仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第397回
【仏教伝来】西暦538年、飛鳥時代に百済の斉明王より仏教が伝えられた。飛鳥寺、斑鳩寺(法隆寺)、四天王寺、などの寺院が造られ、仏像の制作が始まった。この仏像の微笑みはギリシア彫刻のアルカイックスマイルとされる。飛鳥時代の仏像の顔にギリシア彫刻の影響がある。法隆寺金堂釈迦三尊像。法隆寺救世観音像、遡ること千年。
【仏陀誕生BC463-383】紀元前5世紀、ゴータマ・シッダールタ Gotama Siddhārtha BC463-383年。仏滅後、仏教徒はブッダの遺骨(仏舎利)を仏塔(ストゥーパ)に納め、礼拝した。このストゥーパの装飾(レリーフ)が仏教美術の始まり。
【原始仏教】【根本分裂】仏滅後100年、大衆部と上座部【枝葉分裂】西暦1世紀【部派仏教、精緻な理論の体系化】説一切有部。部派仏教は高踏派。【大乗仏教】部派仏教に対して、大乗(Maha-Yana)仏教が興起。二大潮流、中観派(龍樹)(2c-3c)と唯識派・瑜伽行派(弥勒・無著・世親) (4c-5c)、興起。竹村牧男『空海の哲学』P54-68。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ブッダの死後はブッタの姿を表現することは禁じられていたが、1世紀末になると、現在のパキスタン北西部ペシャーワル周辺のガンダーラでは仏像・菩薩像が造られた。
【ガンダーラ美術】古代の国ガンダーラGandhāraを中心に、東のタキシラ地方、北のスワート地方,西のアフガニスタンの一部をも含む地域で1~5世紀に展開した仏教中心の美術。クシャーナ朝時代に初めて仏陀の姿を表現してその図像を定型化したことは特筆に値する。
インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。ガンダーラではギリシア、ヘレニズム・ローマ文化の影響を受けてインド・ペルシア西方的な色彩の濃い仏教美術が行われ、3世紀までは灰青色の片岩または千枚岩による石彫が,4~5世紀には塑造彫刻が主体であった。一方,この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が栄えた。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【バクトリア王国】紀元前3世紀半ばに古代ギリシア人が国家を建て、この地には古代ギリシア(ヘレニズム文化)が栄えた。この地は東西からインド人、ペルシャ人、ギリシア人多くの民族による文化の交流が行われて。仏像はインド文化を元に古代ギリシア(ヘレニズム文化)の影響を受けている。ギリシア彫刻のような彫りの深い顔立ち、波状の頭髪は束ねられ、体格もよくギリシア風のドレープ(衣文)のある衣服を着ている。
ガンダーラ仏。1~2世紀。高さ約1メートル。東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ レリーフ 東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ 小塔。2~3世紀。平山郁夫シルクロード美術館 東京国立博物館、東洋館。
【クシャーナ朝の美術】王朝の繁栄を背景にガンダーラ地方とマトゥラーとを2大中心地として仏教徒主導の美術が展開した。ガンダーラ地方では5世紀中期のキダーラ朝の滅亡までを範囲とする。その仏教美術が以後のインド,中央アジア,中国のそれに及ぼした影 響力の強さは他に類を見ない。
【マトゥラー美術】古都マトゥラーMathurāを中心として,古代、ことにクシャーナ朝時代とグプタ朝時代に最も隆盛であった石彫主体の美術で、インドで最も重要な流派の一つ。【カニシカ王の即位】(144ころ。異説多い)からほぼ1世紀間が第1のピークで、遠くカウシャーンビー,サールナート、サーンチーからもマトゥラー彫刻が出土している。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【クシャーナ朝】クシャン朝ともいい,また貴霜朝。1世紀半ばから3世紀中葉まで,現在のアフガニスタンおよび北インドを中心に栄えた王朝。大月氏支配下のクシャーナKusana族の族長【カドフィセース1世】がバクトリアに興起し,その子【カドフィセース2世】がインドに侵入して王朝の基礎をつくった。次いで2世紀中葉【カニシカ王】が出て大帝国を確立し最盛期を迎えた。その後3世紀後半から衰退し,ササン朝に滅ぼされた。東西交通の要衝を占め,ローマとの交流が盛んで,ガンダーラ美術の形成,大乗仏教の興起など特色ある文化を生んだ。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
参考文献
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」
http://
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
http://
――
アレクサンドロス大王の東方遠征とヘレニズム文化
【アレクサンドロス大王、東方遠征(紀元前334年~紀元前323年)】マケドニア軍3万8000の兵士を引き連れ、【グラニコス川の戦い(紀元前334年)】にてペルシアの小アジアの防衛軍を撃破。この勝利により、小アジア全域を征服する足がかり。【紀元前333年、イッソスの戦い】ペルシアの王ダレイオス3世と対峙。ダレイオス3世は10万の大軍を率いて対抗、アレクサンドロスは天才的な戦術によって勝利を収めた。ダレイオスは逃亡。ティルスやガザなどが反抗し、この地域を征服、エジプトに進出。エジプトではペルシア支配に対する不満が高まり、無血でエジプトを征服、アレクサンドロスはエジプト人に歓迎され、エジプトのファラオ(王)として即位。西方のシワ・オアシス、エジプト神話の太陽神であるアメン神を祀る神殿で、自らをアメンの子とする神託を受けた。マケドニア軍は、現在のイラク北部へと侵攻。世界遺産アルベラ(エルビール)の近くで、【ガウガメラの戦い(紀元前331年)】ダレイオス3世率いるペルシア帝国の主力軍20~30万と激突。アレクサンドロスは再びペルシア軍を破り、ダレイオス3世を完全に敗北。ペルシア帝国滅亡。ダレイオス3世は部下に暗殺。アケメネスの中心である、バビロン、スーサ、ペルセポリスなどを次々と占領。【紀元前329年から紀元前327年まで、バクトリア】バクトリア(現在のアフガニスタン)やソグディアナ(現在のウズベキスタン)を制圧。バクトリアの王女ロクサネと結婚。インドへの遠征を開始。アレクサンドロスはパンジャーブ(現在のパキスタン北東部・インド北西部)へ侵攻、【ヒュダスペス川の戦い(紀元前326年)】パウラヴァ族の王ポロスと戦い、勝利。ポロスの勇敢さを称賛したアレクサンドロスは、彼に領地を与えて統治を任せた。インド遠征の途中、兵士たちが疲労、部下たちが遠征を拒否、アレクサンドロスはガンジス川を渡る計画を断念、スーサへ引き返した。【紀元前323年にスーサ、バビロンに戻る】戻り、マケドニア軍の将校たちが、ペルシア 貴族や王族の女性たちと結婚する「合同結婚式」。遠征(アラビア半島征服)を計画、バビロンにて突然の病に侵され、32歳の若さで亡くなる。ディアドコイ(後継者)戦争、起こり、ヘレニズム文化(BC3ⅽ-AD5ⅽ)広がる。プトレマイオス朝、セレウコス朝、アンティゴノス朝、カッサンドロス朝
参考文献
森谷公俊『アレッサンドロ 征服と神話』2007
大久保正雄『地中海紀行』53回アレクサンドロス大王1P45
フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、暗殺された。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https:/
大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2P52
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https:/
仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王
http://
最近のコメント