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2024年2月

2024年2月29日 (木)

大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第359回
地位、名声、財産に溺れる者に嵯峨天皇の遺詔を捧げよう。
信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて動乱を超えて、晩年を京で過ごした織田有楽斎の心中には、どのような思いがあったのか。狩野山楽「蓮鷺図襖」十六面に、蓮の四季が描かれている。
織田有楽斎(1547-1621)織田信長の一族、織田信雄、徳姫、お市の方、浅井三姉妹、茶々、江、初と共に生き残る。運命に翻弄された織田信長の一族、信長の子、信雄、徳姫、長益。信長の弟、茶の湯三昧74歳で死す。
織田有楽斎(1547-1621)、織田長益は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の弟、十一男として生まれた。織田長益は、天文16年(1547)に織田信秀の十一男として生まれ、幼名を源吾(源吾郎)といい、信長の13歳下の弟。武将として活躍。
【建仁寺の塔頭、「正伝院、如庵」】晩年、京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興、隠棲。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑内にあり、各地に如庵の写しが造られている。正伝院は明治時代に「正伝永源院」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えている。
本能寺の変、天正10年(1582)、織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所において、籠る長益の主君・織田信忠(信長の長男)が自害したにもかかわらず、長益は御所を脱出したことから、京の人々には「逃げた(男)」と揶揄された。さらにその後、【信雄(信長の次男)】に仕え、徳川家康と豊臣秀吉の講和を調整するなど存在感を示した、信雄が改易されると今度は秀吉の御伽衆に加わり。【1600年関ヶ原の戦い】東軍として参戦し、戦後も豊臣家に仕えたが、【大坂冬の陣1614年】大坂城に入り淀殿の叔父として淀殿・秀頼母子を補佐したが、徳川方へ配慮、冬の陣においては豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得。【大坂夏の陣1615年】前には家康の許可を得て主君から離れた。【1616年、徳川家康死す】1621年、有楽斎、死す。
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嵯峨天皇、遺詔 嵯峨天皇は遺詔(亡くなる前の詔勅、遺言)に次のように懐(こころ)を述べている。
余昔し不徳を以て久しく帝位を忝(かたじけな)うす。夙夜兢兢として黎庶(れいしょ:人民)を済(すく)はんことを思ふ。然れども天下なる者は聖人の大宝なり。豈(あ)に但(ただ)に愚憃微身(ぐとうびしん:愚かでつたない者、自卑の辞)の有(ゆう:持ち物)のみならんや。故に万機の務(つとめ)を以て、賢明に委(ゆだ)ぬ。
一林の風、素(もと)より心の愛する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫び以て澹泊(たんぱく)ならんと思欲(しよく)す。「続日後本紀」承和九年条
【嵯峨天皇、遺詔】徳のない身でありながら長く帝王として天下を預かる間、民に良くあれと願って一心に努めてきた。しかし天下とは有徳の聖人が大切に扱うべき宝である。愚憃微身、拙い身が長くその位置に就き所有するものではない。するべき務めを果たして次代の優れた人物にこれを委ねた。静かな林に風を感じて佇むこと、それがもともと心の愛する好みの暮らしである。地位も権威もいらない、山の麓や水のほとりを散歩し、のんびり何事も為さず、琴を弾き書を読んで遊び、気ままに暮らしたいと思っていた。「続日後本紀」承和九年条
「続日後本紀」承和九年
太上天皇崩于嵯峨院。春秋五十七。遺詔曰、余昔以不徳。久恭帝位。夙夜兢兢、思済黎庶。然天下者聖人之大宝也。豈但愚憃微身之有哉。故以万機之務。委於賢明。一林之風、素心所愛。思欲無位無号詣山水而逍遥、無事無為翫琴書以澹泊。
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【天狗になる人、地位、名声、財産に溺れる者】自惚れる忖度教授、忖度官僚【名声に溺れる芸術家】あまり賢くない人は、自分が理解できない事については何でもけなす。ラ・ロシュフーコー『箴言集』【金持ちが天国に入るのは駱駝が針の穴を通るより難しい】(マタイ19章16-26節)【階級社会に溺れる人】
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
織田有楽斎像 狩野山楽筆 古㵎慈稽賛、一幅 元和8年(1622)、正伝永源院
蓮鷺図襖(部分) 狩野山楽 十六面、江戸時代 17世紀、正伝永源院
松平陸奥守書状 織田有楽斎宛、一幅 江戸時代 17世紀、正伝永源院
重要美術品 大井戸茶碗 有楽井戸、一口 朝鮮王朝時代 16世紀、東京国立博物館 
青磁輪花茶碗 銘鎹、馬蝗絆 南宋時代 12世紀
平重盛(1138〜79)が、南宋の国と天目山に3000両の喜捨した。その返礼に青磁の茶碗が贈られてきた。これがその茶碗で、1セット2個。龍泉窯、南宋時代の砧手で、青磁の色、形、共に最上手のものであった。足利義政が後に、この茶碗を手に入れたが、熱湯のためかヒビ割れができたので、明の国に取替えを要求。しかし、このような茶碗はもう焼成できないと、2個ともヒビ補強にカスガイを打って返却されてきた。その後、馬蝗絆 (イナゴ絆)と呼ばれ名声を博し、青磁といえば、先ず馬蝗絆が筆頭にあげられるようになった。馬蝗絆は、足利将軍家に伝えられた以後、織田三五郎(信長の弟である有楽の孫)に伝来、その後、角倉家、平瀬家等に伝来。1951年、東京の久米邸で、この兄弟2個が出会い、比較鑑賞された。
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参考文献
織田信長、理念を探求する精神・・・美と復讐
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
大名茶人 織田有楽斎・・・天下なる者は聖人の宝なり、微身の有ならず
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-f37048.html
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織田有楽斎(1547-1621)
天正10年(1582)、明智光秀が謀反を起こし、本能寺において織田信長が自刃すると、彼の命運も激変する。本能寺の変の時、長益は織田信忠と共に誠仁親王がいる二条御所に移り、ここで敵襲を受けた。親王を逃走させると信忠は自害したが、長益は城から脱出し、一説には安土を経て岐阜へ向かったと伝えられる。仕えている主君が自害し長益は難を逃れたことから、風聞書などのいくつかには、長益に“逃げた男”というレッテルを貼り、悪し様に評するものもあり。
戦国時代から江戸時代にかけての激動の時代、長益は有能な大名としての地歩を固めていきますが、夏の陣を前に京都・二条へ移り、また建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とします。もともと長益は利休も一目を置く茶人であり、法躰となり有楽斎と号した後も茶の湯に執心し、高僧や、古田織部、細川三斎、伊達政宗などの武将と結びながら茶会を開いていきます。これらの活動を示す書状はいまも正伝永源院に多く残り、茶人としての姿をよく示しています。
正伝院を終の住処とする頃にはすでに当時の茶の湯に重要な役割を果たすようになっていました。正伝院に茶室「如庵」を造営し、茶の湯三昧の日々を送った有楽斎が生前に集めた茶道具は、没後、孫の織田三五郎(長好)が引き継ぎます。その後、これらは織田三五郎の遺言によって形見分けされ、残りは正伝院に寄進。今は、行方不明が多い。
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四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎
サントリー美術館、2024年1月31日(水)~3月24日(日)

2024年2月26日 (月)

印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第358回

アルノ河の水辺の樹々に夢をみる、枯れ木に夕日が射すと希望を予感する、荒野にアーモンドの花が咲くと春を感じ、林檎の花が咲くと蘇りを感じ、子供を抱く母親に新生を見る。印象派の画家は陽光に輝く世界を表現した。クロード・モネ(1840-1926) 『印象・日の出』(1872)から印象派は始まる。印象派は、リアリズムの一派である。20世紀、海を超えて、メアリー・カサット、チャイルド・ハッサム、ジョゼフ・グリーンウッド、トマス・コールに影響を及ぼした。トマス・コール『アルノの眺望』に、フィレンツェのみずみずしい樹木と川の調和が描かれている。モネは、絶望をどう超えたのか。
【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。この通りモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1890年代後半からは300点の〈睡蓮〉に取り組む。
1899年からロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を数年かけて描く。【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】1908年頃から、視覚障害に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。1879年9月5日カミーユ32歳で死す。この通りモネ39歳。1926年86歳まで生きる。
モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【世紀末の旅人】リアリズムからアンチリアリズムへ【アンチリアリズム、象徴派、ラファエロ前派、幻想派、フォービスム、形而上絵画、シュルレアリスム】
【20世紀、アンチリアリズムの世紀】19世紀ヨーロッパ文学はリアリズムを追求したが、20世紀はアンチリアリズムの世紀。18世紀小説、ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』に夏目漱石は、深い影響を受けた。これを実験したのが『草枕』(1906)。
【ローレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』】アンチリアリズムの実験をした夏目漱石『草枕』。(*未完の小説。全9巻1759年の末から1767年)。この18世紀小説に、20世紀文学、アンチリアリズム文学は深い影響を受けた。アンドレ・ジイド、カフカ、ジェイムズ・ジョイズ『フィネガンズ・ヴェイク』、ヴァージニア・ウルフ、マルセル・プルースト。他方、日本の明治文学は、1900年以降、やっとリアリズム文学に辿りつく。花袋『布団』藤村『破戒』。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー《ヴィル = ダヴレーの牧歌的な場所ー池畔の釣り人》 (1865-70) ウスター美術館蔵
メアリー・カサット《裸の赤ん坊を抱くレーヌ・ルフェーヴル(母と子)》(1902-03) ウスター美術館蔵
トマス・コール 《アルノ川の眺望、フィレンツェ近郊》(1837) ウスター美術館蔵
ウィンスロー・ホーマー《冬の海岸》(1892) ウスター美術館蔵
クロード・モネ《税関吏の小屋・荒れた海》(1882) 日本テレビ放送網株式会社蔵
チャイルド・ハッサム《花摘み、フランス式庭園にて》(1888) ウスター美術館蔵
クロード・モネ《睡蓮》(1908)ウスター美術館蔵
チャイルド・ハッサム《シルフズ・ロック、アップルドア島》(1907)、チャイルド・ハッサム《コロンバス大通り、雨の日》(1885)ウスター美術館蔵
ジョゼフ・H・グリーンウッド《リンゴ園》(1903) ウスター美術館蔵
エドマンド・チャールズ・ターベル《ヴェネツィアン・ブラインド》(1898) ウスター美術館蔵
ポール・シニャック《ゴルフ・ジュアン》(1896) ウスター美術館蔵
デウィット・パーシャル《ハーミット・クリーク・キャニオン》(1910-16)ウスター美術館蔵
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参考文献
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
マティス展・・・南仏の光《豪奢、静寂、逸楽》、色彩と線への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-c2781f.html
佐伯祐三 自画像としての風景・・・世紀末の旅人
https://bit.ly/3wx4tQw
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html

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印象派 モネからアメリカへ 海を超えて花開いた印象派 ウスター美術館所蔵
第1回印象派展から150周年を迎える2024年、印象派がヨーロッパやアメリカへもたらした衝撃と影響をたどる展覧会を開催します。19世紀後半、大都市パリには国外からも多くの画家が集いました。パリで印象派に触れ、学んだ画家たちは、新しい絵画の表現手法を自国へ持ち帰ります。本展は、西洋美術の伝統を覆した印象派の革新性とその広がり、とりわけアメリカ各地で展開した印象派の諸相に注目します。
アメリカ・ボストン近郊に位置するウスター美術館は、1898年の開館当初から印象派の作品を積極的に収集してきました。このたび、ほとんどが初来日となる同館の印象派コレクションを中心に、日本でもよく知られるモネ、ルノワールなどフランスの印象派にくわえ、ドイツや北欧の作家、国際的に活動したサージェント、さらにはアメリカの印象派を代表するハッサムらの作品が一堂に会します。これまで日本で紹介される機会の少なかった、知られざるアメリカ印象派の魅力に触れていただく貴重な機会となります。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_worcester.html
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印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵
東京都美術館、1月27日~4月7日
福島県の郡山市立美術館(4月20日~6月23日)、東京・八王子市の東京冨士美術館(7月6日~9月29日)、大阪市のあべのハルカス美術館(10月12日~2025年1月5日)

2024年2月 9日 (金)

本阿弥光悦の大宇宙・・・現世利益、現世即、常寂光土

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第357回
本阿弥光悦、謎の生涯、多彩な才能の源泉は何か。「一生涯へつらい候事至てきらひの人」「異風者」『本阿弥行状記』。
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【本阿弥光悦の謎】本阿弥家は刀剣三事(研磨、浄拭、鑑定)を家職とするのはなぜか。【光悦1558-1637】本阿弥光悦は俵屋宗達とどこで出会ったのか。なぜ楽焼の田中常慶に習ったのか、古田織部に茶の湯を学んだのか。元和元年(1615年)徳川家康から鷹峯の地を拝領したのはなぜか。豊臣家が滅びた元和元年凱旋の家康から鷹峯に東西ニ百間の土地を与えられ一族郎党、五十五軒の屋敷を構え移り住み洛中と往還したのはなぜか。本阿弥家の名は、一遍上人の遊行念仏、南無阿弥陀仏に由来する、なぜ日蓮法華衆に属したのか。雁金屋、尾形光琳・乾山はなぜ光悦の影響を受けたのか。
【光悦の母・妙秀】(光心の娘)は90歳で没したが類い稀な女性(『本阿弥行状記』)。【光悦は妙得との間に妙潤を】なぜ光瑳を養子とし孫・光甫を得たのか。光悦は70代で子をなしたとされる。【鷹峯】延宝7(1679)年、本阿弥家は光悦の夢の地、鷹峯を幕府に返上。なぜ64年間にわたる光悦の藝術村は終焉したのか。
【本阿弥妙秀、光二、織田信長】織田信長と光二は刀剣に関して昵懇であったが、信長の部下が有岡城落城のとき荒木村重の刀剣をめぐり讒言した。「身に曇りなきことは天道御存知なるべし」。妙秀は、賀茂山で鹿狩りの信長の馬の口に、突然取りすがった。夫は落ち度もなしにご勘気を蒙っております、無実を訴え、光二の命を織田信長に助命嘆願した。(『本阿弥行状記』三巻)妙秀の娘の一人は中立売小川の呉服商、雁金屋に嫁いだ。光琳・乾山兄弟の祖父・尾形宗柏。雁金屋は当時「殊の外貧しき」と言われる貧乏商人だった。妙秀「金銀を宝と好むべからず。富むほどに一層むさぼるのが世の常だ。しかし妙秀はその貪りを恐れた。善い心という以上の宝がこの世にありましょうか」
【本阿弥光悦】(1558-1637寛永14年(1637年)2月3日、享年80歳。
【日蓮法華衆】絵師、狩野永徳や長谷川等伯は光悦より15歳以上年長だが、熱心な日蓮宗徒。本阿弥家の菩提寺の本法寺(上京区)は、等伯が終生交わりを結んだ日通上人が住職を務める。
【光悦と宗達】【本阿弥光悦】は【八代当主本阿弥光刹(こうせつの)娘、妙得】を娶り、光悦の姉、妙光が九代当主本阿弥光徳に嫁ぐ。【雁金屋初代】光悦の姉、法秀は尾形道柏に嫁いだ。【俵屋宗達】は光刹(こうせつの)娘、と婚姻(『本阿弥家系図』)、光悦と義兄弟。頂妙寺檀徒、俵屋喜多川当主宗利の子、常通=宗達が蓮池常知の養子となり、俵屋蓮池一門のもう一つの家職、扇、絵屋工房を継承した。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【本阿弥本光】15世紀半ばを生きた本阿弥本光は、室町幕府第6代将軍の足利義教に仕えた。【光二】光悦はその本光の曾孫として、永禄元(1558)年に生まれた。父親の光二は本阿弥家と縁続きの武家(片岡家)の出身で【七代当主光心】本光の息子・光心の養子に迎えられ、長女の妙秀(みょうしゅう)と結婚した。光二が養子に迎えられた後、光心には実子(八代当主光刹こうせつ)が生まれ、光二は別家を立てた。
【妙秀】母親の妙秀が、魅力的な女性だった。光悦の孫・光甫(こうほ)が綴った本阿弥家の家伝「本阿弥行状記」によれば、夫の光二が織田信長の勘気をこうむったとき、妙秀は鹿狩に出かける信長を追い、馬上の信長に夫の冤罪を直訴した。鐙(あぶみ=足をかける馬具)で蹴られながらも必死に訴える様子を見た信長は、ようやく勘気を解いた。
【刀剣三事】本阿弥家は室町時代、足利将軍家や守護大名家に仕え、本阿弥家は、刀剣三事(研磨、浄拭(ぬぐい)、鑑定)、を行う専門家であった。
【天下人・家康との縁】【光悦、多彩な才能】光悦の代になると家業にとどまらず書や蒔絵(まきえ)、陶芸と幅広く手がけるようになった。姻族だった扇商の俵屋宗達に絵を描かせ、光悦が書を担当した色紙や巻物は評判を呼び、多くの注文が舞い込んだ。芸術家、光悦の誕生である。
【刀剣三事】本阿弥家は刀剣の研磨・浄拭(ぬぐい)・鑑定を家業とし、光二は加賀前田家から扶持200石を受け、彼の息子である光悦もこれを継承。【書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯】光悦は家業よりも、書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯などに携わった数寄者としての活動でその名を残した。
【寛永の三筆】「三筆」の一人に数えられ、その書流は光悦流の祖と仰がれる。陶芸では楽焼の田中常慶に習ったと思われる茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られる。このうち漆工品では極く厚い夜光貝に鉛や銀などを併用し、斬新な意匠を創り上げ、その様式は「光悦蒔絵」と称されている。茶の湯は古田織部に学んだ。
【尾形光琳・乾山兄弟】の曾祖父・道柏の妻、法秀は光悦の姉であり、光悦と光琳は姻戚関係にあり。光悦の白楽茶碗「不二山」(国宝)にも関わった【楽焼の樂家の養子となった宗入(五代目当主)】の曾祖母も法秀であり、光琳・乾山とは従弟同士。
【養孫の本阿弥光甫】も陶芸家・茶人として著名。
光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いた。元和元年(1615年)に徳川家康から鷹峯の地を拝領した。光悦は、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。光悦の屋敷は、死後に光悦寺となっており、彼の墓地もある。
【『本阿弥行状記』】「本阿弥家の家訓」等を光甫が書き、妙了が書写した本。
本阿弥光悦の養子・光瑳、孫光甫、孫娘・妙了
【本阿弥光悦と俵屋宗達の出会いは、異母兄弟】
【文化プロデューサー、本阿弥光悦】【光悦寺】
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【俵屋宗達】1570年代生まれ1642年までに死す。享年70歳前後。
親交のあった角倉素庵や烏丸光広と同年代、1570年代かその少し前の生まれと推定。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していた。同時代の仮名草子『竹斎』には、この頃京都で「俵屋」の扇がもてはやされたと記されている。
【平家納経】宗達は単なる扇絵職人ではなく、慶長7年(1602年)5月に福島正則の命令で行われた平家納経の修復、その内3巻の表紙と見返しの計6図を描いた(史料上確認できる宗達の事績の初見)。元和2年(1616年)、後水尾天皇が狩野興以に貝合わせの絵を描くのを命じた際、「俵屋絵」を見せたとの記録が残る。寛永7年(1630年)には、後水尾天皇から屏風3双の制作注文があった。
【俵屋宗達、法橋の位】一流の文化人であった烏丸光広や本阿弥光悦らの書巻に下絵を描き、嵯峨本の出版にも関与したらしい。少なくとも寛永7年(1630年)には町の絵師としては異例の法橋の位が与えられていた、当時から一流の絵師とみなされていた。当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人。宗達死後は、俵屋宗雪が工房の後を継いだ。宗雪は寛永19年(1642年)既に法橋に叙されていることから、宗達はこの少し前に亡くなったらしい。
「風神雷神図」(建仁寺蔵)、松島図 フリーア美術館 左隻右隻、鶴下絵和歌巻(下絵・宗達、書・本阿弥光悦)京都国立博物館、扇面散屏風 フリーア美術館、養源院杉戸絵、舞楽図 醍醐寺 左隻右隻
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
松嶋雅人「本阿弥光悦の実像―法華町衆ネットワークからのアプローチ」2024
「本阿弥光悦の大宇宙」図録、東京国立博物館、2024
高橋伸城『法華衆の芸術』
東晋平『蓮の暗号』
参考文献
参考文献
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変
https://bit.ly/3UYWOpe
鈴木其一・夏秋渓流図屏風・・・樹林を流れる群青色の渓流、百合の花と蝉、桜の紅葉
https://bit.ly/2ZCzN3x
「大琳派展―継承と変奏」東京国立博物館・・・絢爛たる装飾藝術、16世紀から18世紀
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-c300.html
「美をつむぐ源氏物語―めぐり逢ひける えには深しな―」・・・源氏物語の謎
https://bit.ly/3hIroVg
大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』新潮社
「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」・・・源氏物語絵巻の闇、日月四季山水図屏風、神護寺三像、平家納経
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-1388ed.html
本阿弥光悦の大宇宙・・・現世利益、現世即、常寂光土
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-2af811.html
――

★★展示作品の一部
第一章「本阿弥家の家職と法華信仰――光悦芸術の源泉」、並んだ扁額を仰ぐことができる。千葉・中山法華経寺の「正中山」「妙法華経寺」、東京・池上本門寺の「本門寺」、京都・常照寺の「学室」
重要文化財 《紫紙金字法華経幷開結》、平安時代 11世紀 京都・本法寺蔵
蓮下絵和歌巻断簡(下絵・宗達、書・本阿弥光悦)17世紀 東京国立博物館
国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀
重要文化財 《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》(部分) 本阿弥光悦筆/俵屋宗達下絵、江戸時代 17世紀 京都国立博物館蔵
重要文化財 《黒楽茶碗 銘 時雨》 本阿弥光悦作、江戸時代 17世紀 愛知・名古屋市博物館蔵
重要文化財 《赤楽茶碗 銘 加賀》 本阿弥光悦作、江戸時代 17世紀 京都・相国寺蔵
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本阿弥光悦(1558~1637)は戦乱の時代に生き、さまざまな造形にかかわり、革新的で傑出した品々を生み出しました。それらは後代の日本文化に大きな影響を与えています。しかし光悦の世界は大宇宙(マクロコスモス)のごとく深淵で、その全体像をたどることは容易ではありません。
そこでこの展覧会では、光悦自身の手による書や作陶にあらわれた内面世界と、同じ信仰のもとに参集した工匠たちがかかわった蒔絵など同時代の社会状況に応答した造形とを結び付ける糸として、本阿弥家の信仰とともに、当時の法華町衆の社会についても注目します。造形の世界の最新研究と信仰のあり様とを照らしあわせることで、総合的に光悦を見通そうとするものです。
「一生涯へつらい候事至てきらひの人」「異風者」(『本阿弥行状記』)といわれた光悦が、篤い信仰のもと確固とした精神に裏打ちされた美意識によって作り上げた諸芸の優品の数々は、現代において私たちの目にどのように映るのか。本展を通じて紹介いたします。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2617
本阿弥光悦の大宇宙、東京国立博物館、平成館 特別展示室
2024年1月16日(火) ~ 2024年3月10日(日)

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