下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第424回
美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家【下村観山『小倉山』屏風】私は藤原定家をイメージする。藤原定家は74歳、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。
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下村観山『小倉山』屏風は、秋の奥山に鹿が鳴く余情妖艶を感じる。古今集の歌を思い出す。「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『猿丸大夫集』、詠み人しらず『古今集』秋上215)。
観山は、狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、東西の画技を極めてこの絵を描いた。奥深い優美な世界を構築している。日本美術院100年展(東京国立博物館1998)で見たとき、この絵に感動した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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下村観山『小倉山』は、『小倉百人一首』に収められている藤原忠平の和歌をテーマに描いた。小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ 「藤原忠平」(880〜949年元慶4年〜天暦3年)。小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇がおいでになるまで散らずに待っていてくれないだろうか。26番歌 藤原忠平(貞信公)。この和歌は、「拾遺和歌集」に収録されている歌。拾遺和歌集の詞書には、宇多天皇が大堰川(おおいがわ:京都府)から小倉山(おぐらやま:京都市右京区)の紅葉を見て、「子の醍醐天皇にも見せてやりたい」と言ったのを聞いた藤原忠平が詠んだ歌だと書かれている。小倉山は紅葉の名所。小倉山にある山荘の襖を飾るために藤原定家が選んだ和歌100首が、小倉百人一首の名の由来。このエピソードは、平安時代に成立した歌物語「大和物語」、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」にも記された。
だが、私は藤原定家をイメージする。藤原定家は、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。嵯峨山荘、時雨亭とも呼ばれる。常寂光寺、二尊院、厭離庵は定家の山荘址と伝わっている。
下村観山(1873–1930)は、狩野芳崖、橋本雅邦の弟子、江戸末期の日本絵画の残滓である。横山大観、菱田春草に次ぐ第3の男とされる(板倉聖哲)。25歳の時「美校事件」で辞任した岡倉天心に殉じて、教授を辞任。文部省から派遣され、30歳から32歳(1903-05)の時、ロンドンに留学し、イタリア・ルネサンス美術に深く魅了された。(1914–1931 日本美術院再興。
*注 1898年、岡倉天心は九鬼隆一に抗議して帝国博物館美術部長・東京美術学校校長を辞任した。天心に殉じて学校教授を辞任する者、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名に及んだ。天心は自分に殉じて辞職した者を中心に「日本美術院」創設した。天心36歳の時である。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、観山36歳の時の作品、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《弱法師(よろぼし)》(1915年、東京国立博物館)、夕日を拝み極楽浄土を願う「日想観(じっそうかん)」にふける盲目の俊徳丸の姿が、梅とともに描かれている。日想観は現在でも四天王寺で行われており、彼岸の中日である3月20日、夕日への観想が予定されている。
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美の使徒【藤原定家 1162年(応保2年)-1241年(仁治2年8月20日9月26日)】
父、藤原俊成は、寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。
養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、『堀河院題百首』を作っている。これに対して、父・俊成、母・美福門院加賀の他、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣・九条兼実からも賛辞の手紙を送られた。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲ける、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年)正五位下に昇叙。
【九条家へ出仕】文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があった。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており、重要文化財に指定。
【後鳥羽院政期】
建久7年(1196年)反幕府派の内大臣・源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭・西園寺公経や左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ。
【後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化】正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化、【正治2年(1200年)院初度御百首】企画される。藤原季経ら六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動あり、定家は参加を許される。翌【建仁元年(1201年)千五百番歌合】定家は参加して詠進、後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受ける。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者。【元久元年(1204年)勅撰集『新古今和歌集』】名称として『新古今和歌集』を上申、歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集。歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録。
【建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官】兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対する猟官運動が奏功、建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たす、建保4年(1216年)正三位に昇叙され、承久2年(1220年)播磨権守を兼ねる。
【承久3年(1221年)承久の乱】承久3年(1221年)承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返す、定家にとって非常に幸運な時代となる。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。寛喜4年(1232年)正月に【71歳で権中納言】に任ぜられる。
【寛喜4年(1232年)6月定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂】の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)
74歳【小倉山荘の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫】嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野(京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいと要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る。定家の好みの和歌を自由に選んだため、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)。
仁治2年(1241年) 8月20日薨去。享年80。
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展覧会概要 東京国立近代美術館
日本画家・下村観山は紀伊徳川家に代々仕えた能楽師の家に生まれ、橋本雅邦に学んだのち、東京美術学校に第一期生として入学しました。卒業後は同校で教鞭を執りましたが、校長の岡倉天心とともに辞職、日本美術院の設立に参加しました。
出品作品点数約150件、関東では13年ぶりの開催となる今回の回顧展では、狩野派、やまと絵の筆法を習得して若くから頭角を現した観山が、2年間のイギリス留学を通して世界をまたにかけた幅広い視野を身につけ、画壇を牽引する存在へと成長する軌跡を示します。そこからは、盟友の横山大観、菱田春草らとともに明治という新時代にふさわしい絵画を切り拓こうとした観山のひたむきな姿が浮かび上がってきます。
さらに、日本の古画や中国絵画の研究の成果、本人のルーツでもある能を主題とした絵画制作、時の政財界人とのサロンのようなネットワークにもスポットを当て、様々な角度から観山芸術の魅力に迫ります。これにより、明治から大正へと時代が移り変わる中で絵画のあり方に改めて向き合った観山が、自己表現のための芸術とはまた別の、作品を手に取る個人ひいては社会とともに生きる絵画を追い求めていったことが明らかになるでしょう。
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※会期中、一部の作品の展示替えを行います。
前期展示:3月17日(火)〜4月12日(日)
後期展示:①4月14日(火)〜5月10日(日)
下村観山(1873 – 1930)
見どころ
1. 誰もが圧倒される“超絶筆技”を味わう
狩野派、大和絵、琳派、中国絵画そして西洋絵画まで、東西の伝統的な絵画表現を徹底的に学び、自由自在に筆を操った観山。今もなお、その繊細な筆技は他の追随を許さないほどです。
2. 観山芸術の意義を再検証−作品の意味を読み解き、成り立ちを探る―
よく見ると和洋折衷の不可思議な表現、ミステリアスなモチーフなど、観山の作品には気になる部分がたくさんあることが分かります。そこには技法の他に、その作品を描くことになった経緯(作品の成り立ち)も関係しています。これらをひとつひとつ解きほぐすことで作品の示す意図を明らかにし、それを通じて観山芸術の意義を再検証します。
3. 大英博物館蔵、英国留学時の観山作品が里帰り
新しい日本の絵画には色彩の研究が必要だと考え、日本画家初の文部省留学生としてイギリスへ留学した観山。現地で親交を深めた小説家で東洋美術研究家のアーサー・モリソンに贈った自作(大英博物館蔵)が里帰り!
作品からは、海外経験を通じ観山が考えた「日本画のあり方」をも感じていただけます。
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■主な展示作品
《春日野》(1900)観山が27歳で描いた。春日大社の神鹿を描いたと思われる本作には、当時大観・春草らと試みていた「朦朧体」が用いられる。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《木の間の秋》1907(明治40)年 東京国立近代美術館蔵(通期展示)
《ディオゲネス》1903-05(明治36-38)年 大英博物館蔵
The Trustees of the British Museum(通期展示)
《魚籃観音》1928(昭和3)年 西中山 妙福寺蔵(通期展示)
《毘沙門天 弁財天》1911(明治44)年 徳島県立近代美術館蔵(後期展示①)
《獅子図屏風》1918(大正7)年 水野美術館蔵(後期展示①)
《大原御幸》(部分)1908(明治41)年 東京国立近代美術館(半期で巻替え)
《楓》1925(大正14)年 南湖神社蔵 画像提供:白河市歴史民俗資料館(前期展示)
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★参考文献
下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家
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大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第91回新古今歌人P12-16
新古今歌人、悲恋の花、式子内親王、西行、美への旅
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下村観山展、横浜美術館・・・紅葉舞う奥山
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「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
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新古今歌人、乱世に咲く花 美への旅 - 大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
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大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第70回 新古今歌人P32—37
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下村観山展 図録 刊行日:2026年3月17日 発行:日本経済新聞社
目次
「伝統」の発見と行き先、絵画のあり方―観山芸術再考 中村麗子
観山さん、おかえり―生誕地、和歌山から紐解く画家への軌跡 宮本久宣
図版
第1部 画業をたどる――生涯と芸術
第1章 若き日の観山(1873–1902 誕生・上京〜修業時代〜日本美術院への参加)
第2章 西洋を識る(1903–1905 イギリス留学)
第3章 飛躍の時代(1906–1913 帰国〜日本美術院再興前夜)
第4章 画壇の牽引者として(1914–1931 日本美術院再興〜死没)
第2部 制作を紐解く――時代と社会
第1章 何をどう描いたか―不易流行
第2章 なぜこれを描いたか―日本近代と文化的アイデンティティ
第3章 作品の生きる場所、作品がつなぐもの
論考・資料
観山の古画理解―中国絵画を中心に 板倉聖哲
下村観山と能 小林健二
主要作品解説
年譜
文献目録
出品目録
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■下村観山展
会場:東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期:2026年3月17日(火)〜5月10日(日)










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