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2024年12月10日 (火)

英一蝶、波乱万丈の生涯・・・運命との戦い

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第385回

【藝術家と思想家、運命との戦い】藝術家と思想家は、運命と戦う。理想と思想をもつ人は運命と戦い、現実界と理想の狭間に、美の潮流を生み出す。旅する思想家は、美の源泉に旅し、美の根拠に遡る。精神文化が栄えた地に立ち、精神の香りをまとう。
【英一蝶(1652~1724)波乱万丈な生涯】一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪。宝永6年(1709)、宝永6年(1709)、綱吉死去にともなう将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻る。三宅島での生活は47歳から58歳までの足かけ12年におよび、〈島一蝶〉。
【英一蝶の謎】一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪。綱吉死去で江戸に戻る。一説、第五代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」違反。【河野元昭説】遠島は死罪に次ぐ重罪で、徳川幕府の掟にそむいた者が対象、不受布施法華宗はそれにあたり、幕府は法華宗の僧や門徒を弾圧した。一蝶は家付流人で妻帯し、支援もあって恵まれた流人。安村敏信館長が申される島一蝶のプロデューサーは、宝井其角。3、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の縁者を遊所に誘い、遊女を身請けさせた。
【英一蝶(1652~1724)、多賀朝湖】英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれた。父の多賀白庵(伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医。狩野探幽の弟・安信に師事、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむ。松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむ。
英一蝶(1652~1724)英一蝶、61歳、涅槃図を描く72歳で死す。仏涅槃図、1713ボストン美術館
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
【光悦の謎(1558-1637)】本阿弥光悦は俵屋宗達とどこで出会ったのか。なぜ楽焼の田中常慶に習ったのか、古田織部に茶の湯を学んだのか。元和元年(1615年)徳川家康から鷹峯の地を拝領したのはなぜか。豊臣家が滅びた元和元年凱旋の家康から鷹峯に東西ニ百間の土地を与えられ一族郎党、五十五軒の屋敷を構え移り住み洛中と往還したのはなぜか。本阿弥家の名は、一遍上人の遊行念仏、南無阿弥陀仏に由来する、なぜ日蓮法華衆に属したのか。雁金屋、尾形光琳・乾山はなぜ光悦の影響を受けたのか。
本阿弥光悦の大宇宙・・・現世即、常寂光土
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-2af811.html
「没後300年記念 英一蝶」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_4/index.html
英一蝶、波乱万丈の生涯・・・運命との戦い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/12/post-22e347.html
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英一蝶(1652~1724)は元禄年間(1688~1704)前後に、江戸を中心に活躍した絵師である。はじめは狩野探幽の弟・安信のもとでアカデミックな教育を受けるが、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出した。この新しい都市風俗画は広く愛され、一蝶の画風を慕う弟子たちにより、英派と呼ばれる一派が形成された。他にも、浮世絵師・歌川国貞のように一蝶に私淑した絵師は多く、後世にも大きな影響を与え続けた。また、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむなど、幅広いジャンルで才能を発揮している。
加えて、その波乱万丈な生涯も人気に拍車をかけた。一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪になるという異色の経歴を持つ。宝永6年(1709)、将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻るが、島で描かれた作品は〈島一蝶〉と呼ばれ、とくに高く評価されている。そして江戸再帰後は、「多賀朝湖」などと名乗っていた画名を「英一蝶」と改めた。
2024年は一蝶の没後300年にあたる。この節目に際し、過去最大規模の回顧展を開催。瑞々しい初期作、配流時代の貴重な〈島一蝶〉、江戸再帰後の晩年作など、各地に残る優品を通して、風流才子・英一蝶の画業と魅力あふれる人物像に迫る。
第1章 多賀朝湖時代
英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれた。父の多賀白庵(はくあん・伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医をしており、一蝶が15歳(あるいは8歳)のときに、藩主に伴い一家で江戸に下りました。母の姓は一説に「花房」であったとされ、島流しから江戸に戻った後に名乗る「英」の氏は母方に由来すると考えられています。
狩野宗家の狩野安信に入門し、江戸狩野派の高い絵画技術と、古典に関する幅広い教養を身に付けた一蝶は、次第に狩野派の枠を飛び出し、独自の絵画世界を確立していきます。生き生きとした人物描写と、ユーモアあふれる視点、狩野派仕込みの確かな画技が合わさった唯一無二の風俗画によって、一蝶は一躍人気絵師へと上り詰めました。また、古典画題にひねりを加えた戯画も多く、安信門下で得た知識を一蝶ならではの表現へと昇華させています。
このような新鮮な感性は、俳諧を通して培われたと推測されます。20、30代の頃に松尾芭蕉に学び、俳諧師の宝井其角(たからいきかく)・服部嵐雪(はっとりらんせつ)らと生涯親しく交流した一蝶は、自らも暁雲(ぎょううん)という号で複数の句を残しています。俳諧の機知や滑稽味に富んだまなざしは、一蝶の絵師としての姿勢にも大きな影響を与えました。
多様な作品を手掛けた一方、仏画、風景画、花鳥画のような王道の主題にも正面から取り組んでおり、狩野派絵師としての自負を強く持ち続けていたことが分かります。
本章では、「多賀朝湖」と名乗っていた時期の一蝶が、狩野派に基盤を持ちながらも、風俗画家として能力を開花させていく様子を追います。また、俳諧の分野での活動も紹介し、そのマルチな才能に焦点を当てます。
第2章 島一蝶時代
40代ですでに絵師として不動の人気を得ていた一蝶は、突然悲劇に見舞われます。第五代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」を皮肉った流言に関わった疑いで捕らえられ、元禄11年(1698)、三宅島へ流罪となります。ただし、この事件の真犯人はすぐに捕まったため、実際の理由は別にあったと考えられています。【一番有力な説は、江戸吉原に出入りし幇間(ほうかん・太鼓持ち)として大名などと交流していた一蝶が、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の縁者を遊所に誘い、遊女を身請けさせた】という理由な どで、幕府から目を付けられていたというものです。島流しは原則無期であり、一蝶も二度と江戸の地を踏めないことを覚悟したと思われます。しかし幸運なことに、宝永6年(1709)、綱吉死去にともなう将軍代替わりの恩赦によって、一蝶は江戸への帰還を果たします。
配流中の作品は、江戸の知人たちからの発注によるものと、三宅島や近隣の島民のために制作したものの二つに大別されます。前者は遊興に取材した風俗画が多く、江戸から送られてきた貴重な紙や絵具を丁寧に使用した、華やかな画風で知られます。一方、後者は神仏画や吉祥画など、信仰関連の作品が大半を占め、堅実で穏やかな作風が特徴です。
三宅島での生活は47歳から58歳までの足かけ12年におよび、〈島一蝶〉と呼ばれる、一蝶の画業を象徴する作品が多数生まれました。本章では、配流中に描かれた〈島一蝶〉の傑作を通して、その制作の様子をご紹介します。
展示作品の一部
重要文化財 布晒舞図 英一蝶 一幅 江戸時代 17~18世紀
遠山記念館 【展示期間:10/16~11/10】
吉原風俗図巻(部分) 英一蝶 一巻 元禄16年(1703)頃
サントリー美術館 【通期展示(場面替あり)/本場面の展示期間:10/16~11/10】
神馬図額 英一蝶 一面 元禄12年(1699)頃東京・稲根神社 【通期展示】
第3章 英一蝶時代
配流先の三宅島から江戸へ奇跡的に戻った一蝶は、画名を「英一蝶」に改め、精力的に制作に励みます。名の由来は、中国戦国時代の思想家・荘子の「胡蝶の夢」で、島での生活や恩赦の知らせが夢か現実かと思い悩む心情を、この説話になぞらえたとされています。
再帰後は「今や此の如き戯画(風俗画)を事とせず」と宣言し、一蝶の代名詞ともいえる風俗画から離れる決意を固めます。その言葉を裏付けるように、謹直な仏画、狩野派の画法を順守した花鳥画や風景画、古典的画題に実直に取り組んだ物語絵や故事人物画などが増えていきます。一方で、風俗画の依頼は絶えなかったようで、都市や農村に生きる人々の営みに、一蝶ならではの諧謔味を加えた《雨宿り図屛風》や《田園風俗図屛風》のような大作も複数残されています。また、古典的主題をアレンジした戯画も引き続き描いており、江戸再帰後も生来の洒落っ気は健在であったことをうかがわせます。なお、親友の其角や嵐雪は配流中に亡くなっていたため再会は叶いませんでしたが、俳諧との関わりは継続しており、様々な俳書に挿絵を寄せています。
一蝶は享保9年(1724)、73歳でこの世を去りました。辞世の句「まぎらはす 浮き世の業(わざ)の色どりも 有りとや月の薄墨の空」からは、生涯を風俗画に捧げた一蝶の強い自負が感じられます。
展覧会を締めくくる本章では、晩年期の優品や俳書を通じて、卓越した才能と洗練された美意識で人々を魅了した「風流才子」こと英一蝶の画業と人となりを浮き彫りにします。
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「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_4/index.html

2024年12月 1日 (日)

「カナレットとヴェネツィアの輝き」18世紀ヴェドゥータの巨匠・・・美しきもの見し人は


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Canaletto-1760-1-2024
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第384回
灼熱の夏のウィーン、ベル・ヴェデーレ宮殿でクリムト「口づけ」をみると、カナレットのヴェドゥータが壁面に飾られている。貴族たちの子弟が、イタリア、地中海都市に知恵と学問の源泉を求めて旅した古き良き時代の思い出である。アウグスト・フォン・プラーテン『美しきもの見し人は』を思い出す。
美しきもの見し人は、はや死の手にぞわたされつ
世のいそしみにかなわねば、されど死を見てふるうべし
美しきもの見し人は

愛の痛みは果てもなし、この世におもいかなえんと
望むはひとり痴者ぞかし、美の矢にあたりしその人に
愛の痛みは果てもなし

げに泉のごとも涸れはてん、ひと息ごとに毒を吸い
ひと花ごとに死を嗅がむ、美しきもの見し人は
げに泉のごとも涸れはてん
アウグスト・フォン・プラーテン『戦慄に満ちた美への賛歌、もしくは悲歌』生田春月訳
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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本展はヴェドゥータの巨匠カナレット(1697~1768年)の全貌を紹介する日本で初めての展覧会。スコットランド国立美術館など英国コレクションを中心に、油彩、素描、版画など約60点で構成する。カナレットによる緻密かつ壮麗なヴェネツィアの描写を通じ、18世紀の景観画というジャンルの成立過程をたどるとともに、その伝統を継承しヴェネツィアの新たなイメージを開拓していった19世紀の画家たちの作品もあわせて紹介する。
【カナレット=ジョヴァンニ・アントニオ・カナルGiOVANNNI ANTONIO CANAL 1697-1768】
カナレットの本名はジョヴァンニ・アントニオ・カナル。1697年、劇場の舞台美術家を父にヴェネツィアに生まれた。1719年、オペラの舞台美術の仕事のため父に伴いローマへ赴き、そこでこの地の景観画家とも知り合った。生地ヴェネツィアの陽光きらめく都市景観を鮮やかに描き出した景観画「ヴェドゥータ」で名を馳せ、とりわけ英国のパトロンに恵まれて英国人グランド・ツアー客に競って求められました。1746年からは英国に長期滞在し、現地の景観も描いている。1768年、故郷ヴェネツィアで没した。
【カナレットのウェドゥータ】(都市景観画)
カナレットがヴェネツィアで活動を始めると、彼の作品はこの地を【グランド・ツアー】(有力な貴族の子弟が見聞を広めるために欧州各地を周遊する長期旅行。数か月から数年に及ぶ。)】で訪れた英国人旅行客にとりわけ人気を博し、旅の記念としてこぞって求められるようになる。カナレットは、ジョゼフ・スミスをはじめとする同時代の有力な英国人のパトロンに恵まれ、今も英国には数多くのカナレット作品が遺される。第2章では主に英国に数多く残る作品群からカナレットの業績が紹介される。
カナレットがヴェドゥータを描き始めたのは1719年頃からとされ、当初は光と影の効果を重視した雰囲気の描写が特徴的でした。それが次第に、すっきりと澄んだ空に、定型的な水の波紋、定規を用いて堅固に描かれた建物といった画風が定着していく。また、彼は画面のあちらこちらに様々な仕草の人物を好んで描くようになった。
ヴェネツィアに生まれヴェネツィアに没したカナレットの描く、整然とした街並み、輝く水面、華やかな祝祭の情景は、同地の典型的イメージとして定着するほど絶大な人気を博した。
ヴェドゥータの画家たち
カナレットの影響を受けた18世紀のヴェネツィアの画家たち。地誌的に正確に描かれたヴェドゥータ、想像力を駆使し構成された架空の景観画カプリッチョ(綺想画)、いずれもカナレットの影響のもと、異なるアプローチによって数多の作品が制作されていきます。カナレットの甥であるベロットはヴェネツィア国外で各都市のヴェドゥータを数多く制作。
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展示作品の一部
カナレット《サン・ヴィオ広場から見たカナル・グランデ》1730年以降 油彩/カンヴァス 65.0×83.8cm スコットランド国立美術館 © National Galleries of Scotland
カナレット《カナル・グランデのレガッタ》1730–1739年頃 油彩/カンヴァス 149.8×218.4cm ボウズ美術館、ダラム The Bowes Museum, Barnard Castle, Co. Durham, England/ヴェネツィアを彩る祭りの一つであるレガッタは、カナル・グランデを舞台に行われるボートレース。時に高名な賓客を歓迎するためにも開催された
カナレット《サン・マルコ広場》1732–1733年頃 油彩/カンヴァス 61.0×96.5cm 東京富士美術館 © 東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom
カナレット《ロンドン、ラネラーのロトンダ内部》1751年頃 油彩/カンヴァス51.0×76.0cm コンプトン・ヴァーニー、ウォリックシャー © Compton Verney / Bridgeman Images/742年にロンドン市内に開園した遊興施設「ラネラー」の目玉であったロトンダの内部を緻密に描いているカナレット《昇天祭、モーロ河岸のブチントーロ》1760年 油彩/カンヴァス 58.3×101.8cm ダリッジ美術館、ロンドンDulwich Picture Gallery, London/キリスト昇天祭はヴェネツィアの祝祭の中でも「海とヴェネツィアの結婚式」が行われる重要なもので、本作ではブチントーロと呼ばれる御座船に乗ったドージェ(元首)が描かれている。
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参考文献
ルーヴル美術館展 ―地中海 四千年のものがたり・・・ギリシア文化の輝き
地中海 四千年のものがたり・・・藝術家たちの地中海への旅
ルネサンス年代記 レオナルド最後の旅、フランソワ1世
大久保正雄「愛と美の迷宮、ルネサンス、メディチ家と織田信長」
ラファエロ、1505年、レオナルドに会う
孤高の藝術家、ミケランジェロ・・・メディチ家の戦いと美の探求、プラトンアカデミー
メディチ家の容貌、ルネサンスの美貌 理念を追求する一族
「レオナルド×ミケランジェロ展」三菱一号館美術館・・・レオナルド「レダと白鳥」
ルネサンス年代記 ボッティチェリ ルネサンスの理念
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第1巻、ギリシアの神々、ローマ帝国、秦の始皇帝、漢の武帝、飛鳥、天平、最澄と空海
宗教の謎、国家と宗教の戦い、第2巻、アカデメイア、ルネサンス、織田信長

「カナレットとヴェネツィアの輝き」18世紀ヴェドゥータの巨匠・・・美しきもの見し人は
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/12/post-7e8401.html

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「カナレットとヴェネツィアの輝き」、SOMPO美術館、10月12日(土)〜12月28日(土)

2024年11月26日 (火)

特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第383回
 
美術探訪、美への旅、「はにわ 挂甲の武人」ひとみの謎・・・見返り鹿。大久保正雄
はにわの最高傑作「埴輪 挂甲の武人」が国宝に指定されてから50周年を迎える2024年秋、東京国立博物館で特別展「はにわ」が開催される。本展では、全国各地から東京国立博物館に約120件もの選りすぐりの至宝が空前の規模で集結。素朴で本質的な人物、愛らしい動物から、精巧な武具、家に至るまで、埴輪の魅力が満載な展覧会。
とくに注目すべきは、ひとみである。素朴な人物、挂甲の武人、踊る人々、愛すべき動物、犬、馬、穴が開いた眼、ひとみは、不思議な表現である。シュメール美術、ガンダーラ彫刻、エジプト彫刻、ギリシア彫刻、アルカイック・スマイル彫刻、どの美術と比べても、比類なく、シンプルで、引き込まれる。穴の開いた空間が心を表現している。ひとみの謎である。
現代彫刻、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)《眠れるミューズ》(1910–11年)のひとみを思い起こさせる。ブランクーシ彫刻は、概念ではなく、本質を表している。概念ではなく、本質である。概念は、言葉があって、はじめて存在する。
犬型埴輪をみると、母の愛犬、トイプードルを思い出す。愛犬は、ときどき家の門に佇み、門番をしていた。県犬養三千代家は、天皇の門番をしていたのか。犬のひとみも謎である。
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プロローグ 埴輪の世界、古墳時代3世紀から6世紀
埴輪が作られたのは、古墳時代の3世紀から6世紀にかけて。日本列島で独自に出現、発達した埴輪は、服や顔、しぐさなどを簡略化し、丸みをもつという特徴があり、世界的にもその珍しい造形と評価されている。プロローグでは東京国立博物館の代表的な所蔵品の一つ「埴輪 踊る人々」を紹介。
この埴輪は、東京国立博物館が創立150周年を機に国立文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行いました。2024年3月末に修理が完了し、本展が修理後初のお披露目となります。
第1章 王の登場 古墳時代前期(3~4世紀)司祭者、中期(5世紀)武人、後期(6世紀)官僚的
埴輪は王(権力者)の墓である古墳に立てられ、古墳から副葬品が出土する。副葬品は、王の役割の変化と連動するように、移り変わる。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割で、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割であり、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王から配布された。
各時期において、中国大陸や朝鮮半島と関係を示す国際色豊かな副葬品も出土する。ここでは国宝のみで古墳時代を概説。埴輪が作られた時代と背景を顧みる。
第2章 大王の埴輪 倭の五王の陵、百舌鳥・古市古墳群、体大王の陵今城塚古墳
ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒する。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わります。古墳時代前期は奈良盆地に築造され、中期に入ると大阪平野で作られるようになる。
倭の五王の陵としても名高い、大阪府の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群は世界文化遺産に登録されている。そして後期には、継体大王の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造された。本章では、古墳時代のトップ水準でつくられた埴輪を、その出現から消滅にかけて時期別に見ることで、埴輪の変遷をたどる。
第3章 埴輪の造形
埴輪が出土した北限は岩手県、南限は鹿児島県。日本列島の幅広い地域で、埴輪は作られた。それらの埴輪は、当時の地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、また大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いが生まれた。
各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。第3章では各地域の高い水準で作られた埴輪や、独特な造形の埴輪を紹介する。
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間5体
埴輪で初めて国宝となった「埴輪 挂甲の武人」は頭から足まで完全武装しており、古墳時代の武人の様子を眼前に見せる。考古学的価値のみならず、その造形美から美術的にも高い評価を得ている。バンク・オブ・アメリカから支援を受け、2017年3月から2019年6月まで、およそ28か月間にわたり解体修理を実施した。第4章では、修理を経て得られた最新の研究成果や知見を紹介する。
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展示作品の一部
国宝 埴輪 挂甲の武人 群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
埴輪 踊る人々 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 古墳時代・6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金製耳飾 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
国宝 金銅製沓 熊本県和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵
家形埴輪 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 古墳時代・6世紀 大阪・高槻市立今城塚古代歴史館蔵
馬形埴輪 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県蔵(三重県埋蔵文化財センター保管)
重要文化財
埴輪 天冠をつけた男子 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 古墳時代・6世紀
福島県蔵(磐城高等学校保管) いわき市教育委員会
犬型埴輪 古墳時代・6世紀群馬県伊勢崎市 剛志天神山古墳出土
見返り鹿《鹿形埴輪》静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 古墳時代・5世紀 静岡・浜松市市民ミュージアム浜北
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挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」
会場:東京国立博物館 平成館
会期:2024年10月16日(水)~12月8日(日)
休館日:月曜日、ただし11月4日(月)は開館、11月5日(火)は本展のみ開館
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
東京国立博物館
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2660

巡回情報:九州国立博物館 2025年1月21日(火)~5月11日(日)
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著者 大久保正雄 プラトン哲学、美学、密教の比較宗教学、宗教図像学。著書『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社。
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土偶と埴輪
土偶は、今から約1万3千年前~約2千400年前の縄文時代に作られた。縄文時代の後に弥生時代、その次の古墳時代、3世紀後半~6世紀ころに埴輪が作られた。
土偶は、基本的には女性を表す。妊娠した姿も多く、安産や豊穣を祈った。精霊の姿。意図的に壊されたものも多い。祈りと祭祀に用いられた。
埴輪は古墳の副葬品、権力者の墓の周りに立てられた。功績を表している。河野正訓(東京国立博物館主任研究員)
参考文献
「縄文-1万年の美の鼓動」東京国立博物館・・・狩猟人の行動様式
https://bit.ly/2mG25my
特別展「はにわ 挂甲の武人」・・・見返り鹿のひとみ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-72d881.html

2024年11月11日 (月)

モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第382回
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。1926年86歳で死ぬまで、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
【モネ1840-1926】人物画を描かなくなったのは何故か。印象派展、止めたのは何故か。晩年の画風が抽象絵画なのは何故か。
【ゴッホ1823-1890】ひまわりを沢山描いたのは何故か。耳切事件1888は何故か。糸杉1889、描いたのは何故か。ピストル事件は何故か。
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【モネの謎】
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年パートナーのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
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【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
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【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
画像説明
クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》1897年 油彩/カンヴァス マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
モネ 睡蓮のとき2・・・絶望を超えて、朦朧派
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-952362.html
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展覧会概要
印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840-1926)は、一瞬の光をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体となって映し出されるその水面でした。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす“ 大装飾画” の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々です。
本展は、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開となる重要作を多数含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります。
みどころ
1.モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展
2.世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、 日本初公開作品7点を含む、厳選されたおよそ50点が来日
さらに、日本国内に所蔵される名画も加えた、 国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインアップ
3.モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]

2024年11月 3日 (日)

「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第381回
鸞翔鳳集【天下一の才能を集める織田信長】千宗易、狩野永徳、軍師、沢彦宗恩、祐筆、武井夕庵、野面積み、穴太衆、本因坊算砂、阿弥陀寺、清玉上人、弓衆、太田牛一【天下布武】武の七徳を備えたものが天下を治める。七徳は、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ
織田信長と細川家
織田信長と細川家は、厚い信頼関係で結ばれていた。永青文庫が所蔵する信長の手紙のほとんどは、細川家初代・藤孝(1534~1610)に宛てて出された。藤孝は、はじめ13代将軍・足利義輝、15代将軍・足利義昭に仕えていたが、義昭が信長と対立すると、(元亀3年〈1572〉)同い年の信長を主君として選び、戦の最前線で明智光秀らとともに信長を支え続けた。さらに藤孝の嫡男・忠興(1563~1645)も、(天正5年〈1577〉)15歳のときに大和の片岡城を攻略、信長からその働きが認められて自筆の感状を受ける。忠興は信長の斡旋により光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻として迎え、細川家と光秀は姻戚関係となった。天正8年(1580)8月 信長、ついに大坂本願寺を屈服させ、天下布武を実現。藤孝・忠興、丹後入国。天正9年(1581)5月 羽柴秀吉、因幡鳥取城攻めを開始。
天正10年(1582)3月 武田氏滅亡。4月 信長、藤孝に備中出陣の準備を指示。詳細は光秀に伝えさせる。6月2日 本能寺の変。光秀、信長に謀反。6月9日 光秀、藤孝・忠興父子を味方に誘う手紙を送るも、拒否される。6月13日 秀吉、山崎合戦で光秀を破る。
室町幕府滅亡の1年前「織田信長書状」細川藤孝宛(元亀3年〈1572〉)8月15日
「織田信長自筆感状」細川忠興宛(天正5年〈1577〉)10月2日
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「あなただけが頼りです」…すがる信長、室町幕府滅亡のキーパーソンに宛てた“未知の書状”が発見! 永青文庫で10月に公開
掲載日2024/09/09 16:15 著者:佐々木 ヒサ
永青文庫の収蔵庫から、熊本大学永青文庫研究センターとの共同調査によって60通目となる織田信長の書状が発見され、このほど文部科学省で記者発表が行われました。2022年8月に発見されたこの未知の文書は、信長が“室町幕府の滅亡”の前年にあたる元亀3年(1572年)8月15日に、細川藤孝に出したもの。そこには、元亀4年7月における足利義昭の京都没落の背景に関わる、貴重な新情報が記されていました。
細川護光さん(公益財団法人永青文庫理事長)、稲葉継陽さん(熊本大学永青文庫研究センター長)
■室町幕府滅亡の約1年前の織田信長書状
東京・目白台にある永青文庫は、細川藤孝(幽斎)を初代とする肥後熊本54万石を治めた細川家に伝わる数多くの重宝を所蔵する、東京で唯一の大名家の美術館。なかでも所蔵する細川家伝来の信長の手紙59通は、すべてが国の重要文化財に指定されるほど貴重なものです。信長の手紙は800通ほど現存しているとされますが、これほどの数が1カ所にまとまって伝わる例は他にありません。2022年に収蔵庫の歴史資料の共同調査で8月15日付けの細川藤孝宛織田信長書状1点が発見され、同館の信長の手紙のコレクションはあわせて60通に。これまでの59通のなかで一番古いものよりもさらに半年前の日付で、検討の結果この書状の年代は元亀3年、つまり室町幕府の滅亡、将軍足利義昭の京都没落の約1年前に書かれたものと断定されました。
【新たに発見された60通目の信長の手紙。「織田信長書状」細川藤孝宛(元亀3年〈1572〉)8月15日/永青文庫蔵】
この書状で、信長は藤孝にこのように伝えています。
八朔(8月1日)の祝儀の詞を承りました。わけても帷子(かたびら)2着を送っていただき、その懇切ぶりに感謝します。今年は「京衆」(※将軍義昭の奉公衆)は誰一人として手紙や贈物をよこしてきません。その中にあってあなたからは、初春にも太刀と馬とをお贈りいただきました。例年どおりにお付き合いくださって、この上なくめでたいことです。鹿毛の馬を贈ります。乗り心地は悪くないと思います。あなたには方々で骨を折っていただき心苦しいのですが、ここは、「南方辺」(※山城・摂津・河内方面)の領主たちを、誰であっても、信長に忠節してくれるのであれば、味方に引き入れてください。あなたの働きこそが重要なのです。なお、具体的には他の案件と一緒にお伝えします。
8月15日 信長から細川藤孝殿へ
これは、京都没落の前年から畿内領主たちへの藤孝の諜報活動が本格化していたことを記す、非常に大きな発見。“あなただけが頼りだよ、藤孝、頑張って!”という信長のメッセージも、従来のイメージを覆すものですが、将軍足利義昭と信長との対立から元亀4年(1573年)7月における“室町幕府の滅亡”にいたるまでの経緯として、【1】元亀3年の初頭には、信長と義昭側の奉公衆との対立がほとんど修復不能なまでに悪化していたこと、【2】義昭の側近中の側近であった藤孝ただ一人が信長と通じていたこと、そして【3】当時岐阜にいた信長は藤孝を頼り、藤孝を通じて山城(現京都府南部)から摂津・河内(現大阪府)方面の領主たちの信長方への組織化を、半年にも渡って進めていたことが、この文書から伺えます。
――
「室町幕府の滅亡」を実現したキーパーソン、細川藤孝
「どうしてこの文書が今まで誰にも気づかれずに、21世紀まで永青文庫の所蔵庫に眠っていたのか。まるでタイムカプセルを開けたみたい」と語った、熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽さん。これまでの文書で確認されていたよりもさらに前の状況が明らかになることで、信長の権力のあり方を大きく左右したキーパーソンとして、細川藤孝の存在もクローズアップされる。
細川藤孝という人物は、一体どんな人だった。室町幕府家臣の三淵家に生まれた藤孝は、13代将軍足利義輝の奉公衆として台頭し、義輝暗殺後にはその弟・義昭の側近として、義昭と信長を結び付けて正統幕府を再興する大仕事をやってのけました。義昭側奉公衆の中でただ一人、信長を選んで室町幕府滅亡を実現し、「本能寺の変」後には明智光秀とは結ばず豊臣秀吉を選び、最終的に徳川家康に仕えて国持大名に。このように、ひとつ選択を間違えば家が滅亡するような薄氷を踏む状況の中で、この時期の天下人全員に仕えた藤孝の慧眼と処世術には、目を見張るものがある。
「復古的な、天皇制的な国家の枠組みの中に大名たちを統合できるなら、天下人は誰でも構わないという、非常に透徹した政治を見る目を持った人物で、そんな人物は彼しかいない」というのが、稲葉先生による藤孝評。今回発見された文書はもちろんのこと、江戸初期にまで視点を広げて彼が成したことを位置づけて、この時期の政治史の中で評価することが重要。
永青文庫で秋季展「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」が開催
この新発見文書を含む全60通(うち59通が重要文化財)の信長の手紙が、10月5日から永青文庫の秋季展で公開されます。
【重要文化財「織田信長自筆感状」細川忠興宛(天正5年〈1577〉)10月2日/永青文庫蔵】“信長の手紙”といっても、当時は書記官である「右筆」が筆をとるのが原則で、信長本人がしたためたことが確実な手紙は1通だけ。豪快な筆運びが特徴の信長直筆、細川忠興に宛てた「織田信長自筆感状」も展示に登場。天正5年10月2日は細川忠興が信長から褒められた日!現存唯一確実な信長直筆の書状「織田信長自筆感状」。信長は豪快な筆跡で、忠興の大和片岡城攻めでの働きを称賛。
――
参考文献
細川家の至宝、珠玉の永青文庫コレクション・・・織田信長「天下布武」と菱田春草「黒き猫」
「あなただけが頼りです」…すがる信長、室町幕府滅亡のキーパーソンに宛てた“未知の書状”が発見! 永青文庫で10月に公開
プレスリリース
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
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令和6年度秋季展 熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」、永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)
2024年10月5日(土)〜12月1日(日)

2024年10月23日 (水)

モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第380回
1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。1926年86歳で死ぬまで、ジヴェルニーの庭を描き続ける。
クロード・モネ(1840年11月14日 – 1926年12月5日)86歳で死す。
【ル・アーブル】クロード・モネは1840年にパリの食料品店の次男として誕生。4歳のときにノルマンディー地域の港町ル・アーブルに引っ越し、18歳までここで暮らす。ル・アーブルという町はセーヌ川河口の大西洋岸に面した港町。モネは10代から地元で人気の似顔絵画家になる。似顔絵を偶然見つけた、ウジェーヌ・ブーダン。35歳のブーダンは18歳のモネに「君の似顔絵は本当に上手い。でも、もっと目を鍛えたほうがいい」クロード・モネ⦅ルエルの眺め⦆1858年。【パリ1858年】モネが画家になるためにパリに行くことに父親は猛反対する。アカデミー・シュイス入学。革新的な画家を多く輩出。カリカチュアのオノレ・ドーミエもシュイス卒。近代画家の父、ポール・セザンヌも卒業生。翌年に徴兵でアルジェリアに行く。チフスのためル・アーヴルに戻り、叔母が納付金を払ったため実質1年で徴兵は終わった。アーブルでヨンキントとブーダンと交流した後、【パリ1862年】22歳でパリに戻り、シャルル・グレールのアトリエへ。モネはここでルノワール、シスレー、バジルなどの画家と出会う。ルノワール、シスレー、バジルは「見たままを感覚的に描いた作品をつくろう」
【マネとモネ】
【1863年エドゥアール・マネ「草上の昼食」事件」】
エドゥアール・マネ『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』。1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。エドゥアール・マネ⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵、中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここで事件が起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」。当時はこれがタブー中のタブー。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていた。「古典主義に一石を投じた」【1865年モネ、サロンで入選】モネは、サロンで見事に入選を果たす。1865年『オンフルールのセーヌ河口』、1866年『緑衣の女』で入選。マネ1865年『オランピア』でサロンに入選。1869年、1870年は2年連続で落選。特に1870年に出品したモネ『ラ・グルヌイエール』。当時、水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。【1870年パートナーのカミーユと結婚】1873年小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはモネとカミーユの一枚を描いている。エドゥアール・マネ⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆1874年。
印象派1984へ
【1874年「第一回印象派展」開催】⦅印象・日の出⦆1872年。「頭の中で再構築した絵を描く」古典主義に反発。「見たままの風景を描く」印象派を目指す。経済的な成功もしなかった、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかしモネはマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催する。1876年、第2回印象派展で妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた。モネの浮世絵好きは有名、モネは喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上持っていた。1877年の第3回印象派展で『サン=ラザール駅』の連作を出品。しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮した。カミーユの体調が悪くなり、パトロン・オシュデが破産、モネは追いつめられた。【1879年、第4回印象派展】カミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作。モネ「日傘の女」1866オルセー美術館のモデルはカミーユと長男ジャン。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す】これ以後、人物画は少なくなる。
――
【モネ、絶望を超えて】1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳。1926年86歳まで生きる。
【ジヴェルニー】1883年春、42歳のモネは、フランス北部ノルマンディー地方のセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住む。〈積みわら〉の15点の連作を始める。【1980】モネは借りていた家と土地を購入。敷地を拡げて「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備する。「水の庭」では、睡蓮を栽培し、【1895、太鼓橋、完成】池に日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植える。1897-99年から300点の〈睡蓮〉に取り組む。【1909、睡蓮連作、個展】
【1899年からロンドンを訪れ】〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などの連作を3年かけて描く。ホテルに長期滞在、6つのカンバスに同時制作【1891年にエルネスト・オシュデが死去すると、1892年にモネとアリス・オシュデは正式に結婚した。モネは51歳、アリスは48歳】【1908年頃から、視覚障害】に悩まされるようになった。筆致は粗く、対象の輪郭は曖昧になり、色と光の抽象的なハーモニーが画面を占める。【モネは1912年白内障と診断】「ベートーヴェンが耳が聞こえないのに音楽を作曲したように、私は見えないのに絵を描く」と述べていた。【1914.74歳、カミーユとの子・長男ジャン、死す。】【1923、手術】【1926年86歳で死す】
【モネとカミーユの出会い】カミーユはモネのお気に入りのモデルだった。初めは家族に内緒で交際していた二人。家柄の違いから家族に交際を反対され、正式に結婚できたのは出会いから約5年後の1870年。モネは結婚後も、愛妻をモデルとした絵を何枚か描いた。【1879年9月5日カミーユ32歳で死す。このときモネ39歳】1926年86歳まで生きる。【1879年以後、人物像を描かなくなる】モネ『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になる。1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』等を出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」国立新美術館、2007
印象派 モネからアメリカへ モネ、絶望を超えて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-21e84b.html
クロード・モネ『日傘の女』・・・運命の女、カミーユの愛と死
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-2d7c.html
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
シュールレアリスムの夢と美女、藝術家と運命の女
http://platonacademy.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-62f4.html
モネ 連作の情景・・・人生の光と影
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-220389.html
モネ 睡蓮のとき・・・モネの生涯と藝術、絶望を超えて、失われた時を求めて
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-fcbd04.html
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「モネ 睡蓮のとき」マルモッタン・モネ美術館より、 モネ最後の挑戦 —— “光の画家 " 集大成となる、 晩年の制作に焦点をあてた 。モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
https://www.nmwa.go.jp/jp/
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「モネ 睡蓮のとき」国立西洋美術館、2024年10月5日(土)~2025年2月11日(火・祝)
【京都展】京都市京セラ美術館、2025年3月7日[金]-6月8日[日]
【豊田展】豊田市美術館、2025年6月21日[土]-9月15日[月・祝]

2024年10月14日 (月)

「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い

Louise-bourgeois-1997-mori-2024
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第379回

【ルイーズ・ブルジョワ 《蜘蛛》1997年】1932年、ソルボンヌを退学。ルイーズは芸術部門の最高学府エコール・デ・ボザールに入学する。父ルイは仕送りを打ち切った。なぜなら家業を継いだ際に役に立つ能力への投資だったからだ。家を出て、ルーブル美術館で働き始める。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】母はタペストリー修復工房を経営する。彼女にとって蜘蛛は、親でもあり、「親友」でもあり実母を象徴。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。彼女の自画像でもある「蜘蛛」。【毒親、父ルイの呪縛を解く】藝術は悪魔祓いエクソシズム。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ルイーズ・ブルジョワ(1911年パリ生まれ、2010年ニューヨークにて没)20歳1932年、母が死ぬ。エコール・デ・ボザールに入学。1938年、美術史家ロバート・コールドウォーターと結婚、ニューヨークへ移住。1982年ニューヨーク近代美術館で大規模個展。1993年ベネチア・ビエンナーレ・アメリカ代表。
20世紀を代表する最も重要なアーティストの一人。彼女は70年にわたるキャリアの中で、インスタレーション、彫刻、ドローイング、 絵画など、さまざまなメディアを用いながら、男性と女性、受動と能動、具象と抽象、意識と無意識といった二項対立に潜む緊張関係を探求。
ブルジョワは一生を通じて、見捨てられることへの恐怖に苦しみ。第一章で紹介する作品群は、この恐れが、母親との別れにまで遡ることを示唆している。ブルジョワは両義的かつ複雑性に満ちた「母性」というテーマのもと《自然研究》をはじめとする作品を制作する中で、母と子の関係こそが、将来のあらゆる関係の雛形になるという確信に至った。
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【毒親との戦い、父ルイ】父ルイは美貌の持ち主で、常にエレガントで見栄えよく着飾る人だ。しかし、見た目の良い経営者のナルシシストならではの闇があった。仕切りたがり屋でいじめっ子。常に他人をコントロールし、リーダーとして家族を操作することに喜びを感じていた彼は、毎日一家全員(当時、母方の兄弟やルイーズの従兄たちも一緒に暮らしていた)が食卓に揃わないと気が済まず、勝手に食卓でしゃべろうものなら無言でソーサーを投げつけることもしょっちゅう。食事のあとは、ひとりずつ歌や詩を強制的に披露させるなどやりたい放題だった。あるとき、父は食卓でオレンジの皮をナイフで人の顔や乳房や脚の形に器用にに切り抜いていき、人型の展開図にして見せた。その人型は両脚の間に丁度オレンジの芯が位置するようになっていた。それがルイーズだとふざけた。
【《ママン》表現された巨大な「蜘蛛」】ブルジョワ芸術を代表するモチーフ。彼女にとって蜘蛛は、ブルジョワにとって親でもあり、「親友」でもあった実母を象徴している。ブルジョワは、蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の身体から負の感情を解放するために作品を作っていると語る。本展では、いわば彼女の自画像ともいえる 「蜘蛛」をモチーフとした様々な作品が登場する。
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★展示作品の一部
ルイーズ・ブルジョワ《ママン》1999/2002年 ブロンズ、ステンレス、大理石 9.27× 8.91 ×10.23 m 所蔵:森ビル株式会社(東京)
ルイーズ・ブルジョワ《かまえる蜘蛛》2003年 パティナ、ブロンズ、ステンレス鋼 270.5×835.7×627.4 cm 撮影:Ron Amstutz コピーライト The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
おわりに
本展の副題「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」はハンカチに刺繍で言葉を綴った晩年の作品からの引用です。自らを逆境を生き抜いた「サバイバー」だと考えていたルイーズ・ブルジョワ。生きることへの強い意志を表現するその作品群からは、戦争や自然災害、病気など、人類が直面するときに「地獄」のような苦しみを克服するためのヒントが得られるかもしれません。
ルイーズ・ブルジョワ《無題(地獄から帰ってきたところ)》1996年 刺繍、ハンカチ 49.5×45.7 cm 撮影:Christopher Burke コピーライト The Easton Foundation/Licensed by JASPAR and VAGA at Artists Rights Society (ARS), NY
自身の版画作品《聖セバスティアヌス》(1992年)の前に立つルイーズ・ブルジョワ。ブルックリンのスタジオにて。1993年 撮影:Philipp Hugues Bonan 画像提供:イーストン財団(ニューヨーク)
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★参考文献
森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful”、図録 プレスリリース
父に“いらない子”と呼ばれたルイーズ・ブルジョワ【短期連載:アート界の毒親たち】
「女なんていらない」。父に呪われ虐げられた天才彫刻家がたどり着いた救いの境地。https://www.elle.com/jp/culture/ellelovesart30/g29842557/louise-bourgeois-and-her-toxic-father-191120/
「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」・・・毒親との戦い、悪魔祓い
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-90e3d1.html
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ハーバードの研究で「明確な目標と具体的な計画を設定して紙に書き残している人ほど、目標設定していない人に比べて10年後の収入が10倍になっていた」という結果があるけど、大谷翔平選手が高校時代に使った目標達成シートがまさにそれでしかない。
https://x.com/jinji_990/status/1838330216474907022
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★森美術館「ルイーズ・ブルジョワ展:、地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」“Louise Bourgeois: I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful” 
Mori Art Museum, 森美術館、2024年9月25日(水)~2025年1月19日(日)
https://www.mori.art.museum/jp/

2024年9月24日 (火)

「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、熱帯の光芒

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第378回

孤高の画家【燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや、田中一村】10代にして与謝蕪村の南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。東山魁夷と同期。40代以降、日展、院展、へ出展するが、落選。1958年50歳で奄美大島移住。15点の傑作。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。69歳で死す。
【田中一村(1908-1977)】17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976。1977年9月11日76歳で死す。
【不屈の画家、田中一村】一村は30歳の時、千葉へ移住。40代以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返す。公募展に入選した唯一の作品《白い花》青龍社展1947年39歳。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。1958年50歳で12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976を描き、69歳で死す。日曜美術館「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」1984年2月16日、放送された。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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田中一村(1908-1977) 17歳で東京美術学校日本画科に入学するが2か月で退学。南画家として出発。細密画にも挑む。30歳の時、父母と弟、死亡。千葉へ移住、農業しながら画家として活動。1947年39歳、『白い花』青龍展、入選。1958年50歳で奄美大島移住。大島紬の染色工として働き、漁港で魚を拾って生計を立てる。《不喰芋と蘇鐵》1973、《アダンの海辺》1976
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【田中一村の同時代人】高島野十郎、斉藤真一、東山魁夷、杉山寧
【高島野十郎】1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)本名は彌壽、字は光雄。東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館が初の回顧展が開かれた。『傷を負った自画像』1916
【斉藤真一】1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者。
【杉山寧】杉山 寧(1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。
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参考文献
【変貌する速水御舟】速水御舟(1883-1923)は、歴史画から出発、中国・宋代(11~13 世紀)の院体花鳥画、「折枝画」の様式、細密画、写実・象徴性・装飾性を融合、琳派の構図と装飾性へ到達する。

特別展 日本画に挑んだ精鋭たち ―菱田春草、上村松園、川端龍子から松尾敏男へ―
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-cc9c4e.html
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、熱帯の光芒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
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田中一村(1902-1977)は、生涯にわたって個展などのかたちで作品を発表することなく、画壇の活躍に絶望、絵を描き続けた日本画家。明治41年(1908年)栃木に生まれ、50代の時に奄美大島へと移住した一村は、亜熱帯の花鳥や風土を題材に、澄んだ光に満ちた独特の絵画を数多く残した。
特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」、過去最大規模となる一村の回顧展。奄美で描いた代表作《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》を筆頭に、神童と称された幼少期の絵画から、未完の大作、そして近年発見された初公開作品まで、250件超の作品を通して一村の全貌を紹介する。
第1章 東京時代:若き南画家として
一村の東京時代。栃木に生まれ、5歳の時に東京に移った一村は、彫刻師の父から絵画を学び、幼くして卓越した画才を示した。南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」。17歳で、東京美術学校(東京藝術大学)日本画科に入学するが、2か月後にで退学。「家事都合」。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。一村は、当時人気を集めていた近代中国の文人画家による吉祥的画題の書画に倣い、若き南画家として身を立てた。
その後、弟と両親を立て続けに亡くした20代の一村は、転居を繰り返し、自らの方向性を模索。この時期一村は空白期とされていた。それまでの南画的な作風から離れ、《椿図屏風》等、力作を生みだすなど、新境地へと歩みを進めた。数え8歳の《菊図》、南画家時代の《蘭竹図/富貴図衝立》、画風転換期に手がけられた《椿図屏風》がある。
第2章 千葉時代:長い模索期
一村の千葉時代。20代で相次いで家族を失った一村は、昭和13年(1938年)、30歳の時、親戚を頼って千葉に移った。周囲との繋がりや支えを得た一村は、身近な小景画や仏画、季節の掛物など、目にみえる相手に向けて丁寧に作品を手がける。
20年にわたる千葉時代の一村は、屋敷の障壁画一式を任されるような大きな仕事を受け、その過程で花鳥画に新境地を見出し、九州・四国・紀南を巡る旅ののち、開放感に溢れた色紙絵を描いた。
一村は40代半ば以降、日展、院展、展覧会へ出展するが、落選を繰り返した。公募展に入選した唯一の作品《白い花》、《千葉寺 春》千葉の風景画、千葉時代という長い模索期に手がけられた作品は無数にある。
第3章 奄美時代:豊かな自然を題材に
一村の晩年、奄美時代を紹介。昭和33年(1958年)、50歳の一村は、単身で奄美大島に移った。一度は千葉に帰るものの、覚悟を決めて再び奄美に戻り、紡工場で染色工として働きつつ、奄美の自然を主題とした作品を制作。最晩年には工場を辞めて制作に注力し、《アダンの海辺》をはじめとする主要な作品を数多く描いたとされる。本展では、《不喰芋と蘇鐵》や《アダンの海辺》、《奄美の海に蘇鐵とアダン》など、奄美時代の作品の数々を展示する。
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展示作品の一部
田中一村 《不喰芋と蘇鐵》 昭和48年(1973年)以前 絹本着色 個人蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《アダンの海辺》 昭和44年(1969年) 絹本着色 個人蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《奄美の海に蘇鐵とアダン》 昭和36年(1961年)1月 紙本墨画着色 田中一村記念美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《椿図屏風》 昭和6年(1931年) 絹本金地着色 2曲1双 千葉市美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
田中一村 《白い花》 昭和22年(1947年)9月 紙本金砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵
田中一村 《ずしの花》 昭和30年(1955年) 絹本着色 田中一村記念美術館蔵
コピーライト2024 Hiroshi Niiyama
https://www.tobikan.jp/index.html
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特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」東京都美術館
会期:2024年9月19日(木)~12月1日(日)

2024年9月18日 (水)

「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第377回
灼熱の秋、三井記念美術館に行く。ヒンドゥークシュ山脈、バーミヤン、ガンダーラ美術、ガンダーラの瑜伽行唯識学派(4~5世紀)に思いを馳せる。
バーミヤンはアフガニスタンの仏教遺跡。3~7世紀のクシャーナ朝時代のガンダーラ様式(2~3世紀)の系統にある岩肌を彫り抜いて巨大な仏像がかつて見られた。この地は唐の玄奘が訪れ、その著作『大唐西域記』に梵衍那国として記されている。断崖に造られた高さ55mと38mの二基の磨崖仏。ガンダーラの思想家、アサンガ(無着)『摂大乗論』、ヴァスヴァンド(世親)『唯識三十頌』、瑜伽行唯識学派(4~5世紀)の思い出。
【玄奘三蔵 (602〜664)】『西遊記』の三蔵法師のモデルとしてよく知られる唐の仏教僧。玄奘は、20年近くにわたり中央アジアからインドへ旅したが、インドに経典の原典を求めて旅する途中、630年頃にバーミヤンに滞在し、大仏の姿も実際に目撃した。玄奘の旅行記である『大唐西域記』には、二体の大仏を含めバーミヤンの信仰の様子が書かれている。玄奘『大唐西域記』にてバーミヤン東大仏を「釈迦仏」と明言している。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展覧会の趣旨
【バーミヤン遺跡】アフガニスタンの中央部を東西に走るヒンドゥークシュ山脈の中にあります。この地域は、古くからユーラシア各地の文化が行き交う「文明の十字路」とも呼ばれています。渓谷の崖に多くの石窟が掘られ、【東西二体の大仏】が聳えていた。大仏の周囲壁面には「太陽神」と「弥勒」の姿が描かれていた。
バーミヤン遺跡の石窟に造営された、東西2体の大仏を原点とする、【「未来仏」である弥勒菩薩】信仰の流れを、インド・ガンダーラの彫刻と日本の法隆寺など奈良の古寺をはじめ各所に伝わる仏像、仏画等の名品でたどる。なお2001年にイスラム原理主義組織・タリバンによって破壊された大仏の壁画を、調査時のスケッチと写真から作成した再現図を初公開する。
【「弥勒菩薩」】現在兜率天に住まい、釈迦入滅後の56億7千万年後にこの世に下生する、未来の救世主である。弥勒は2〜3世紀頃のガンダーラ地域において既に信仰され、その後バーミヤンを含む中央アジア、中国・朝鮮半島へと広がり。弥勒信仰の源流とアジアへの広がりがある。
『弥勒六部経』弥勒の上生・下生信仰を説いた、『法華経』類には弥勒が住む兜率天への往生と、阿弥陀如来が住む阿弥陀浄土への往生が説かれている。
バーミヤンの大仏と壁画は、2001年3月にイスラム原理主義組織・タリバンによって破壊されてしまいましたが、破壊以前に行われた調査時のスケッチと写真によって、このたび壁画の描き起こし図が新たに完成しましたので、東京にて初公開する。
バーミヤン遺跡とは
バーミヤン遺跡は、アフガニスタンの首都・カーブルから西北西に約120km、標高2500mの高地にあります。約1.3kmにわたる崖には、東西に高さ38mの「東大仏」と高さ55mの「西大仏」がそびえ立ち、800近い石窟群が掘られていました。
また、バーミヤンの地は、6世紀頃から交通の要所となり、多様な人々や文化が行き交い独自の文化が生まれ、「文明の十字路」とも称されている。
【バーミヤン遺跡の東西大仏】周囲には、壁画が描かれていた。東大仏の頭上には、ゾロアスター教の太陽神・ミスラの姿、一方西大仏の周囲には、弥勒が住まう兜率天の様子が描かれていたと考えられています。壁画は大仏とともに破壊されてしまいましたが、破壊前に行われた調査での写真・スケッチをもとに、新たに10分の1縮尺の描き起こし図が完成しました。本展覧会では、それら描き起こし図を東京にて初公開いたします。
【東大仏の頭上に描かれていた】のは、ゾロアスター教の太陽神・ミスラであるという説が有力視されている。インド地域においても、ミスラと同じ語源を持つミトラ神が古くから存在していましたが、紀元前2世紀頃にギリシアの太陽神・ヘリオスの図像がインドに伝わってからは、スーリヤが太陽神として後世まで信仰された。
【西大仏】玄奘が『大唐西域記』にてバーミヤン東大仏を「釈迦仏」と明言しているのに対し、西大仏の尊名については触れられておらず不明でしたが、壁画の内容から「弥勒仏」であった可能性が明らかとなった。
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大乗仏教を代表するもう一つの学派は、【唯識派】『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)はただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。4~5世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟がその代表的な思想家である。出典)
【唯識学派】切は心から現れるもの(識)のみであるという主張による。このような考えは、最古の経典『ダンマパダ』は「ものごとみな 心を先とし 心を主とし 心より成る」(藤田宏達訳)。
【唯識派の特徴】心とは何かを問い、その構造を追究した。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派と呼ばれる。
アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後にはたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。
アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(貯蔵庫)」(ālaya)である。
これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性をたもつ上で重要な役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこれによって解決された。
無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく存在であるという。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜいえるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体は認められない。はたして自業自得ということが成り立つのか。あるいは、過去の行為の責任を現在問うことができるのか。これは難問であった。
解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。いいかえれば因果の連鎖のうちに自己同一性の根拠が求められた。
しかし、業の果報はただちに現れるとはかぎらず時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力はどのようにして伝えられるのか。先の解答はこの点について、十分に答えていない。
深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象はアラヤ識の中で潜在余力となり、後の心の形成にかかわる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面にあらわれる心の流れを形成する。
これによって、「アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのか」という問題に対する最終的な解答が与えられた。
アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心のはたらきである。これは、通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心のはたらきである。そこで、この自我意識(manas末那識)は特別視され、独立のものとみなされた。
こうして【唯識派】「十八界」において立てられた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識(manas末那識)、第八のアラヤ(ālaya)識vijñanaが立てられ、心は層からなる統体とみなされ、層構造をもつ心から生まれ出る表象(vijñapti)として一切の現象は説明された。一切は表象としてのみある(vijñaptimātratā)。
しかし、ひとは表象を心とは別の実在とみなす。こうして、みるものとみられるものに分解される。このようにみざるをえない認識構造をもつ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。
虚妄分別によってみられる世界は仮に実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。
そして誤った表象をうみだす虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。
こうして依他起なる心、アラヤ識のうえに迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別としてはたらかなくなるとき、みるものとみられるものの対立は現れなくなり、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」をあらわす(円成実性)。
「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、あわせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。日本において、唯識思想は倶舎論とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。
服部正明・上山春平『認識と超越<唯識>』(「仏教の思想」第 4巻、角川書店、1970年)
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■展示構成と作品
東京初公開!!
展示室4東西二体の大仏と壁画の描き起こし図
展示室4玄奘三蔵と『大唐西域記』
展示室1・3太陽神の信仰
本展覧会では、こうした太陽神の様々な姿や太陽神と仏教の関わりについてご紹介します。
展示室4・5アジアの弥勒信仰
示室2・7日本の弥勒信仰
ガンダーラ・中央アジアで発展した弥勒信仰は、中国・朝鮮を経て日本にも伝わりました。6世紀の仏教伝来当初より弥勒の存在が重視されていたことが知られ、特に奈良時代に発展した法相宗の寺院では弥勒信仰が盛んとなった。
また、平安時代後期以降も未来仏である弥勒信仰は一層の高まりを見せ、上生・下生信仰のほか、密教や阿弥陀信仰とも関連を持ちながら独自の展開を遂げた。本展覧会では、こうした日本の弥勒信仰を背景に生み出された仏像や絵画などを通して、様々な弥勒の姿をご覧いただきます。
展示室5弥勒に関する経典と図像
【弥勒】経典。『弥勒六部経』弥勒の上生・下生信仰を説いた、『法華経』類には弥勒が住む兜率天への往生と、阿弥陀如来が住む阿弥陀浄土への往生が説かれている。本展覧会では、弥勒の信仰・造像に影響を与えた経典や、様々な弥勒の像容を収めた図像などをご覧いただきます。
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参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 −ガンダーラから日本へ−」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-21b8bc.html
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「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 -ガンダーラから日本へ-」
三井記念美術館、9月14日(土)〜11月12日(火)
10:00〜17:00(入館は16:30まで)

2024年9月 1日 (日)

空海「即身成仏義」819-820 『秘蔵宝鑰』序、830

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第376回
六大無礙にして常に瑜伽なり (体)、四種曼荼 各 離れず (相)、三密加持すれば速疾に顕わる (用)、重重帝網なるを即身と名づく (無礙)
法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり。各五智・無際智を具す。円鏡力の故に実覚智なり (成仏)
――
現象・実在界の六つの構成要素、地水火風空識は、遮るものなく永遠に融合している。
四種の曼荼羅は、それぞれ様相の異なる相を表して、そのまま離れることはない。
大日如来と我々の身体・言葉・心の行為形態、三密(身密・口密・意密)が働きによって感応しあうとき、相即融一、すみやかに悟りの世界が現れてくる。
あらゆる身体が帝釈天(インドラ)の持つ網のように幾重にも重なり合いながら映しあうことを、身に即して即身という。
「成仏」
あらゆるものは、あるがままにすべてを知る菩薩の般若智を具えており、すべての人々には心(心王)と心の作用(心数)が備わって無数に存在している。心そのものと心の作用のそれぞれには五種の如来(五知如来)の智慧と、際限のない智慧が備わっている。智慧をもって明らかな鏡のようにすべてを照らし出す(大円鏡智)から真実を悟った者となる。
――
「悠々たり悠々たり太だ悠々たり、内外(ないげ)の縑緗(けんしょう)千万の軸あり、杳々たり杳々たり甚だ杳々たり。道をいい道をいうに百種のみちあり。書死(た)え諷死えなましかばもといかんがなさん。知らじ知らじ吾も知らじ。思ひ思ひ思ひ思ふとも 聖も心(し)ることなけん。牛頭、草を嘗めて病者を悲しみ。断菑、車を機て迷方を愍む。」『秘蔵宝鑰』序
「三界の狂人は狂わせることを知らず。四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に、死んで死の終わりに冥し」(『秘蔵宝鑰』序、830年)。空海、57歳
★★注
五大(panca-dhatavah、英: five elements)とは、宇宙(あらゆる世界)を構成しているとする地(ち)・水(すい)・火(か)・風(ふう)・空(くう)の五つの要素。空आकाश, Ākāśa(アーカーシャ)の訳。虚空とも訳される。仏教思想の: शून्य, śūnya(シューニャ 訳語は空)とは異なる。
第六の要素として「識」(意識)を加えて「六大」とする思想。
大日如来の5つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を象徴する五智如来がある。大日如来の知恵、法界体性智は、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。
――
★★★★★
参考文献
無我説と輪廻転生、仏教の根本的矛盾・・・識體の転変、種子薫習。名言種子、我執種子、有支種子
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
空海の旅 旅する思想家、美への旅
旅する思想家、孔子、王羲之、空海と嵯峨天皇
【質疑応答】島薗進×大久保正雄『死生学』
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【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孟子、李白、プラトン、織田信長。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、プラトン、ソクラテス、ロレンツォ・デ・メディチ、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』美は真であり、真は美である。これは、地上にて汝の知る一切であり、知るべきすべてである。地中海の旅は、美への旅、知恵の旅、時空の果てへの旅、魂への旅。旅する哲学者は、至高の美へ旅する。美しい魂は、輝く天の仕事をなし遂げる。
美しい魂は、輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
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仏教2500年の旅 仏陀入滅、アレクサンドロス大王、瑜伽行唯識学派、密教
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/08/post-d241f1.html
『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』・・・中観派と唯識派の対立
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空海「即身成仏義」819-820 『秘蔵宝鑰』序、830
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