虫めづる日本の人々・・・喜多川歌麿「夏姿美人図」鳴かぬ蛍が身を焦がす
『源氏物語』『伊勢物語』において、鈴虫、松虫などの鳴く虫や蛍、鳴く虫や蛍を愛でる文化、虫撰、宮中で始まった。元時代12世紀、草虫図は、立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。
江戸時代、蛍狩りが流行した。恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす。喜多川歌麿「夏姿美人図」、恋人と一緒に蛍狩りに行く女が化粧し身を整えている。鳥文斎栄之「蛍狩り美人図」、松本交山「百蝶図」谷文晁と酒井抱一と交友した画人。伊藤若冲「菜蟲譜」(1790)には、博物学者の眼がある。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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嵯峨天皇『舞蝶』『文華秀麗集』
嵯峨天皇は、蝶が舞う姿を詩に書いた。「数群の胡蝶空に飛び乱れ、無心にして処々春風に舞う、本より弦管の響に因らず、雑色粉々なり花樹の中、数群の胡蝶空に飛び乱れ」嵯峨天皇と空海
嵯峨天皇(786-842)と空海(774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は知的交友があった。仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えである。
平安初期。嵯峨天皇時代『文華秀麗集』に蝶の漢詩が出てくる。蝶の群舞を漢詩にした。音楽の響きなしに自ずから舞っている、現実の蝶が野原に舞っている姿を詠んだ。舞楽の「胡蝶」の光景から作られたものではない。
嵯峨天皇『舞蝶』『文華秀麗集』
数群胡蝶飛乱空(数群の胡蝶空に飛び乱れ)雑色紛紛花樹中(雑色粉々なり花樹の中)
本自還元不因響(本自弦管の響の因らず)無心処々舞春風(無心にして処々春風に舞う)
仏教は智慧と慈悲によって生けるものの魂の苦を救う教えであり、儒教は学問によって立身出世と子孫繁栄を成就する吉祥を祈る教えである。
【空海『聾瞽指帰』(797)】兎角公の屋敷で兎角公の甥蛭牙公子に放蕩青年を翻意、亀毛先生は儒教学問を学び立身出世することを教え、虚亡隠子は道教の不老長寿を教え、空海の化身である仮名乞児は仏教の智慧と慈悲を教える。空海は大学寮明経科退学、官僚の立身出世の道を辞めた理由。
「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることは【立身出世、子孫繁栄】などの吉祥を表す」子曰く、小子、何んぞ夫の詩を學ぶこと莫きや。詩は以て興す可く、以て觀る可く、以て群す可く、以て怨む可く。これを邇くして父に事え、これを遠くして君に事え。多く鳥獸草木之名を識る。(『論語』陽貨・第17-9)
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【『万葉集』の和歌には蝶の歌はない】漢詩には表れる。夜あかりに集まる蛾のほうは、「ひひる」「火取り虫」として記録されている。『万葉集』には無かった蝶。
【八代集(古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集、新古今集にも「蝶」は登場しない)
『古今集』にわずかに「蝶」が詠まれている。思い惑う魂の象徴としての蝶、恋しい人に見せてはいけないものとしての蝶。
「散りぬれば後はあくたになる花を 思い知らずもまどう蝶かな」僧正遍照
「こてふ(胡蝶)にも似たるものかな花薄 恋しき人に見すべかりけり」紀貫之
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草虫図は中国で成立した画題。画中には多種多様な草花と虫が描かれており、それが立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。また、『論語』の中に孔子が弟子・陽貨に詩を学ぶ意義について説いた一節があり「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることが出来る」(『論語』陽貨・第17-9)。
『歴代名画記』によれば、中国の六朝時代(3~6世紀)には虫が絵の主題として取り上げられ、唐時代(7~10世紀)には草虫を描く者があらわれた。
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展示作品の一部
きりぎりす絵巻(部分) 住吉如慶 二巻のうち 江戸時代 17世紀 細見美術館
白綸子地梅に熨斗蝶模様打掛 一領 江戸時代 19世紀 サントリー美術館 【展示期間:8/23~9/18】、
画本虫撰、喜多川歌麿 二冊のうち下 天明8年(1788) 千葉市美術館 【全期間展示】
夏姿美人図 喜多川歌麿 一幅 寛政6~7年(1794~95)頃 遠山記念館【展示期間:7/22~8/21】、
重要文化財 草虫図 双幅 元時代 14世紀 東京国立博物館 Image: TNM Image Archives 【展示期間:8/23~9/18】
重要文化財「菜蟲譜」伊藤若冲 一巻 寛政2年(1790)頃 佐野市立吉澤記念美術館 【展示期間:8/9~9/18】
鳥文斎栄之「蛍狩り美人図」18世紀
甜瓜図 土田麦僊 一幅 昭和6年(1931)埼玉県立近代美術館
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参考文献
「虫めづる日本の人々」サントリー美術館2023
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
速水御舟『炎舞』『粧蛾舞戯』『名樹散椿』、山種美術館・・・舞う生命と炎と闇
虫めづる日本の人々・・・喜多川歌麿「夏姿美人図」鳴かぬ蛍が身を焦がす
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第一章:虫めづる国にようこそ
現代でも多くの人々が知る『源氏物語』『伊勢物語』において、鈴虫、松虫などの鳴く虫や蛍は、登場人物の心情を表すといった重要な役割を果たしています。また、嵯峨野周辺を散策して鳴く虫を捕まえ、宮中に献上する虫撰も行われるようになりました。宮廷を中心に鳴く虫や蛍を愛でる文化は発展し、虫聴と蛍狩が日本の歳時記となる礎が築かれました。
第二章:生活の道具を彩る虫たち
酒器、染織品、簪などの身近な道具には、蝶、蜻蛉、鈴虫、蜘蛛など様々な虫たちがあしらわれてきました。
2匹の蝶が仲睦まじく飛ぶ様子が夫婦円満を意味する文様となるなど、虫の行動と当時の人々の願いが結びつくこともありました。
第三章:草と虫の楽園―草虫図の受容について―
草虫図は中国で成立した画題。画中には多種多様な草花と虫が描かれており、それぞれが立身出世、子孫繁栄などの吉祥を表す。また、『論語』の中に孔子が弟子・陽貨に詩を学ぶ意義について説いた一節があり、そこでは「詩を学ぶことで鳥、獣、草木の名前を多く知ることが出来る」(『論語』陽貨・第17)。
中国最初の本格的な画史書である『歴代名画記』によれば、中国の六朝時代(3~6世紀)には虫が絵の主題として取り上げられ、唐時代(7~10世紀)には草虫を描く者があらわれたようです。北宋時代末頃には草虫図が画題として確立し、南宋時代(12~13世紀頃)は毘陵(現:江蘇省常州市)でより盛んに描かれるようになり、草虫図はこの地域の名産品となりました。以降、清時代に至るまで描き継がれており、草虫図という画題が非常に人気を集めた様子がうかがわれます。
また、中国で制作された草虫図は海を渡って、日本へと伝来し、将軍や大名など時の権力者たちに愛蔵されました。そして、日本の絵師たちも草虫図を学び、影響を受けました。草虫図が中国で画題として確立し、日本で愛好された様子をご紹介します。
第四章:虫と暮らす江戸の人々
江戸時代中頃に入ると野山へと出かけ虫の音に耳を澄ませる虫聴、夕暮れ時に蛍を追う蛍狩は、市井の人々に親しまれる風雅な娯楽となりました。江戸の道灌山や根岸が虫聴や蛍狩の名所として知られ、老若男女がこぞって出かけ、思い思いに楽しんでいる様子が当時の浮世絵や版本に表されています。また、市中には籠に蛍や鳴く虫を入れて売り歩く虫売りがあらわれ、夏の風物詩となりました。当時は、お盆の頃に捕らえた生き物を放し供養する放生会のために購入されることもあったようです。虫を入れる籠には趣向が凝らされており、虫の音を楽しみ愛玩していた様子を感じることができます。
本章では、蛍狩、虫聴が娯楽として広まり、やがて江戸の年中行事として息づいていく様子をご紹介します。
第五章:展開する江戸時代の草虫図―見つめる、知る、喜び―
江戸時代は本草学や、書物に登場する動植物の名前を同定する名物学が進展し、西洋の科学技術が流入した。
18世紀以降には、飛躍的な進歩がみられます。第八代将軍徳川吉宗が洋書の輸入制限を緩和し、全国的な動植物の調査を行いました。この政策の影響もあり、大名、旗本が中心となり、優れた博物図譜が制作されました。
『論語』に由来する「多くの生き物を知ることを奨励する」思想は受け継がれ、より多くの虫たちが画中に登場するようになりました。
喜多川歌麿『画本虫撰』のように優れた狂歌絵本を生み出しました。
中国から伝来した草虫図も尊重され、研究が続けられました。西洋の技術の流入、本草学などの学問の発展、古画学習、文芸などが影響しあい、草虫図という枠組みを越えた多彩な虫の絵が江戸時代に制作されました。伊藤若冲、酒井抱一、喜多川歌麿、葛飾北斎などこの時代を代表する絵師たちが虫をモチーフとして取り上げ、活況を呈した江戸時代の草虫図をご覧ください。
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虫めづる日本の人々、サントリー美術館、7/22(土)~9/18(月・祝)
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