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2025年4月

2025年4月29日 (火)

仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第397回

【仏教伝来】西暦538年、飛鳥時代に百済の斉明王より仏教が伝えられた。飛鳥寺、斑鳩寺(法隆寺)、四天王寺、などの寺院が造られ、仏像の制作が始まった。この仏像の微笑みはギリシア彫刻のアルカイックスマイルとされる。飛鳥時代の仏像の顔にギリシア彫刻の影響がある。法隆寺金堂釈迦三尊像。法隆寺救世観音像、遡ること千年。
【仏陀誕生BC463-383】紀元前5世紀、ゴータマ・シッダールタ Gotama Siddhārtha BC463-383年。仏滅後、仏教徒はブッダの遺骨(仏舎利)を仏塔(ストゥーパ)に納め、礼拝した。このストゥーパの装飾(レリーフ)が仏教美術の始まり。
【原始仏教】【根本分裂】仏滅後100年、大衆部と上座部【枝葉分裂】西暦1世紀【部派仏教、精緻な理論の体系化】説一切有部。部派仏教は高踏派。【大乗仏教】部派仏教に対して、大乗(Maha-Yana)仏教が興起。二大潮流、中観派(龍樹)(2c-3c)と唯識派・瑜伽行派(弥勒・無著・世親) (4c-5c)、興起。竹村牧男『空海の哲学』P54-68。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ブッダの死後はブッタの姿を表現することは禁じられていたが、1世紀末になると、現在のパキスタン北西部ペシャーワル周辺のガンダーラでは仏像・菩薩像が造られた。
【ガンダーラ美術】古代の国ガンダーラGandhāraを中心に、東のタキシラ地方、北のスワート地方,西のアフガニスタンの一部をも含む地域で1~5世紀に展開した仏教中心の美術。クシャーナ朝時代に初めて仏陀の姿を表現してその図像を定型化したことは特筆に値する。
インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。インド、中央アジア、中国の仏教美術に多大の影響を及ぼした。ガンダーラではギリシア、ヘレニズム・ローマ文化の影響を受けてインド・ペルシア西方的な色彩の濃い仏教美術が行われ、3世紀までは灰青色の片岩または千枚岩による石彫が,4~5世紀には塑造彫刻が主体であった。一方,この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が栄えた。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【バクトリア王国】紀元前3世紀半ばに古代ギリシア人が国家を建て、この地には古代ギリシア(ヘレニズム文化)が栄えた。この地は東西からインド人、ペルシャ人、ギリシア人多くの民族による文化の交流が行われて。仏像はインド文化を元に古代ギリシア(ヘレニズム文化)の影響を受けている。ギリシア彫刻のような彫りの深い顔立ち、波状の頭髪は束ねられ、体格もよくギリシア風のドレープ(衣文)のある衣服を着ている。
ガンダーラ仏。1~2世紀。高さ約1メートル。東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ レリーフ 東京国立博物館、東洋館。
ガンダーラ 小塔。2~3世紀。平山郁夫シルクロード美術館 東京国立博物館、東洋館。
【クシャーナ朝の美術】王朝の繁栄を背景にガンダーラ地方とマトゥラーとを2大中心地として仏教徒主導の美術が展開した。ガンダーラ地方では5世紀中期のキダーラ朝の滅亡までを範囲とする。その仏教美術が以後のインド,中央アジア,中国のそれに及ぼした影 響力の強さは他に類を見ない。
【マトゥラー美術】古都マトゥラーMathurāを中心として,古代、ことにクシャーナ朝時代とグプタ朝時代に最も隆盛であった石彫主体の美術で、インドで最も重要な流派の一つ。【カニシカ王の即位】(144ころ。異説多い)からほぼ1世紀間が第1のピークで、遠くカウシャーンビー,サールナート、サーンチーからもマトゥラー彫刻が出土している。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
【クシャーナ朝】クシャン朝ともいい,また貴霜朝。1世紀半ばから3世紀中葉まで,現在のアフガニスタンおよび北インドを中心に栄えた王朝。大月氏支配下のクシャーナKusana族の族長【カドフィセース1世】がバクトリアに興起し,その子【カドフィセース2世】がインドに侵入して王朝の基礎をつくった。次いで2世紀中葉【カニシカ王】が出て大帝国を確立し最盛期を迎えた。その後3世紀後半から衰退し,ササン朝に滅ぼされた。東西交通の要衝を占め,ローマとの交流が盛んで,ガンダーラ美術の形成,大乗仏教の興起など特色ある文化を生んだ。★肥塚 隆「改訂新版 世界大百科事典」
参考文献
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-21b8bc.html
仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-27a785.html
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アレクサンドロス大王の東方遠征とヘレニズム文化
【アレクサンドロス大王、東方遠征(紀元前334年~紀元前323年)】マケドニア軍3万8000の兵士を引き連れ、【グラニコス川の戦い(紀元前334年)】にてペルシアの小アジアの防衛軍を撃破。この勝利により、小アジア全域を征服する足がかり。【紀元前333年、イッソスの戦い】ペルシアの王ダレイオス3世と対峙。ダレイオス3世は10万の大軍を率いて対抗、アレクサンドロスは天才的な戦術によって勝利を収めた。ダレイオスは逃亡。ティルスやガザなどが反抗し、この地域を征服、エジプトに進出。エジプトではペルシア支配に対する不満が高まり、無血でエジプトを征服、アレクサンドロスはエジプト人に歓迎され、エジプトのファラオ(王)として即位。西方のシワ・オアシス、エジプト神話の太陽神であるアメン神を祀る神殿で、自らをアメンの子とする神託を受けた。マケドニア軍は、現在のイラク北部へと侵攻。世界遺産アルベラ(エルビール)の近くで、【ガウガメラの戦い(紀元前331年)】ダレイオス3世率いるペルシア帝国の主力軍20~30万と激突。アレクサンドロスは再びペルシア軍を破り、ダレイオス3世を完全に敗北。ペルシア帝国滅亡。ダレイオス3世は部下に暗殺。アケメネスの中心である、バビロン、スーサ、ペルセポリスなどを次々と占領。【紀元前329年から紀元前327年まで、バクトリア】バクトリア(現在のアフガニスタン)やソグディアナ(現在のウズベキスタン)を制圧。バクトリアの王女ロクサネと結婚。インドへの遠征を開始。アレクサンドロスはパンジャーブ(現在のパキスタン北東部・インド北西部)へ侵攻、【ヒュダスペス川の戦い(紀元前326年)】パウラヴァ族の王ポロスと戦い、勝利。ポロスの勇敢さを称賛したアレクサンドロスは、彼に領地を与えて統治を任せた。インド遠征の途中、兵士たちが疲労、部下たちが遠征を拒否、アレクサンドロスはガンジス川を渡る計画を断念、スーサへ引き返した。【紀元前323年にスーサ、バビロンに戻る】戻り、マケドニア軍の将校たちが、ペルシア 貴族や王族の女性たちと結婚する「合同結婚式」。遠征(アラビア半島征服)を計画、バビロンにて突然の病に侵され、32歳の若さで亡くなる。ディアドコイ(後継者)戦争、起こり、ヘレニズム文化(BC3ⅽ-AD5ⅽ)広がる。プトレマイオス朝、セレウコス朝、アンティゴノス朝、カッサンドロス朝
参考文献
森谷公俊『アレッサンドロ 征服と神話』2007
大久保正雄『地中海紀行』53回アレクサンドロス大王1P45
フィリッポスは、アレクサンドロスの妹の結婚式で、暗殺された。
マケドニア王国 フィリッポス2世の死 卓越した戦略家
https://t.co/xcCI2H0le5
大久保正雄『地中海紀行』54回アレクサンドロス大王2P52
アレクサンドロス帝国の遺産はどこに残されたのか
王妃オリュンピアス アレクサンドロス帝国の謎
https://t.co/GqhV2l84wK
仏教美術の源流 ガンダーラ 1世紀から5世紀のガンダーラ美術、アレクサンドロス大王
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-388540.html

2025年4月15日 (火)

ヒルマ・アフ・クリント展・・・霊界を旅する者

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第396回
ヒルマ・アフ・クリントの絵画は、霊界を旅する者の藝術である。ダンテ『神曲』の霊界の旅であり、この世と宇宙を行き来する。
「獣のように生きるのではなく、徳と知恵を求めて生きるのだ」ダンテ『神曲』第26歌。
霊界を旅する者
ダンテ『神曲』、ウィリアム・ブレイク『無垢の歌、経験の歌』、エル・グレコ、小野篁、空海『秘蔵宝 』、『華厳経』、宮澤賢治『インドラの網』『雁の童子』
「獣のように生きるのではなく、徳と知恵を求めて生きるのだ」ダンテ『神曲』第26歌。
徳と知恵を求めて生きる者だけが、霊界の旅を生きることができる。「獣のように生きる」者とは、カネと地位のために生きる者。他人の命令で生きる、ルーティン教授、点燈夫『星の王子さま』は、「獣のように生きる」者である。
「肉体は、魂を包む魂の衣である。魂自身と魂に所属するものとは別のものである。魂は不死不滅、すべての学問は、魂が前世で学んだことを思い出すことである。」大久保正雄『比較宗教学研究』2024
精神世界を探求する者でなければ観る資格はない。
「風は見えなくても風車は回っている。音楽は見えなくても心に響いてくる、囁きかける」J・S・バッハ「ドレスには、それを脱がせるために男性を魅了する力がなければ意味を成さない。」イヴサンローラン「ドレスが美しくても、本人が美しくなければ意味がない。肉体が美しくても、魂が美しくなければ存在がない。本質が腐っている。」『旅する哲学者、美への旅』
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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神秘主義絵画、宗教画
「認められるまでは、嘲笑される。これは真理の常である。」アルベルト シュバイツァー
【ヒルマ・アフ・クリント1882-1944】1907年、アフ・クリントは、人生の4つの段階(幼年期、青年期、成人期、老年期)についての「楽園のように美しい10枚の絵画」啓示を受け、多種多様な抽象的形象、あふれでてくるようなパステルカラーの色彩、圧倒的な《10の最》 (1907年)制作。ルドルフ・シュタイナーと絵画館建設交渉したが、拒否される。Hilma af Klint は1944年ストリートカーの事故に遭い82歳の誕生日を迎えるほんの数日前に他界。1500点の以上の作品と2万500ページ()125冊のノートブック)を甥に残して,自分の死後20年経つまで作品を公表しないようにと遺言。死後20年間作品を封印。カンディンスキー、モンドリアンより早く、抽象的絵画を描いた先駆者、独自の手法で、長らくその存在を知られていなかったスウェーデンの女性画家。
20年後も公開されず。2019年NYグッゲンハイム美術館で史上最多の60万人が来場 世界が注目する。騒然とする。
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
【神秘主義絵画の系譜】ヤコブ・ベーメ(1575~1624)『曙光』1612、スウェーデンボルグ(1688~1772)肉体の死と霊の蘇生・覚醒の全過程。鈴木大拙訳『天界と地獄』『霊界日記―死後の世界の詳細報告書』、シュタイナー『神智学』『人智学』
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『ウィリアム・ブレイク展 図録』国立西洋美術館、1990
地上と天上が融合した壮大な祭壇画に、眩暈を感じる。エル・グレコの絵画には、霊的体験と地上の憂愁がある。エル・グレコの炎のように揺らめく人物、神秘的な光が、心を魅了する。壮大な祭壇画に、トレドの街が描き込まれている。
エル・グレコ(El Greco、1541- 1614)は、16世紀の画家で、ルネサンス末期のヴェネツィア派の画家の影響を受け、マニエリスムの先駆である。
エル・グレコをみると、形而上詩人を思い出す。
17世紀のイギリスの形而上詩人(metaphysical
poets)、ジョン・ダン、アンドリュー・マーヴェル、ヘンリー・ヴォーン(Henry
Vaughan 1621-1695)の形而上的世界、光と神秘に通じる世界がある。17世紀、ヤコブ・ベーメ『アウローラ』、エマヌエル・スウェーデンボルグ『天界と地獄』(鈴木大拙訳)のような神秘主義的空間を思い出す。
「昨夜私は永遠を見た。純粋で無限の光の大きな輪のような」(ヘンリー・ヴォーン「世界」). “I saw Eternity the other night/Like a great ring of pure and endless light.” – Henry Vaughan, “The World”
エル・グレコ展・・・天上界と地上界の融合、 「昨夜私は永遠を見た」
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
大久保 正雄
孤高の画家、フリードリヒ、ロマン主義、生涯と藝術
孤高の画家、フリードリヒ、精神の旅、地の果て、崇高な自然と精神
自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅
ヒルマ・アフ・クリント展・・・霊界を旅する者
――
「ヒルマ・アフ・クリント展」プレスリリースより
「ヒルマ・アフ・クリント展 図録」東京国立近代美術館2025
20世紀初頭、カンディンスキーやモンドリアンといった同時代のアーティストに先駆け、抽象絵画を創案した画家として、近年再評価が高まるヒルマ・アフ・クリント(1862~1944年)のアジア初となる大回顧展が、東京国立近代美術館で3月4日から6月15日まで開催されます。
本展では、ヒルマ・アフ・クリントの今日の評価を決定づけた代表的作品群「神殿のための絵画」(1906~1915年)を中心に、ノートやスケッチなど約140点が展示されます。
第1章 アカデミーでの教育から、職業画家へ
19世紀後半のスウェーデンに裕福な家庭の第4子として生まれたアフ・クリントは、王立芸術アカデミーで正統的な美術教育を受けた後、肖像画や風景画で評価を得て、画家としてのキャリアをスタートさせました。
在学中に制作された人体デッサンにおける正確な形態把握や、この時期に制作されたと思われる植物図鑑のように緻密な写生などからは、彼女が習得した技術の高さを見て取ることができます。
ヒルマ・アフ・クリント 《ポピー》 制作年不詳 水彩、インク・紙 58×35.5cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
第2章 精神世界の探求
一方で神秘主義思想に傾倒した彼女は、瞑想や交霊の集いに頻繁に参加し、知識を深めていきました。アフ・クリントは交霊術の体験などを通して、アカデミックな絵画とはまったく異なる抽象表現を生み出していきます。
1896年、特に親しい4人の女性と「5人 (De Fem) 」 というグループを結成すると、彼女たちは交霊術におけるトランス状態において、高次の霊的存在からメッセージを受け取り、それらを自動書記や自動描画によって記録しました。
第3章 「神殿のための絵画」
1904年、アフ・クリントは「5人」の交霊の集いにおいて、高次の霊的存在より、物質世界からの解放や霊的能力を高めることによって人間の進化を目指す、神智学的教えについての絵を描くようにと告げられます。この啓示によって開始されたのが、全193点からなる「神殿のための絵画」です。それらは自身が構想した神殿を飾るためのものでした。
「神殿のための絵画」は途中4年の中断期間を挟みつつ、1906年から1915年まで約10年をかけて制作されました。サイズ、クオリティ、体系性、すべての面からアフ・クリントの画業の中核をなす作品群で、「原初の混沌」「エロス」「 10の最大物」「進化」「白鳥」 といった複数のシリーズやグループから構成されています。

〈10の最大物〉
1907年、アフ・クリントは、人生の4つの段階(幼年期、青年期、成人期、老年期)についての「楽園のように美しい10枚の絵画」を制作する啓示を受け、多種多様な抽象的形象、画面からあふれでてくるようなパステルカラーの色彩、そして圧倒的なスケールの〈10の最大物〉 (1907年)を描きました。高さは3㍍超と「神殿のための絵画」のなかでも異例の巨大なサイズです。
ヒルマ・アフ・クリント 《10 の最大物,グループIV,No. 2,幼年期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 315×234cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《10 の最大物,グループIV,No. 3,青年期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 321×240cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《10 の最大物,グループIV,No. 7,成人期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 315×235cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《10 の最大物,グループIV,No. 9,老年期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 320×238cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
円や四角形といった幾何学図形、花びらや蔓といった植物由来の装飾的モチーフ、細胞、天体を思わせる形態など、実に多様な要素から構成されたこれらの作品群は、そのすべてが、眼に見えない実在の知覚、探求へと向けられています。

ヒルマ・アフ・クリント 《エロス・シリーズ,WU/薔薇シリーズ,グループII,No. 5》 1907年 油彩・キャンバス 58×79cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《知恵の樹,W シリーズ,No. 1》 1913年 水彩、グアッシュ、グラファイト、インク・紙 45.7×29.5cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
具象的な白鳥が抽象的、幾何学的形状に変化し、最後再び具象性に回帰するプロセスが全24点で表現される「白鳥」シリーズは、具象と抽象、光と闇、生と死、雄と雌といったアフ・クリントの関心事である二項対立とその解消が、さまざまなレベルで展開していきます。
ヒルマ・アフ・クリント 《白鳥,SUWシリーズ,グループIX:パート1,No. 1》 1914-1915年 油彩・キャンバス 150×150cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《白鳥,SUW シリーズ,グループIX:パート1,No. 13》 1915年 油彩・キャンバス 148.5×151cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《白鳥,SUW シリーズ,グループIX:パート1,No. 17》 1915年 油彩・キャンバス 150.5×151cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
トーマス・エジソンらによる電気に関わる発明、ヴィルヘルム・レントゲンによるX 線の発見、キュリー夫妻による放射線の研究など、19世紀後半から20世紀初頭にかけて展開された科学分野における画期的な発明や発見の数々もまた、肉眼では見ることのできない世界の把握に関わるものでした。この時代のスピリチュアリズムなど神秘主義的思想には、こういった科学的実践と共通する探求として、関心が寄せられていた側面があるのです。
精神的世界と科学的世界、双方への関心を絵画として具現化した「神殿のための絵画」の存在こそ、アフ・クリントが今日、モダン・アートにおける最重要作家の一人として位置づけられる所以と言えるでしょう。
ヒルマ・アフ・クリント 《祭壇画,グループX,No. 1》 1915年 油彩、箔・キャンバス 237.5×179.5cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation

第4章 「神殿のための絵画」以降:人智学への旅
「神殿のための絵画」を完結以降、アフ・クリントの制作は、幾何学性や図式性が増すようになりました。1920年に介護していた母親が亡くなり、以前より関心を寄せていた神智学から分離独立した「人智学」への傾倒を深めると、アフ・クリントの制作は、水彩のにじみによる偶然性を活かし、色自体が主題を生み出すような作品へと変化した。

第5章 体系の完成へ向けて
制作の一方で、アフ・クリントは自身の思想や表現について記した過去のノートの編集や改訂の作業を始めます。特に注目すべきは「神殿のための絵画」を収めるための建築物の構想です。制作が完了してからすでに15年以上経過した1930年代にもなお、作品を収める理想のらせん状の建築物について記し、建物内部の具体的な作品配置計画の検討も重ねていました。
この神殿が実現することはありませんでしたが、こういった自らの思想の絶えざる編集と改訂の作業は、絵画制作を含むアフ・クリントの仕事全体が、いかに厳密な体系性を目指していたかの証左となるものでしょう。
展示作品の一部
ヒルマ・アフ・クリント,ハムガータン(ストックホルム)のスタジオにて 1902年頃 ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation
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ヒルマ・アフ・クリント展、東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー、2025年3月4日(火)~6月15日(日)

2025年4月12日 (土)

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第395回
11歳で就任した3代将軍・足利義満は、相国寺を創建、夢窓派の祖・夢窓疎石、高弟の春屋妙葩を迎える。鹿苑寺金閣を開き、北山文化を生み、孫の足利義政は、慈照寺銀閣を作り、東山文化、東山御物を残した。
夢窓疎石、春屋妙葩、絶海中津、大典顕常(1719年-1801年)は、雪舟、若冲、如拙と周文、円山応挙に影響を与える。
――
臨済宗、禅宗は、中国仏教であり、老荘思想であり、ニヒリズムであり、無の宗教である。無、無為自然、無用の用、玄徳、道(万物の根源)は無、混沌、大道廃れて仁義あり、『老子』。万物斉同、逍遥遊、邯鄲の夢『荘子』。
「大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章」。★
【明代初期の花鳥画家、文正『鳴鶴図』1376年】6世、絶海中津、中国から帰朝する時に、招来した。この絵画を雪舟、伊藤若冲、狩野探幽が学んだ。
【狩野永徳『洛中洛外図屏風』】足利義輝が発注、1566永徳が制作、1574織田信長が上杉謙信に贈呈。どこから見た洛中洛外図か。
【相国寺七重塔。1339年三代将軍・足利義満が建立(11歳で将軍就任)】1470年、猿物により炎上(『相国寺七重塔炎上之事』応仁記)。
【伊藤若冲「乗興舟」】1767年頃、若冲が交流の深い相国寺の禅僧、梅荘顕常(大典)と淀川下りをした感興を表した。季節は春、京都・伏見から大坂・天満橋まで6時間ほどの船旅を、幅約29センチ、長さ約11.5メートル。漆黒の空に白い松並木や遠くの家並み、淡い灰色の川
大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、足利義満の時代、相国寺創建 夢窓疎石 春屋妙葩
【足利義満】[1358~1408]室町幕府第3代将軍。在職1369~1395。義詮(よしあきら)の子。南北朝合一を果たし、明と勘合貿易を開いて室町幕府の最盛期を現出した。能楽の保護、金閣の建立などこの時代の文化を北山文化とよぶ。北山殿義満。
第一章 開山の祖、夢窓疎石、相国寺に関わる高僧の墨蹟。
相国寺は、11歳で将軍職についた室町幕府三代将軍・足利義満が永徳 2 年(1382)に発願し、開山・創建された禅宗の古刹。夢窓派の祖・夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山に迎え、高弟の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を実質的な創建開山とした。京都の地、御所の北側の広い敷地に伽藍を構える大寺で、金閣寺、銀閣寺の通称で名高い鹿苑寺、慈照寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山。
相国寺は美術の発展にも尽力。640年以上の歴史の中で数々の芸術家を育て上げ、名作の誕生を導いてきた。1984年には相国寺をはじめ、鹿苑寺、慈照寺などに伝わる文化財の保存修理、展示公開、禅文化の普及を目的に相国寺承天閣美術館を創設。現在、国宝5点、重要文化財145点を含む優れた作品を収蔵する。寺に伝わる什物(じゅうもつ=代々伝わってきた宝)は美的価値だけでなく歴史的価値も高いものが揃っている。明から伝来した名品を見ることができる。相国寺は創建当初から中国との文化的交流の中心地であった。
展示作品
《鳳凰》室町時代 15世紀 鹿苑寺 応永五年(1398)の創建当初から金閣の頂上にあった。
重要文化財《鳴鶴図》 文正筆 中国・元-明時代 14-15世紀 相国寺 絵の前から立ち去り難い端正さを持つ。

2、雪舟の時代 室町幕府の御用絵師・如拙と周文を師とする
第二章「中世相国寺文化圏 ―雪舟がみた風景」雪舟が目にした文化的風景を偲ぶ
開山から間もない15世紀の相国寺には、相国寺文化圏と称するべき美の営みがあった。室町幕府の御用絵師であった相国寺の画僧・如拙と周文は室町水墨画の様式を確立、さらに二人を師と仰いだと書き残している雪舟は、若き日を相国寺にて過ごした。室町水墨画の巨匠・雪舟が目にしたと想像される文化的風景が展開される。
展示作品
重要文化財 雪舟《毘沙門天》 室町時代 15世紀 相国寺蔵
林良筆《鳳凰石竹図》明、16世紀、雪舟から若冲にまで影響を与えた。重要文化財
周文筆《十牛図巻》より 右から「尋牛」「見跡」「見牛」 伝 周文筆 室町時代 15世紀 相国寺
相国寺の画僧・周文が描いた《十牛図巻》では、禅や悟りを人と牛との関係にたとえ、十の過程で示した。牛の姿は「真の自己」を表し、真の自己を求める自己は牧人として描かれている。
《花鳥図》伝呂紀筆 :《花鳥図》兪増筆 いずれも中国・明時代 16世紀 相国寺
雪舟は相国寺を出たのち、明に渡って約3年を過ごし、その間、多くの中国絵画を目にした。室町時代には数々の明代絵画が相国寺にもたらされ、日本の絵師に影響を与えた。

3、92世住持・西笑承兌
第三章「『隔蓂記』の時代 ―復興の世の文化」
室町時代に文化的興隆を見せた相国寺、1467年に応仁の乱が勃発し、続いて戦国の世になると荒廃した。戦国時代以降の相国寺を復興したのは 92世住持・西笑承兌(せいしょうじょうたい)。天下人秀吉、家康のブレーンとなり外交僧として活躍、相国寺中興の祖となった。続いて1600年代、復興の相国寺に登場するのが鳳林承章(ほうりんじょうしょう)。西笑承兌の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を伝えられた弟子)で鹿苑寺の住持を務め、75歳で亡くなるまで34年間にわたって日記『隔蓂記(かくめいき)』を書き残した。鳳林承章をめぐる風雅の時と場を再現する。
狩野派とのかかわり
『隔蓂記』の時代は江戸時代前期と重なり当時、文化の中心にいたのが文芸復興に尽くしたことで知られる後水尾(ごみずのお)天皇である。鳳林承章とは親戚関係にあり、相国寺には後水尾天皇からの寄進による作品が残されている。当時もっとも勢いのあった狩野派の作品も含まれている。京都に滞在していた探幽に鳳林自身が画絹を持参し、制作を依頼したと『隔蓂記』に記されている。
展示作品
西笑承兌墨蹟「檀忌香偈(だんきこうげ)」 西笑承兌筆 桃山時代 天正13年(1585) 相国寺
《西笑承兌像》 江戸時代 17世紀 豊光寺 ※いずれも前期展示
『隔蓂記』鳳林承章筆 江戸時代 寛永12-寛文8年(1635-1668)鹿苑寺
狩野探幽《観音猿猴図》狩野探幽・狩野尚信・狩野安信筆 江戸時代 正保2年(1645)相国寺 両側の猿がユーモラスな本作は「後水尾天皇寄進状」に記載のある作品。

4、奇想の画家・若冲を開花 第113世住持・梅荘顕常 維名周奎
第四章「新奇歓迎!古画礼讃! ―若冲が生きた時代」
若冲は京都・錦市場の青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、絵を描くことが好きだったものの、40歳まで枡屋当主として家業に励んだ。
★★★
 若冲の才能をいち早く見出し、絵の世界へ導き若冲の名を与えたのが相国寺第113世住持の梅荘顕常である。
「老子」第45章。大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。燥は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。「老子」第45章。
愚者よ、外見で無用と決める愚かさに気づけ。
梅荘は若冲に中国絵画を模写する機会を与え、さらに「若冲」という画号を授けた。近世の相国寺の文化に殷賑を極める、独特の絵画表現を完成。若冲は梅荘の尽力によって、鹿苑寺大書院を飾る襖絵50面を描くという大プロジェクトを任される。当時、若冲は44歳の無名絵師。梅荘の存在がなければ、これほどの大仕事を得られることはなかった。
★★★
「千年、具眼の士を待つ」「理解する士が現れるまで 千年のときを待つ」と言った伊藤若冲)。若冲と親交深く画家としての活動を支えたのが、詩僧として名を馳せた相国寺の僧、梅荘顕常、梅荘の弟子であった維名周奎(いめいしゅうけい)は若冲に画を学び、画僧として活躍した。若冲作品と同時に、その魅力を開花させた文化的背景を探る。
展示作品
《竹虎図》絵:伊藤若冲筆 賛:梅荘顕常筆 江戸時代 18世紀 鹿苑寺
伝李公麟「猛虎図」(朝鮮・朝鮮時代)に依拠して描かれており、虎のユーモラスな表情、猫のように拳を舐める仕草、体躯の力強い表現。虎の背後には風に揺れる竹の葉が筆勢の強い墨線で表現。梅荘顕常の賛は「いずこの竹林、長く嘯く声の中。突如もの寂しげな夕刻の風が巻き起こる」と詠む。虎嘯風生(こしょうふうしょう)の故事「虎の遠吠えが風を生む」、「英雄が出現すると天下に風雲が巻き起こる」という喩えである。若冲と梅荘は、虎が巻き起こす風をそれぞれの手法で表現した。
重要文化財《鹿苑寺大書院障壁画 一之間襖絵 葡萄小禽図》伊藤若冲筆 江戸時代 宝暦9年(1759)鹿苑寺蔵

5、近世・近代 俵屋宗達 円山応挙
第五章「未来へと育む相国寺の文化 ―”永存せよ”」
相国寺の什物は中世より伝来するものもあれば、近世や近代の寄進などの新規受入により加わったものもある。今回の展覧会では、什物の経歴や履歴という視点も重視した。現在、相国寺に集まった数々の什物は、今後も相国寺で活かされ、価値を見いだされ、永く伝えられてゆくことが期待されている。そのような近代に収集された作品群。
長谷川等伯《萩芒図屏風》(前期3/29~4/27展示)は金地着色画の大作。花を咲かせた萩が風になびく右隻、芒の茂みに野菊が顔を覗かせる左隻。シンプルで明快な構図ながら、繊細な情緒にあふれている。
円山応挙筆《七難七福図巻》より「福寿巻」江戸時代 明和5年(1768) 相国寺 ※前期・後期で場面替えあり
応挙初期の作品。天災を描く上巻、人災を描く中巻、そして福寿を描く下巻からなる大作、応挙は制作に3年を費やし、三巻の全長は39メートルに及ぶ。人の世の苦難と寿福とを絵解きするために制作された絵巻。人々が天災や大蛇から逃げまどう様子などがリアルに、時にユーモラスに描かれている。
重要文化財《蔦の細道図屏風》伝 俵屋宗達筆 烏丸光広賛 江戸時代 17世紀 相国寺 ※後期展示
『伊勢物語』より宇津の山の場面を表し、大胆な構成、金箔の地に緑青という鮮やかな色使いが目を引く。
《百鳥図》伝辺文進筆 中国・明時代 15世紀 鹿苑寺
壮大な吉祥図。中央に描かれている鳳凰は百鳥の王とされ、鳳凰が飛べば群鳥たち皆これに従うと言われてきた。金閣寺の屋根から相国寺文化圏の隆盛を長らく見守ってきたのも鳳凰である。
【孔雀明王、快慶】金剛峰寺、正治二年(1200年)。孔雀は毒を食う。三毒、貪瞋痴、むさぼること、いかること、愚痴、愚かなこと、毒を喰う、仏法を守る孔雀。円山応挙『牡丹孔雀図』1771。牡丹は花の王、仏法を守る孔雀。孔雀明王神咒経
【孔雀明王像、快慶、正治二年(1200) 金剛峯寺】後鳥羽法皇の御願で1200年に造立。孔雀の背に乗る絵画的な姿を表現。孔雀明王は人間の天敵・コブラを食べその害から守ってくれるところから無病息災の信仰を集め明王ながら菩薩の尊顔で表現される。
――
参考文献
生誕300年、若冲展・・・『動植綵絵』、妖気漂う美の世界
https://bit.ly/2FWbP7L

「円山応挙から近代京都画壇へ」・・・円山応挙「松に孔雀図」大乗寺
https://bit.ly/2KEGwyj

禅-心とかたち、東京国立博物館・・・不立文字
https://bit.ly/3IVCj7B

「栄西と建仁寺」・・・天下布武と茶会、戦国時代を生きた趣味人
https://bit.ly/2OAhnsz

妙心寺展・・・禅の空間 、近世障屏画の輝き
https://bit.ly/2OACxXq

相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・無の宗教と雪舟、若冲、円山応挙
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/04/post-57cb8d.html
相国寺承天閣美術館開館40周年記念 相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史
東京藝術大学美術館、3月29日~4月27日、後期(4/29~5/25)

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