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2021年8月

2021年8月24日 (火)

古代の偉大な思想家、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、はなぜ失われたのか

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第252回

【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。
古代ギリシアの理想はなぜ失われたのか。古代ギリシアの徳、知恵、勇気、節制、正義はなぜ失われたのか。
【古代の偉大な思想家、エンペドクレス】古代の哲学者、医者、詩人、政治家。アクラガス出身。ピタゴラス学派に学びパルメニデスの教えを受けた。自由精神を重んじ、権力に屈しなかった。金冠を頭に戴き、紫色の衣に金のベルトを巻いて、デルポイの花冠を携えて諸都市を巡り歩いた。紀元前430年死す。
エンペドクレスは、パルメニデスの存在論とヘラクレイトスの生成消滅論を融合した。万物の四つの根(リゾーマタ)、4つの元素、火、水、空気、土、4つの根の愛と憎による離合集散から宇宙は生成消滅する。愛の伸長期、消滅期、憎の伸長期、消滅期によって生成消滅する。宇宙円環と魂の円環が調和する。詩篇「自然について」と「カタルモイ」を書いた。地上に堕落したダイモーンが、神々のアイテールに帰還するドラマである。
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【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
理念を探求する精神は、邪知暴虐と対峙し、悪鬼と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【アグリジェント、神殿の谷】コンコルディア神殿が聳える。最も完璧な神殿。古代ギリシアの詩人ピンダロスが「人の造りし最も美しき都市」と謳った都市。神殿の谷は、稜線に20の神殿が聳える。丘に神殿遺跡がそこここに残る古代都市遺産群を廻る、広大な地。憧れの古代都市。哲学者エンペドクレスが、生まれた地。
アクラガスは、ギリシア人の植民都市、前 580年頃ゲラの市民によって建設され、前6~5世紀僭主ファラリスやテロンのもとに繁栄した、アクロポリスの丘の上のアルカイック期神殿群の遺跡はこの時期に属し、180年栄えた。紀元前406年、カルタゴに滅ぼされた。カルタゴ軍が、シケリア西部のカルタゴ殖民都市に対する攻撃の報復として、【アクラガス包囲】ドーリア人都市であるアクラガス(アグリジェント)を包囲した。
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【時間論】3つの世界観の時間論。時間には、回帰的時間と終末観的時間と進化的時間がある。(渡辺慧『時』第3章、時間の起源と機能)(回帰的時間は、エンペドクレス、ニーチェ『ツァラトゥストラ』。終末観的時間はキリスト教。進化的時間は、ベルクソン『創造的進化』)1974、初刊1948年。*エンペドクレスの宇宙円環(Cosmic Cycle)、ヘラクレイトスの回帰的宇宙、ニーチェの永劫回帰(Ewig Wiederkehren)、ピュタゴラスの輪廻転生。
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【トロイ戦争】『キュプリア』によれば,ガイアは、増えすぎた人間の重みに耐えかね、しかも人間には神 を畏敬する心がまったくなかったため, ゼウスにこの重荷.を軽減してくれるようにと願い出た。ゼウスは同情してまずテーバイ戦争を起こし多数の人間を滅ぼした。
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【哲人王、国家の姿】魂の徳を探求しなければならない。知恵、勇気、節制、正義。魂の3部分の調和。魂の徳を備える人間。知恵を探求する者、善のイデアを観るもののみが王にならねばならない。『国家』
【古代ギリシアの理想はなぜ失われたのか】古代ギリシアの徳、知恵、勇気、節制、正義はなぜ失われたのか。
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★参考文献
鈴木幹也『エンペドクレス研究』1985
フリードリヒ・ニーチェ『プラトン対話編研究序説』
旅する思想家、孔子、王羲之、空海・・・『戦う知識人の精神史』 
https://bit.ly/3mlXeXR
「旅する哲学者 美への旅」第69回 空海の旅 旅する思想家
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
大久保正雄『地中海紀行』第44回哲学者の魂、ソクラテスの死2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://bit.ly/386Vbyl
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://bit.ly/3j2A3jc
大久保正雄『地中海紀行』第25回
旅する哲学者 ピタゴラスの旅 プラトンの旅
https://t.co/1QDmeBNsBY
大久保正雄『地中海紀行』第24回
旅する哲学者、エーゲ海の瞑想 ヘラクレイトスの言葉
https://t.co/T1Ec9npIoJ
――
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
https://bit.ly/2U9rO6s
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、転識得智、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
「密教彫刻の世界」東京国立博物館・・・愛染明王、金剛薩埵の化身
https://bit.ly/2WNIoNt
古代の偉大な思想家、エンペドクレス・・・古代ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、はなぜ失われたのか
https://bit.ly/3sIf3RW
――
★★
神殿の谷、コンコルディア神殿
Dolce&Gabbana Alta Moda, Valley of the Temples, July 2019
https://www.youtube.com/watch?v=FW0DSGxs8WA

2021年8月18日 (水)

法隆寺と聖徳太子・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第251回

仏陀入滅から1000年、7世紀、日本に到達した。仏像彫刻、寺院は、建設されたが、仏陀の思想と学んは、この国において学ばれたのか。
仏陀入滅から1000年
522年、来朝した梁の司馬達等(止利仏師の祖父)が仏教伝来。百済の聖明王(聖王)は中国南朝梁の武帝から冊封され仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うために、欽明天皇に公伝。
【仏教1000年の旅】仏陀入滅80歳(BC485年383年)、アレクサンドロス大王バクトリア征服(BC328)、ガンダーラ美術(1世紀-3世紀頃)、ヴァスバンドゥ(世親320-400年) 『唯識三十頌』『仏性論』『倶舎論』、アジャンタ石窟寺院(グプタ朝時代5世紀)、鳩摩羅什(4世紀)、魏晋南北朝(司馬炎-589年まで)、北魏の孝文帝、皇帝菩薩と称された梁の武帝、北魏様式南梁様式(6世紀)、隋帝国(581~618)、飛鳥(7世紀)、唐帝国(618-907)、玄奘三蔵(7世紀)、敦煌莫高窟、白鳳美術(7世紀)、天平美術(8世紀)、不空(705-774)、恵果(746-805)、空海(774-835)、密教美術(9世紀)
【仏教公伝】7世紀、聖徳太子の祖父、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済の聖明王から仏教が伝わる。
【密教への旅】『華厳経』4世紀頃中央アジアで成立、漢訳は東晋の仏駄跋陀羅訳の60巻本、唐の実叉難陀訳の80巻本、唐の般若訳の40巻本の3種。7世紀『大日経』『金剛頂経』『理趣経』(不空が763年から771年にかけて訳した訳本)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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殺戮の飛鳥、厩戸皇子の謎、法隆寺の謎
蘇我馬子は物部守屋一族を滅亡させ、崇峻天皇暗殺、推古天皇を即位、厩戸皇子を摂政とした。蘇我馬子は厩戸皇子とともに『天皇記』『国記』を編纂。蘇我馬子の画いたシナリオによって生きた厩戸皇子。中大兄皇子と中臣鎌足を動かした皇極天皇と軽皇子、姉弟。中大兄皇子と中臣鎌足の使嗾によって蘇我入鹿により滅亡させられた山背大兄王一族。蘇我入鹿により炎上した斑鳩宮。天智天皇時代に炎上した斑鳩寺。天武天皇の后、持統天皇によって再建された法隆寺。聖武天皇、光明子、阿倍内親王によって建築された夢殿。
【厩戸皇子の謎】王位継承権をもつ王家。49歳で死去。死因は諸説紛々。聖徳太子は、物部守屋一族襲撃に参加し、推古1年、四天王寺創建。物部氏一族を四天王寺の奴婢とした。聖徳太子の子、山背大兄王一族は、中大兄皇子と中臣鎌足に使嗾された蘇我入鹿によって襲撃され滅亡。斑鳩宮炎上、斑鳩寺にて自刃。
【法隆寺の謎】厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺は炎上、飛鳥時代の伽藍は一つも残存せず。夢殿は、天平時代の伽藍。聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王が関与。法隆寺、西院伽藍は、世界最古の木造建築と言われるが、持統天皇時代に建立、正確な建築年代不明。鞍作登利様式の飛鳥時代彫刻はどこにあったか謎である。
【理念を追求する精神】理念を探求する人、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【四天王寺創建、推古天皇、1年】【四天王、仏法を守護する王】四天王を支配するのはインドラ。須彌山の中腹にある四王天の主で、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天または毘沙門天のそれぞれを主宰する王の総称。八部衆を支配して帝釈天に仕え、仏法と仏法に帰依する人々を守護する。
【法隆寺、東院伽藍】上宮王院といい、八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿【山背大兄王一族滅亡643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮】跡に【739年(天平11)僧行信により造営】され、北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。西院伽藍の東方に隣接する。
【夢殿、夢違観音】法隆寺の大宝蔵殿に安置されている聖観音菩薩立像。国宝。銅製鍍金で像高 87.3cm。頭部の三面宝冠と台座は別鋳で本体は一鋳になり,内部は空洞。像名の「夢違」は,江戸時代に書かれた『古今一陽集』に、「悪い夢を見たとき,この観音像に祈るとよい夢に変えてくれる」とあることに由来し、一般に親しまれている。白鳳時代の代表作の一つ。なお台座は江戸時代の後補。
【金堂、薬師如来】推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。
【阿弥陀三尊像、橘夫人念持仏と伝える】光明子の母、橘三千代=県犬養三千代は阿弥陀如来を信仰。唐代のより完成した様式への接近を窺わせる。飛鳥初期ではない。白鳳時代。
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 - 東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
当館と法隆寺ではこれを記念して、特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」を開催します。 2004年3月2日(火)~4月11日(日)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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美術史の謎
1,飛鳥美術

【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
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【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
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【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
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【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
――
2,白鳳美術
【白鳳時代】奈良時代にこの時代を白鳳・朱雀と呼んだのに基づく。白鳳は白雉(650年-654年)、朱雀は朱鳥(686年)という年号の美称。壬申の乱(672年)を境に2期に区分できる。後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてのインドの影響も現れる。「薬師寺金堂の薬師三尊像、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩」の豊満な彫刻、焼失した「法隆寺壁画」「夢違い観音」「阿弥陀三尊像」「山田寺仏頭」。
飛鳥時代と天平時代とにはさまれる、大化元年(645)から和銅三年(710)の平城京遷都まで。前期には飛鳥時代の様式も残しているが、中国北斉・北周の影響が見られ、後期に至ると、隋・唐の影響、さらに唐を通じてインド(アジャンタ)の影響がある。
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3,天平美術
【天平美術】不空羂索観音像、日光菩薩、月光菩薩、執金剛神像、釈迦十大弟子像、八部衆像734年、阿修羅像(734年)、鳥毛立女屏風 樹下美人図。
【東大寺】毘盧遮那仏、平重衡による南都焼討(再興は重源、陳和卿)、松永・三好の兵火(再興は公慶)で二度焼失。天平時代のオリジナル部分が残っているのは、台座の三千蓮華像世界。
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参考文献
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX
聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎
https://bit.ly/3yCIpDo
法隆寺と聖徳太子・・・美術史の謎、飛鳥、白鳳、天平
https://bit.ly/2XE6s7q
――
東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
――
「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

2021年8月12日 (木)

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第250回

法隆寺と厩戸皇子は、謎に満ちている。厩戸皇子は、何を理想とし、何を苦悩し、何を成し遂げたのか。
【法隆寺の謎】斑鳩宮と斑鳩寺は、なぜ焼失したのか。斑鳩寺は、なぜ、法隆寺として再建されたのか。斑鳩宮は、なぜ、夢殿として再建されたのか。
厩戸皇子の子、山背大兄王一族は、なぜ襲撃され、斑鳩寺で自刃し一族滅亡したのか。山背大兄王を襲撃した真犯人はだれか。
根本的な謎が蘇る。厩戸皇子は49歳で死ぬ。前年、生母、穴穂部間人皇女が死す。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人死す。疫病といわれるが、死因は何か。
厩戸皇子は、いつから、聖徳太子、となったのか。斑鳩寺の焼失後、釈迦三尊像、救世観音、薬師如来坐像、鞍作登利様式の仏像は、どこに保存されたのか。
――
理念を探求する精神は、現実と戦う。価値あることを為すには、犠牲と苦労と忍耐が必要である。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1,
厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。
飛鳥時代は、知性のない殺戮の時代。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡【厩戸皇子】厩戸皇子は、何を成し遂げたのか。「和を以て貴しとなす、厚く三宝を敬え仏法僧」十七条憲法、法華義疏。推古天皇元年(593)四天王寺創建。【丁未の乱】蘇我馬子の物部守屋一族滅亡、祝勝の寺。斑鳩寺創建。
【蘇我馬子の権力闘争と厩戸皇子=聖徳太子は一体化】王位継承問題、相続問題。
物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、山背大兄王一族滅亡

2,
【斑鳩宮、斑鳩寺の謎】なぜ、消失したのか。
厩戸皇子(聖徳太子)が建てた、斑鳩宮(601)、斑鳩寺(607)は、なぜ、僅か42-63年で消失したのか。皇極時代、天智時代、炎上した。

【法隆寺の謎】2度、炎上。皇極時代、天智時代、
【斑鳩寺】厩戸皇子、推古天皇15年(607年)、斑鳩寺創建。推古天皇30年(622年)、厩戸皇子、49歳で死去。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、聖徳太子の子山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、斑鳩寺にて自刃。襲撃の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画。【乙巳の変】中大兄と中臣、蘇我入鹿、殺害。山背大兄王襲撃と一体のクーデタ。
【斑鳩宮】『日本書紀』によれば、聖徳太子=厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)、山背大兄王、蘇我入鹿に襲撃され、炎上。
夢殿、天平11年、行信によって再建。
――
【中大兄皇子と中臣鎌足によって粛清、殺された人々】蘇我入鹿。山背大兄王自刃。【天武天皇によって粛清、殺された人々】中大兄皇子、皇極天皇の子。皇極天皇は、女帝であり、その子は王位継承できない。
――
3,
【法隆寺の謎。なぜ、再建されたのか】
【斑鳩寺と斑鳩宮、炎上の原因】1,斑鳩宮炎上、山背大兄王自刃一族滅亡(643年)の原因は、皇極天皇と軽皇子の姉弟が計画、皇極天皇の子が、天智・天武。2,斑鳩寺、炎上は、天智時代(670)。
【斑鳩寺】厩戸皇子、607(推古15)年、斑鳩寺を創建。605年、推古天皇、太子に「丈六仏像 銅像と塑像」作らせる詔。606年、銅像を飛鳥寺に納める。621(推古29)聖徳太子、薨去。622(推古30)推古天皇、「金堂釈迦三尊像」完成。若草伽藍、天智天皇9年(670)に焼失『日本書紀』

【法隆寺、再建したのはだれか】
【法隆寺】法隆寺金堂、天智9年(670)の火災後に建立された、現存の西院伽藍、持統天皇7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成。

【斑鳩宮、再建したのはだれか】
【斑鳩宮】厩戸皇子、601年(推古9)斑鳩宮を創建。皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)蘇我入鹿、山背大兄王を斑鳩宮に襲撃、自害させる。斑鳩宮、炎上。
【救世観音像】『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙)に奏聞し、天平十一年(739) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂(夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
――
4,
【厩戸皇子、聖徳太子の謎】厩戸皇子は、いつから、聖徳太子と呼ばれたのか。聖徳太子の意味は何か。斑鳩寺、607年、創建。いつから、法隆寺と呼ばれたのか。釈迦三尊像光背銘、法華義疏。「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。
しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」(623年)
――
【厩戸皇子『十七条憲法』】推古天皇12年(604年)厩戸皇子(聖徳太子)31歳の時、作った。
「以和爲貴。無忤爲宗」。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇暗殺、聖徳太子49歳で死亡、山背大兄王自刃。殺人と疫病の飛鳥時代、以和爲貴(和をもって貴しと爲し)とは、ありえない夢。
以和為貴。無忤為宗。
第一条、「和をもって貴しと爲し、忤(さから)うること無きを宗と爲せ」
二に曰く、篤く三寶を敬へ、三寶とは佛と法と僧となり
日本の名著I「日本書紀」』責任編集・井上光貞。
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5、聖徳太子と蘇我馬子
【蘇我馬子】穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い。物部守屋一族滅亡、崇峻天皇を暗殺。女帝推古天皇を擁立、聖徳太子を摂政とする。聖徳太子は、49歳で死ぬ。推古女帝は、推古36年、統治74歳。蘇我馬子は、73歳で天寿を全うする。

【蘇我馬子、飛鳥寺】武略と弁才を有し、三宝を恭敬した。法興寺(飛鳥寺)の造営に着手。推古1 (593) 年に塔に仏舎利が奉安。本尊は606年(推古天皇14)止利仏師作、丈六の金銅釈迦如来像。桃原墓に埋葬、明日香村石舞台古墳に比定される。子は蝦夷。孫、入鹿。
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★★★★★
仏教美術史の謎 飛鳥、白鳳、天平
【仏教美術史】飛鳥(北魏、南梁様式)、白鳳、天平、弘仁貞観、平安後期、鎌倉時代。
推古天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、聖武天皇、光明皇后、阿倍内親王、孝謙女帝、嵯峨天皇。仏教美術は、古代王家の文化として展開。日本美術史で、最も美しい仏教彫刻は何か。
1、
【法隆寺、仏像の謎】斑鳩寺の仏像、飛鳥時代の仏像は、斑鳩寺炎上とともに保管する場所を失った。どこに所蔵されていたのか。
【飛鳥美術、北魏様式、南梁様式】飛鳥美術は、北魏様式、南梁様式。法隆寺、鞍作止利は、北魏様式。板耳、杏仁形の目の表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座、鰭のような裳裾、男性的な容姿。623年、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像。南梁様式は、中宮寺、広隆寺、半跏思惟像。
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2.
【救世観音の謎】止利様式、飛鳥時代制作であるが、原所在と夢殿に納められた経緯が不明である。天平11年(739)、その跡地に建立された東院伽藍、行信が創建した上宮王院。行信が阿倍内親王(光明皇后の娘)に奏聞し藤原房前に命じ造営した説。『法隆寺東院縁起』尺寸王身、厩戸皇子と同寸。【鞍作止利】中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。
『救世観音像の原所在とその後の安置場所』大橋一章 早稲田大学
蘇我入鹿が巨勢徳太等に斑鳩宮を掩わせ、その後斑鳩宮斑鳩宮を焼失させた。皇極二年(六四三)十1月一日のことであった。はそのまま放置されていたようで、
『法隆寺東院縁起』によると、救大僧都行信が聖徳太子ゆかりの斑鳩宮が荒嘘なるを流沸感嘆し、ついに東宮(阿倍内親王・幸謙) に奏聞し、天平十一年(七三九) 四月十日河内山贈太政大臣(藤原房前) に命じて此院(上官王院)を造営させた。八角円堂 (夢殿) に太子在世中につくった「御影の観世音像」を安置したというのである。
【救世観音】この名称は経典には説かれていない、観音として正統的な尊像ではない。作例は法隆寺夢殿の本尊、聖徳太子等身の御影と伝える観音菩薩立像が著名である。大阪四天王寺、京都三千院の菩薩半跏像もこの名で呼ばれており、形像は一致していない。名称の由来は『法華経』観世音菩薩普門品の中の〈観音妙智力 能救世間苦〉という表現にある、平安時代に盛んとなる法華経信仰と、聖徳太子伝説によって、この尊名が生まれたと推測されている。
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【飛鳥時代の木像】
飛鳥時代の木彫像としては、法隆寺夢殿観音像、百済観音像、金堂四天王像、中宮寺半跏思惟像などが代表的な遺品として知られる。
【法隆寺四天王像のうち広目天像、多聞天像】光背の裏面に作者と考えられる人名が次のように記されている。
(広目天)山口大口費上而次、木二人作也
(多門天)薬師徳保上而、鉄師古二人作也
 すなわち、山口大口費(やまぐちおおぐちのあたえ)、木(こまろ)、薬師徳保(くすしのとくほ)と鉄師古(てつしのまらこ)の四人である。このうち山口大口費は、『日本書紀』の孝徳天皇白雉(はくち)元年(650)の条に、天皇の勅命により千仏像を刻んだと伝える漢山口直大口(あやのやまぐちのあたえおおぐち)と同一人物であると考えられている。
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【薬師如来光背裏面銘】「(太子の父)用明天皇の病が重くなったとき、後の推古天皇と聖徳太子を呼んで、病気平癒のため薬師像と寺とを造ると誓願された。しかし、病が癒えず崩御されたので、後に推古天皇と太子が遺志を継ぎ御寺を建立された」
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【聖徳太子、止利様式】司馬鞍作止利。止利様式。中国南梁からの渡来人司馬達等の孫。坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈の子。法隆寺金堂の金銅『釈迦三尊像』(623)の作者として、光背の銘文に名をとどめる【釈迦如来像】。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事。推古14(606)年、元興寺金堂の丈六像をつくり、功として大仁位に叙せられ水田 20町歩を賜った。中国、北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風をもち、板耳、止利様式杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(台座)などに特色がある。このような様式の仏像を止利様と称する。
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★参考文献
聖徳太子と法隆寺・・・世間虚仮。唯仏是真
https://bit.ly/3kVnJSX

聖徳太子と法隆寺・・・法隆寺の謎、厩戸皇子の謎

東野治之「聖徳太子、史実と信仰」
三田覚之「聖徳太子の美術」
図録「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館、2021年
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」、東京国立博物館、2020年
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎
https://bit.ly/2J66OZZ
「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・若草伽藍と聖徳太子の謎
https://bit.ly/2R8JNtG
ウィルスと人類の戦い・・・感染爆発の歴史、アテネのペリクレス、ルネサンス、厩戸皇子、盧舎那仏
https://bit.ly/2z32Orl
瀧浪貞子『持統天皇』2019年
十七条憲法制定1400年記念特別公開「法隆寺 国宝 夢違観音-白鳳文化の美の香り-」 東京国立博物館、2004年
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=238
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
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「聖徳太子と法隆寺」、東京国立博物館
2021年7月13日(火) ~ 2021年9月5日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2097

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