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2020年3月

2020年3月22日 (日)

「法隆寺金堂壁画と百済観音」・・・法隆寺と百済観音の謎

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第210回 
桜開花の午後、北風が吹く中、森を歩いて博物館に行く。東京国立博物館は、コロナウィルス感染防止のため2月27日から休館中である。
天平時代、首都、平城京でも大量に感染した。735年から737年6月には疫病、天然痘の蔓延によって朝廷が停止される事態となり、政権を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死。原因は遣唐使、遣新羅使である。千年に一度の感染症拡大、資本主義史上最大の感染爆発、ヨーロッパ都市封鎖、イタリア医療崩壊の危機。救世観音に生命と運命の守護を祈る。
――
法隆寺は謎に満ちている。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。救済観音は厩戸皇子の姿形なのか。救世観音、等、法隆寺の仏像は、止利様式であるが、百済観音はなぜ止利様式でないのか。百済観音は、いつどこで、誰によって造られ、どこの寺に安置されたのか。
創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)。厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601)、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだ。斑鳩宮に接して建立された斑鳩寺『日本書紀』。
【法隆寺の謎、血に塗れた歴史】再建法隆寺はいつ建てられたのか。再建法隆寺はだれによって建てられたのか。天智天皇9年(670)4月「災法隆寺一屋無余」法隆寺が全焼した『日本書紀』。なぜ、斑鳩寺は全焼したのか。壬申の乱(671年)天武は、法隆寺再建とどうかかわるのか。夢殿の扉は、なぜ1000年以上、閉ざされたのか。なぜ、厩戸皇子は48歳で暗殺されだのか。なぜ、山背大兄皇子一族は自害させられたのか。なぜ、厩戸皇子は天武によって「聖徳太子」神聖化されたのか。金堂壁画は、いつ描かれたのか、何を描くのか。
この世の生存競争、利害名利を求める者、邪知暴虐の人が栄える時、天罰下る。邪知暴虐の人が栄え、知ある者が滅びるとき、天誅下るべし。
【上智と下愚は移らず】最上の知者は悪い境遇にあっても堕落せず、最下の愚者はどんなによい境遇にあっても向上しない。美しいものを美しいと感じる心が美しい。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【権力闘争史】石上神社物部氏と蘇我氏の争い、出雲と大和の権力抗争が根源。物部と蘇我の崇仏論争、物部御輿と蘇我稲目との争い、蘇我馬子、物部守屋を討つ。蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。厩戸皇子暗殺の謎、蘇我蝦夷と厩戸皇子の争い。皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を自害に追いつめる。乙巳の変、蘇我入鹿と中大兄皇子の争い。壬申の乱、中大兄皇子の子大友皇子と大海人皇子の争い。天智系と天武系の殺し合いが始まる。
天智系桓武天皇、平城天皇が継ぎ、嵯峨天皇に譲位。保元の乱、清和源氏と桓武平氏との殺し合い。平氏と源氏の戦い。平治の乱、平清盛軍、源義朝軍に勝利。1185年、壇ノ浦の戦い、平氏滅亡。源氏、征夷大将軍となる。三代、源実朝で滅亡。源氏と北条の戦い。
【1221年、承久の乱】後鳥羽上皇と北条義時の戦い、義時、後鳥羽を討つ。室町幕府と織田信長の戦い。信長は義昭を追放。階級社会に挑む天下布武の信長。織田信長を討つ明智光秀。明智を討つ豊臣。豊臣を討つ徳川。徳川は源氏を名乗り、征夷大将軍となる。
【後白河天皇、日本第一の大天狗】天狗は人を魔道に落とす魔物。後白河法皇と関わった人々は追い落とされる。保元の乱において、兄・崇徳院と対立し配流、平氏と源氏を身内同士で争わせる。平治の乱で、平氏と源氏を争わせ源氏は棟梁を失う。平氏政権は法皇と対立、壇ノ浦で滅亡。
【夢殿解扉1886】夢殿、救世観音、厨子を開扉。フェノロサ『東亜美術史綱』「二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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展示作品の一部
【法隆寺金堂壁画】釈迦浄土図や阿弥陀浄土図など仏の群像を描いた大壁(高さ約3.1メートル、幅約2.6メートル)4面と、諸菩薩を単独で描いた小壁(高さ同、幅約1.5メートル)8面の計12面から成る巨大な壁画群です。そのしなやかで力強い描線と緻密な色彩によって、インドのアジャンター石窟群や中国の敦煌莫高窟と並ぶ世界的な傑作。昭和24年(1949)に火災に焼損。
法隆寺金堂壁画(模本)第6号壁 阿弥陀浄土図、桜井香雲模 明治17年(1884)頃  東京国立博物館蔵
法隆寺金堂壁画(模本) 第1号壁 釈迦浄土図
桜井香雲模 明治17年(1884)頃 東京国立博物館蔵 【前期展示】金堂内東南大壁の第1号壁は、釈迦三尊と十大弟子が土坡の上に並ぶ、釈迦浄土図
法隆寺金堂壁画(模本) 第10号壁 薬師浄土図
鈴木空如模 大正11年(1922)  秋田・大仙市蔵 【前期展示】
法隆寺金堂壁画(再現壁画) 第12号壁 十一面観音菩薩像
前田青邨ほか筆 昭和43年(1968)  法隆寺蔵 【後期展示】写真:便利堂
国宝 観音菩薩立像(百済観音)飛鳥時代・7世紀
国宝 毘沙門天立像、平安時代・承暦2年(1078)法隆寺蔵 【通期展示】
国宝 吉祥天立像、平安時代・承暦2年(1078)、法隆寺蔵
【法隆寺、釈迦三尊像】スーパークローン文化財、東京藝術大学COI拠点、2017
【百済観音】
蓮華座の上にすらりと立ち、左手は下げて水瓶を軽くつまみ、右手を前方に差し伸べた観音菩薩。両腕と天衣を除く本体は頭頂から台座蓮肉までクスノキの一木造りで、顔や胸、両肩や腰の膨らみには乾漆が盛り上げられています。頭部が小さく長身の姿は飛鳥彫刻のなかでは特異で、風をはらんだように前方に巻き上がる天衣の流麗な曲線も魅力的。宝冠や胸飾り、腕の飾りには、唐草文様を彫り透かした金銅製の金具が用いられており、特に宝冠正面には阿弥陀如来の姿が表わされています。宝珠形をした光背は竹を模した柱に支えられ、その根本には山岳文様が表わされています。広大無辺な大きさであるという観音菩薩の姿を、山岳との対比によって表現したものでしょう。本像は法隆寺金堂に安置されていたことが『元禄諸堂仏体数量記』(1698年)によって知られ、同記録にある「百済国より渡来」との伝承から、大正時代以降は「百済観音」の名で親しまれています。
【百済観音】「百済観音」と呼ばれるようになったのは明治時代以降。史料の中に出てきたのは『和州法隆寺堂社霊験幷仏菩薩像数量等』江戸時代元禄11年(1698)に奉行所に提出された書類が初出。それまで1000年近く、百済観音に関する明確な記録は発見されていない。
第6号壁の阿弥陀浄土図
【和辻哲郎と法隆寺金堂壁画】哲学者の和辻哲郎(1889-1960)は奈良付近の古寺を巡り歩いた旅の印象記『古寺巡礼』の中で、法隆寺金堂壁画のとくに第6号壁の阿弥陀浄土図について「この画こそは東洋絵画の絶頂である」と絶賛。
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984
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参考文献
図録「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館2020
「正倉院の世界」東京国立博物館・・・螺鈿紫檀五絃琵琶、天平文化の香り
https://bit.ly/33VYRiy
「国宝 薬師寺展」・・・月光菩薩、日光菩薩、白鳳文化の美の香り
https://bit.ly/2Ovw4gs
「国宝 阿修羅展」・・・阿修羅像の謎、光明皇后、天平文化の香り
https://bit.ly/2zKYquU
「出雲と大和」東京国立博物館・・・大海人皇子、大王から天皇へ
https://bit.ly/2ReO0wz
国宝 興福寺仏頭展・・・白鳳文化の香り
https://bit.ly/2T7N50o
薬師寺の歴史680年
薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して天武天皇9年(680)藤原京の地で建立を発願したのが草創である。造営の経過については『日本書紀』に記録がみえず不明だが、持統天皇2年(688)に法会、同11年(697)には仏像の開眼供養の記載があり、7世紀末には完成したことが知られる。ところがそれからまもない和銅3年(710)に都が平城京に遷されると、薬師寺も移転した。
興福寺の歴史734年
光明皇后は、母の橘三千代が天平5年(733)に亡くなると、一周忌の供養のため興福寺に西金堂を建立し、釈迦如来、釈迦の十大弟子、四天王、八部衆像などの28体の像、また菩提樹や金鼓(こんく)などの荘厳具を安置した。釈迦の浄土を立体的に表した。
――
特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」東京国立博物館
2020年3月17日(火) ~ 2020年5月10日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1984

2020年3月10日 (火)

織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観

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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第209回
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【織田信長、謀反に始まり、謀反に死す】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信行の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信行2度目の謀反、清州城天主北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。本能寺の変、光秀1万3千人に信長70人。自刃。49歳。
【織田信長、稲生の戦い、信長の評価が一変した兄弟対決】弘治2年8月(1556年)24日、信長も700人たらずの手勢で清洲を出陣し、正午頃には稲生原で信勝方と衝突する。信長軍はまず柴田軍を攻めたが、佐々孫介ら屈強な家臣が討たれ劣勢。奮戦して信長が大声で敵に怒鳴る
【織田信長、稲生の戦い】弘治2年8月24日。5月26日、信長が弟の安房守秀俊(信時)と二人だけで信勝のいる那古野城に赴いた。絶好の機会とばかりに林通具が信長の暗殺を企てるが、兄の林秀貞が「主君をここで殺害するのは恥知らずで天罰が恐ろしい」として諌める。
【復讐する精神 織田信長、親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。争った弟側が滅亡。弘治3(1557)年、織田信長は、弟信行を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放、弟信繁と共存。伊達政宗は実弟小次郎を手打ち。天正十八年4月7日
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【天下布武】「武とは戈を止め(止戈)て用いない」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』
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【織田信長 本能寺の変】天正十(1582)年6月2日、払暁。明智光秀軍1万3000人、本能寺を襲撃。信長勢70人。信長、弓矢をとって自ら戦うが「是非もない」、自刃。女たちを逃がす。光秀謀反の原因。怨恨説、野心説、黒幕説。反信長包囲網。アンシャンレジームの反撃。

【織田信長と絶世の美女、生駒吉乃、最愛の妻】信長、最愛の妻、生駒吉乃、38歳で死す。生駒屋敷、家宗の娘。信長の嫡男、信忠。信雄、徳姫を生む。織田信忠は、本能寺の変で、二条城にて自刃。徳姫は、徳川家康の嫡男、夫、松平信康の謀反を、信長に知らせる。

【織田信長、本能寺の変の黒幕】1、羽柴秀吉説 中国大返しが実現できた理由2、徳川家康説 変の後に甲信地方を獲得3、長宗我部元親(四国)説 手紙の発見4、足利義昭説 陰謀将軍が備後の鞆の浦から5、本願寺教如説 仏敵 第六天魔王信長6、安国寺恵瓊説7、朝廷・公家
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【本能寺の変、本因坊算砂】天正 10 (1582) 年6月本能寺の変前夜に鹿塩利賢 (のちの好敵手利玄坊とは別人) の紹介で織田信長に召し出され、鹿塩との対局で三劫(コウ)を生じたと伝えられる。
【織田信長「そちはまことの名人なり」】1578年(天正6年)上洛した織田信長が寂光寺に立ち寄って僧、日海(後の本因坊算砂)を引見した。このとき信長に囲碁の腕前を披露した所、織田信長は「そちはまことの名人なり」と褒め讃え、これが「名人」の用語の起源とされる。
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【信長の孤立、安土城】
天正七年、安土城、天主完成時より信長の孤立は極まる。天主5層八角形の仏教建築、天主5層は金閣の楼閣建築、信長は家臣団から屹立。謀反から始まり謀反に終わる。正義は信長にあり。「復讐は正義の実現である」。天正10年、本能寺の変の13日後、天主炎上。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主閣、地上5階地下2階。
7階、信長の部屋、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。天正十年6月2日、本能寺の変の後、8日後、炎上する。太田牛一『安土日記』『信長公記』
【安土城】天正4(1576)年に築城を開始。普請総奉行丹羽長秀、奉行森可成、天正5(1577)年5月11日、天主完成、5月27日、安土城にて安土宗論。結構は山城から平城に移行する過渡的形式、天正7年(1579年)に石造 5層 7重の天守閣を中核とする城完成。安土城、総見寺、天正9 (1581) 年頃、安土城郭内に信長が自らの菩提寺として創建。

【織田信長と天下三肩衝】信長が入手当時、「初花肩衝」は「新田肩衝」に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていた。信長は当時「楢柴」を所持していた島井宗室に対して献上するよう申し入れていた。本能寺で、三肩衝を披露する。本能寺の変の前日。
――
【織田信長の言葉】攻撃を一点に集約せよ。臆病者の目には、常に敵が大軍に見える。必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。器用というのは、他人の思惑の逆をする者だ。人城を頼らば城人を捨てん。仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事をやるのは、雑兵だ。

【織田信長の価値観】1、天下第一の名人。美しい人。卓越性のある人。2、役に立つ人。3、地位、肩書き、外面だけで役立たずな人。詐欺師。地位と権力の奴隷。4、地位、肩書、権力を悪事に使う人。
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★参考文献
織田信長、元亀の争乱。武田信玄の死。絶世の美女、生駒吉乃・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2oacbQH
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2CQlxoY
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2FkeiJX
織田信長、天下布武、知的で革命的。既存の階級社会、価値観を否定・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2MP00UY
織田信長、復讐する精神、卓越した情報力、壮絶な精神・・・『戦う知識人の精神史』
https://bit.ly/2x8ZNBm
織田信長 安土城、琵琶湖のほとりに聳える、築城した3つの城
https://bit.ly/2tNV0Yd
孤高の思想家と藝術家の苦悩『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
【運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー】トロイの王子パリスは、3人の女神からアプロディーテを選択し、スパルタの王妃ヘレンをつれ去り、アカイア軍の総攻撃を受け、トロイは滅亡する。傾国の美女、ヘレネー。
アトレウス王家、血族の抗争、エウリピデス『オレステス』・・・トロイア戦争の起源
https://bit.ly/2ssTE40

和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級資料』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団、派閥と人間関係』中公新書
藤田達生『謎解き本能寺の変』講談社現代新書
今谷明『信長と天皇』講談社現代新書
本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い』祥伝社新書
谷口克広『天下人の父、織田信秀』祥伝社新書
小島毅『織田信長 最後の茶会~「本能寺の変」前日に何が起きたか~』光文社新書2013
『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』中公新書

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