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2018年9月25日 (火)

「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-」・・・醍醐寺三宝院、織田信長のために祈祷する

Daigoji2018_0大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第157回
醍醐寺の黄衣の12人の僧侶が、法螺貝を吹いて来て「薬師如来、日光菩薩、月光菩薩」の前で法要、読経した。サントリー美術館が寺院のようである。醍醐寺の枝垂れ桜を思い出す。桜満開の京都、仁和寺に滞在して花盛りの密教寺院、禅宗寺院をめぐり歩いた日々。醍醐寺三宝院、桃源郷の庭園。如意輪観音は、如意宝珠を手にもつ密教変化観音である。如意宝珠は人の願いをかなえる。
密教僧は、開運招福、学問成就、健康長寿、怨敵調伏、大願成就、を祈る。高貴な精神は、聖なる目的を達成するために、敵を滅ぼさねばならない。真言密教の真言と秘法は、苦悩する人のために、祈祷、救済する。『戦う知識人の精神史』
空海は、大同元年(806年)10月、唐から帰国し真言密教の経典、秘法を日本に伝えた。だが中国においては、密教は滅びた。醍醐寺は、戦国時代、織田信長のために祈祷した。
――
【醍醐寺三宝院 天正元(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信。「天下布武」印がある。
【織田信長 天正元年】三方が原の戦い、信長と家康は信玄を迎え撃つが敗退。だが、信長包囲網に参加すべく上洛する武田信玄は死す(1573)。信長包囲網、瓦解。
【醍醐の花見】1598年(慶長3)3月15日,京都の醍醐寺三宝院で豊臣秀吉が花見の宴を催した。この年8月に秀吉が病死した。
高貴な精神は、聖なる目的を達成するために、敵を滅ぼさねばならない。悪と戦い生き残らねばならない。遍在する悪と戦う知的で革命的な精神は、知恵と愛が根源である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』
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★展示作品の一部
国宝「薬師如来坐像」醍醐寺、平安時代10世紀
国宝「虚空蔵菩薩立像」醍醐寺、平安時代10世紀
「如意輪観音坐像」醍醐寺、平安時代10世紀
「織田信長黒印状」醍醐寺、安土桃山、16世紀、天正元(1573)年か。(醍醐寺文書聖教558函36号)醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状。「天下布武」の印が捺されている。三宝院から戦陣の信長に「祈祷の巻数」が送られ、それに対する返書。密教の祈祷を修法した「祈祷の巻数」は護符である。信長が出した礼状である。筆跡は、信長の祐筆を長年務めた武井夕庵のものと思われる。天正三年以降、祐筆は楠長諳に移行する。醍醐寺には、この他「織田信長朱印状」醍醐寺、安土桃山、1572年(醍醐寺文書聖教24函102号)がある。*『京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-』図録
空海筆「大日経開題」9世紀。
「金天目・天目台」桃山時代・16世紀、醍醐寺第80代座主の義演が秀吉の病気平癒を祈願した褒美として与えられた品。
快慶「不動明王坐像」1203年
「醍醐花見短冊」安土桃山、慶長三年1598年
足利尊氏筆「理趣経」南北朝1357年
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★参考文献
空海の旅 旅する思想家、美への旅
https://t.co/HPPpp3e5iL
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
https://bit.ly/2zsD05T
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
https://t.co/MIXigqe3xH

大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
『京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-』図録2018
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第1章 聖宝、醍醐寺を開く
平安時代の貞観16年(874)、天智天皇の流れをくむ聖宝は、東大寺において諸宗を学んだのち、醍醐味の水が湧き出る笠取山を見出し、草庵を結んで准胝・如意輪の両観音菩薩像を安置しました。醍醐寺の始まりです。
その後、醍醐寺は醍醐天皇をはじめ歴代天皇の帰依を受け、笠取山上に薬師堂や五大堂を加えて伽藍(「上醍醐」)を整えながら、その山裾にも伽藍(「下醍醐」)を展開し、開創から数十年のうちに大規模な寺観を備えていきました。
本章ではまず、聖宝の肖像や伝記、縁起をはじめ、醍醐天皇御願として聖宝により造り始められた上醍醐の薬師堂本尊の国宝《薬師如来坐像および両脇侍像》や、日本における如意輪観音像の代表作の一つである重要文化財《如意輪観音坐像》の名品によって、醍醐寺の草創期を概観します。
第2章 真言密教を学び、修する
加持祈禱や修法(儀式)などの実践を重視した醍醐寺は、その効験によって多くの天皇や貴族たちの心をとらえました。真言密教の二大流派のうち小野流の拠点となり、多くの僧が集まる根本道場と位置付けられた醍醐寺には、修法の本尊として欠くことのできない彫刻や絵画、修法に用いる仏具、修法の手順や記録などを記した文書や聖教などが蓄積されていきました。今に伝わる寺宝の数々は、千年以上もの間、醍醐寺が人々の願いに応えて修法を続けてきたことを示しています。
本章では、仏像と仏画の名品を中心に、それらが本尊とされた場である修法と合わせてご紹介します。加えて、仏像仏画の研究および設計図ともいえる白描図を展示することで、有機的につながる密教美術の世界観をご覧いただきます。
第3章 法脈を伝える―権力との結びつき―
修法が多く行われるようになると、各密教僧の間で異なる修法次第が生まれ、醍醐寺内でもいくつかの法流が形成されました。その中で中心となったのは、第十四代座主の勝覚が創建した醍醐寺三宝院を拠点とする三宝院流です。同院の院主は醍醐寺座主を兼ねることも多く、足利尊氏の政権における賢俊や、足利義満以下三代の将軍に仕えた満済など、彼らが座主として時の為政者から帰依を受けることで、寺は繁栄を遂げてきました。
本章では、法脈を形成した祖師像や、師から弟子へ伝えられる諸尊の修法について編集した記録などによって、法脈の相承を紹介するとともに、天皇や時の為政者の文書・書跡によって、醍醐寺の繁栄の歴史をひもといていきます。
第4章 義演、醍醐寺を再びおこす
16世紀末に第八十代座主となった義演(1558~1626)は、豊臣秀吉などからの保護を受け、戦乱により荒廃した伽藍の復興整備を進めました。秀吉最晩年の慶長3年(1598)春に催された「醍醐の花見」は、安土桃山時代の華麗な文化を象徴的に表すできごととして広く知られます。また義演は、醍醐寺伝来の厖大な古文書・聖教の書写整理を行いました。『義演准后日記』には、近世初期の変革期の京都において、義演と醍醐寺が重要な役割を果たしていたことが克明に記されています。
本章では、秀吉による醍醐の花見に関連する作例から、慶長年間に移築、造営された三宝院障壁画の金銀に彩られた襖絵、俵屋宗達をはじめとする諸流派の絵師が描いた絵画など、当時の醍醐寺の繁栄を伝える華やかな美術をご紹介します。サントリー美術館
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★「京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-」
サントリー美術館、2018年9月19日(水)~11月11日(日)
九州国立博物館 2019年1月29日(火)~3月24日(日)

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