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2022年3月

2022年3月27日 (日)

「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』275回

桜の森の開花が始まり、春宵一刻、嵯峨天皇の詩を想う。美女の運命、藝術家の運命、儚く美しき美女、傾国の美女、美女の歴史に秘められた奇譚を想う。樋口一葉は「このよほろびざる限りわが詩は人のいのちとなりぬべき」と書き24歳で死す。鏑木清方は泉鏡花『一葉女史の墓』を描いた。
【嵯峨天皇は曲水流觴の宴を催した】青春が半ばを過ぎた頃、何がせき立てるのか、柔らかな風がしきりに吹いて、花がせかされるように咲く。芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。私は文雄に呼びかけて詩人たちは花を愛でるこの宴にやって来た。『神泉苑花宴賦落花篇』「凌雲集」弘仁三年(812)二月十二日
【嵯峨天皇、神泉苑花宴賦落花篇「凌雲集」】春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、点珠顏綴、駘鬟(たいかん)として吹く。人懐の中、嬌態閑(しず)かなり。朝に花を攀(よ)じり、暮に花を折る。花を攀じる力尽き、衣帶ゆるく。未だ芬芳(ふんぽう)を厭はず
【鏑木清方、明治後期の世界への想い、いくさより美人画】
鏑木清方は、挿絵画家として出発した。鏑木清方は1878(明治11)年、東京・神田に生まれた。幼い頃から文芸に親しみ、13歳で歌川国芳の孫弟子、浮世絵師・日本画家の水野年方に入門。挿絵画家としての活躍を経て、肉筆画を手がけるようになった。清方没後50年、美人画だけでなく、市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした「ほんとうの清方芸術」を紹介する展覧会「没後50年 鏑木清方展」。鏑木清方は本格的に日本画を手掛ける以前、小説の口絵や挿絵で人気を博していた。美人画、挿絵、卓上藝術、清方が追求した世界は何か。美人画家として「西の松園、東の清方」と並び称された鏑木清方だが、本人は「需められて画く場合いはゆる美人画が多いけれども、自分の興味を置くところは生活にある。それも中層以下の階級の生活に最も惹かれる」と言った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【鏑木清方の言葉】「明治は幸せな時代でした。いくさは描けませんよ。意地になって美人画を描いていました。微かなる反抗でしょうけれども。嫌いなものは描けないですよ。」と生前ラジオ番組に出演した時の鏑木清方の肉声あり。「願わくば日常生活に美術の光がさしこんで暗い生活をも明るくし、息つまるやうな生活に換気窓ともなり、人の心に柔らぎ寛ぎを与える親しい友となり得たい」鏑木清方の文章あり。
【浮世絵と美人画】菱川師宣から始まる浮世絵は、錦絵創始期の第一人者鈴木春信、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画、八頭身美人の江戸のヴィーナスと呼ばれる鳥居清長、青楼の絵師と謳われた喜多川歌麿へと展開した、5人の絵師。美人画の歴史である。美人画の歴史は、菱川師宣、喜多川歌麿が最大の源泉である。勝川春章、鳥文斎栄之、渓斎栄泉を師とする絵師もいる。葛飾北斎は勝川春章を師とした。
日本の美人画は、花柳界の女、江戸の青楼の美女、富裕層の妾妻、歴史物語の美女を描いてきた。庶民の娘、市井の女、女学生を描いてきたのは、明治以後か。
【表面的な美と内面的な美】日本の美人画は、表面的な美を描いているが、内面的な美を描いている例は少ない。内面的な美を描いている美人画は、だれか。上村松園「序の舞」は内面の美を表現しているのか。
【美人画の名人、鏑木清方、かをりの高い絵】鏑木清方は「かをりの高い絵を作りたい。作りたいより自ら生まれる絵を」鏑木清方「かをり」昭和9年1月。【
上村松園、伊藤深水】上村松園は自ら描く美人画を「艶かしくなく高尚に描いてみたい」「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところ」と言っていた。三人の美人画家。誰が好みか。代表作は何か。作家の特徴は何か。
【苦悩する美女、ルネサンス、象徴派】苦悩する美女を描く画家として、19世紀、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ギュスターブ・モローがロマン主義、象徴派の美を極めている。15-16世紀、レオナルド『レダ』『糸巻きの聖母』、ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『マニフィカートの聖母』『ヴィーナスとマルス』『春』がルネサンスの美を極めている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【藝術と魔術】藝術は悲しみと苦しみから生まれる。絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ。敵との闘争における武器なのだ。いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。パブロ・ピカソ
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【佐藤康宏氏、昭和の鳥居清長】「美人画に関しては私は京都・大阪びいきで、恒富、神草、楠音らに比して清方をさほど好みません。それでも屛風絵の「遊女」(横浜美術館)など、見直しました。「築地明石町」は、いうまでもなく飛び抜けていいのですよね(三幅対に仕立てていますが、正直いって脇幅はなくてもいいです)。かつて彼を「昭和の清長」と称したことがありますが、実際に清長の錦絵を意識していなかったでしょうか。これを別にすれば、清方が「卓上藝術」と呼んだ小画面の作品に最も本領が発揮されている、というのが以前からの私の評価です。2022年3月24日
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展示作品の一部
鏑木清方、秋宵、1903、鎌倉市鏑木清方記念美術館
鏑木清方、嫁ぐ人、1907、鏑木清方記念美術館
鏑木清方、曲亭馬琴、1907、鎌倉市鏑木清方記念美術館
明治40年(1907)絹本着色・額116.3 × 172.8cm、第1回文部省美術展覧会 選外
目の見えない滝沢馬琴の執筆活動を娘が支えている図である。
江戸の戯作者・曲亭馬琴が失明した後に、息子の嫁・路に一字一句文字を教え、口述筆記により『南総里見八犬伝』を書き継いでいる場面です。このエピソードは『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の「あとがき」にあたる「回外剰筆(かいがいじょうひつ)」に記されています。清方は、失明した馬琴でも、馬琴を支えた路でもなく、「回外剰筆」に記された、口述筆記による馬琴と路のエピソード(史実)を視覚化しました。その意味で、西洋における物語る絵画としての「歴史画」に近い作品であるといえます。本作で清方が試みたのは、かつて史実のなかに生きた人間としての馬琴と路の生々しいすがた、実在した人間の生き様そのもの。
鏑木清方、築地明石町1927(昭和2)年、東京国立近代美術館
近代美人画を代表する絵の一つ。1927年の第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した。清方にとっては思い出深い明治30年代半ばの明石町の光景と合わせ、物思う表情で振り返る女性に明治回顧の心情を託している。時代もちょうど関東大震災と昭和改元を経て、明治ブームが起きていた。
新富町、1930、東京国立近代美術館
浜町河岸、1930、東京国立近代美術館
鏑木清方、京鹿子娘道成寺、1928
有名な舞踊「京鹿子娘道成寺」と「鷺娘」の一場面。清姫の化身である白拍子と鷺の化身の鷺娘が妄執にとらわれる姿を、片やしっとりと、片や激しく表現している。
鏑木清方、一葉女子の墓、1902、鎌倉市鏑木清方記念美術館
泉鏡花の『一葉の墓』を読んでその墓を訪ねた時、清方は線香の煙の向こうに『たけくらべ』のヒロイン・美登利の幻を見たと言う。その体験に想を得て描かれた。
小説家と挿絵画家、1951
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参考文献
没後50年、鏑木清方展図録、2022、東京国立近代美術館
鶴見香織「鏑木清方 生活を描いた画家」2022
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
https://bit.ly/35ywoAa
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
https://bit.ly/34AB3Bz
清方/Kiyokata ノスタルジア―鏑木清方の美の世界・・・美女の姿態
https://bit.ly/3CNj1Oi
「あやしい絵展」東京国立近代美術館
https://bit.ly/3w3onRE 
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
https://bit.ly/30JCdd2
東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
https://bit.ly/394A5zg
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
https://bit.ly/2GXmVru
「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
https://bit.ly/2Coy0jB
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「祝福されし乙女」・・・藝術家と運命との戦い、ロセッティ最後の絵画
https://bit.ly/2UoqUWz
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」パナソニック汐留美術館・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
鏑木清方記念美術館
http://www.kamakura-arts.or.jp/kaburaki/
「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
https://bit.ly/2UUizJw
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
https://bit.ly/3DgzoTJ

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鏑木清方(1878-1972)
鏑木清方(1878-1972)の代表作として知られ、長きにわたり所在不明だった《築地明石町》(1927年)と、合わせて三部作となる《新富町》《浜町河岸》(どちらも1930年)は、2018年に再発見され、翌年に当館のコレクションに加わりました。この三部作をはじめとする109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。
浮世絵系の挿絵画家からスタートした清方は、その出自を常に意識しながら、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けました。本展覧会では、そうした清方の関心の「変わらなさ」に注目し、いくつかのテーマに分けて作品を並列的に紹介してゆきます。関東大震災と太平洋戦争を経て、人々の生活も心情も変わっていくなか、あえて不変を貫いた清方の信念と作品は、震災を経験しコロナ禍にあえぐいまの私たちに強く響くことでしょう。
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/kiyokata
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『没後50年 鏑木清方展』東京国立近代美術館3月18日(金)~5月8日(日)
京都国立近代美術館、5月27日~7月10日

2022年3月12日 (土)

織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』274回

織田信長の長女、五徳は、波乱の人生を生き78歳で死す。シェイクスピア復讐悲劇のような人生。織田信長は、天の理念を探求した。信長は、何を愛し、何のために戦い、何故死んだのか。信長に五徳と名付けられた長女、五徳は、仁義礼智信である。徳姫は何と戦ったのか。徳姫と浅井三姉妹江は、女織田弾正忠と呼ばれる。
濃姫、帰蝶は、織田信忠、信雄、五徳を育てた養母である。小説家、諸田玲子氏『帰蝶』は帰蝶の目から見た「織田信長、五徳、明智光秀、武井夕庵、立入宗継」を描いた。いつか私は五徳の目から見た、織田信長、徳川家康、織田信雄、豊臣秀吉、明智光秀、太田牛一、「戦国の美女 愛と美と復讐の世界」を描きたい。
――
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、知恵をもって邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方にイデアと美を探求する。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1
【織田信長の長女、五徳、波乱の人生】
【織田信長、長女、徳姫、五徳】絶世の美女、信長最愛の美女、生駒吉乃の娘。シェイクスピア復讐悲劇のような人生。弘治三年、信長、弟信勝に復讐、正義のための戦い。天正七年、信康と築山殿に復讐して正義を成就する徳姫。築山殿は信長と家康の共通の敵、今川氏。
20歳で家康に見送られて安土城に旅立つ。天正十年、本能寺の変、安土城落城。徳姫、京都へ。78歳まで生きる。長女の登久姫は小笠原秀政室、次女の熊姫は本多忠政室。
【絶世の美女、織田信長の長女、五徳】永禄2(1559) 10月清州城で生まれる。絶世の美女、生駒吉乃の娘。永禄3年(1560)桶狭間の戦い。織田徳川同盟の絆として、永禄10(1567)年9歳で三河国岡崎城主の信康に嫁ぐ。小牧山城から岡崎城に行く。築山殿も岡崎城に同居。家康は浜松城にあって父子共に武田勢と攻防を繰り返した。【徳姫、十二ヶ条の訴状】築山殿と信康が武田氏に内通したと信長に訴えた。夫の不行跡を信長に告発。
徳姫は夫信康と築山殿を信長に告発。信長は伺候した家康の家臣酒井忠次に確かめ家康に命じて天正7(1579)年信康と築山殿を自刃させた。
【徳姫、安土城への旅立ち】
【徳姫21歳、安土城、本能寺の変、信雄、秀吉、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦い】
【信康自刃事件後】徳姫は天正8(1580)年の2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰される。2人の娘達、福子、国子は家康の元に残す。近江八幡市あたりに居住、化粧料田が近江長命寺に設定。天正10年(1582)【本能寺の変】父・長兄ともに死去する。次兄の織田信雄に保護されたが【小牧・長久手の戦い】後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた(『顕如上人貝塚御座所日記』)。
天正18(1590)年信雄が秀吉によって改易されたため、生駒氏の尾張国小折に移り住んだ。「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らか、その後すぐにまた京都に居住する、徳姫の処遇は秀吉の支配下にあった。
【関ヶ原の戦い】後、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉から1761石の所領を与えられた。その後は京都に隠棲した[1]。寛永7年(1630年)、蜂須賀忠英と正室繁姫(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、乳母の選定について相談されている。
徳姫、永禄2(1559) 10月12日生まれ寛永(1636)13年1月10日死去。78歳。通称は五徳、岡崎殿、見星院。<参考文献>『人物日本の女性史』8巻
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2
【信康自刃の原因、父子の確執】
【織田信長、徳姫、壮絶な復讐、十二ヶ条の訴状】稲生の戦い、弟信勝の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。弘治3年、信勝2度目の謀反、清州城北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。天正7年、信長の長女徳姫、十二ヶ条の訴状。信康切腹、築山殿を成敗。19歳。五徳=仁義礼智信。
【信康自刃の原因、父子の確執】永禄10(1567)年、信康9歳は信長の娘、徳姫と結婚、元亀元(1570)年、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主岡崎城の城主に。信康切腹通説の元、幕府旗本、大久保彦左衛門『三河物語』。徳姫は信長に信康の乱暴な言動を告発する手紙を書き、酒井忠次に託した。忠次が信康をかばわなかったため、信長は信康に切腹を命じた。信康21歳。家康と信康が対立。熱田伸道『信康自刃の真相』。
【家康、信康を二俣城で切腹、築山殿、佐鳴湖畔で殺害、太刀洗の池、天正7年】『武功夜話』。天正(1576)年、徳姫18歳の時、夫信康との間に長女福子を産んだ。翌年には次女国子が誕生。
参考文献、大久保彦左衛門『三河物語』『武功夜話』、熱田伸道『信康自刃の真相』
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3
【織田信長、天の理念】【五徳】仁義礼智信、『論語』『孟子』。徳姫、永禄2年生まれ【桶狭間の戦い、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり】永禄3年【麒麟の城、小牧山城】永禄6年【天下布武、岐阜城】武の七徳『書経』永禄10年【第六天魔王、欲界の他家自在天】元亀4年【天正『老子』】天正元年7月【天下一の名人、本因坊算砂】天正6年【安土城、天主】太田牛一『信長公記』『安土記』天正4年⁻10年
【『理趣経』の教主、欲界第六天】『理趣経』の教主は、大日如来であり、その場所は、欲界、第六天、他化自在天である。三界(無色界、色界、欲界)のうち、欲界の支配者が第六天魔王。信玄への返書に織田信長は第六天魔王と自ら称した1573(元亀4)年。ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、元亀4年(天正元年)の展開】1573年4月、武田信玄、突然死。1573年7月18日、足利義昭、追放。7月21日。信長は、改元を内覧した。信長に勘文を見せてその意向に応じて元号を「天正」、信長が容喙。28日決定。8月13日、浅井朝倉連合軍に大勝
【織田信長の戦い、天皇による勅命講和】生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、元亀元(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い。信長37歳。天正元(1573年)足利義昭との戦い。天正8年(1580年)石山本願寺との10年戦争、顕如退去。正親町天皇の勅命講和。
【織田信長、5つの城】那古野城21歳まで【清州城】天文23年(1554)【麒麟の城、小牧山城】永禄6年(1563)6月【天下布武の城、岐阜城(稲葉山城)】永禄10(1567)年8月【天下一の城、安土城】天正四年(1576)2月から本能寺の変(1582)まで
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4
【濃姫、帰蝶】
【蝮の道三の娘、濃姫、帰蝶、蝮の子は蝮、3度の結婚】一人目、土岐八郎頼香(よりたか)に嫁ぐ。天文十三1544年9月、尾張国の織田信秀との戦い、頼香に刺客を差し向け自刃に追い詰め、濃姫10歳。二人目の夫、土岐次郎頼純(よりずみ)、1547年11月17日、頼純、急死。死因不明、享年24。三人目、1549年、濃姫15歳で信長と婚姻。弘治2(1556)年、斎藤道三、美濃を信長に譲ると遺言状。
【蝮の道三の娘、濃姫、帰蝶、蝮の子は蝮】濃姫を土岐氏の一門である土岐八郎頼香(よりたか)に嫁がせた。天文十三1544年9月、尾張国の織田信秀との戦いにおいて、どさくさに紛れて頼香に刺客を差し向け自刃に追い詰め、濃姫10歳。二人目の夫・土岐次郎頼純(よりずみ)、天文十五1546年9月、道三は土岐次郎頼純(頼香の甥)を守護職に就けて傀儡化し、濃姫を嫁がせ美濃国の支配権を掌握、濃姫12歳。1547年11月17日、頼純、急死。死因不明、享年24。濃姫15歳で信長と婚姻。
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【本能寺の変、三職推任本能寺の、将軍を阻止した明智光秀】【光秀、秀吉は殺人部隊】
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
――
6
【戦国史 親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
【武田信玄、父、武田信虎は賢い信玄を嫌い、弟の武田信繁に家督を譲ろう】甲斐国の守護、信玄の父・武田信虎は有力な国衆を酷使、利益を独占。21歳でクーデタ。天文10年(1541年)国衆は信虎を追放、下剋上。武田信玄は人望あり「人は石垣、人は城」。元亀4年52歳で病死。自分の死を3年間隠すよう命じる。
――
参考文献
小和田哲男『明智光秀』
小和田哲男『集中講義 織田信長』
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書
今谷明『日本史の論点』中公新書
岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018
和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
ルイス・フロイス『回想の織田信長、日本史』中公文庫
諸田玲子『帰蝶』2015
絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
https://bit.ly/3HjY9zO
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城
https://bit.ly/2FkeiJX
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
ヴィーナス、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP 
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
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2022年3月 3日 (木)

「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』273回

亡き人を想う、生死の境
空也は、伝染病の流行で亡くなった人を想い、念仏を唱え、浄土教を流布、天禄3(972)年、70歳で死す。六波羅蜜寺は、六道の辻にある。六道珍皇寺の井戸を通って小野篁(802~52)は冥界と往還を果たした。
300年後、慶派仏師、康勝は亡くなった空也を想い、空也の像を刻んだ。
平家一族滅亡後、慶派は僧形平清盛像を製作した。湛慶は、運慶像を刻んだ。
この時代、新古今歌人は、生と死の境を歌った。藤原定家は、亡き母の歌を沢山詠んだ。定家の父、俊成に教えを受けた西行は「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌い、涅槃会に亡くなった。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
【藤原定家、亡き母を歌う】
玉ゆらの 露もなみだも とどまらず なき人恋ふる 宿の秋風、藤原定家(『新古今和歌集』哀傷・七八八)
亡き母上がお住まいになっていたこの家。今はもうお目にかかれないと思うと涙が止まらない。この家に吹く秋風よ、せめて一目逢いたいという私の願いをかなえてくれないか。
藤原定家(1162-1241)は、母美福門院加賀が亡くなった(建久四年1193年2月13日)時のことを詠む。亡き母の歌を沢山詠んだ。「百首歌」(1200年、後鳥羽院主催)で献上した歌。
梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏(のきも)る月の影ぞあらそふ『新古今和歌集』巻第一・春歌上、四十四
軒近く咲く梅の花がにおいを移し、懐旧の涙で濡れている袖の上に、荒れた軒を漏れる月の光が、梅の匂いと争うように映っている。
「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」『明月記』。19歳の藤原定家(1162-1241)の藝術至上主義宣言だが、政治的混乱に書き込まれていく。建久7年の政変、藤原定家の好敵手、後鳥羽上皇は、北条義時に反乱を起こす。
――
【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
六道の辻
衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六道の辻は、六道へ通じる道。六道珍皇寺の井戸ゆかりの小野篁(802~52)が冥界と往還を果たしたという伝説から、六道の辻と称された。この地西福寺は、空海(774~835)が鳥辺野の無常所の入口にあたる地に地蔵堂を建て、自作の土仏地蔵尊を祀ったという伝説がある。
六波羅蜜寺とゆかりの人々、平清盛(1118~1181)は六波羅に一族の屋敷を建てた。
運慶一族と六波羅蜜寺
運慶(生年不詳⁻貞応2年12月11日(1224年1月3日)は、なぜ、地蔵菩薩坐像、など六波羅蜜寺の仏像を製作したのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【空也】遊行僧、浄土教、念仏「南無阿弥陀仏」、踊念仏、天禄3(972)年、70歳で死す。西光寺、建立。
938年(天慶1)京都に入ったが、町中を遊行して乞食(こつじき)し、布施(ふせ)を得れば貧者や病人に施したと伝える。948年(天暦2)比叡山に上り、天台座主延昌(880-964)について得度。光勝という僧名をもらったが、自らは空也の沙弥名を名のり、庶民信仰の念仏を勧める聖(ひじり)であった。平安時代以降、貴賤老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれ、また東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された。空也は生存時から市聖(いちのひじり)ともよばれたが、これは人の集まりやすい京都の東市、西市の市門に立って人々に念仏と浄土信仰を勧めたからである。その市門には「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」と書きつけて、速疾往生(そくしつおうじょう)を説いた。そして念仏を広める運動として踊念仏をしたので、後世、一遍と時衆の踊念仏も空也を祖とする。浄土往生の念仏を勧める。賀茂川の東に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建て、『大般若経』の書写供養を行うなど多角的な仏教を広めた。天禄3(972)年9月11日入滅。享年70歳。[五来重 2017年6月20日]
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平清盛、六波羅
【平治の乱1159年】藤原信頼と源義朝が、藤原信西にクーデタ。平清盛、熊野詣から京都へ戻り、後白河上皇、二条天皇を六波羅の清盛邸に救出。天皇と上皇を女装させて牛車に乗せる。源義朝、敗北。後継者、源頼朝、13歳、伊豆国に流される。【後白河上皇、天下一の大天狗】
【源平争乱、壇ノ浦の戦い】1180年から1185年に平氏が壇の浦で滅亡するまでの源氏平氏の争い、治承・寿永の乱。寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平争乱の終局、壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺。範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に出る。
【承久の乱1221後鳥羽上皇、北条義時】後鳥羽上皇、北条義時に反乱。1219源実朝、公暁による暗殺、将軍後継者争い勃発。後鳥羽上皇、地頭任命権を返還要求。義時、後鳥羽上皇に抵抗。三浦義村、義時につく。【御家人制、御恩奉公。地頭の権利】北条政子「頼朝の恩は、山よりも高く、海よりも深い」
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展示作品の一部
重要文化財 空也上人立像、康勝作 鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 四天王立像のうち持国天立像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 薬師如来坐像、平安時代・10世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 伝平清盛坐像、鎌倉時代・13世紀  京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 地蔵菩薩立像、定朝作、平安時代・11世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 閻魔王坐像、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 運慶坐像、湛慶作、鎌倉時代・13世紀、京都・六波羅蜜寺蔵
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参考文献
「国宝 聖林寺十一面観音」#東京国立博物館
https://bit.ly/3d1h6Kh 
「最澄と天台宗のすべて」1・・・比叡山延暦寺、最澄と空海
https://bit.ly/2XDvTGt
六観音菩薩「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館、・・・純粋な美しい魂に舞い降りる
https://bit.ly/2C0ZL2f
「空也上人と六波羅蜜寺」・・・亡き人を想う、生死の境、南無阿弥陀仏
https://bit.ly/3C7OKJG
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2022年は空也上人没後1050年に当たります。空也上人が十一面観音立像を本尊として京都東山の地に創建した六波羅蜜寺(創建時は西光寺と称した)には、現存最古となる上人の像が伝えられています。念仏を唱え歩いた姿を目の当たりにするような写実的な像は、仏師運慶の息子である康勝がつくりました。同寺は運慶一門にゆかりの深い寺でもあり、運慶作の地蔵菩薩坐像などが残されています。
本展覧会では、東京では半世紀ぶりの公開となる空也上人立像をはじめ、六波羅蜜寺の創建時につくられた四天王立像、定朝作と伝えられる地蔵菩薩立像など、平安から鎌倉時代の彫刻の名品が一堂に集います。
六波羅蜜寺の創建は、今からおよそ1000年前の平安時代半ばにさかのぼります。 天暦5年(951)、京都に流行り病が蔓延したため、空也上人は、疫病がおさまり世の中が穏やかになるように祈り十一面観音菩薩立像を造像し、西光寺を創建しました。これが現在の六波羅蜜寺にあたります。
本章では、市井の人々から絶大な信仰を得た空也上人の足跡をたどりながら、六波羅蜜寺創建時の像をご覧いただき、人々に親しまれてきた六波羅蜜寺の歴史をたどります。
■空也上人 平安時代中期の僧侶。
南無阿弥陀仏と唱えて極楽往生を願う阿弥陀信仰をいちはやく広めた。山林で修行をしながら各地を遍歴し、橋梁や道路等の整備や行倒れた人を弔うなど社会事業を行い、庶民から有力者まで幅広い信仰を集めた。10世紀半ばには、京都東山の地に十一面観音像を本尊とした六波羅蜜寺の前身となる西光寺を開き、天禄3年(972)、70歳にてその生涯を閉じた。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129
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特別展「空也上人と六波羅蜜寺」東京国立博物館、本館特別5室(上野公園)、3月1日~5月8日

2022年3月 1日 (火)

パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の環・・・復讐劇の起源

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』272回
美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
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ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチは、ミケランジェロに彫刻され。ラファエロに肖像画を描かれ、レオナルドに婦人像を注文した。

【ヴィーナスの誕生】「アフロディーテ(ヴィーナス)は海の抱から生まれ、帆立貝の貝殻に乗って、西風ゼフユロスとクロリスの優しい風を受けてキュプロス島のパフオスに上陸した。」へシオドス『神統譜』。このヴィーナス像は、古代ギリシアの画家アベレスが描いた伝説的名画、海からあがり濡れた髪をしぼるヴィーナスの絵をもとに発想している。ゼフュロスとクロリスは、ロレンツオ・デ・メデイチの最も高価な収集品≪タッツア・ファルネーゼ≫(1471年に購入した半貴石製の大皿)に彫られた飛翔する2人の人物から材を得ている。
【春(プリマヴェーラ)】ポッティチェリは、ヴィーナスが、神的な美を観想するべく女神の王国に私たちを招くさまを描いている。ヴィーナスの侍女である三美神、アグライア、エウプロシュネ、タレイアーが輪舞し、彼女の上方では目隠しされたキューピッドが矢を放つ。左側に、メルタリウスが魔法の杖(カドゥケウス)によって雲を散らし、右側でクロリスがゼフユロスから逃れようとする。ゼフユロスがクロリスを抱擁すると、天上の星にあたる地上の花が彼女の口から溢れでて、クロリスはそのかたわらに立つ女神フローラへと変身する。彼らの背後にオレンジの木立ち、花々がまき散らされた草むら、風に舞う透けた衣。ポッティチェリは描いた。
【『春』1478『ヴィーナスの誕生』1485】2つの作品は、ロレンツオ・デイ・ビュルフランチェスコ・デ・メデイチの別荘ヴィラ・カステッロを飾るために描かれた。フィレンツェの人文主義者たちはこれらの絵に多くの二重の象徴表現を見いだした。たとえばヴィーナスは異教的な愛と人文主義者が理想とする精神的な愛を表した。同じ意味あいで、三美神は純潔、美、愛の擬人像でもあった。
【プラトン・アカデミー思想家の死】ロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)は1492年死に、プラトン・アカデミーの思想家たちは、1498年までに次々と死ぬ。
【ルネサンスの死 1499】1492年、ロレンツォ・デ・メディチ43歳。1478年4月26日、ジュリアーノ・デ・メディチ25歳。アンジェロ・ポリツィアーノ39歳。ミランドラ31歳。フィチーノ62歳。1510年、ボッティチェリ65歳。1564年、ミケランジェロ88歳。
【16世紀ルネサンス、ヴェネツィア、マニエリスム、北方ルネサンス】レオナルド『レダ』1505ラファエロ『レダ』『モナリザ』1505、ティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』1535ジョルジョーネ『眠れるヴィーナス』1510、アンジェロ・ブロンズィーノ『ヴィーナス、クピド、サテュルス』1553、ルーカス・クラナハ「パリスの審判」1528
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【ルーカス・クラナハ「パリスの審判」1528】
「勝利と成功か、権力と富か、愛欲か」、どれを選ぶか。3つのうち一つ。
アテナは「戦場での勝利と名声」を、ヘラは「権力と富」を、ヴィーナスは「人間の中で最も美しい女」をそれぞれパリスに約束する。パリスが今一番欲しいのは「美しい女」。ヴィーナスに黄金の林檎を渡す。パリスは、美しい女、ヘレネを選び、トロイは滅亡する。神の罠に掛かって、トロイ滅亡。
「勝利と成功か、権力と富か、愛欲か」あなたなら、どれを選ぶか。3つのうち一つ。これには、正解がある。アテナは、知恵と勝利の女神。
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トロイ戦争
【パリスの審判】神々の饗宴でアプロディーテを選択するトロイ王子パリス。スパルタ王妃美女ヘレネを奪ってトロイに連れ帰りトロイ戦争勃発【ガイアの嘆願】【神々の結婚】【神々の饗宴、争いの女神エリスが黄金の林檎を投げ入れる】【女神の争い】【美女姉妹ヘレネとクリュタイムネストラ、ゼウスがレダと交わって2組の双子】『叙事詩の円環』8部作は失われ、断片のみが残る。
【神々の饗宴、ペレウスとテティスの結婚】海神の一族であるテティスは自由に姿を変えることができたが、ペレウスは逃れようとした彼女をつかまえて離さなかった。2人の結婚式にはほとんどの神々が出席したが、争いの女神エリスだけが招かれなかった。これを恨んだエリスは、黄金のリンゴを祝宴の満座の中に投じ、これが原因となってのちにトロイ戦争が起こる。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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トロイ戦争とギリシア悲劇
【復讐悲劇の起源】オレステイア三部作アイスキュロス(前458)『アガメムノン』『供養する女たち』『慈みの女神たち』、エウリピデス『オレステス』【ルネサンス復讐悲劇の起源】ストア派の哲学者セネカ『テュエステス』【ルネサンス復讐悲劇】シェイクスピア『ハムレット』1599年~1602年
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参考文献【叙事詩の円環】
運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』
https://t.co/JjeYXXOypq
https://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle
大久保正雄『地中海紀行』第61回トロイア戦争 パリスの審判P29
岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』
岡道男『ホメロスと叙事詩の環』1976 京都大学文学部紀要1976.16.55-338,
安村 典子『ゼウスの覇権 反逆のギリシア神話』京都大学学術出版会
城江良知「ガイアの嘆願と『イリアス』」西洋古典学研究
『キュプリア』によれば,ガイアは、増えすぎた人間の重みに耐えかね,. しかも人間には神 を畏敬する心がまったくなかったため, ゼウスにこの重荷.を軽減してくれるようにと願い出た. ゼウスは同情してまずテーバイ戦争を起こし多数の人間を滅ぼした。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/68585/1/KJ00004263559.pdf
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参考文献【ギリシア悲劇】
愛と復讐 アイスキュロス『オレステイア』三部作
*ヴォロマンドラのクーロスKouros of Volomandra
https://t.co/httDdX6Bvr
大久保正雄『地中海紀行』第47回ギリシア、愛と復讐の大地1P22
旅する詩人、エウリピデス ギリシア悲劇の極致
https://t.co/BIXeFsq7GS
大久保正雄『地中海紀行』第48回ギリシア、愛と復讐の大地2P27
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参考文献【哲学、ルネサンス】
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、失われた美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
大久保正雄「メディチ家とプラトン・アカデミー イタリア・ルネサンスの美と世界遺産」
https://t.co/yxlgRpwirV
パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP

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