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2026年3月

2026年3月22日 (日)

下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第424回

美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家【下村観山『小倉山』屏風】私は藤原定家をイメージする。藤原定家は74歳、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。
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下村観山『小倉山』屏風は、秋の奥山に鹿が鳴く余情妖艶を感じる。古今集の歌を思い出す。「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(『猿丸大夫集』、詠み人しらず『古今集』秋上215)。
観山は、狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、東西の画技を極めてこの絵を描いた。奥深い優美な世界を構築している。日本美術院100年展(東京国立博物館1998)で見たとき、この絵に感動した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』

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下村観山『小倉山』は、『小倉百人一首』に収められている藤原忠平の和歌をテーマに描いた。小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ 「藤原忠平」(880〜949年元慶4年〜天暦3年)。小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度天皇がおいでになるまで散らずに待っていてくれないだろうか。26番歌 藤原忠平(貞信公)。この和歌は、「拾遺和歌集」に収録されている歌。拾遺和歌集の詞書には、宇多天皇が大堰川(おおいがわ:京都府)から小倉山(おぐらやま:京都市右京区)の紅葉を見て、「子の醍醐天皇にも見せてやりたい」と言ったのを聞いた藤原忠平が詠んだ歌だと書かれている。小倉山は紅葉の名所。小倉山にある山荘の襖を飾るために藤原定家が選んだ和歌100首が、小倉百人一首の名の由来。このエピソードは、平安時代に成立した歌物語「大和物語」、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」にも記された。
だが、私は藤原定家をイメージする。藤原定家は、小倉山の麓の「小倉山荘」で『小倉百人一首』百首の和歌を撰んだ。嵯峨山荘、時雨亭とも呼ばれる。常寂光寺、二尊院、厭離庵は定家の山荘址と伝わっている。
下村観山(1873–1930)は、狩野芳崖、橋本雅邦の弟子、江戸末期の日本絵画の残滓である。横山大観、菱田春草に次ぐ第3の男とされる(板倉聖哲)。25歳の時「美校事件」で辞任した岡倉天心に殉じて、教授を辞任。文部省から派遣され、30歳から32歳(1903-05)の時、ロンドンに留学し、イタリア・ルネサンス美術に深く魅了された。(1914–1931 日本美術院再興。
*注 1898年、岡倉天心は九鬼隆一に抗議して帝国博物館美術部長・東京美術学校校長を辞任した。天心に殉じて学校教授を辞任する者、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名に及んだ。天心は自分に殉じて辞職した者を中心に「日本美術院」創設した。天心36歳の時である。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、観山36歳の時の作品、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《弱法師(よろぼし)》(1915年、東京国立博物館)、夕日を拝み極楽浄土を願う「日想観(じっそうかん)」にふける盲目の俊徳丸の姿が、梅とともに描かれている。日想観は現在でも四天王寺で行われており、彼岸の中日である3月20日、夕日への観想が予定されている。
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美の使徒【藤原定家 1162年(応保2年)-1241年(仁治2年8月20日9月26日)】
父、藤原俊成は、寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。
養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、『堀河院題百首』を作っている。これに対して、父・俊成、母・美福門院加賀の他、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣・九条兼実からも賛辞の手紙を送られた。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲ける、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年)正五位下に昇叙。
【九条家へ出仕】文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があった。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており、重要文化財に指定。
【後鳥羽院政期】
建久7年(1196年)反幕府派の内大臣・源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭・西園寺公経や左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ。
【後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化】正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化、【正治2年(1200年)院初度御百首】企画される。藤原季経ら六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動あり、定家は参加を許される。翌【建仁元年(1201年)千五百番歌合】定家は参加して詠進、後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受ける。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者。【元久元年(1204年)勅撰集『新古今和歌集』】名称として『新古今和歌集』を上申、歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集。歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録。
【建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官】兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対する猟官運動が奏功、建保2年(1214年)参議に任ぜられ、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たす、建保4年(1216年)正三位に昇叙され、承久2年(1220年)播磨権守を兼ねる。
【承久3年(1221年)承久の乱】承久3年(1221年)承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返す、定家にとって非常に幸運な時代となる。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。寛喜4年(1232年)正月に【71歳で権中納言】に任ぜられる。
【寛喜4年(1232年)6月定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂】の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)
74歳【小倉山荘の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫】嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野(京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいと要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る。定家の好みの和歌を自由に選んだため、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)。
仁治2年(1241年) 8月20日薨去。享年80。
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展覧会概要 東京国立近代美術館
日本画家・下村観山は紀伊徳川家に代々仕えた能楽師の家に生まれ、橋本雅邦に学んだのち、東京美術学校に第一期生として入学しました。卒業後は同校で教鞭を執りましたが、校長の岡倉天心とともに辞職、日本美術院の設立に参加しました。
出品作品点数約150件、関東では13年ぶりの開催となる今回の回顧展では、狩野派、やまと絵の筆法を習得して若くから頭角を現した観山が、2年間のイギリス留学を通して世界をまたにかけた幅広い視野を身につけ、画壇を牽引する存在へと成長する軌跡を示します。そこからは、盟友の横山大観、菱田春草らとともに明治という新時代にふさわしい絵画を切り拓こうとした観山のひたむきな姿が浮かび上がってきます。
さらに、日本の古画や中国絵画の研究の成果、本人のルーツでもある能を主題とした絵画制作、時の政財界人とのサロンのようなネットワークにもスポットを当て、様々な角度から観山芸術の魅力に迫ります。これにより、明治から大正へと時代が移り変わる中で絵画のあり方に改めて向き合った観山が、自己表現のための芸術とはまた別の、作品を手に取る個人ひいては社会とともに生きる絵画を追い求めていったことが明らかになるでしょう。
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※会期中、一部の作品の展示替えを行います。
前期展示:3月17日(火)〜4月12日(日)
後期展示:①4月14日(火)〜5月10日(日)
下村観山(1873 – 1930)
見どころ
1. 誰もが圧倒される“超絶筆技”を味わう
狩野派、大和絵、琳派、中国絵画そして西洋絵画まで、東西の伝統的な絵画表現を徹底的に学び、自由自在に筆を操った観山。今もなお、その繊細な筆技は他の追随を許さないほどです。
2. 観山芸術の意義を再検証−作品の意味を読み解き、成り立ちを探る―
よく見ると和洋折衷の不可思議な表現、ミステリアスなモチーフなど、観山の作品には気になる部分がたくさんあることが分かります。そこには技法の他に、その作品を描くことになった経緯(作品の成り立ち)も関係しています。これらをひとつひとつ解きほぐすことで作品の示す意図を明らかにし、それを通じて観山芸術の意義を再検証します。
3. 大英博物館蔵、英国留学時の観山作品が里帰り
新しい日本の絵画には色彩の研究が必要だと考え、日本画家初の文部省留学生としてイギリスへ留学した観山。現地で親交を深めた小説家で東洋美術研究家のアーサー・モリソンに贈った自作(大英博物館蔵)が里帰り!
作品からは、海外経験を通じ観山が考えた「日本画のあり方」をも感じていただけます。
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■主な展示作品
《春日野》(1900)観山が27歳で描いた。春日大社の神鹿を描いたと思われる本作には、当時大観・春草らと試みていた「朦朧体」が用いられる。
下村観山『小倉山』明治42年(1909)、絹本着色、六曲一双屏風、各157.0×333.5㎝、横浜美術館蔵
《木の間の秋》1907(明治40)年 東京国立近代美術館蔵(通期展示)
《ディオゲネス》1903-05(明治36-38)年 大英博物館蔵 コピーライトThe Trustees of the British Museum(通期展示)
《魚籃観音》1928(昭和3)年 西中山 妙福寺蔵(通期展示)
《毘沙門天 弁財天》1911(明治44)年 徳島県立近代美術館蔵(後期展示①)
《獅子図屏風》1918(大正7)年 水野美術館蔵(後期展示①)
《大原御幸》(部分)1908(明治41)年 東京国立近代美術館(半期で巻替え)
《楓》1925(大正14)年 南湖神社蔵 画像提供:白河市歴史民俗資料館(前期展示)
https://www.momat.go.jp/exhibitions/567
――
★参考文献
下村観山展・・・狩野派、やまと絵、ルネサンス絵画、琳派の技巧と美の使徒、美の鬼、歌聖、藤原定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-91272f.html
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第91回新古今歌人P12-16
新古今歌人、悲恋の花、式子内親王、西行、美への旅
https://t.co/2TYuF5tpEw
下村観山展、横浜美術館・・・紅葉舞う奥山
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c0d6.html
「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書―茶道具・かるた・歌仙絵とともに―」・・・御子左家の戦い、孤高の詩人、俊成・定家
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-f78257.html
新古今歌人、乱世に咲く花 美への旅  - 大久保正雄『地中海紀行 旅する哲学者 美への旅』
https://t.co/RxDxsJ0F0P
大久保正雄「旅する哲学者 美への旅」第70回 新古今歌人P32—37
――
下村観山展 図録 刊行日:2026年3月17日 発行:日本経済新聞社
目次
「伝統」の発見と行き先、絵画のあり方―観山芸術再考  中村麗子
観山さん、おかえり―生誕地、和歌山から紐解く画家への軌跡  宮本久宣
図版
第1部 画業をたどる――生涯と芸術
第1章 若き日の観山(1873–1902 誕生・上京〜修業時代〜日本美術院への参加)
第2章 西洋を識る(1903–1905 イギリス留学)
第3章 飛躍の時代(1906–1913 帰国〜日本美術院再興前夜)
第4章 画壇の牽引者として(1914–1931 日本美術院再興〜死没)
第2部 制作を紐解く――時代と社会
第1章 何をどう描いたか―不易流行
第2章 なぜこれを描いたか―日本近代と文化的アイデンティティ
第3章 作品の生きる場所、作品がつなぐもの
論考・資料
観山の古画理解―中国絵画を中心に  板倉聖哲
下村観山と能  小林健二
主要作品解説
年譜
文献目録
出品目録
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■下村観山展
会場:東京国立近代美術館(東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期:2026年3月17日(火)〜5月10日(日)

2026年3月11日 (水)

織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・他家自在天、夢幻のごとくなり

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第423回

織田信長、戦わずして勝つ、情報の蒐集、分析、比較、ストラテジー構築。
【桶狭間の戦い】から【本能寺の変】まで22年
永禄3年(1560)、5月1日、2万5千。駿河・遠江・三河の連合軍を率いた今川義元が尾張に侵攻。今川軍は桶狭間のうちの田楽狭間へ移動。梁田政綱の情報による。同日、信長はわずかな兵を率いて清洲を出発、進軍中に丸根砦の陥落を知り、善照寺砦で兵力を結集させ(約2000)、田楽狭間の今川本陣を急襲。見事に大将首をあげる。
5月19日、出陣の朝、信長は愛誦する幸若舞「敦盛」「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生をうけ滅せぬ者のあるべきか。」を舞い、熱田神宮で必勝祈願、2千5百の兵で出陣。
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【織田信長、稲葉山城、斎藤龍興、攻略までの7年。犬山城攻略、尾張統一】
桶狭間の戦いがあった永禄三年(1560年)。5月19日に今川義元の首を取った織田信長は、その約2週間後の6月3日、勢いに乗じて美濃へ攻め込み。しかし、斎藤家臣団の丸茂兵庫頭や長井衛安(長井甲斐守)たちの軍勢に織田軍は敗れ、柴田勝家が殿(しんがり)を務めながら帰国。美濃斎藤氏の当主は斎藤義龍。義龍は天文二十三年(1554年)、父の斎藤道三から家督を継承。
永禄三年(1560年)6月の美濃侵入で敗れた織田信長は、8月23日に再び侵攻。史料価値の低い『総見記』
父・斎藤道三を死へ追い込んだ弘治二年(1556年)長良川の戦い。道三が義龍の采配を見て「さすがは道三の子」と言った、永禄四年(1561年)5月11日、斎藤義龍が33歳の若さで急死。死因不明。
1563年 小牧山城移転。永禄六年(1563年)、織田信長は清洲城の北、約15kmの位置に小牧山城を築き、本拠地を移転。
【1564年 犬山城の攻略】織田信清の守る犬山城は、木曽川を背後にした難攻不落の城。
織田軍は丹羽長秀が、支城の黒田城と小口城に調略を仕掛け、和田定利と中島豊後守の協力を得ることに成功。永禄七年(1564年)8月、犬山城を落とし、尾張を統一。
美濃では斎藤龍興の統治に大きな綻びが見え始め、1564年2月に本拠地の稲葉山城が竹中半兵衛に乗っ取られる。六人衆の一人であった安藤守就も、竹中半兵衛に加担したことで龍興から離脱。
【1565年、犬山城対岸の鵜沼城(うぬまじょう)と、そのすぐ北にある猿啄城(さるばみじょう)攻略】『信長公記』による。。まず両城を見下ろす伊木山に付城を築いて、鵜沼城下を焼き払うと、そこで初めて秀吉が大沢氏を調略。続いて猿啄城は丹羽長秀が水源を断ち、河尻秀隆も攻め寄せると、耐えきれなくなった多治見修理亮は城を放棄。
【1566年 墨俣一夜城】永禄九年(1566年)9月、豊臣秀吉が「墨俣一夜城」を成功させた。『絵本太閤記』の創作。柴田勝家や佐久間信盛らを貶め、秀吉を持ち上げる。
【1567年 稲葉山城の戦い】永禄十年(1567年)8月、美濃三人衆から信長へ内応。
おそらく豊臣秀吉や丹羽長秀あたりが常に働きかけていたのでしょう。直後の出世状況からすると、やはり秀吉の弁舌や交渉能力が突出。美濃三人衆から話の申し入れがあると、人質を受け取る段取りも無視して、いきなり稲葉山城下へと軍勢を繰り出した。周囲を焼き払い包囲網を構築。重臣である美濃三人衆が織田方に寝返った、斎藤龍興は飛騨川から長島へ逃げ落ちました。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの勝利から、美濃を制する永禄九年(1567年)まで。7年。織田信長が一貫して用いた基本戦略は「調略と機動力」。斎藤方の武将を口説きつつ、兵を繰り出して戦い、雌雄を決するような大戦には発展しない。
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シェイクスピア『ベニスの商人』「金・銀・鉛の3つの箱選び」の原型は何か。パリスの審判、3人の女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する権力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る智力、アプロディーテは最も美しい美女。(叙事詩『キュプリア』)
【『ヴェニスの商人』、美しき相続人、ポーシャ】ヴェニスの若者バサーニオは、親友の商人アントーニオに、ベルモントの富豪の娘ポーシャに求愛しに行く資金援助を求める。全財産を投資中のアントーニオは、高利貸しシャイロックから借金する。ポーシャは亡き父の遺言書により「金・銀・鉛の3つの箱から正しい箱を選ぶ」男を選ばねばならない。モロッコ大公は金の箱を選び、アラゴン大公は銀の箱を選び、バサーニオは鉛の箱を選ぶ。
絶世の美女、孫子と美女百八十人、孔子、ヴェニスの商人、シンデレラ、地中海奇譚・・・『美と復讐の精神史』第2巻
https://bit.ly/2VqAJkT
【女神の争い】三女神は最も美しい装いを凝らしてトロイの王子パリスの前に立った。女神は贈り物を約束する。ヘラは世界を支配する権力、アテナはいかなる戦争にも勝利を得る智力、アプロディーテは最も美しい美女、三美神はそれぞれ与える約束をした。パリスの審判(『キュプリア』)
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
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【親は敵、兄弟は第一の敵】
織田信長、信勝を清洲城にて討つ。武田信玄と父、信虎追放。【伊達政宗毒殺未遂事件】政宗の母・義姫、小次郎を後継に画策。
【教育と文化を愛好する人】と【カネの亡者】の戦い。【カネの亡者】弟性格、教育と文化を無視。人を虐める性格。暴力的。カネの計算だけ。競争心が強い。モリエール『守銭奴』のようにカネの亡者。知ったかぶり、詐欺師、嘘つき「オレのせいではない。証拠はあるのか」思考力なし、マニュアル答弁「マニュアル奴隷」【母は22年間入院】病気の原因は虐め【ゾフィア・ドロテアとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世、ゾフィア・ドロテアの長男=フリードリヒ大王】
斎藤道三の孫、龍興と連動【信長の弟、信勝、謀反】弘治2年稲生の戦い、弘治3年2度目の謀反、清洲城で柴田勝家らに討取られる。
【信長の妹、お市の方。浅井三姉妹、茶々、江、初】1573長政滅亡1582お市の方と柴田勝家、再婚、1583賤ケ岳の戦い、北庄城、秀吉により陥落、自害【茶々、秀吉と結婚】秀頼を産み、大阪城、豊臣政権を支配【秀頼の父は誰か】大野治長、治長の母、茶々の乳母【徳川家康、二条城で秀頼と会見】秀頼は朝青竜のような巨漢、賢明。猿のような小男でない【家康、秀頼滅亡を決意】1598年8月秀吉死去。1600年9月15日関ケ原の戦い
【オシリスとイシス、セト】オシリスは弟セトに殺され王権を奪われた。イシスとセトの妻は、オシリスの遺体を集め、オシリスは冥界の王として復活した。
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
https://bit.ly/3ryn9gI
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参考文献
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-0ab47b.html
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
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【オリンピック競技の3形態】【ゲーム競技】敵の弱点を突く。虐め競技。盲点を突く。【記録競技】史上最速。【採点競技】自分の美技を磨く。芸術競技。自分との闘い。
【7年前「雷が落ちた」りくりゅうの運命の出会い】三浦「龍一くんと出会えたのは奇跡」木原「感謝しかない」三浦は「本当にたくさんの方々に『龍一くんと巡り会えたのは奇跡なんだよ』と言っていただける。本当に全てのモーメント、全ての人々に感謝している」。木原は三浦に対して「感謝しかない。辞めようと思っていた時に声をかけてくれたので。この出会いがなかったら、またこうして(北京から)2大会五輪に出ることができなかった。もう感謝しかない」と涙を流した。19年7月、木原が三浦を真上に投げ、三浦が身体を回転させる技、ツイストリフト。投げた瞬間に、木原は「雷が落ちた」と本能的に感じとった。「ここまで相性が合うんだ」と木原が思えば、三浦も「感じたことのない高さ。『空中時間って、こんなに長いんだ』と」。今でも「りくりゅう」最大の武器でもあるスピードは「2人とも大好き」。木原は「化学変化、そういったものがカップル競技に存在するんだな、と三浦さんと滑ってみて思いました」と、今につながる原点を語っていた。報知新聞社2025年2月17日
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『戦わずして勝つことが善の善なり』『孫子』謀攻編16。15~17。
是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非(あら)ざるなり。戦かわずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。『孫子』謀攻編16。15~17。
用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、『相手をできるだけ傷つけずに勝利することが上策』軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次つぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次つぐ。『孫子』謀攻編15
『最上の勝ち方は、相手の謀を謀のうちに破る』故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。『孫子』謀攻編17。
2026年2月18日

2026年3月 5日 (木)

花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫

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Kondou-hiroaki-19742026
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Yamatane-flower-2026-kawahata-2026
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第422回

近藤弘明「清夜」(1970山種美術館)を見る。近藤弘明「黄泉の華園」。常寂光浄土に落葉敷きつめて(高浜虚子)を思い出す。
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【常寂光土、地平線に太陽が沈む、花の葬列】
あの世に咲く花、遠くの地平線に太陽が沈む。あの世に咲く美しい花、永遠に続く花の葬列。
どんな運命があなたを襲ったのか。この世の復讐、愛憎、敗北と曳航、果ての死。曲学阿世、虎の威を借る狐との戦い。親は敵、兄弟は第一の敵、カネの亡者と教育と藝術を愛する者の戦い、木を伐る者と木を育てる者の戦い、あなたを亡き者にするものとの戦い。
どんな運命が襲っても、命ある限り、善を成し遂げ、美を生み、生の証、学問の証、愛の証を残しているか。
あの世に咲く花、遠くの地平線に太陽が沈む。あの世に咲く美しい花、永遠に続く花の葬列。王の死、美しい王妃の遺体、若き皇子の死。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
*近藤弘明「黄泉の華園」(1974年)小田原市郷土文化館
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*近藤弘明(1924-2015)仏教的世界観に彩られた幻想的絵画。小田原にアトリエを構え、創作活動を行った。小田原市郷土文化館、平成28年度に受贈した作品のうち代表作。
1924年、東京下谷の飛不動正宝院という天台宗三井寺派の寺に生まれる。49年、東京美術学校日本画科を卒業。50年、創造美術第3回展に初入選。54年、新制作協会展で新作家賞受賞。以後、受賞を重ね同協会会員となる。65年、日本国際美術展でブリヂストン美術館賞受賞。71年、第1回山種美術館賞展で優秀賞受賞。74年、創画会の結成に参加。75年、第7回日本芸術大賞受賞「ひとつの神秘的空間を示す画業に対して」。77年、NHKの番組「美をさぐる」に出演。78年、国際交流基金によるヨーロッパ巡回の現代日本画展に加山又造、横山操らと出品。87年、創画会を退会、以降は個展を中心に作品を発表する。『画論 華と祈り』岩波書店2007より
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嵯峨天皇の花の宴の詩を思い出す。『神泉苑花宴賦落花篇』
【神泉苑花宴賦落花篇】 嵯峨天皇「凌雲集」より
過半青春何所催    和風數重百花開
芳菲歇盡無由駐    爰唱文雄賞宴來
見取花光林表出    造化寧假丹青筆
紅英落處鶯亂鳴    紫蕚散時蝶群驚
借問濃香何獨飛    飛來滿坐堪襲衣
春園遙望佳人在    亂雜繁花相映輝
過半の青春 何の催ほす所ぞ 和風数(しばしば)重(しき)りて 百花 開く。
芳菲(ほうひ)歇盡(けつじん)するに駐むるに由し無し 爰(ここ)に文雄を唱(よば)ひて 賞宴に来たる。
見取す 花光 林表に出づることを、造化寧(なに)ぞ仮らん丹靑(たんせい)の筆。
紅英(こうえい)落つる処 鶯(うぐいす)乱れて鳴き、紫萼(しがく)散る時、蝶 群れて驚く。
借問す 濃香 いづこより独り飛ぶかと、飛び来たりて坐に満ち 衣に襲(つ)くことに堪へたり。
春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、
【嵯峨天皇の花の宴、神泉苑にて】花(桜)を賞翫しながら漢詩を作って遊ぶ典雅な催し、その始まりが嵯峨天皇の神泉苑の詩宴。神泉苑の詩宴は『日本後紀』弘仁三年(812)二月一二日の記事「神泉苑に幸(いでま)す。花樹を覧(みそな)はし文人に命じて詩を賦せしむ」
【大伴家持 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女】春の園の紅色に咲く桃の花、その下に輝いている道に佇む乙女よ。『万葉集』巻十九、4139 大伴家持、天平勝宝二(750)年三月一日(4月15日)の暮(ゆふべ)に、春の苑の桃李の花を眺矚めて作る二首
【春夜桃李園に宴するの序 李白】それ天地は萬物の逆旅にして 光陰は百代の過客なり 而して浮生は夢の若し 歡を爲すこと幾何ぞ 古人燭を秉りて夜遊ぶ まことに以(ゆえ)
【ツタンカーメンの墓、壁右の裏に空間があり、ネフェルティティ王妃の墓がある】考古学者ニコラス・リーヴスの予想。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
https://bit.ly/2UUizJw
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
近藤弘明「幻華」「黄泉の華園」(1974年)小田原市郷土文化館
https://komeikondo.setenv.net/
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美しく咲く花々は、古くから人々の心を魅了してきました。季節ごとに多彩な表情をみせる花は、四季を象徴するモティーフとして愛され、絵画の主題としても描き継がれています。この春、山種美術館では、花を描いた作品で館内を彩る華やかな展覧会を開催します。
本展では、朝日に輝く山桜を描いた横山大観《春朝》、雨上がりの陽光の中で咲く紫陽花をみずみずしく表した山口蓬春《梅雨晴》、色鮮やかな菊花が目を楽しませる酒井抱一《菊小禽図》、紅梅の咲く古木と白梅の咲く若木とが対照的な速水御舟《紅梅・白梅》など、春夏秋冬それぞれの季節を感じさせる花の名画が一堂に会します。また、田能村直入《百花》では四季の草花 100 種が植物図鑑のように忠実に描かれ、季節を越えた絢爛な世界が広がります。さらに、花と器をとり合わせた中川一政《薔薇》、桃の花咲く桃源郷を題材とした山本梅逸《桃花源図》など、花を描く際のさまざまなアプローチにも注目し、花の絵画の魅力をご紹介します。描かれた花により満開となった美術館で、百花繚乱の世界をどうぞご堪能ください。
田能村直入 《百花》 (部分) 1869 年 山種美術館 [画像請求 No. ①]
荒木十畝 《四季花鳥》1917 年 山種美術館 [画像請求 No. ②]
速水御舟 《紅梅・白梅》1929 年 山種美術館 [画像請求 No. ⑧]
田能村直入 《百花》 (部分) 1869 年 山種美術館 [画像請求 No. ①]
荒木十畝 《四季花鳥》1917 年 山種美術館 [画像請求 No. ②]
速水御舟 《紅梅・白梅》1929 年 山種美術館 [画像請求 No. ⑧]
本展のみどころ
1、
咲き誇る花の絵画で四季の美を堪能 !酒井抱一、横山大観、菱田春草、川端龍子、梅原龍三郎、速水御舟をはじめとした名だたる画家たちによる花の絵画を通じて、季節ごとに咲く多種多様な花々をお楽しみください。酒井抱一 《菊小禽図》 19 世紀[画像請求 No. ⑦]
横山大観 《春朝》 1939 年頃[画像請求 No. ③]
山口蓬春 《梅雨晴》 1966 年[画像請求 No. ⑥]
すべて山種美術館蔵
2.
花の表現に画家の個性が光ります!花の描き方は十人十色!淡い色彩でふっくらと花
びらを表した川端龍子《牡丹》、色鮮やかな四季の花々を画面いっぱいに描く荒木十畝《四季花鳥》など、個性豊かな花の名画をご紹介します。川端龍子《八ツ橋》、福田平八郎《花菖蒲》、速水御舟《椿ノ花》、杉山寧《朝顔図》、梅原龍三郎《薔薇と蜜柑》 ほか
3、
幻想的な花の世界にも注目!古くから花の美しさは人を魅了し、時に清らかさ、神聖さの象徴として扱われます。伝説に登場する花や、画家の思い描く空想上の花など、人々の心に宿る幻想的な花の作品を展示します。山本梅逸 《桃花源図》 1844-48 年頃山種美術館 [画像請求 No. ⑨]
――
■展覧会名:【特別展】 花・flower・華 2026 -横山大観の桜・川端龍子の牡丹・速水御舟の梅-
■会 期:2026年2月28日(土)~5月10日(日) ■開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
■主 催:山種美術館、朝日新聞社 ■協 賛:エレコム株式会社
■会 場:山種美術館(〒150-0012東京都渋谷区広尾3-12-36) ■問い合せ:050-5541-8600(ハローダイヤル 電話受付時間:9:00-20:00)
■公 式 H P:https://www.yamatane-museum.jp/
※ 出品作品および展示期間は都合により変更される場合があります。
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★★★★
【オリンピック競技の3形態】【ゲーム競技】敵の弱点を突く。虐め競技。盲点を突く。【記録競技】史上最速。【採点競技】自分の美技を磨く。芸術競技。自分との闘い。
【7年前「雷が落ちた」りくりゅうの運命の出会い】三浦「龍一くんと出会えたのは奇跡」木原「感謝しかない」三浦は「本当にたくさんの方々に『龍一くんと巡り会えたのは奇跡なんだよ』と言っていただける。本当に全てのモーメント、全ての人々に感謝している」。木原は三浦に対して「感謝しかない。辞めようと思っていた時に声をかけてくれたので。この出会いがなかったら、またこうして(北京から)2大会五輪に出ることができなかった。もう感謝しかない」と涙を流した。19年7月、木原が三浦を真上に投げ、三浦が身体を回転させる技、ツイストリフト。投げた瞬間に、木原は「雷が落ちた」と本能的に感じとった。「ここまで相性が合うんだ」と木原が思えば、三浦も「感じたことのない高さ。『空中時間って、こんなに長いんだ』と」。今でも「りくりゅう」最大の武器でもあるスピードは「2人とも大好き」。木原は「化学変化、そういったものがカップル競技に存在するんだな、と三浦さんと滑ってみて思いました」と、今につながる原点を語っていた。報知新聞社2025年2月17日
★★★★★
『戦わずして勝つことが善の善なり』『孫子』謀攻編16。15~17。
是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非(あら)ざるなり。戦かわずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。『孫子』謀攻編16。15~17。
用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、『相手をできるだけ傷つけずに勝利することが上策』軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るは之に次つぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次つぐ。『孫子』謀攻編15
『最上の勝ち方は、相手の謀を謀のうちに破る』故に上兵は謀を伐つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。『孫子』謀攻編17。
2026年2月18日

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