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2025年6月

2025年6月20日 (金)

「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」・・・浮世絵師の偉大と退廃

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第403回
【開館30周年】千葉市美術館は故今中宏氏の渓斎英泉コレクションを千葉市が購入したことをきっかけに1995年設立。開館後も浮世絵の祖・菱川師宣が房州出身ということを踏まえて、浮世絵の収集に重点が置かれてきた。開館30周年の記念展。国内有数といわれる浮世絵コレクションから選りすぐりの名品が150点並ぶ。「日本美術とあゆむ―若冲、蕭白から新版画まで」160点。
大河ドラマ、江戸の浮世絵を語るうえで欠かせない存在となった蔦重の仕事を、浮世絵史をたどりつつ千葉市美術館の珠玉の浮世絵コレクションから紹介する。
浮世絵の始祖菱川師宣から、多色摺錦絵を創始した鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、渓斎英泉、歌川広重などなど、浮世絵の教科書、近年発見された喜多川歌麿の肉筆画《祭りのあと》(個人蔵、アンリ・ヴェヴェール旧蔵)の特別公開。天明期に制作されたと考えられる初期の希少な肉筆画、墨一色でありながら情感あふれる描写に、名を馳せる歌麿の画力を感じる。
――
1、
【蔦屋重三郎が売り出した歌麿と写楽】
蔦重は安永(1772-81)から寛政(1789-1801)にかけて、多色摺の錦絵が大きな発展を遂げた時期に活躍した版元。喜多川歌麿を人気絵師へと育て上げ、東洲斎写楽を発掘した。
歌麿は女性の顔をクローズアップした【美人大首絵】で名をあげた絵師、吉原遊女だけでなく、太夫、街娼、貴婦人、茶屋の看板娘、家庭の婦女など、多彩な女性をモデルにした。
《当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ》は、浅草随身門脇の水茶屋難波屋おきた、江戸両国薬研米沢町二丁目の煎餅屋高島長兵衛の娘高島おひさ、吉原玉村屋抱えの芸者で富本節の名取であった富本豊雛という、評判の美人3人を描いた作品。艶やかであり気品を感じさせる。
写楽は大首絵の技法を使った役者絵。彼は長い間、正体不明の【謎の絵師】と呼ばれてきたが、「写楽の正体は能役者の斎藤十郎兵衛」とする説がある。蔦重は写楽のデビューにあたって、新人としては異例の「28図を同時に刊行」大売出しを図った。第1期《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》など代表作が含まれる。第1期から第4期まで145点出版されたが、急速に人気を失う。10か月で消える。
【鳥居清長、天明のヴィーナス】大河べらぼうで歌麿が画風を真似して描いたのが絵師鳥居清長。代々芝居小屋の絵看板を手掛けた鳥居家の門人。この後「天明のヴィーナス」と称される、八頭身の伸びやかで健康的な女性像で美人画界をリード。
――
【蔦屋重三郎】この世の地獄、吉原花魁、女郎は、12歳で女郎禿に売られ、20歳で死亡、生きてこの世に戻れない地獄。吉原花魁を食い物にする「徳を失った」忘八、蔦屋重三郎は、吉原細見で版元に進出。雛形若菜、西村屋与平と共同出版するが、版権奪われる。俄芝居絵に、葛飾北斎を多用するが、売れず。西村屋与八や鶴屋喜右衛門など老舗の版元が犇めくなか、蔦屋は新興の版元として出版界に彗星のように現れる。
美人画で人気を博した喜多川歌麿(〜1806)を当代一の絵師として育て上げ、東洲斎写楽(生没年不詳)を発掘した。
【蔦屋重三郎、47歳で死す】蔦屋重三郎、寛政31791年、財産半分没収、42歳。寛政4、1792年、歌麿美人大首絵、43歳。1796年、脚気・心停止死。死因飲酒。
【喜多川歌麿、入牢、死亡1806年齢不詳】寛政の改革が死因。文化元年(1804)、出版関係者が相次いで処罰、歌麿も、入牢3日、手鎖五十日の受刑、歌麿の死因は受刑が原因。文化三年(1806)死す。年齢不詳。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
2、
【多色摺錦絵、発展期】
蔦屋重三郎。初めて出版を手がけた安永3年(1774)から、蔦屋が版元として活動したのは、安永(1772〜81)から寛政(1789〜1801)期、複数の色を重ねて摺る【多色摺の錦絵】が発展を遂げた時期と重なる。
【浮世絵の黄金期】安永の後の天明(1781〜89)から寛政(89〜1801)、「浮世絵の黄金期」。浮世絵の祖、房州(安房郡鋸南町保田)出身の菱川師宣(〜1694)に始まり、鈴木春信(〜1770)、喜多川歌麿(〜1806)、東洲斎写楽(生没年不詳)、葛飾北斎(1760-1849)、歌川広重(1797〜1858)、渓斎英泉(1791-1848)、鳥文斎英之(1756-1829)、歌川国芳(1798-1861)。寛政の改革、天保の改革で弾圧。
――
3、
【歌川広重(1797〜1858)と円山応挙】広重は火消同心、安藤家に生まれる。13歳で両親を亡くし広重は家計を助けるため、浮世絵師を志し歌川豊広に弟子入り、16歳で広重の画号。歌川派は美人画や役者絵を得意としたにもかかわらず、広重は円山応挙の影響を受けて写生を追求。独自に腕を磨く。広重が自信を持って世に出した風景画『東都名所』。評判は今一つ冴えず。原因は、同年、北斎『冨嶽三十六景』が発表されたからである。
【北斎と広重の対決、72歳と37歳】北斎『冨嶽三十六景』。72歳の老人北斎が描いた富士山は、35歳の広重から見ても斬新で革新的、衝撃を受ける。2年後、有名版元「保永堂」に依頼を受けて世に送り出す『東海道五拾三次』シリーズ。
【北斎と広重の対決、72歳と37歳】東海道の53宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大ウケ。『東海道五拾三次』に対して、北斎は『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『富嶽百景』を発表して対抗する。花鳥画でも競合、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的、感傷的な画風を追求。
【広重、安政の大地震】広重は、60歳になる前に隠居を決心したが、安政の大地震に遭う。江戸市中は火の海となる、7000人を超える死者を出した大災害。生家が火消同心の広重は落胆、江戸の町の無残な景色に心を痛める。還暦を機に髪を剃る。江戸の風景を絵に残すことを決意する。
【不朽の名作『名所江戸百景』、61歳で死す】広重は名所を鮮烈に表現するため、アイコンを大きく目前に配置する大胆な構図の手法を用い。中国、南宋の画法に学んだ手法。歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」大判錦絵 安政3(1856)、歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」大判錦絵 安政4(1857)年、「名所江戸百景 亀戸梅屋鋪」安政4年(1857)年木版多色刷 大判錦絵、36.8×25.0cm。1858年、この作品の翌年、没す。61歳。
――
★★★★★★★★★★★★★★★★
4、
【葛飾北斎、美人画】北斎は、19歳で絵師となる。勝川春章の弟子、春朗、蔦屋重三郎の美人画を描くが売れず。寛政6年(1794年)、16年間に亘って所属した勝川派から離脱。寛政7年(1795年)から文化元年(1804年)頃までのおよそ9年間は宗理時代。琳派絵師となり宗理型美人を描く。『酔余美人図』氏家コレクション、1807北斎48歳。宗理型美人からバロック化。亀毛型美人。『合わせ鏡美人図』『立ち美人図』、縮緬のように痙攣する50代北斎美人画。葛飾北斎は、70歳代『富嶽三十六景』が大ヒット、『富嶽百景』
【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、勝川春章の弟子、春朗、19歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
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葛飾北斎(1760-1849)
【「酔余美人図」(1807)氏家コレクション】北斎、48歳の作品。古典主義はバロック化する。「酔余美人図」は、古典主義的な宗理型美人を超えてバロック的女性美。河野元昭饒舌館長の御説、画狂老人卍期、「鳳凰図屛風」ボストン美術館、以後は天衣無縫、暴走期である。
「「亀毛蛇足」印を用い始めるころから、新しい美人型の創出に挑戦するようになる。「亀毛蛇足」印使用時代の北斎美人図を、宗理型美人にならって亀毛型美人と呼んでみたい。この亀毛型美人は、宗理型美人が湛えていた古典主義的、あるいは浪漫主義的女性美を惜しげもなく捨て去って、19世女性美を誇示するようになる。バロック的女性美」河野元昭先生饒舌館長
【葛飾北斎、美人画】『酔余美人図』氏家コレクション、1807北斎48歳。宗理美人からバロック化、亀毛型美人(河野元昭先生饒舌館長)。『合わせ鏡美人図』『立ち美人図』縮緬のように痙攣する50代の北斎美人、個人蔵、筆魂展2021、葛飾北斎『夏の朝』江戸時代『傾城図』江戸時代後期19世紀前半、岡田美術館蔵。
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展示作品の一部
喜多川歌麿《当時三美人富本豊ひな難波屋きた高しまひさ》寛政5年(1793)千葉市美術館蔵
喜多川歌麿『画本虫撰』天明8年(1788)千葉市美術館蔵
喜多川歌麿『潮干のつと』寛政元年(1789)頃千葉市美術館蔵
鈴木春信《(三十六歌仙)藤原仲文》明和4-5年(1767-68)頃(6/22まで展示)千葉市美術館蔵
葛飾北斎《冨嶽三十六景神奈川沖浪裏》天保2-4年(1831-33)頃千葉市美術館蔵
葛飾北斎『千絵の海 総州銚子』1833、千葉市美術館
北尾政演『吉原傾城新美人合自筆鏡』1784千葉市美術館
歌川広重《名所江戸百景亀戸天神境内》安政3年(1856)千葉市美術館蔵
曾我蕭白《獅子虎図屏風》宝暦(1751-64)頃千葉市美術館蔵
喜多川歌麿《朝顔を持つ美人画》《納涼美人図》、鳥文斎栄之《朝顔美人図》の3点が並ぶ展示

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参考文献
「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」・・・浮世絵師の偉大と退廃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/06/post-72fdeb.html
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」
「五大浮世絵師展 ―歌麿 写楽 北斎 広重 国芳―」・・・文化文政の浮世絵師、寛政の改革に死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/06/post-b61734.html
北斎年譜 ―永田生慈「葛飾北斎年譜」より
――
【美術展情報】
『開館30周年記念江戸の名プロデューサー蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ』千葉市美術館
開催期間:2025年5月30日(金)〜7月21日(月・祝)
所在地:千葉県千葉市中央区中央3-10-8
アクセス:JR線千葉駅東口から徒歩約15分。京成バス(バスのりば7)から大学病院行または南矢作行にて中央3丁目または大和橋下車徒歩約3分。千葉都市モノレール葭川(よしかわ)公園駅より徒歩5分
開館時間:10:00〜18:00 ※金・土曜日は20:00まで
※本展チケットで7階「日本美術とあゆむ―若冲、蕭白から新版画まで」、5階常設展示室「千葉市美術館コレクション選」も観覧可
『開館30周年記念江戸の名プロデューサー蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ』千葉市美術館

2025年6月 2日 (月)

「五大浮世絵師展 ―歌麿 写楽 北斎 広重 国芳―」・・・文化文政の浮世絵師、寛政の改革に死す

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第402回
蔦屋重三郎は、脚気・心不全が原因で47歳で死す。化政文化をプロデュース、吉原細見、黄表紙、洒落本、狂歌、など刊行。喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す。田沼意次への恨みで松平定信が実施した寛政の改革で財産没収。寛政9年(1797年)死す。47歳。
喜多川歌麿の前半生は不明、寛政3年(1791)ころ、蔦屋から美人大首絵を刊行。二代歌麿、月麿、藤麿、多数の門人を排出。文化元年(1804)、出版関係者が相次いで処罰、歌麿も、入牢3日、手鎖五十日の受刑、歌麿の死因は受刑が原因。文化三年(1806)死す。年齢不詳。
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蔦屋重三郎の生きた時代は、江戸時代中期。重三郎は寛延3年(1750年)に生まれ、寛政9年(1797年)に亡くなる。化政文化の中心的人物の一人として、浮世絵や狂歌を出版。松平定信が実施した寛政の改革で、風俗や出版物に対する規制が強化された。蔦屋重三郎が出版した洒落本などは風紀を乱すとして取り締まりの対象となり、財産の一部を没収される処罰を受けた。晩年の重三郎は病に苦しみ、47歳という若さで生涯を閉じた。死因は当時の国民病とも呼ばれた脚気(かっけ)。ビタミン欠乏症が原因で起こる病気。症状が進むと心不全や神経障害などを引き起こし、蔦屋重三郎のように命を落とす。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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本展は、女性を優麗に描いた喜多川歌麿、劇的な役者絵で人気を博した東洲斎写楽、風景・花鳥・人物と森羅万象を独自に表現した葛飾北斎、名所絵を中心に浮世絵に新風を吹き込んだ歌川広重、そのユーモラスな画風で大いに存在感を発揮した歌川国芳。美人画、役者絵、風景画など各分野で浮世絵の頂点を極めた5人の絵師の代表作を中心に約140点が展示される。
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【第一章、喜多川歌麿―物想う女性たち】
喜多川歌麿の前半生は不明、寛政3年(1791)ころ、蔦屋から美人大首絵を刊行。二代歌麿、月麿、藤麿、多数の門人を排出。文化元年(1804)、出版関係者が相次いで処罰、歌麿も、入牢3日、手鎖五十日の受刑、歌麿の死因は受刑が原因。文化三年(1806)死す。年齢不詳。
妖怪画の元祖、鳥山石燕を師として、画を学んだ。鳥山石燕(1712~1788)の作品妖怪画集『画図百鬼夜行』、魅力は妖怪だけではない、『鳥山彦』猿蟹合戦、七夕の織姫、富士山、手長猿。テーマも石燕は描いている。
寛政期(1789~1801)を中心に活躍。女性の理想像を追求し色香を見事に表現した美人画の第一人者と言われた。二十代半ば頃、北川豊章の名前で出版した役者絵が錦絵のデビュー作。その後、出版元の蔦屋重三郎がスカウトし華麗なるペンネーム、喜多川歌麿を与え、専属的に次々と名作を世に出しヒットさせ、大スターに育て上げた。遊女、芸者の艶姿を描くのと同時に、「ミスお江戸」の美女たち、市中の看板娘をもモデルとし人気絵師、美人画の第一人者に登りつめた。
喜多川歌麿「当世踊子揃 吉原雀」
喜多川歌麿「教訓親の目鑑 俗二云 ばくれん」
喜多川歌麿「両国橋上橋下納涼之図(橋下の図)」
【第二章 東洲斎写楽―役者絵の衝撃】
江戸三座の役者を題材にした作品で鮮烈なデビューを飾り、寛政6年(1794)5月から翌年の1月までの10ヵ月間に約145点の錦絵を残した絵師。活躍期が短い。四期に分類される。
【写楽は、何者か。斎藤十郎兵衛】「写楽 俗称は斎藤十郎兵衛。八丁堀に住む。阿波の能役者。号は東洲斎」出典『増補浮世絵類考』天保年間(1830~44年)。
その経歴の記録が乏しい反面、個性的でインパクトの強い役者大首絵を遺したところから、謎多き絵師として知られている。写楽の作画期は取材した芝居の上演時期によって4期に分けることができ、またそれにより作風がきれいに分類できることが特徴的である。
今回展示する写楽作品の半分以上が第1期の大首絵作品で、これだけの点数が一同に揃うことはたいへんに希少な機会。写楽も歌麿同様、蔦屋重三郎に見出された。浮世絵の黄金期にその存在感と異彩を放った画家のひとり。
東洲斎写楽「二世嵐龍蔵の金貸石部金吉」
東洲斎写楽「三世坂東彦三郎の鷺坂左内」
東洲斎写楽「大童山土俵入り 大童山文五郎」
――

【第三章 葛飾北斎―怒涛のブルー】
安永8年(1779)にデビュー。画歴70年以上の中で版本挿絵は勿論、錦絵、摺物、肉筆画などあらゆる分野の仕事を手がける。《冨嶽三十六景》シリーズを発表するのは70歳代に入ってから。その前後を展示作品で概観すると明らかに色彩が豊かになっている。絵具の変化もあるが、老境に入ってより彩りが増し、画狂老人卍、新しきテーマ、素材に挑戦する北斎の探求心と凄み。北斎の《冨嶽三十六景》と広重の《東海道五拾三次之内》、ほぼ同時期に発表されたこの2シリーズ、互いの領分、方向性の違いを見比べてみよ。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
葛飾北斎「冨嶽三十六景 東海道金谷ノ不二」
葛飾北斎「楠多門丸正重 八尾の別当常久」
【第四章 歌川広重―雨・月・雪の江戸】
定火消し同心の子。文化6年(1809)家職を継ぐが、15歳の頃、歌川豊広に入門、文政元年(1818)一遊斎の号でデビュー。当初は役者絵や美人画を描いていた。広重を風景画の絵師として決定付けたのが《東海道五拾三次之内》シリーズ、当時の旅ブームと相まって、大ベストセラーとなった。《東海道五拾三次之内》のような“街道絵”と共に、江戸市中をはじめ、各地の名所を描いた“名所絵”も得意としており、1858(安政5)年に62歳で亡くなるが、1856(安政3)年から制作された「名所江戸百景」が空前の大ヒット。
江戸は【安政2年(1854年)安政の大地震】で被害を受けており、名所江戸百景は災害からの復興を祈念した世直しの意図もあった。焼き尽くした風景を絵で再生した。《名所江戸百景》シリーズは晩年の傑作。風景画として異質な縦構図をあえて取り、鳥瞰図を楽しみ、近景と遠景のギャップを見せ、画面への収まりのバランスをあえて崩し、縦横無尽の視点、視覚をもって見る者を楽しませる。
歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」
歌川広重「東海道五拾三次之内 庄野 白雨」
歌川広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」
――
【第五章 歌川国芳―ヒーローとスペクタクル】
歌川広重と同じ歳の国芳は15歳の時に初代・歌川豊国の門人となり、文化末ころから作画を始めるがヒットせず。文政10年(1827)《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》でブレイク、その地位を確立した。特徴的なワイドスクリーン(続き物を一つの大画面として扱う構図)の三枚続で、武者絵の広がりを見せる。風景画には西洋風の表現を取り入れ、美人画には華美な遊女が描けない時代に縞や格子のシックで粋な装いの街の美人たちを描いて好評を博し、錦絵に戯画という一分野を築き上げた。
歌川国芳「本朝水滸伝剛勇八百人一個 宮本無三四」
歌川国芳「相馬の古内裏」1844-46
歌川国芳「人かたまつて人になる」
歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救う図」1850-52
江戸時代には数多くの浮世絵師が活躍したが、本展では、人気と実力を兼ね備えたトップ5である“五大浮世絵師”の優品約140点を選りすぐって展示。役者絵や美人画、名所絵、武者絵、戯画まで、多彩なジャンルを取り上げながら、浮世絵史に残る重要な作品が多数紹介される。この五大浮世絵師の作品群を見比べながら、ぜひ、“推し”の絵師や作品を探してみてはいかがでしょうか。大河ドラマ「べらぼう」で浮世絵や江戸文化に興味を持った方にもオススメしたい展覧会です。
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参考文献
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
「筆魂 線の引力・色の魔力─又兵衛から北斎・国芳まで─」・・・画狂老人卍『鳳凰図屏風』の思い出
「冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重」・・・冨嶽三十六景46図と広重「名所江戸百景」
「五大浮世絵師展 ―歌麿 写楽 北斎 広重 国芳―」・・・文化文政の浮世絵師、寛政の改革に死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/06/post-b61734.html
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【展覧会情報】
五大浮世絵師展 ―歌麿 写楽 北斎 広重 国芳―
会場:上野の森美術館(東京・上野公園)
会期:2025年5月27日(火)~7月6日(日)会期中無休
開館時間:10時~17時(入館は閉館の30分前まで)

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