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2022年11月30日 (水)

京都・智積院の名宝・・・密教美術と長谷川等伯『楓図』久蔵『桜図』

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』299回
空海『聾瞽指帰』『秘密曼荼羅十住心論』から1200年、空海の思想が蘇る。時を超えて、聖なる知恵は邪知暴虐と戦い、天人の敵を滅ぼす。
8世紀末、空海と嵯峨天皇の時代から、京都は学問と藝術の都であり続け、足利義満、義政、16世紀、織田信長、狩野永徳、長谷川等伯、俵屋宗達、本阿弥光悦、18世紀、尾形光琳、伊藤若冲、円山応挙の時代まで、1000年間、文化の中心だった。
【桜開花の京都、庭園めぐり】桜開花の密教寺院に宿泊し、桜開花の京都、京都の庭園めぐりした日々を思い出す。龍安寺、銀閣寺、金閣寺、大徳寺、龍光院、仁和寺、醍醐寺、東寺、妙心寺、智積院、東福寺。醍醐寺三宝院の庭に佇むと、安土桃山時代の桜吹雪が蘇る。
【『理趣経』第三段】「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて受持し読誦することあらば、たとひ三界の一切の有情を害すも悪趣に堕せず」
空海【聖なる者は悪を滅ぼす】【『理趣経』「第三段」】の教説に関して不空訳『理趣釈』において三界の衆生とは三毒の煩悩と注釈されているが、当該注釈の方向性は空海にも継承され、空海は三界の衆生を害することとは三界の無明を断じることに他ならないとしている。*三毒。貪欲・瞋恚・愚痴。貪瞋痴。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【狩野永徳の死、鶴松の死、久蔵の死】天正18年9月14日永徳の急死によって、等伯に突然の好機が訪れる。秀吉の3歳で亡くなった愛児、鶴松の菩提寺を飾る絵の注文が舞い込む。完成させた絵「楓図」。この傑作により等伯は秀吉に認められる。【長谷川久蔵の死】久蔵が26才で急死。久蔵の死の悲しみが『松林図屏風』を作らせる。久蔵(1568~1593)は「櫻図屏風」を描いて93年26才で死に、『松林図屏風』(1594,95?)完成。
【狩野永徳の死】長谷川等伯の長男久蔵が工作員を雇い、狩野派の首領、四十八才の狩野永徳を毒殺させた。1590年、狩野永徳の急死により、等伯に好機が回ってくる。秀吉の子、鶴松が3歳にして亡くなり菩提寺・祥雲寺(智積院)を建立。襖絵制作の大仕事が回ってくる。等伯『楓図』久蔵『桜図』。
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■長谷川等伯・・・苦難の生涯、72歳で死す
安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539~1610)。等伯は能登の国七尾で生まれ、仏絵師となる。元亀2年(1571年)頃、養父母の死を契機に息子久蔵を連れて上洛。18年間、雌伏の歳月を生きる。天正17年(1589)51才で、大徳寺三玄院襖絵「山水図」(現圓徳院蔵)、大徳寺三門楼上の壁画制作。妻妙清を迎える。狩野派の妨害工作に遭う。最大のライヴァル狩野永徳(1543~90)は1590年48才で過労で急死、支援者・千利休(1522~1591)は91年に死に、息子久蔵(1568~1593)は「櫻図襖」を描いて93年26才で死に、秀吉(1536/37~1598)は98年に死ぬ。等伯は1610年に徳川家康に招かれ江戸に着いて2日後72才で死ぬ。かくて狩野派は御用絵師として江戸末期まで隆盛し、長谷川派は町絵師として生きることになる。
人生は苦難の連続で残酷だが、乗り越える。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「没後400年、長谷川等伯」図録、東京国立博物館、2010
長谷川等伯展・・・荒寥たる自然と生命の美
東寺『金剛界曼荼羅』『胎蔵界曼荼羅』西院本・・・知恵と無明の戦い、生命の根源
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
密教経典『理趣経』・・・空海と金剛界曼荼羅
京都・智積院の名宝・・・密教美術と長谷川等伯『楓図』久蔵『桜図』
https://bit.ly/3VzQ54h
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展示作品の一部
長谷川等伯、国宝「楓図」六面のうち四面 桃山時代 16世紀 智積院
長谷川久蔵、「桜図」五面のうち四面 桃山時代 16世紀 智積院
国宝 張即之「金剛経」(部分) 一帖 南宋時代 1253年(宝祐元年) 智積院
重要文化財「瀑布図(滝図)」一幅 宋時代 13世紀 智積院
重要文化財「孔雀明王像」鎌倉時代 14世紀
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京都・東山に建つ智積院は、弘法大師空海(774~835)から始まる真言宗智山派の総本山で、全国に末寺約3,000を擁します。高野山中興の祖といわれる興教大師覚鑁(かくばん)(1095~1143)の法統を受け継ぎ、後に隆盛を極めた紀伊国根来寺(ねごろじ)山内で室町時代中期に創建されました。
天正年間には豊臣秀吉政権の下で一旦衰退しますが、その後、徳川家康の寄進を受け、江戸時代初期には現在の地に再興を遂げました。この地には元々、秀吉の夭折した息子・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建てられた祥雲寺があり、長谷川等伯(1539~1610)と息子・久蔵(1568~93)が描いた名高い金碧障壁画群も、智積院による手厚い保護を受けて今日まで大切に守り伝えられてきました。
本展は、国宝「楓図」「桜図」など、誰もが知る障壁画群を初めて寺外で同時公開し、桃山時代の絢爛豪華な抒情美にふれる貴重な機会となります。また、国宝「金剛経」や重要文化財「孔雀明王像」の他、仏堂を荘厳(しょうごん)する仏教美術の貴重な優品や、近代京都画壇を代表する堂本印象(1891~1975)による「婦女喫茶図」に至るまで、智積院が秘蔵する多彩な名宝を一堂に公開します。
――
第一章:空海から智積院へ
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、平安時代9世紀初めに紀伊国(現在の和歌山県)で真言密教の根本道場となる高野山を開創しました。その後、高野山に入山した興教大師覚鑁は、鳥羽上皇(1103~56)の帰依を受けて、荒廃していた高野山を復興し、大治5年(1130)に上皇の勅願寺として大伝法院を開きます。この大伝法院は、のちに同所で研鑽を積んだ頼瑜僧正(1226~1304)によって、覚鑁が高野山麓に開いた円明寺・神宮寺(後の根来寺)へ移され、その法統が智積院にも受け継がれていきました。
本章では、空海や覚鑁の優れた肖像や、智積院中興の祖師たちにまつわる貴重な品々によって、智積院の歴史を概観します。また、「智積院靈寶并袈裟世具目録」(宝永2年(1705)作成 以下、「目録」)などの重要資料を寺外初公開することで、「智積院の名宝」が形成されてきた背景をご紹介します。
第一章:空海から智積院へ
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、平安時代9世紀初めに紀伊国(現在の和歌山県)で真言密教の根本道場となる高野山を開創しました。その後、高野山に入山した興教大師覚鑁は、鳥羽上皇(1103~56)の帰依を受けて、荒廃していた高野山を復興し、大治5年(1130)に上皇の勅願寺として大伝法院を開きます。この大伝法院は、のちに同所で研鑽を積んだ頼瑜僧正(1226~1304)によって、覚鑁が高野山麓に開いた円明寺・神宮寺(後の根来寺)へ移され、その法統が智積院にも受け継がれていきました。
本章では、空海や覚鑁の優れた肖像や、智積院中興の祖師たちにまつわる貴重な品々によって、智積院の歴史を概観します。また、「智積院靈寶并袈裟世具目録」(宝永2年(1705)作成 以下、「目録」)などの重要資料を寺外初公開することで、「智積院の名宝」が形成されてきた背景をご紹介します。
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弘法大師、空海ご誕生1250年、
京都・智積院の名宝、サントリー美術館
開催期間:2022年11月30日(水)〜2023年1月22日(日)

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