「日本画聖地巡礼 ―東山魁夷の京都、奥村土牛の鳴門―」・・・速水御舟 『名樹散椿』、美の根拠はどこに
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第344回
美の革命というが、美の根拠はどこにあるのか。抽象絵画の起源は、キュビスムとフォーヴィスムから始まる。と美術史家は言う。
キュビスム絵画で最も有名な作品は何か。キュビスムのピカソ『アヴィニョンの娘たち』1907『マンドリンを持つ少女』1909-1910年、ジョルジュ・ブラック、ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』1899 オルセー美術館.から始まる。ピカソ『泣く女』1937,『アルジェの女』1955、はキュビスム以後の展開とされる。
【キュビスム1907-1914】
キュビスム(1)複数の視点から見た物の形を、一つの画面に表す(2)物の形を、立方体、球、円筒、円錐、など幾何学的な形にする。セザンヌ。
古典的技法を用いた「青の時代」などを経て、新しい表現を求めていたピカソは1907年に訪れたパリの民族誌博物館でアフリカやオセアニアの造形物と出合う。表現に衝撃を受け、描き上げたのがセザンヌの水浴図にもヒントを得た《アヴィニョンの娘たち》(1907、ニューヨーク近代美術館蔵)。
「自然を円筒形と球形、円錐形によって扱う」と言うセザンヌ。セザンヌの単純化された幾何学形を積みかさねる品群は、パリの批評家から「すべてをキューブ(立方体)に還元している」と批判され「キュビスム」の名称で呼ばれる。
ピカソによる《アヴィニョンの娘たち》の習作の女性像と、ジョルジュ・ブラック《大きな裸婦》(1907冬ー1908・6月)、マリー・ローランサン《アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)》(1909)。マリー・ローランサンが恋人の詩人ギヨーム・アポリネールとピカソらを描いた作品。アポリネールは、非難を浴びたキュビスムを「芸術の大革命」と呼んで擁護。
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「芸術家アトリエ『ラ・リュッシュ』」「東欧からきたパリの芸術家たち」
ブランクーシやモディリアーニが住んだモンパルナスの集合アトリエ『ラ・リュッシュ』(蜂の巣)は、キュビスムが浸透した場のひとつで、ロシア(現ベラルーシ)出身のマルク・シャガールも住人である。パリ移住後まもなく描いた《婚礼》は、幾何学形を取り入れた画面構成とドローネー風の鮮やかな色彩が目を引く。故郷のユダヤ系風物を追慕したシャガールは、キュビスムの影響も受け、現実と幻想が入り混じる独自の作風を成熟させる。
マルク・シャガール(Marc Chagall, 1887-1985)ロシア出身のユダヤ系の画家で、存命中から現在に至るまで、世界中で高い人気と誇る。1887年、マルク・シャガールは帝政ロシアの一部であった現ベラルーシ共和国のヴィテブスクのユダヤ人街に生まれた。この地域はドイツ語、ヘブライ語、スラブ系言語の混合言語であるイディシュ語を話す人々によって形成された地域で独特の文化をを築いていた。そんな中で育ったシャガールはヴィテブスク特有の風土や文化の影響を受け、シャガールの精神形成に大きな役割を果たした。
1910年、シャガールはパリに到着する。パリのモンパルナスに住み着いた彼はモディリアーニやスーチン、パスキンなど後のエコール・ド・パリの巨匠たちと交流を結びサロン・ドートンヌやアンデパンダン展などに出品を続け次第にその評価を高めていった。97歳で死す。
【キュビスム以後、アメデ・オザンファンとル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム(純粋主義)」】
キュビスムは、1914年の第一次世界大戦勃発とともに収束へ向かった。ブラックやレジェ、グレーズらは前線に送られ、銃後のピカソは写実的な「新古典主義の時代」へ移行した。
第一次大戦後、アメデ・オザンファンとル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム(純粋主義)」。ふたりは、工業化社会を前提として秩序立った普遍的な「機械の美学」を唱え、キュビスムを乗り越えようとした。
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【美の根拠はどこにあるのか】思想が美しいということは、美の根拠である。
【美しい詩の根拠】①内容が深い、②映像が鮮烈、③連想イメージの豊饒、④余韻が深い、⑤思想が高い、高い知性、⑥物語が深い、⑦容姿が美しい。ウィリアム・ブレイク『毒のある木』、宮澤賢治『インドラの網』、藤原定家「夢の浮橋」、プラトン『饗宴』、空海『三教指帰』序文
藤原定家『定家十体』藤原定家著と伝えられる。1213年以前に成立か。和歌を幽玄様・有心様などの一〇体に分類し、例歌を示す。幽玄様 長高様 有心様 事可然様 麗様 見様 面白様 濃様 有一節様 拉鬼様。
『毎月抄』藤原定家、承久元年(1219)中心は、和歌を十体(じってい)に分けて説き、その中心として「有心体(うしんてい)」をたてた点であるが、それは十体の一つであるとともに十体のすべてにもわたるとする。「有心」として説くのは作歌にあたっての観想の深さで、それが表現上に表れていることである。理想的な完成態は「秀逸体」として十体とは別に説かれる。藤平春男。そのほか心詞・花実の論,秀逸体論,本歌取りの技巧,題詠の方法,歌病,詠歌態度などについて説く。
【無心の境地】思想の中に、藝術の中に、美を発見するとき、学問僧は無心の境地になる。思想の書を書き、洗練していくことに没頭するとき、無心の境地に至ることができる。密教の三密、身密、口密、意蜜、の修行に没頭するとき、無心の境地に至る。大谷翔平の技を支える業は、修行僧のようである。秘密の身・口・意の三業。すなわち、仏の身体と言語と心によってなされる不思議なはたらき。また、密教の行者が手に契印を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に大日如来を観ずる意密。三密加持すれば速疾に顕わる『即身成仏義』(823-824頃)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
ジョルジュ・ブラック《レスタックの道》(1908)、ブラック《レスタックのテラス》(1908夏)、ブラック《レスタックの高架橋》(1908初頭)
ジョルジュ・ブラック《ヴァイオリンのある静物》(1911・11月)、同《円卓》(1911秋)
フェルナン・レジェ《婚礼》 1911-1912年
油彩・カンヴァス/257 x 206 cm /ポンピドゥーセンター(1937年寄贈)
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne – Centre de création industrielle
Centre Pompidou, MNAM-CCI/Philippe Migeat/Dist. RMN-GP
コンスタンティン・ブランクーシ《眠れるミューズ》 1910年
ブロンズ/16 x 27.3 x 18.5 cm /ポンピドゥーセンター(1963年寄贈)
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne – Centre de création industrielle
Centre Pompidou, MNAM-CCI/Adam Rzepka/Dist. RMN-GP
アメデオ・モディリアーニ《女性の頭部》(1912)
マルク・シャガール《ロシアとロバとその他のものに》(1911)、同《婚礼》(1911-1912)
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参考文献
ピカソとその時代・・・藝術の探検家、7人の恋人、7つの時代
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ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ
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キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
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20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。
西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道も開きます。慣習的な美に果敢に挑み、視覚表現に新たな可能性を開いたキュビスムは、パリに集う若い芸術家たちに大きな衝撃を与えました。そして、装飾・デザインや建築、舞台美術を含む様々な分野で瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。
本展では、世界屈指の近現代美術コレクションを誇るパリのポンピドゥーセンターの所蔵品から、キュビスムの歴史を語る上で欠くことのできない貴重な作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品となります。20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など約140点を通して紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる本格的な展覧会はおよそ50年ぶりです。
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キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ、国立西洋美術館、10月3日(火)~2024年1月28日(日)
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第343回
古代ローマ、古代アテナイ、ルネサンスのフィレンツェ、コンスタンティノープル、もし自由に、古今東西の都市の学校を選ぶ、師匠を選ぶことができるならば、どの地、どの師を選ぶだろうか。19世紀ウィーンを選ばないだろう。
【師を選ぶ、学ぶことは重要だが、最も重要なのは先生の質である】【先生を選ぶ】師が優れているか否かが最も重要な要素である【学びの違い】学校、大学では先生を選べない【先生が持っている地図の大きさ】【先生が持つ基礎認知力、先生が持っている体系】空海は、大学寮明経科に入学したが退学、山林修行の旅に出る『聾瞽指帰』
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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フォロ・ロマーノを歩くと、夕暮れの光の中に、古代ローマの英雄たち、アントニウス、クレオパトラ、ローマ皇帝、ボッティチェリ、レオナルド、ラファエロ、ミケランジェロ、憂いの藝術家、ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ、メディチ家の雄姿、いにしえの人の記憶が蘇る。
カピトリーノの丘、カンピドリオ広場、フォロ・ロマーノ、サトゥルヌス神殿、セプテイミウス・セベルスの凱旋門、コンスタンティヌス帝の凱旋門、コロッセオ、皇帝ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア)、トラヤヌス帝の記念柱、パラティーノの丘、コンスタンティヌス帝の巨像、ここは、ローマ帝国の中心地である。
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【サトゥルヌス神殿】フォロ・ロマーノのカンピドリオ広場の一角に立つ8本のイオニア式円柱は、サトゥルヌス神殿跡。サトゥルヌスはローマ神話の農耕神で、ギリシア神話の巨人族の神クロノスと同一視される。土星の守護神です。かつてここに古代ローマの国家金庫、アエラリウム・サトゥルニがあった。古代ローマ暦およびユリウス暦の12月17日から12月23日、ここでサトゥルナリア祭が祝われていた。建設時期 紀元前501年、建設者 タルクィニウス・スペルブス。
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【ネロ、本当に暴君か】タキトゥス「年代記」「同時代史」「ゲルマニア」、スエトニウス、カッシウス・ディオ、著名な歴史家の記述によると必ずしも暴君ではない。暴君の人物像は、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、これが映画化され、悪役イメージが定着した。
【名君、皇帝ネロ】第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られる。母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれた。ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった。
【ネロ】「皇帝が女神の神殿に足を運び、果てしなき黄金の輝きを発した」64年にポンペイを訪れたネロをたたえる詩編。ネロの2人目の妻ポッパイア・アビナはポンペイの出身で、ネロもしばしばこの街を訪れた。ネロの死から11年後の79年、後方にそびえる火山ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイは火山灰の下に埋もれた。
【ハドリアヌス帝、本当に名君か、恐怖政治、残虐にして寛容】
【マルクス=アウレリウス=アントニヌス】(在位161~180)軍人、政治家であるとともにストア派の哲学を学び自ら『自省録』を著す。哲学者としてもすぐれていたが、パルティアとの戦争に苦しみ、さらにゲルマン人の大規模な侵入が始まり苦戦が続く中、ウィンドボナ付近で病没。実子のコンモドゥスが帝位を継いだが悪政を行い、殺害される。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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五賢帝時代、ネルウァ(在位96~98)、トラヤヌス(在位98~117)、ハドリアヌス(在位117~138)、アントニヌス=ピウス(在位138~161)、マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)。帝位は、前帝の養子が元老院の承認を受けて継承された。
【ハドリアヌス帝、恐怖政治、残虐にして寛容】皇帝ドミティアヌスが暗殺されて【ネルヴァ】が皇帝になった。そしてそのネルヴァも即位後1年ほどで死す。次の皇帝はハドリアヌスの後見人である【皇帝トラヤヌス】25歳になったハドリアヌスはクルスス・ホノルム(名誉あるコース)と言われるクワエストル(会計検査官)に当選しその後はトラヤヌスに従ってダキア戦争に従軍、ここで十分に戦功を挙げプエラトル(法務官)に当選、ここで属州総督の就任資格を得るとパンノニアインフェリオール(遠パンノニア属州)総督の地位へと昇り詰める。この時31歳【ハドリアヌスの皇帝就任】にはトラヤヌスの皇后であるプロティナの意向が強く働いた。【トラヤヌス暗殺事件】トラヤヌスの死に目にあったのは4人。妻であるプロティナ、姪のマティディア(ハドリアヌスの妻の母)、近衛軍団長のアティアヌス(ハドリアヌスの後見人)、皇帝付きの医師。トラヤヌスの側近であった4人は殺害された。ハドリアヌスは近衛隊長であるアティアヌスが勝手にやったと弁明した。「ハドリアヌスは残虐にして寛容、厳格であるかと思えば愛想が良く、一貫していないことだけが一貫していた」と歴史家は語る。【暴君、ハドリアヌス】はユダヤ教徒を徹底的に弾圧した。永遠の都エルサレムにはユダヤ教徒は立ち入り禁止にし、殺害されたユダヤ教徒は50万人。48歳のローマ皇帝ハドリアヌスが15歳ぐらいのギリシアの少年アンティノウスを愛した。アンティノウスがエジプトで溺死した時には人目をはばからず女性のように泣いたという。溺れた川のふもとにアンティノポリスという都市を作る。【ローマ法大全】ハドリアヌスはユスティニアヌスの600年ぐらい前にローマ法を大全化した。【パンテオン】ハドリアヌス帝の時代に再建された。建設したのはアウグストゥスの片腕であるアグリッパだが、現在の形に再建したのがハドリアヌス。【恐怖政治、ハドリアヌス】はティベリウスほどの恐怖政治はではないが、トラヤヌスの4人の腹心たちと後継者問題においては粛正を断行している。フスクスに死を強要した理由は不明である。アエリウスの代わりに後継者としての白羽の矢が立っていたのがマルクス・アンニウス・ヴェルスという16歳の少年だった。この少年が後の【マルクス・アウレリウス・アントニヌス】。ただ皇帝になるには若すぎたので、ハドリアヌスはアントニウスという50歳ぐらいの男を呼び、アンニウスを養子にすることを条件に自分の養子にすることを告げた。このアントニウスこそが5賢帝の4人目【アントニウス・ピウス】である。南川高志『ローマ五賢帝』1998、2014 講談社学術文庫p.222-224
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【たセプティミウス=セウェルス帝】コンモドゥスが192年に暗殺された後、2~3年の混乱の後に、軍事政権。146年生まれ(在位193~211)65歳で死す。
【暴君、カラカラ帝、享年29】ローマ帝国の五賢帝時代に続き、セウェルス朝を始めたセプティミウス=セウェルスの子で帝位を継承。在位211~217年。本名はマルクス=アウレリウス=アントニヌス(五賢帝の最後の皇帝と同じ名前だが関係はない)で、父の遠征先の属州ガリアのリヨンで生まれた。いつも着用していたガリア風の長い上着のことをカラカラといったので、それが彼の呼び名になった。ローマ市民権を拡大したアントニヌス勅令の制定や公共浴場の建設等で知られる、歴代のローマ皇帝の中でも暴君の一人とされ、パルティア遠征中に部下の近衛兵に殺害された。新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』2000講談社選書メチエp.184
【近衛隊長マクリヌス】は現場に駆けつけ悲嘆の素振りを見せる。カラカラには世継ぎがいないので急ぎ次の皇帝を選出しなければならない、パルティアの大軍が迫っていた。マクリヌスは兵士の推戴を受けて即位した。1年後にはカラカラの遺児と称する【14歳の少年エラガバルス】を担いだ一派が挙兵して帝位を奪った。【皇帝エラガバルス】(204年~222年 (在位218年6月8日~222年3月11日)のもとで東方的な密儀宗教がローマに持ち込まれ、宮廷は淫乱な空気に満ちる。男性社会であるローマで女性を登用するなど、進歩主義的。アントナン・アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』(1934年)。近衛兵は222年、皇帝を殺害、屍体をティベル川に投げ込み、その従兄弟【アレクサンデル・セウェルス】を担ぎ出した。このアレクサンデルも235年に軍隊によって殺害。
【軍人皇帝の時代、235年から284年まで50年、皇帝が70人輩出】財政危機、経済・政治危機
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【コンスタンティヌス大帝】4世紀初頭のローマ帝国皇帝。帝国の分裂、混乱を克服し専制君主政を確立し、313年にキリスト教を公認。330年コンスタンティノープルに遷都し、強大な帝国を再建したが、その死後、再び帝国は分裂。
【ユスティニアヌス帝、異教徒迫害】529年にアテネのアカデメイアがユスティニアヌスの命令によって国家の管理下に置かれた。このヘレニズム教育機関の事実上の閉鎖がおそらく最も有名な事件であろう。多神教は積極的に弾圧された。小アジアだけで7万人の多神教徒が改宗したとエフェソスのヨハネスは述べる。
【永遠の都ローマ、皇帝の死、藝術家の死】ユリウス・カエサル55歳、アウグストゥス帝51歳、ネロ帝31歳、ハドリアヌス帝62歳、コンスタンティヌス大帝60歳、ユスティニアヌス帝81歳、ミケランジェロ88歳。シクストゥス4世70歳。最高権力者が手に入れられない4つの秘宝がある。
【コロッセオ、フラヴィウスの闘技場】ネロ帝の巨像(コロッスス)があった。ネロポリス
【カピトリーノ美術館】「永遠の都」と呼ばれるローマ、世界でもっとも古い美術館の一つ、ローマ・カピトリーノ美術館。カピトリーノ美術館が建つカピトリーノの丘は、古代には最高神を祀る神殿が建設、現在はローマ市庁舎が位置する、ローマの歴史と文化の中心地である。【カピトリーノ美術館の歴史】1471年ルネサンス時代の教皇シクストゥス4世がローマ市民に4点の古代彫刻を寄贈したことに始まり、以後、古代遺物やヴァチカンに由来する彫刻、ローマの名家からもたらされた絵画などを収蔵してきた。
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参考文献
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
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宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長
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ポンペイ・・・埋もれたヘレニズム文化、「アレクサンドロス大王のモザイク」、豹を抱くディオニュソス
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「永遠の都ローマ展」・・・カピトリーノのヴィーナス
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「永遠の都ローマ」2・・・フォロ・ロマーノ
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永遠の都ローマ展、東京都美術館、9月16日(土)~ 12月10日(日)
福岡市美術館にも巡回予定、福岡市美術館 2024年1月5日(金)~ 3月10日(日)
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