上人の面影が蘇る。 阿弥陀如来立像(御対面所本尊) 慶俊 木造 金泥塗り・切金 玉眼嵌入 鎌倉時代・延応2年(1240)専修寺蔵、運慶の弟子の作である。
近衛篤麿の弟:常磐井鶴松(堯猷上人)、近衛忠房の三男として生まれた。14歳でドイツ留学。
小学校を終えた後、1885年ドイツに留学した。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事、哲学、梵文学を専攻、イギリスなど、欧州各国を歴巡。帰国後京都帝大文学部教授となり、梵語を教えた。
将軍、家茂の婚礼の夫婦鳳凰は、『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀を思い出す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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霞会館記念学習院ミュージアム(東京都豊島区目白1-5-1)にて、特別企画「伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化」展を2026年5月22日(金)より6月13日(土)まで開催いたします。専修寺(せんじゅじ)は三重県津市に所在する真宗高田派の本山です。本展では、学習院大学文学部哲学科(美術史学専攻)が実施中の調査によって見出された新発見の美術工芸品などを通じて、門跡寺院が育んできた豊かな文化の一端をご紹介します。
学習院大学文学部哲学科(美術史学専攻)では、令和5年(2023)よりこれまで5回にわたり美術工芸品の悉皆調査を行ってまいりました。本展では、さまざまな文化が交わる結節点としての門跡寺院の姿を示す、選りすぐりの作品をご紹介いたします。
専修寺(せんじゅじ)
日本寺院で5番目の規模
三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山・専修寺は、「高田本山」の名で親しまれる伊勢の名刹です。 親鸞聖人の教えを受け継ぐ全国約600カ寺の中心寺院で、伊勢国内の拠点として創建され、関東の本寺焼失後に本山として定着しました。
約三万坪の史跡指定の境内には、国宝の如来堂・御影堂をはじめ多くの文化財が立ち並び、伽藍と門前町が一体となった宗教都市的景観を今に伝えています。
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参考文献
伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム・・・阿弥陀如来立像、慶俊作
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-3876dc.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html
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展示作品の一部
阿弥陀如来立像(御対面所本尊) 慶俊 木造 金泥塗り・切金 玉眼嵌入 鎌倉時代・延応2年(1240)専修寺蔵 
桐鳳凰蒔絵書棚、木胎 漆塗・蒔絵 江戸時代後期・1850年代
将軍、家茂の婚姻を祝う調度、近衛家から専修寺に伝わる。鳳凰の夫婦が天板に造形されている。
透彫双耳三足香炉 薩摩焼 陶胎 明治時代~大正時代・19~20世紀 昭憲皇太后御遺品
専修寺蔵
常磐井鶴松(堯猷上人)像 中丸精十郎、カンヴァス 油彩 明治19年(1886)
常磐井 堯猷(ときわい ぎょうゆう、明治5年3月15日(1872年4月22日)[1] - 昭和26年(1951年)1月27日)は、明治から昭和期にかけての僧侶、梵語学者、真宗高田派管長。
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常磐井 堯猷(ときわい ぎょうゆう、近衛 篤麿 (このえ あつまろ)の弟 経歴
近衛忠房の三男として生まれた。小学校を終えた後、1885年ドイツに留学した。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事、哲学、梵文学を専攻、イギリスなど、欧州各国を歴巡。帰国後京都帝大文学部教授となり、梵語を教えた。1913年(大正2年)、養父堯煕(叔父でもある)の後を受け真宗高田派管長となり、6年後、男爵を襲爵した。また、帝国東洋学会の創設者でもあり、生涯梵文学研究を続け「梵語辞典」(全11巻を刊行した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E4%BA%95%E5%A0%AF%E7%8C%B7 

近衛 篤麿(このえ あつまろ、旧字体: 近󠄁衞 篤麿󠄁、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月2日[1])は、明治時代の日本の政治家。五摂家筆頭・近衛家第29代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲二等公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長などを歴任した。号は霞山。
経歴
生い立ち
文久3年(1863年)6月26日、左大臣・近衛忠房の長男として京都に生まれた。母は島津斉彬養女(島津久長の娘)光子とされているが、島津家の資料では「光蘭夫人(光子)篤麿養母」と記載されている[2]。明治6年(1873年)父が家督を継いだ[3]翌月に35歳で病没したため、祖父近衛忠煕の養子となり家督を相続した(文献によっては忠煕九男と記載)。
明治12年(1879年)に大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされ、京都へ戻った[4]。以後、和漢に加え英語を独学。明治17年(1884年)、華族令制定に伴い公爵に叙せられる。翌明治18年(1885年)に伊藤博文の勧めでドイツ・オーストリアの両国に留学し、ボン大学及びライプツィヒ大学に学んだ[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
細川護熙は、近衛篤麿の曽孫
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伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム、2026年5月22日(金)~2026年6月13日(土)
霞会館記念学習院ミュージアム(東京都豊島区目白1-5-1)
https://www.artpr.jp/gakushuin-museum/senjuji2026

2026年5月18日 (月)

大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第435回

【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホは、画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をする。ついに天職を見つけた。1883年、両親の住むニューネンに移る。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》。ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーの影響を受ける。1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めで、パリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接な関係をもつ。モネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影に最も刺激を受ける。
1888年2月、アルルに向かう。陽光にあふれた南仏に憧れを抱いたファン・ゴッホ。色彩を駆使する芸術家。15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残した。
1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。
1890年7月29日。ゴッホが亡くなった、その2日前のピストル自殺未遂が死因とされている。
【終焉の地、オーヴェール・シュル・オワーズ】70日間、1890年5月20日から7月29日までの間に彼は油彩73点、デッサン33点を残した。
【ゴッホ、5つの時代】
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動は10年。1、オランダ時代、バルビゾン派、ハーグ派1880-1885、2、パリ時代 1986-1987、3,アルル時代 1988、4、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889、5、オーヴェール・シュル・オワーズ1890。
【ゴッホ、糸杉】
【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
【宮澤賢治とゴッホ】
【宮澤賢治『春と修羅』序(1924】
宮澤賢治は、なぜ、ZYPRESSEN「春と修羅」と書いたのか。詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922年4月8日)、『春と修羅』序(1924年1月20日)。阿修羅は仏教に帰依し、他の諸天とともに仏教を守護する眷属となった。興福寺、国宝「阿修羅像」。
大正八年八月(1919)の歌稿に『ゴオホサイプレスの歌』二首がある。
サイプレス/忿(いか)りは燃えて/天雲のうづ巻をさへ灼(や)かんとすなり
天雲の/わめきの中に湧きいでて/いらだち燃ゆる/サイプレスかも
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
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展示作品の一部
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
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プレスリリースより
世界中で愛される画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動はわずか10年ほどでしたが、彼が残した多くの作品と手紙から、苦悩に満ちた人生に立ち向かい、芸術へと昇華させる姿を見て取ることができます。
生前ほとんど評価されなかったファン・ゴッホにいち早く注目し、作品の収集に取り組んだのが、オランダのクレラー=ミュラー美術館の創設者、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)でした。2回にわたり開催する「大ゴッホ展」は、すべて同館の所蔵作品で構成されます。このたびの第1期では、バルビゾン派やハーグ派の影響を受けた草創期のオランダ時代に始まり、印象派を中心とする画家たちと交流したパリ時代を経て、南仏アルルで傑作《夜のカフェテラス(フォルム広場)》を描くに至るまでの、ファン・ゴッホの前半生に焦点を当てます。
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展覧会構成
第1章 バルビゾン派、ハーグ派1880-1885
初期のフィンセント・ファン・ゴッホに強い影響を与えたふたつの画派として、オランダのハーグ派、そしてバルビゾン派があります。ハーグ派とは、19世紀後半のオランダ・ハーグを中心に展開した自然主義的傾向の画派で、風景画や農民の生活を題材とした風俗画で知られています。バルビゾン派は、19世紀前半から中頃にフランスのパリ郊外にあるバルビゾン村周辺を拠点に広まったグループで、自然主義的・写実的な風景画、風俗画により、絵画芸術の新たな時代を作りました。
特にファン・ゴッホは、バルビゾン派の芸術が持つ宗教的精神性に惹かれていました。そして、バルビゾン派への関心からフランス美術、そしてフランス自体にも惹かれていくようになります。
本章では、ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーという両派を代表する画家の作品を紹介しながら、画家ファン・ゴッホの原点に迫ります。
ミレー(1814-1875)はフランスのバルビゾン派を代表する画家です。農民が黙々と働く姿をクローズアップして、彼らの実直で信仰心の篤い生活を農村の風景とともに描きました。本作ではたくましい体格の農婦が全身を使って今まさに竈にパンを入れようとしています。農民画家ミレーにファン・ゴッホは強く共感し、初期から晩年まで繰り返しその作品に倣い、モティーフを参照しました。
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)はオランダのハーグ派の中心的な存在で、ファン・ゴッホが画業の最初期に特に手本とした画家です。漁師や農民などの風俗的な主題のほか、ユダヤ教を背景とした宗教主題も多く描き、その画風には17世紀のレンブラント・ファン・レインの影響が色濃く表れています。本作のユダヤ人の書記の姿は、イスラエルスがモロッコのタンジールで目にした光景が出発点と言われています。
第2章 オランダ時代 1880-1885
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホ。画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をします。決して早いスタートではありませんでしたが、ついに天職を見つけたのでした。教則本の模写から始め、ハーグに移住してからは従姉の夫で画家のマウフェからも指導を受けます。1883年、両親の住むニューネンに移ると、現地の風景や風俗、労働者の姿を描くことに没頭していきました。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》のリトグラフなどを通じて、画家として歩み始めたファン・ゴッホの姿を追います。
この作品にはファン・ゴッホが自宅の裏手を窓から眺めた光景が描かれています。1882年3月半ばから彼は叔父より風景画の注文を相次いで受けました。芸術家の道を歩み出してまだ1年半の彼は、この好機に光明を見つつも、注文主の期待に応えようと苦心しました。この時期に描かれた本作には、線遠近法を用いた構図で画面に臨場感が与えられ、画家の工夫が見受けれます。
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
1885年4月頃、ファン・ゴッホはそれまでの集大成となる油彩画《じゃがいもを食べる人々》(ファン・ゴッホ美術館蔵)の制作に取りかかりました。本作はその習作の後に作られたリトグラフで、自信作のイメージを親しい人たちに伝えようと作られました。不慣れな版画制作を試みたものの、周囲の評価は「効果が不鮮明」「表面的」と厳しいものでした。高い技術力が求められる版画制作を経験し、画家は芸術において技巧よりも抒情性の表現を追求していくようになります。
ファン・ゴッホはニューネンの女性たちが日常的に被っていた白い帽子に興味をもち、帽子とその影になる顔の部分が「まさに明暗技法のような上質な色調をもたらしている」と手紙に書いています。この地に暮らした1883年12月から1885年11月までに、彼は農民の頭部を多数描くことで、明暗技法を研究していました。当時、闇の中に存在する光にこそ美があると考えていた彼は、モデルの顔や衣服の色調を整えてから背景の明暗を調整することで、暗い色調の中に表れる光の効果や奥行を表現しました。
第3章 パリの画家とファン・ゴッホ
1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めもあり、新たな刺激を求めてパリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接なコミュニケーションをする機会を得ます。彼らを通じてファン・ゴッホも印象派の表現から様々な影響を受けていきました。彼は特にモネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影とタッチ、セザンヌの構図や色彩表現の大胆な手法に関心を寄せました。ここでは、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌといった、印象派やその前後をつなぐ巨匠たちの絵画作品を紹介します。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
印象派の画家ルノワール(1841-1919)はパリや郊外で余暇を楽しむ若い男女の光景を描いて好評を博し、グループの中でも早くから評価された一人です。本作の中央には、テーブルに手をつき何かを熱心に見入るふたりの若い女性が描かれ、彼女らを背後から見つめるシルクハットを被った若い男性の姿もあります。常連モデルがポーズをとり、ルノワールは人物の表情や仕草を丁寧に描き出しています。後景は瞬間をとらえるような素早い筆致でまとめられ、カフェの活況が効果的に表現されています。
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス、50.2×65.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作が制作された1874年、モネ(1840-1926)は仲間とともに印象派の第1回展を開催し、一瞬の光をとらえた絵画を発表していきました。本作は当時モネが拠点としていたアルジャントゥイユで描かれました。画面中央でセーヌ川に浮かぶ舟は、モネが小屋を乗せて水上の制作場所として使用していたアトリエ舟です。水面に反射する光の効果やそれまでにない視点を得られる舟上での制作をモネは気に入っていたようです。
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
親しみやすい人柄でファン・ゴッホとも親交のあったピサロ(1830-1903)。彼はイギリス滞在時に受けたターナーやコンスタブルの影響から、明るい色彩の田園風景を多く手がけました。本作が描かれたパリ郊外のポントワーズには1872年に居を構えました。前景の高台から見下ろされる中景部には、緑や茶色に整然と区切られた畑が広がります。はるか遠景に連なる丘陵は、空気遠近法的な景観の広がりを醸し出しています。初夏を思わせる湧雲の前に、鮮やかな虹がかかっています。本作は1877年の第3回印象派展に出品されました。
第4章 パリ時代 1986-1987
パリ時代のファン・ゴッホの絵画はたった2年の間に色調だけでなく筆触までも大きく発展しました。この変化はパリに移って数か月後、静物画に取り組んだ頃から顕著になりました。なかでも多彩な花々を集めた花束はさながら色彩表現の実験台でした。花の静物画を通じてファン・ゴッホは、鮮やかで強い色彩と彫刻的とも言える厚塗りの筆触を特徴とするモンティセリから深く影響を受けました。
この章ではファン・ゴッホがパリの前衛的な表現に触発されて明るい色彩と闊達な筆致を駆使するに至る過程を、風景画や静物画、自画像をとおして見ていきます。
ファン・ゴッホはパリ時代、人物画を描きたかったもののモデル代の捻出が難しく、代わりに自画像を多数描きました。その数はどの時期よりも多い25点にのぼりました。淡い色彩でまとめられた本作では、頭部は茶系にアクセントとして白や赤を用いて、短く細い筆致の連続で描き出されています。背景の緑と青の多様な筆致は、空間に奥行きを与えるとともに、画面全体を活気づけています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの丘》1886年4-5月、油彩/カンヴァス、38.1× 61.1cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
3台の風車と細長い農場の建物の下に農園が広がっています。のどかな光景が残るモンマルトルの丘で、ファン・ゴッホはテオと暮らしていました。風車というモティーフは、敬愛するコローや友人ポール・シニャックも描きましたが、直接的には雑誌の図版から着想を得たようです。画面の大半を大まかで素早い筆致が占める中、柵や旗などは繊細に描かれています。色彩と光の印象にも注意が向けられ、ファン・ゴッホの風景表現における変化が表れています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《レストランの室内》1887年夏、油彩/カンヴァス、45.5×56cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作はファン・ゴッホが新印象派の手法を最も鮮明にした作品の一つです。点描の筆遣いに加えて、コントラストを生む補色、すなわち壁の赤と緑、床の黄色とくすんだ紫、椅子のオレンジ色とテーブルクロスの青みが効果的に用いられています。ブルジョワジー向きのレストランに、当時彼らが好んだ黒いシルクハットも添えられ、モティーフの点でも印象主義が意識されています。
第5章 アルル時代 1988
「色彩豊かで陽光にあふれた南仏」に憧れを抱いたファン・ゴッホは、ついに1888年2月、アルルに向かいます。その素朴な風景や共同体的な生活は、彼が激しく憧れていた日本の浮世絵や近代以前の農村社会を思わせる「理想の場所」だったのです。
この地でファン・ゴッホは精力的に制作を行い、15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残します。アルル時代の鮮やかな色彩の対比を活かした油彩表現は、ファン・ゴッホ独自のスタイルとして花開きました。《夜のカフェテラス(フォルム広場)》に象徴されるように、色彩を駆使する芸術家としての進路を自覚したファン・ゴッホ。新しい表現に目覚めた喜びが満ちるアルル時代の傑作で、本展の最後を締めくくります。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
黄色、オレンジ、赤、青といった鮮やかな色彩とさまざまな筆致を駆使して、柳の木々が夕陽に照らされる光景が描かれています。柳は葦などが生える草地に立ち並び、遠方の青色の層は山脈または運河と思われます。大きな夕陽が秋の情景を思わせることから、本作は1888年10月に制作されたものと長く考えられてきましたが、柳には新芽が芽吹き、葦の描写には同年3月の作品との類似が認められています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
本作の構図は同時代画家による街頭風景や日本の浮世絵などからヒントを得た可能性があります。またそれ以上に制作動機として重要なのは、ファン・ゴッホの星空への憧憬です。彼は愛読したモーパッサンの小説『ベラミ』に現われる星空、あるいは1888年6月初めに地中海の浜辺で見た色彩豊かな星空に刺激を受けてその絵画化に取り組みました。同年9月中旬、彼はアルルのフォルム広場で夜中に本作を描きました。カフェテラスのガス灯の明かりは、鮮やかなコバルトブルーを背景に、輝く星々の美しさを際立たせています。
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大ゴッホ展 夜のカフェテラス、、上野の森美術館。5月29日(金)~8月12日(水)
上野の森美術館(東京都台東区上野公園1-2)
2026年5月29日(金)~8月12日(水)

2026年5月 7日 (木)

王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃

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アリゾナ大学考古学者ニコラス・リーブス、王妃ネフェルティティの墓に新説

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第434回
【蘇る美しい王妃ネフェルティティ】
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨した。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
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*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ネフェルティティの墓に考古学者が期待する理由
ツタンカーメンとともに埋葬? 王家の謎が解き明かされるかもしれない
2015.12.24
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/122200055/


ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
[画像のクリックで拡大表示]
 エジプトの王家の谷で新たな発見があるたび、関係者は色めき立つ。今度こそあの女王か? ついに見つかったのか?
 噂の主はネフェルティティ、古代エジプトの伝説の女王だ。未だに見つかっていない彼女の墓を、エジプト学者たちは長い間探し続けてきた。
 今、ネフェルティティの墓発見への期待はかつてないほど高まっている。ツタンカーメン王の墓をレーダースキャンしたところ、壁の奥に隠し部屋があるらしいと判明したためだ。ついにネフェルティティの墓が見つかったのではないか、壁の向こうにはいくつもの部屋が連なり、謎に包まれていた女王の豪華な副葬品で埋め尽くされているのではないかとの憶測が浮上している。(参考記事:「ツタンカーメンの隠し部屋、日本の技術者が活躍」)
 財宝の発見には胸が躍るが、考古学の世界で貴重なのは黄金よりも情報だ。専門家たちは、きらびやかなお宝以上の価値がある情報の発見に期待を寄せている。

古代エジプト美術の象徴とも言える、美しく優美なネフェルティティの胸像。【1912年にアマルナの遺跡で、王宮に仕えた彫刻家の工房跡から発見された。かつてはアケトアテンと呼ばれていたアマルナは、ネフェルティティの夫、アクエンアテンが首都として建設した街だ。】(Photograph by Michael Sohn, Reuters, Corbis)
【エジプト王の変遷を解く鍵】
 現在知られている歴代の古代エジプト王のリストは完璧なものではない。幾人もの学者たちが、細切れの情報を寄せ集めて作り上げたものにすぎず、今も不明点が数多く残っている。ネフェルティティの墓には、そんな王位継承の歴史を明らかにするヒントが眠っているかもしれないのだ。
――
 ネフェルティティの時代についてわかっていることを追ってみよう。
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨したのだ。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
――
エジプト王妃ネフェルティティの墓に新説、
謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の後ろに隠されていた?アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓
2015.08.21
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/082000228/
1912年に発見されたネフェルティティの胸像は、エジプト古代遺物の象徴的存在のひとつとなっている。(PHOTOGRAPH BY MICHAEL SOHN, DPA/CORBIS)
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 米アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓をついに発見したかもしれないという論文を発表し、注目を集めている。
 リーブス氏が発表した論文によれば、伝説のエジプト王妃の墓は、少し考えればすぐ分かりそうな場所に隠れていたという。ネフェルティティの息子と考えられているツタンカーメン王の墓に隠されたドアがあり、その向こうにある大きな玄室に埋葬されているという。
 歴史的な発見は、様々な憶測を呼ぶものだ。そこで、これまでの経緯を振り返ってみよう。
 ネフェルティティの墓を発見という発表は、過去12年間でこれが3度目だ。
 しかも、最近行われたDNA鑑定によって、1898年に発掘され現在はカイロのエジプト博物館に保管されている、数体のミイラのうちの1体がネフェルティティであるとの見方もある。
壁にあった謎の割れ目
 リーブス氏は、美術品のレプリカ製造を専門とするスペインのファクトム・アルテ社が作成したツタンカーメンの墓の詳細なスキャン画像を分析していた時にそれを発見した。
 少年王ツタンカーメンが眠っていた王家の墓を一目見ようと押し寄せる観光客のために、本物の墓のすぐそばにレプリカが作られており、スキャンによる高解像度画像は、これを建設するために撮影されたものだ。今年2月、スキャン画像を分析していたリーブス氏は、墓の北と西の壁に割れ目があることに気付き、それぞれ封印されたドアの輪郭ではないかと考えた。
★★★★★
エジプト、ツタンカーメン発掘100年、ツタンカーメンの王墓初公開、100年前の歴史的瞬間が蘇る ナショナルジオグラフィック
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/26/033100181/
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★★★★★
参考文献
王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-981c5c.html
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
2026年5月7日

王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃

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アリゾナ大学考古学者ニコラス・リーブス、王妃ネフェルティティの墓に新説
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第434回
【蘇る美しい王妃ネフェルティティ】
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨した。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
Egypt-tutankhamun-63phootgraph-by-kennet
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ネフェルティティの墓に考古学者が期待する理由
ツタンカーメンとともに埋葬? 王家の謎が解き明かされるかもしれない
2015.12.24
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/122200055/


ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
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 エジプトの王家の谷で新たな発見があるたび、関係者は色めき立つ。今度こそあの女王か? ついに見つかったのか?
 噂の主はネフェルティティ、古代エジプトの伝説の女王だ。未だに見つかっていない彼女の墓を、エジプト学者たちは長い間探し続けてきた。
 今、ネフェルティティの墓発見への期待はかつてないほど高まっている。ツタンカーメン王の墓をレーダースキャンしたところ、壁の奥に隠し部屋があるらしいと判明したためだ。ついにネフェルティティの墓が見つかったのではないか、壁の向こうにはいくつもの部屋が連なり、謎に包まれていた女王の豪華な副葬品で埋め尽くされているのではないかとの憶測が浮上している。(参考記事:「ツタンカーメンの隠し部屋、日本の技術者が活躍」)
 財宝の発見には胸が躍るが、考古学の世界で貴重なのは黄金よりも情報だ。専門家たちは、きらびやかなお宝以上の価値がある情報の発見に期待を寄せている。

古代エジプト美術の象徴とも言える、美しく優美なネフェルティティの胸像。【1912年にアマルナの遺跡で、王宮に仕えた彫刻家の工房跡から発見された。かつてはアケトアテンと呼ばれていたアマルナは、ネフェルティティの夫、アクエンアテンが首都として建設した街だ。】(Photograph by Michael Sohn, Reuters, Corbis)
【エジプト王の変遷を解く鍵】
 現在知られている歴代の古代エジプト王のリストは完璧なものではない。幾人もの学者たちが、細切れの情報を寄せ集めて作り上げたものにすぎず、今も不明点が数多く残っている。ネフェルティティの墓には、そんな王位継承の歴史を明らかにするヒントが眠っているかもしれないのだ。
――
 ネフェルティティの時代についてわかっていることを追ってみよう。
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨したのだ。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
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エジプト王妃ネフェルティティの墓に新説、
謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の後ろに隠されていた?アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓
2015.08.21
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/082000228/
1912年に発見されたネフェルティティの胸像は、エジプト古代遺物の象徴的存在のひとつとなっている。(PHOTOGRAPH BY MICHAEL SOHN, DPA/CORBIS)
[画像のクリックで拡大表示]
 米アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓をついに発見したかもしれないという論文を発表し、注目を集めている。
 リーブス氏が発表した論文によれば、伝説のエジプト王妃の墓は、少し考えればすぐ分かりそうな場所に隠れていたという。ネフェルティティの息子と考えられているツタンカーメン王の墓に隠されたドアがあり、その向こうにある大きな玄室に埋葬されているという。
 歴史的な発見は、様々な憶測を呼ぶものだ。そこで、これまでの経緯を振り返ってみよう。
 ネフェルティティの墓を発見という発表は、過去12年間でこれが3度目だ。
 しかも、最近行われたDNA鑑定によって、1898年に発掘され現在はカイロのエジプト博物館に保管されている、数体のミイラのうちの1体がネフェルティティであるとの見方もある。
壁にあった謎の割れ目
 リーブス氏は、美術品のレプリカ製造を専門とするスペインのファクトム・アルテ社が作成したツタンカーメンの墓の詳細なスキャン画像を分析していた時にそれを発見した。
 少年王ツタンカーメンが眠っていた王家の墓を一目見ようと押し寄せる観光客のために、本物の墓のすぐそばにレプリカが作られており、スキャンによる高解像度画像は、これを建設するために撮影されたものだ。今年2月、スキャン画像を分析していたリーブス氏は、墓の北と西の壁に割れ目があることに気付き、それぞれ封印されたドアの輪郭ではないかと考えた。
★★★★★
エジプト、ツタンカーメン発掘100年、ツタンカーメンの王墓初公開、100年前の歴史的瞬間が蘇る ナショナルジオグラフィック
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/26/033100181/
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参考文献
王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-981c5c.html
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
2026年5月7日

2026年5月 5日 (火)

「私の出会ったダリ」女優・岸恵子、芸術のミューズ・・・《記憶の固執》1931、《ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感》』1936、《レダ・アトミカ》1949

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第433回
「私の出会ったダリ」 ダリ 本人と交流があった俳優の 岸恵子 さんに素顔のダリ、芸術家としてのダリ、人間ダリの魅力。1995年放送
ダリのミューズは、ガラであった。カダケスの冬の海に行くと、「内乱の予感」の腕のような木がある。フィゲラス(Figueres)で若いころダリに会った。村人といるときは奇人ではなかったが、記者がいると変人であることを自己演出した。「レダの卵から、私とガラは生まれた。ガラは私の芸術のミューズ。芸術の源泉だ」。岸恵子「私はだれのミューズにもなっていない。ミューズと言われたこともない」。紅いドレスの岸恵子は、藝術のミューズである。私の藝術のミューズはだれか。
ダリとガラの城のような卵の美術館も、今は廃れた。ダリ《記憶の固執》1931「溶けた時計」は27歳の作品、3つの時計が溶けている。時計は溶ける、そのとき、自分の時間、自由が始まる。岸恵子「私はこの作品が好きだ」。《ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感》』1936、カダケスの枯れた木のようだ。と、岸恵子は言う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ダリ《レダ・アトミカ(Leda atomica)》1949、フィゲラスのダリ劇場美術館所蔵。ギリシア神話の「レダ」で、白鳥と台座に座ったスパルタの神話の女王レダが描かれている。《レダ・アトミカ》では、レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変えて描かれている。彼女の周囲には本、卵、定規、2つの踏み台が浮遊している。背景はおなじみのカタルーニャのカダケスの海岸と岩である。レダはスパルタ王テュンダレオースと結婚した夜、テュンダレオース王が眠っているときに白鳥に姿を変えたゼウスに犯されてしまう。この二重婚姻問題が2つの卵を産むことになり、最初の卵から双子の兄弟カストールとポリュデウケースが、後の卵から双子の姉妹クリュタイムネーストラーとヘレネーが生まれる。
ダリは自分自身をポリュデウケースとみなし、死んだ兄をカストールとみなした。また妹のアナ・マリアをクリュタイムネーストラーに、ガラをヘレネーとみなしている。
――
岸恵子。1932年8月11日(93歳)生まれ。11951年に大学入学までという条件で松竹に入社。1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出る。1975年、41歳のとき離婚、娘は11歳だった。
私の人生を大きく変えた、3つの節目
結婚が24歳。18年弱の結婚生活の後、41歳で離婚『岸惠子自伝 卵を割らなければ,オムレツは食べられない』を上梓しました。岸さんは『婦人公論』2016年2月7日号で人生を変えた「3つの節目」について語っています。岸さんの人生観
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「41歳で紙一枚持ち出さずに離婚、51歳で作家デビュー。どんな苦境にあっても自由と孤独を取りこんで生きてきた」〈後編〉
https://fujinkoron.jp/articles/-/5257
岸惠子さん「女子高生でデビューし、女優の絶頂期にフランス人監督・イヴ・シャンピと結婚。スターの身分を捨て、ただ世界を見てみたかった」〈前編〉
https://fujinkoron.jp/articles/-/5256
【サルバドール・ダリ(1904-89)】『記憶の固執』1931、『ロートレアモンのカマキリの人肉食』1934、『ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』1936『ナルシスの変貌』37『燃えるキリン』37『ヴィーナスの夢』1939『聖アントニウスの誘惑』46『ビキニの3つのスフィンクス』1947、『記憶の固執の崩壊』1954、「テトゥアンの大会戦」1962、『引き出しのあるミロのヴィーナス』1936『夜のメクラグモ 希望』40『焼いたベーコンのある自画像』41『象』1948『ポルト・リガトの聖母』1950『MeltingWatch溶けた時計』54、『大惨事シリーズ(Série des catastrophes)《ツバメの尾》』1979【初期ダリ】『窓辺の少女』1925『陰鬱な遊戯』29『不可視のライオン』1930『降りてくる夜の影』1931、ダリ『ロートレアモンのカマキリの人肉食』1934
【『記憶の固執』1931】ダリのアトリエからみえるポルト・リガトの海と岩と柔らかい時計がある。ある日の午後、溶けた時計が見えた。「私は二つの柔らかい時計を見た。そのうちひとつはオリーヴの木の枝に嘆かわしい姿でぶらさがっていた。」ダリ『わが秘められた生涯』1942
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参考文献
「私の出会ったダリ」女優・岸恵子、芸術のミューズ・・・《記憶の固執》1931、《ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感》』1936、《レダ・アトミカ》1949
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-c59349.html
生誕120 周年サルバドール・ダリ―天才の秘密―・・・魔術的写実主義、ヴィーナスの夢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-0c6967.html
「NHK日曜美術館50年展」・・・語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉、日本美の再発見、超絶技巧、作家の生き様と美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-da8f56.html

2026年5月 4日 (月)

「NHK日曜美術館50年展」・・・語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉、日本美の再発見、超絶技巧、作家の生き様と美

2026
Nichibi-2026
Nichibi-18-2026
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第432回

桜満開の森を歩いて、藝術大学美術館に行く。日曜美術館は、埋もれた藝術家を発掘してきた。田中一村、高島野十郎、等である。
その他、美術愛好家、知識人、詩人、作家、女優によって、忘れられた美術と美を再発見してきた。女優・岸恵子のダリとカダケス(ポルト・リガート)、フィゲラスへの旅、「レダ・アトミカ」は、美しい思い出である。1995年。
ポール・セザンヌ 《水浴》 1883-87年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館蔵
石田徹也 《飛べなくなった人》 1996年 静岡県立美術館蔵。画家として注目を集め出した矢先に、踏切事故のため31歳の若さでその生涯を閉じた石田徹也(1973-2005)。代表作約110点を残した。
《縄文土器 深鉢 火焔型土器》 新潟県長岡市 岩野原遺跡出土 縄文時代(中期) 國學院大學博物館蔵
アルベルト・ジャコメッティ 《ヤナイハラⅠ》 1960-61年 国立国際美術館蔵 撮影:福永一夫
舟越桂《水に映る月蝕》 (右)舟越桂《「水に映る月蝕」のためのドローイング》ともに2003年 個人蔵
曾我蕭白《柳下鬼女図屏風》18世紀、東京藝術大学美術館
曽我蕭白《群仙図屏風》18世紀 東京藝術大学大学美術館
安藤緑山 《竹の子に梅 牙彫置物》 大正–昭和初期 京都国立近代美術館蔵 撮影:木村羊一
月岡芳年 《義経記五條橋之図》 明治14年(1881) 横浜美術館蔵(加藤栄一氏寄贈)
室瀬和美 《蒔絵飾箱「麦穂」》 1985年 個人蔵
塩見亮介 《白銀角鴟面附白絲縅兜袖》 2022年 個人蔵
香月泰男 《青の太陽》 1969年 山口県立美術館蔵
柚木沙弥郎 《いのちの樹》 2018年 松本市美術館蔵
岡本太郎 《遭遇》 1981年 川崎市岡本太郎美術館蔵
岡本太郎(画家)
職業なんてないんだと。人間だと。
誰だって人間だから、芸術だと。
芸術家じゃなくて、芸術だと。
セクションのなかに入ってることが芸術じゃないんですよ。
全人間的に生きることが芸術なんです。(1981年3月8日放送 「アトリエ訪問 岡本太郎」 より)
石田徹也×大槻ケンヂ(ロックミュージシャン)
幼い頃の「未来に対して、人生に対して不安だ」みたいな、みんなが持っているそういうモノを彼が一身に引き受けて絵にしていたかのようなイメージを僕は受けましたね。(ロックミュージシャン 大槻ケンヂ 2006年9月17日放送 「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」 より)
曾我蕭白×大野一雄(舞踏家)
蕭白は私の大先生。なぜなら非常に粗放、あらっぽくみえるけど非常に繊細。目を見ても繊細極まる目だけど、普通の目じゃなくて、浮世をのぞき見しているような。宇宙の構造というか私の構造というか、そういうものとの出会いのような感じで、極まりなく感動をいつも受けさせてもらっている。先生のおかげですよ。(舞踏家 大野一雄 1997年2月16日放送 「奇想の魂 大野一雄・蕭白を舞う」 より)
志村ふくみ(染織家)
色にいのちがあるってことを教えてくれたのは藍ですよね。そういうものがなかったら、色は色ですよね。でも私は色は色ではないんじゃないかという思いで色を染めてる、色を出してるっていう感じですよね。(2005年12月4日放送「京の〝いろ〞ごよみ 染織家・志村ふくみの日々 冬から春へ」 より)
李禹煥(現代美術家)
ほんの最小限の行為が最大限の大きな世界との響きあいになることに望みをかけるわけです。(2005年12月4日放送「出会いの芸術を求めて ~李禹煥 半世紀の挑戦~」 より)
香月泰男(画家)
僕は国家というよりも、国家の原点にあるひとつの家庭というものを大事だと思うんです。国家という目に見えないものは、僕は納得いかない。(1979年8月12日放送 「私と香月泰男」 より)
安藤緑山×前原冬樹(彫刻家) 抜群にかっこいい。曲面に正確な線をいれるのはかなり難しい。だからその筋の正確さとかずっとみていたいぐらいすごい。(彫刻家 前原冬樹 2014年5月11日放送 「明治の工芸 知られざる超絶技巧」 より)
塩見亮介 《白銀角鴟面附白絲縅兜袖》 2022年 個人蔵
塩見亮介(鍛金家) 明治工芸や江戸の名工も、すごい人たちがいっぱいいて、過去の人とも常に勝負してる、未来にもすごい人たちが出てくるだろう。そういう人たちとも勝負してる。(鍛金家 塩見亮介 2023年5月14日放送 「現代の超絶技巧 2」 より)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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東京藝術大学美術館、プレスリリース
2026年に放送開始から50年を迎える長寿番組、NHK「日曜美術館」。これまで番組に登場した“美”の魅力を伝える展覧会「NHK日曜美術館50年展」が、東京藝術大学大学美術館(東京・上野)で3月28日(土)から6月21日(日)まで開催されます。
本展の見どころ
1.放送50年を迎えるNHK「日曜美術館」を彩った、120点を超える名品を展示。西洋・日本の絵画や彫刻、浮世絵、屏風、土器、伝統工芸などジャンルを超えた名品が勢揃いします。
2.貴重な当時の番組映像・出演者たちがつむいできた言葉が展示室内に! 出展作品がどのように語られ、紹介されたのかを当時の映像や言葉とともに追体験出来ます。
3.第5章 作家の生き様と美~アトリエ&創作の現場では、創作現場の貴重な映像が登場! 制作中の作家の言葉・作品が生み出される瞬間を、作品と共に味わうことが出来ます。
エドヴァルド・ムンク 《マイスナー嬢の肖像》 1907年 ひろしま美術館蔵
――
第1章 語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉・語らせる作品
1976年4月、日曜美術館は「私と○○」という企画で放送を開始しました。各界の第一線で活躍するゲストが、敬愛する作家や作品への思いを語り、美の本質や創作の背景に迫る内容でした。50年を経た今も、「美を語る言葉」を大切に伝えるという精神は息づいており、繰り返し取り上げられる作家や名品も多くあります。一人のゲストが同じ作家を30年後に再び語ることもあり、語りの熱は時代を超えて受け継がれています。それは作品自体が「語らせる」力を持ち、人々に感動と表現への衝動を呼び覚ます証です。

大江健三郎が語るフランシス・ベーコン、舟越保武が伝える松本竣介、モデルとなった矢内原伊作が伝えるアルベルト・ジャコメッティなど、各界の第一線で活躍するゲストの言葉と古今東西の作家と作品を紹介します。

ポール・セザンヌ 《水浴》 1883-87年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館蔵
セザンヌ×吉田秀和(音楽評論家)
水浴図というのが自然の中にあるものを再現したような絵であるどころか、彼が求めていたあるいは心の中でみていたあるファンタスティックな世界の絵画的実現だ。(音楽評論家 吉田秀和 1996年12月1日放送「セザンヌはなぜ“水浴図”を描いたか」 より)

オーギュスト・ロダン 《考える人》 1880年 静岡県立美術館蔵
ロダン×舟越桂(彫刻家)
ロダンの技術はすごいが、イメージ力というのか、彫刻に物語を組みいれていくときの発想力がすごいなと思う。(彫刻家 舟越桂 2009年6月14日放送 「ロダン 新たな生命の探求者」より)

アルベルト・ジャコメッティ 《ヤナイハラⅠ》 1960-61年 国立国際美術館蔵 撮影:福永一夫
ジャコメッティ×矢内原伊作(哲学者)
ジャコメッティのそういう真実を追求してやまない情熱っていうか。 それこそ真剣な仕事のしかた、あるいは生き方そういったものに非常に私は感動した。(哲学者 矢内原伊作 1977年6月12日放送 「私とジャコメッティ」 より)

岸田劉生×会田誠(美術家)
強い意思を感じますね。 筆先にこう、力がこもっている。こうねりねりと、練り込むような感じで。 決意がこもったような独特な圧がありますよね。俺、俺を見ろ!みたいな。俺が俺であることが大切だというアピールというか。(美術家 会田誠 2019年9月29日放送 「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」 より)
石田徹也 《飛べなくなった人》 1996年 静岡県立美術館蔵

松本竣介×舟越保武(彫刻家)
少しほかの風景と違ったかわいらしいというとおかしいが、ほとんどの人はこれが好き。ルソーと共通したものが、素朴なものが出ているし、あそこ歩いているのは竣介という風に私は見てます。いつもひとりで歩いてましたから。非常にきれいな統一された雰囲気をもっておりますね。(彫刻家 舟越保武 1977年10月23日放送 「私と松本竣介」 より)
――
第2章 日本美の再発見 古代から明治まで
1950年代の岡本太郎による縄文の美の再発見、1970年代の辻惟雄による江戸の奇想絵画の評価、そして琳派や浮世絵を現代アーティストが再解釈する動きなど、日本美術には、時代や人物の視点によって新たな光を放つ魅力があります。

1976年に始まった「日曜美術館」は、放送初期から北斎や若冲を紹介してきましたが、2016年の若冲展では空前の行列が生まれ、日本美の再評価を象徴しました。2000年代以降は奇想の絵師の特集が増え、「“にっぽん”美の旅」シリーズでは井浦新さんの企画により縄文の美が数多く取り上げられました。

村上隆、大野一雄、井浦新らがつむぐ言葉で、縄文土器・土偶、伊藤若冲、曾我蕭白、葛飾北斎など、日本美術の名品が再び輝きだします。

《縄文土器 深鉢 火焔型土器》 新潟県長岡市 岩野原遺跡出土 縄文時代(中期) 國學院大學博物館蔵
縄文土器×冨永愛(モデル・俳優)
きっと今より厳しい環境で生きていて、その中でもちょっとした楽しみだったりとか、 喜び、幸せというものをより噛み締めて、より大事にして生きてるんだろうなって思うと、アートっていうものがそれに寄り添ってきたんじゃないかなと思いますよね。やっぱり人って生きてる中でどうしてもアートしちゃうんじゃないかなって思います。(モデル・俳優 冨永愛 2026年1月4日放送 「放送開始 50 年特集 時を超え 美を語る」 より)

曾我蕭白×大野一雄(舞踏家)
重要文化財 伊藤若冲 《蓮池図》 江戸時代・天明9年(1789) 大阪・西福寺蔵 ※後期展示:5月12日(火)~6月21日(日)
伊藤若冲×村上隆(アーティスト)
世界を全部自分の手元に捕まえたいという欲求が投影されてる。リアルな自分と等身大の世の中を自分の中に取り込みたいという心の平静の境地がこの作品にある。(アーティスト 村上隆 2000年11月12日放送 「奇は美なり 若冲・細密の世界」 より)

月岡芳年 《義経記五條橋之図》 明治14年(1881) 横浜美術館蔵(加藤栄一氏寄贈)
月岡芳年×楳図かずお(漫画家・芸術家)
弁慶の足元、ドキッとする。ポーズも普通の人は描かない、ドラマチックですよね。今生きていたら映画とか漫画とか作っていそうだな。(漫画家・芸術家 楳図かずお 1999年5月16日放送 「最後の浮世絵師 月岡芳年 怪奇の美」 より)

長沢芦雪×井浦新(俳優)
清々しさというか、作為をまったく感じさせない。あんな表現が自分もいつか出来たらって。やっぱり素直であった方が、何事もうまくいくんじゃないかなって思うんですよ。学び続けながら、その分ちゃんと出していくことが出来る場が、役者の仕事であり、ものづくりの仕事であり。だからちゃんとそこを謙虚な気持ちで素直に。本当に芦雪が、間違ってないよっていってくれているような、こっちに来いよみたいな。(俳優 井浦新 2014年6月8日放送「紀州へ 長沢芦雪×井浦新」 より)
――
第3章 工芸 伝統と革新
50年間、日曜美術館が継続して取り上げてきたのが「工芸」です。1976年の「日本伝統工芸展」から始まり、翌年からは「正倉院展」も放送し、日本の優れた工芸美術を紹介してきました。

番組では、正倉院の宝物や、各時代を代表する匠たちの制作風景、そして技と素材に真摯に向き合う姿が映像として残されています。その中には、後に人間国宝となる職人たちの若き日の挑戦や、親から子へと受け継がれる技の葛藤、厳しい時代にも続く伝統継承の奇跡が映し出されています。近年は明治から現代に至る超絶技巧にも注目し、過去の名工の技に学びつつ新たな表現を探る若手作家たちを紹介しています。自然と深く結びついた日本の工芸の誇りと精神は、今もなお匠たちの手の中で脈々と受け継がれているのです。

正倉院宝物(模造)、松田権六、室瀬和美、森口華弘・邦彦、安藤緑山、塩見亮介などの名品をご紹介します。

人間国宝
室瀬和美 《蒔絵飾箱「麦穂」》 1985年 個人蔵
室瀬和美(漆芸家)
作品の中に1つの空気を流してみようって、そういう構想が自分の心の中にあるんです。漆芸家 重要無形文化財「蒔絵」保持者 室瀬和美(1985年9月29日放送 「美と技と用 第32回日本伝統工芸展から」 より)

超絶技巧
安藤緑山 《竹の子に梅 牙彫置物》 大正–昭和初期 京都国立近代美術館蔵 撮影:木村羊一

第4章 災いと美
2020年、コロナ禍により美術館が休館し、番組の継続も危ぶまれる中で日曜美術館は大きな危機を迎えました。しかし「美を届けることを止めない」という信念のもと、過去の映像を活用した「蔵出し日本絵画・西洋絵画シリーズ」や、困難な時にこそ分かち合いたい作品を紹介する「♯アートシェア」などが生まれました。中でも「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」は、災いと人間の表現の関わりを美の視点から見つめ直す象徴的な番組でした。古来より人は災厄に向き合う中で美を通してそれを理解し、昇華してきたことが明らかになり、社会の災害や戦争にも同様の姿勢が見られます。

本章では、災いと向き合い、理解し、受け止めるために美が果たしてきた役割とその力を考えます。香月泰男、靉光、野見山暁治、石内都などの作品とあわせてパブロ・ピカソの傑作「ゲルニカ」を原寸大高精細映像で展示します。

疫病
作者不明 《肥後国海中の怪》 1846年 京都大学附属図書館蔵 ※前期展示:3月28日(土)~5月10日(日)
アマビエ×小野正嗣(作家)
健康に楽しく周りの人と出会い言葉を交わし合いながら美術について語り、笑ったりすることがどれほど人間にとって本質的な活動かと強く感じられる。(作家 小野正嗣 2020年4月19日放送 「疫病をこえて 人間は何を描いてきたか」 より)

戦争
香月泰男 《青の太陽》 1969年 山口県立美術館蔵

自然災害
野見山暁治(画家)
悲しいとか何とかとか、なんか違う。人間に限らず生物というものははかないもの。大きな中でただうごめいているだけ なす術がない。(2014年3月9日放送 「行き暮れてひとり ~画家 野見山暁治のアトリエ日記~」 より)
――
第5章 作家の生き様と美 ~アトリエ&創作の現場
作家のアトリエは、歓喜や苦悩、葛藤、孤独といったあらゆる感情が交錯する、美の舞台裏です。日曜美術館では1980年から「アトリエ訪問」シリーズを通して、多くの作家の創作現場を紹介してきました。散乱した空間もあれば道場のように整然とした場もあり、そこには作家それぞれの生き様と個性が刻まれています。作品がまさに誕生する瞬間に立ち会うことは、創造の核心に触れる特別な体験です。

岡本太郎、柚木沙弥郎、志村ふくみ、加山又造、李禹煥、舟越桂、諏訪敦、山口晃など、放送時の映像とともに制作の過程で作家が語る言葉に耳を傾けながら、創造という行為の深淵を。

柚木沙弥郎 《いのちの樹》 2018年 松本市美術館蔵
李禹煥(現代美術家)
ほんの最小限の行為が最大限の大きな世界との響きあいになることに望みをかけるわけです。(2005年12月4日放送「出会いの芸術を求めて ~李禹煥 半世紀の挑戦~」 より)
岡本太郎 《遭遇》 1981年 川崎市岡本太郎美術館蔵
山口晃 《ショッピングモール》 2015年~ 桐生市(大川美術館寄託)
山口晃(画家)
シャッター商店街問題になっているけれど、これ描いて何になるんだっていうわけじゃないが、ふるさとの絵を一枚描いておこうかしら、描く時にそこは画題をぴりっと利かせたいというのもありまして。
ショッピングモールっていうのは、巨大さをみると街が一つできちゃったような。あそこまで大きいと街でいいんじゃないかしらと。普通の商店街に壁作って屋根をかけて、「あれ?新しいショッピングモールだわ」とか言ってね。ショッピングも出来るじゃないかしらとまちがった人がきて流行りやしないかと。空想は空想ですけど、そういうしたたかな生き残り戦略じゃないですけど。(2015年4月19日放送 「画伯! あなたの正体は? ドキュメント・山口晃」 より)
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参考文献
「NHK日曜美術館50年展」・・・語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉、日本美の再発見、超絶技巧、作家の生き様と美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-da8f56.html
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、人生の光芒、彼岸への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
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NHK日曜美術館50年展
会場:東京藝術大学大学美術館(東京・上野)
会期:2026年3月28日(土)~6月21日(日)
休館日:月曜日(ただし5月4日は開館)
公式サイト:https://nichibiten50.jp/
巡回先:静岡県立美術館2026年7月18日(土)~9月27日(日)/大阪中之島美術館2026年10月10日(土)~12月20日(日)

2026年5月 1日 (金)

「アンドリュー・ワイエス展」・・・ベッツィとの出会い、クリスティーナとの出会い、海からの風、オルソンハウス

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第430回
躑躅咲く、新緑の森を歩いて、美術館に行く。
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)の絵画は、ベッツィとの出会い、クリスティーナとの出会い、オルソン・ハウスとの出会いによって生まれた。《クリスティーナの世界》1948年は、クリスティーナが丘を這ってオルソン・ハウスに上って行く、貧しく障害を負って次第に体が不自由になっていくクリスティーナ。
【アンドリュー・ワイエスのリアリズムとは何か】
【20世紀アメリカ美術】
アンドリュー・ワアンドリュー・ワイエス《クリスティーナの世界》(1948)、《海からの風》(1947)は、20世紀アメリカ美術を代表する絵画である。
20世紀アメリカ美術は、サルヴァドール・ダリとパブロ・ピカソの影響を強く受けている。
アンドリュー・ワイエスとジョージア・オキーフは、アメリカの僻地の画家で、日本人には、人気が高い。
だが、現代アメリカ美術、NY等で高く評価されているのは、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、デビッド・ホックニー、である。と、藤田氏は分析する。私はデビッド・ホックニー『ナイトホークス』(Nighthawks)が好きだ。*
*デビッド・ホックニー『ナイトホークス』(Nighthawks)は、アメリカ合衆国の画家エドワード・ホッパーが1942年に描いた油絵である。
深夜のダウンタウンのダイナーの大きなガラス窓越しに、その中にいる3人の客と1人の店員を描いている。ダイナーから漏れた光が、さびれた都会の暗い街並みを照らしている。タイトルは、直接的にはヨタカのことだが、「夜遊びする人」「夜型人間」という意味もある。 完成から数か月でシカゴ美術館が3,000ドルで購入し、今なお同館の所蔵品となっている。この作品は、ホッパーの作品の中で最も有名なものと評されており、アメリカ美術において最も認知されている絵画の一つ。
――
【アンドリュー・ワイエス(1917-2009)】
アンドリュー・ワイエスは第一次大戦下1917年、ペンシルベニア州チャズフォードに生まれた。父親のニューウェル・コンヴァース・ワイエスは人気の挿絵画家で、地域の名士。ワイエス家の裕福で文化的な環境に育った。ワイエスは5人兄姉の末っ子で、長女・ヘンリエット、次女・キャロラインは画家、三女アンは作曲家。芸術一家だった。アンドリュー・ワイエスの息子も画家。裕福な極めて恵まれた環境を生きる芸術家一族である。
鉛筆素描、水彩画、ドライブラッシュ、テンペラ画、4つの技法を用いた。*P208
【ベッツィ・ジェイムズとの出会い、クリスティーナ・オルソンとの出会い】
1939年、出会ったばかりのベッツィ・ジェイムズに連れて行かれオルソン・ハウスで、クリスティーナ・オルソンに会った。ベッツィは、富裕階級で恵まれて育ったアンドリュー・ワイエスが、貧しく障害を持つクリスティーナにどのように反応するか試した。【魂が試される時】ワイエスは、クリスティーナと弟アルヴァロと良い関係を築き、30年間、オルソン家を描き続けた。30「オルソンの家」1939*
23歳の頃に父の反対を押し切って結婚した妻のベッツィは、生涯の大きな支えとなった。1945年、父親ニューウェル・コンヴァース・ワイエス(N.C.ワイエス)は、アンドリュー・ワイエスが28歳の頃に踏切事故で急逝。父の死はワイエスの生涯に影を残した。
《クリスティーナの世界》(1948)、12月NY近代美術館が購入。《海からの風》(1947)、
1951年、33歳、自身も肺の病気で片肺の半分を切除する大手術を受け、臨死体験をする。「生と死」に敏感になったと言われている。
【1943年NYニューヨーク近代美術館「アメリカンズ、1943:リアリストとマジック・リアリスト展、にアンドリュー・ワイエスは選ばれる】アルフレッド・H・バー・ジュニアは、マジック・リアリズムを「写実技法によって、夢幻的、幻想的な視覚世界を表現する」と定義する。*カタログ1ワイエスという画家。
1963年、JF・ケネディ大統領より「メダル・オブ・フリーダム大統領自由勲章」授与が決定。
子供時代から近くにリトル・アフリカと呼ばれたコミュニティがあり、深い親交があった。存命中には「親友たち」と題してアフリカ系アメリカ人を描いた絵を集めた展覧会も開催した。
ワイエス自身の家系もスイス系やイギリス系、生家の隣人で絵のモデルになったカール・カーナーはドイツからの入植者。
代表作《クリスティーナの世界》(1948)に描かれたクリスティーナ・オルソンの父は、スウェーデンからの船員、オルソン・ハウスの娘と結婚、家を引き継いだ。移民国アメリカ、多様なルーツの人と交流した。
【アンドリュー・ワイエスのリアリズムとは何か】
アンドリュー・ワイエスの写実主義を円山応挙の写実主義と比較すると、まったく描いている世界が違う。【円山応挙1733~1796】の世界は、風景、水、動物、人間を描く、代表作は、「孔雀図」国宝「雪松図」「松に孔雀図」「美人画」「山水画」「水墨画」「竹林七賢図屛風」「聖賢図」「仔犬図」。円山応挙は、自然の本質を描く。
アンドリュー・ワイエスの写実主義は、自分の出会った風景、人々、一言でいうと「私小説」絵画である。アンドリュー・ワイエス《クリスマスの朝》 1944年は、友人の死を描いている、死を主題とするシュールレアリスムに通じる世界である。傑作である。《クリスティーナの世界》1948年は、クリスティーナが丘を這ってオルソン・ハウスに上っていく姿、貧しく障害を負って次第に体が不自由になっていくクリスティーナ。妻となるベッツィの友人である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
アンドリュー・ワイエス《クリスマスの朝》 1944年 テンペラ、パネル、マイロン・ケニン・コレクション、ミネアポリス
《自画像》 1945年 テンペラ、パネル 63.5×76.2cm ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、ニューヨーク National Academy of Design, New York, USA/Bridgeman Images. コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo
スケッチブックを脇に抱え、怒ったような表情を浮かべる自画像です。ワイエスは自らの心に響く何かを求めて日々自宅の近隣を散策しながらスケッチを重ねた。高名な挿絵画家である偉大な父が、踏切事故により突然この世を去ってしまった時期に描かれた。
《クリスティーナ・オルソン》 1947年 テンペラ、バネル 83.8×63.5cm マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス Myron Kunin Collection of American Art, Minneapolis, MN photo: Curtis Galleries, Inc. コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo
200点以上のワイエス作品でモデルを務めたクリスティーナ・オルソンを描いた作品。病気により足が不自由であった彼女は自由に歩き回ることが出来なかった。彼女は、陽の光あふれる外と暗い室内のちょうど境に腰を下ろし、内と外をつなぐ役目を与えられている。風になびく彼女の髪は、室内の静的な暗さと対照的に、明るく生命感のある外の空気の動きも表現しているようである。
《屋根窓Dormer Window》1947、丸沼芸術の森
《海からの風》(1947)丸沼芸術の森
《オルソン家の終焉》 1969年 テンペラ、パネル 46.5×49.5cm クリーブランド美術館
The Cleveland Museum of Art, Promised Gift of Nancy F. and Joseph P. Keithley コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo
1967年から68年にかけての冬、オルソン姉弟が相次いで亡くなる。姉弟が亡くなって最初の夏、ワイエスはオルソン姉弟の家(オルソンハウス)を訪れて本作を描いた。複雑な海岸線が特徴的なメイン州。その入江の一つに今でもオルソンハウスはひっそりと建っている。
《オルソン家の終焉》1969年、水彩、丸沼芸術の森
《花びら》 1991年 水彩、紙 75.5×56cm ボストン美術館 Museum of Fine Arts, Boston, Bequest of Sandra Sheppard Rodgers コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo
《薄氷》1969年 テンペラ、パネル 110.2×121.9cm 株式会社三井住友銀行 コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo
クリスティーナ・オルソンの亡くなった次の冬に描かれた作品で、氷の下に枯れ葉が沈んでいます。氷の下は死の世界を表すかのようですが、ワイエスはその枯れ葉が自身の重ねた経験や出会った人々であり、死そのものではないと語っています。
《灯台》 1983年 テンペラ、パネル 84.5×57.8cm ユニマットグループ コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art/ARS, New York/JASPAR, Tokyo
《粉挽き場》 1962年 テンペラ、パネル 77.5×130.8cm フィラデルフィア美術館 Philadelphia Museum of Art: Gift of the Honorable Walter H. Annenberg and Leonore Annenberg and the Annenberg Foundation, 2007-13-3 コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art / ARS, New York / JASPAR, Tokyo
描かれているのは独立戦争時代からの歴史ある粉挽き場と職人の家。この建物は後にワイエスが入手して増改築を行い、夫妻の新居とした。建物の間の二羽の鳩は、ここが夫婦二人の世界となることを暗示している。
アンドリュー・ワイエス《鷹の木》1973年ドライブラッシュ、成田ゴルフ俱楽部
《灯台》 1983年 テンペラ、パネル 84.5×57.8cm ユニマットグループ コピーライト2026 Wyeth Foundation for American Art/ARS, New York/JASPAR, Tokyo
灯台の内部を描いた作品、開かれたドアの手前に犬が座り、ドアの奥には階段が見える。
――
★★★★★
参考文献
「アンドリュー・ワイエス展」・・・ベッツィとの出会い、クリスティーナとの出会い、海からの風、オルソン・ハウス
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-26552f.html
生誕120 周年サルバドール・ダリ―天才の秘密―・・・魔術的写実主義、ヴィーナスの夢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-0c6967.html
「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-90e3d1.html
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
https://bit.ly/3D8mYir
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-00e373.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
円山応挙 革新者から巨匠へ、・・・雪の中の老松と若松、瀧を昇る鯉、牡丹と孔雀、竹林の抵抗派竹林七賢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-13cd31.html
「アンドリュー・ワイエス展」図録、東京新聞、2026
――
東京都美術館
20世紀アメリカ具象絵画を代表する画家アンドリュー・ワイエス(1917-2009)。第二次世界大戦後に脚光を浴びたアメリカ抽象表現主義、ネオ・ダダ、ポップアートといった動向から距離を置き、ひたすら自分の身近な人々と風景を描き続けました。その作品は眼前にある情景の単なる再現描写にとどまるものではなく、作家自身の精神世界が反映されたものとなっています。彼の作品には、窓やドアなど、ある種の境界を示すモティーフが数多く描かれます。境界は、西洋絵画史のなかで古くから取り上げられてきたテーマですが、ワイエスにとってはより私的な世界との繋がり、あるいは境目として機能しています。本展は、その境界の表現に着目して、ワイエスが描いた世界を見ていこうとするものです。
1. ワイエスの没後、日本初となる待望の回顧展
1974年に東京と京都で33万人を集めた日本で最初の個展以来、1995年、そして2008~9年にもワイエスの展覧会が開催され、日本でのワイエス人気は不動のものになりました。本展はワイエス没後はじめてとなる、国内待望の展覧会となります。
2. テーマは「境界」。アンドリュー・ワイエスの精神世界へ
ワイエスの作品には窓や扉など、「境界」を示すモティーフがたびたび表れます。それらはワイエスにとって生と死、画家自身の精神世界と外の世界をつなぐものだったと考えられます。本展では「境界」に着目し、彼の作品を見つめ直します。
3. 日本初公開となる作品多数
ホイットニー美術館(ニューヨーク)の《冬の野》(1942年)、フィラデルフィア美術館の《冷却小屋》(1953年)、フィルブルック美術館の《乗船の一行》(1984年)をはじめ、10点以上が日本初公開。あらためてワイエスの魅力にふれる機会となるでしょう。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html
――
アンドリュー・ワイエス プロフィール
1917年7月12日、アンドリュー・ワイエスは、高名な挿絵画家だったニューウェル・コンヴァース・ワイエス(N.C.ワイエス)の5番目の子としてペンシルヴェニア州チャッズ・フォードの自宅で生まれました。幼い時から父の手ほどきを受けて画家の道へ進み、1937年の個展では全作品が完売するなど、若くして頭角を現します。同時代の前衛的な芸術からは距離を置き、生涯にわたり故郷のペンシルヴェニア州と夏を過ごしたメイン州を拠点に身近な世界を精緻に描き続けました。
ワイエスの作品には、アメリカ合衆国の土地やそこに刻まれた歴史、反映されそこに生きる人々の姿が描き出されており、アメリカ国内で高く評価されました。2007年にはブッシュ大統領から芸術勲章を授与されています。日本での人気も高く、1974年の初の回顧展以降、度々展覧会が開催されてきました。2009年1月16日に老衰のため亡くなりますが、アメリカの国民的な画家として今なお高い人気を誇っています。
――
「アンドリュー・ワイエス展」東京都美術館、4月28日(火)~7月5日(日)
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

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