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2026年9月 1日 (火)

【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第447回
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
市は織田信長の妹として、1547(天文16)年ごろ生を受け、1583(天正11)年、北庄城にて自害。36歳で死す。江戸時代の書物では「天下一の美人」、現代では「戦国一の美女」と評判の美女。
 1567(永禄10)年、市は北近江の浅井長政と結婚(年代には諸説あり)。信長が長政と同盟を結び、その証としての政略結婚。しかし、政治的な結婚だったにもかかわらず、市と長政の仲は非常に良好だったといわれています。6年ほどの結婚生活のなかで、二人の間には浅井三姉妹として有名な茶々、初、江が産まれました。
【浅井長政、謀反】1570(元亀元)年、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は長く同盟を結んでいた朝倉の方につき、信長との同盟関係を反故に。3年後の【小谷城、落城】1573(天正元)年。長政の居城・小谷城は信長に攻められ落城。市と娘たちは織田家の家臣によって救出。市と3人の娘たちは信長のおじ・信次(弟の信包という説も)の庇護のもとで暮らした。信次が戦で亡くなると、信長の庇護下に入った。
最初の夫・長政が自害した際には娘たちと生き延びた一方、10年後、勝家が敗れると今度は夫と運命を共にした。
【本能寺の変】1582(天正10)年、山崎の戦、小栗栖にて明智光秀【信長の葬儀】【大徳寺、羽柴秀吉による】織田家の攻撃に備えて3万人、警備。【阿弥陀寺、清玉上人による】市、徳姫、浅井三姉妹・茶々・初・江。織田一族。
【清須会議】1582(天正10)年、本能寺の変が起き兄・信長が死亡したのち、清須会議。【3歳で織田家の後継となった三法師の後見の座を織田信雄と織田信孝が争い。】【市と勝家の結婚】清須会議の場で取り決められたのではないかと。柴田勝家が織田家の家臣・堀秀政へ宛てた書状で「羽柴秀吉と話し合った内容に変更はない、お市の方との縁組も予定通り」。
【賤ヶ岳の戦い】1583(天正11)年、織田家の家臣だった羽柴秀吉と柴田勝家が衝突した賤ヶ岳の戦い。この戦いで勝家は敗れ、自身の居城である北庄城に撤退すると、わずか数日後には秀吉の軍に包囲され。【柴田勝家とお市、自決】織田信孝、自決。
【お市、辞世の句】「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
(そうでなくとも夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね)
 死を象徴する鳥でもあるほととぎすを歌い、短い夏の夜に儚い人生を重ね、すでに死の覚悟を決めたことが伝わる辞世 柴田勝家と自害
「しばた殿御申すには、御いちさまに御ひめさまがた御同道にて御出なされ候えと、たって御申し候えども、御いちさま仰せには、あざい殿時分出させられさえ御くやしく候に、何とて御出あるべきや、しばた殿御一所との御事に而(以下略)」(黒田基樹『お市の方の生涯』より)
【茶々 信長が生きていたら"姪の茶々"は秀吉の側室にならなかった、32歳上の秀吉に嫁ぎ2児を産んだ46年の人生】長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市)から母お市の方と茶々・初・江の三姉妹は逃げ延びる。茶々の生年には諸説あり、永禄10年(1567)とするもの、永禄12年(1569)とするものなどがあり。【茶々、浅井長政滅亡、北庄城陥落、豊臣秀頼滅亡】彼女が鶴松や秀頼といった子を産んでから「大坂様」「西丸様」などの御殿名で呼称。
【浅井三姉妹、初、江。信長の長女、徳姫、次男・織田信雄】美女、生駒佳乃と信長の遺児、信忠、二条城にて自刃。信雄、徳姫。豊臣秀吉、秀頼時代、徳川家康時代、生き残る。
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参考文献
【お市、信長の妹として生まれ、2度落城、波乱万丈の人生】天下一の美女、36歳で死す
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-6424c5.html
織田信長、戦わずして勝つ、【桶狭間の戦い】から【岐阜城、築城】まで・・・夢幻のごとくなり
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-0ab47b.html
「信長の手紙―珠玉の60通大公開―」・・・「織田信長書状」細川藤孝宛、「織田信長自筆感状」忠興宛
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/11/post-98cd30.html
花・flower・華 2026 ・・・苦節を超えて花開く、運命の出会い、逆境を超えて、天人天衣無縫
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-547c9a.html
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「響きあう名宝─曜変・琳派のかがやき─」・・・幻の曜変天目、本能寺の変、三職推任
https://bit.ly/3UYWOpe
どうする家康・・・織田信長、運命の美女、信長の葬儀、天を追求する一族
https://bit.ly/3njDXJm
どうする家康、三井記念美術館・・・孤独な少年、竹千代、家康10の決断
https://bit.ly/3oBk8NX
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オンシュダシュダ、弘法大師空海の師匠の師匠「善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)法師(637年~735年)」が作った最強の真言。「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」
ふるべ ふるべ ゆらゆらと ふるべ、石上神宮、物部の十種神宝【布留は振る】
大願成就、良縁成就、学芸成就、健康長寿、怨敵退散、事業繫栄
9月1日

2026年8月29日 (土)

クリストファー・ノーラン監督「オデュッセイア」・・・叙事詩の謎、神々の企みは何か

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第446回

【トロイ戦争の原因は何か。ヘレンの略奪、パリスの審判、三女神の争い、神々の饗宴、ではない。神々の企みは何か】大久保正雄「旅する哲学者、美への旅」
【「オデュッセイア」】
「オデュッセイア」は、紀元前8世紀、吟遊詩人ホメロスが書いた、紀元前1200年のトロイ戦争の叙事詩「イリアス」の後日談。トロイの木馬の計略を発案したオデュッセウスのイタケーへの帰還。トロイからイタケーは近い。なぜ、10年かかったのか。魔女たち、怪物に襲われた。
【オデュッセウスの失敗】酒で酔わせたポリュペモスの唯一の目を潰し、オデュッセウスは最後に重大な失敗を犯す。彼は逃げる際、自分の本名を叫んでしまった。すると、ポリュペモスは父である海神ポセイドンへ復讐を願う。ポセイドンの報復が、10年漂流の原因の一つ。
【美しい魔女】仙女カリュプソ、永遠の命を与え、自分の島で永遠に暮らすよう望む。甘美な誘惑の魔女。カリュプソとオデュッセウスは7年間暮らす。キルケと1年暮らす。放浪していたのは2年間。魔女キルケ―、部下を豚に変えた。オデュッセウスは神ヘルメスから薬草を授かり、キルケの魔法は効かず、逆にオデュッセウスは剣を抜き、キルケを屈服させる。セイレーンは美女の鳥、美しい声で船を難破させる。美しい声の人魚に変形した。キルケの島から筏で脱出、10代のナウシカ、美しい姫に出会い、次に、女神アテナに出会う。【魔女、美女が次々、オデュッセウスたちを誘惑し悩ませる。】「オデュッセイア」の美女たちはラファエル前派によく描かれた。オデュッセウスの妻ペネロペは、10年間、機を織り、ほどいて、彼の帰りを待つ。ペネロペも。ラファエル前派によく描かれた。クリストファー・ノーランでは、アン・ハサウエイが演じる。
【魔女カリュプソの、永遠の命と甘美な生活よりも、ペネロペが待つイタケーを選ぶのは何故か】
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1、若い美しい姫ナウシカに出会い、オデュッセウスが回顧する。オデュッセウスだけ生き残り回想する。オデュッセウスの作り話かもしれない。トロイ戦争は【ヘレンの略奪】に始まる10年戦争であり、オデュッセウスの帰還は【カリュプソと7年間キルケと1年、8年間】。オデュッセウスの漂流は2年間。【女が人類を滅亡、女が人類を漂流】
 【ゼウスの掟】クリストファー・ノーランは、「異国人を大切すること」。【パレスチナ人イラン人絶滅】を批判。「オッペンハイマー」原爆作製者が後悔して罪悪感に苛まれる。「オデュッセイア」トロイを滅亡させた英雄の苦しみ。【ゼウスは異国人の守護神】神が異邦人の物乞いとして現れる。【よきサマリア人】【蘇民将来子孫也】スサノオノミコト(牛頭天王)が旅の途中、裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)に宿を断られた際、貧しい兄の蘇民将来が手厚くもてなしました。喜んだ神様は蘇民将来に、「将来、疫病が流行ったときには『蘇民将来子孫也』と書いた札を掲げれば難を逃れられる」と約束した。
オデュッセウスの妻はペネロペ、美しいペネロペに多くの求婚者が現れる。老人の姿で帰還したオデュッセウスは12の斧の穴を弓矢で射貫く。ホメロスの「斧の穴」は何を意味するのか。青銅の斧が発刊されて決着した。
「イリアス」は、イリオン落城の物語。スパルタ王の王妃、ヘレンをトロイの王子、パリスが、誘拐し、トロイに連れ帰ったためトロイ戦争が起こった。ギリシアの総大将・アガメムノンは、ヘレンを奪還するためにギリシア連合軍を率いてトロイに向かった。トロイ戦争は、海辺に疫病が蔓延し、10年間膠着状態に陥り、一計を案じたのがオデュッセウスのトロイの木馬である。アガメムノンの弟はメネラオス、その妻ヘレンがパリスに略奪された。アガメムノンは、妻クリュタイムネストラと愛人によって殺害される(アイスキュロス「アガメムノン」)。
参考文献 町山智浩@TomoMachi 『オデュッセイア』が100倍楽しくなる、オデッセイ映画の世界!
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2、クリストファー・ノーラン監督:帰還というコンセプトを、ギリシア人たちは”Nostos”(英雄の帰還)と呼んでいました。この物語は登場人物の帰還、そして感情の変化を描いています。その人物にも変化が訪れ、故郷にも変化は見られる。長く故郷を離れることの意味、長旅が人や環境に与える影響を語っている。「モンテ・クリスト伯」は、実はもとは「オデュッセイア」だった。ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」は1920年代ダブリンを舞台にした「オデュッセイア」。「2001年、スペース・オデッセイ」。1つ目の巨人キュクロプスや6つの頭を持つ怪物スキュラ、。西洋文学の原点である「オデュッセイア」が愛されてきた魅力の一つは、ファンタジー要素や登場するクリーチャー。映画作りがなかったら、正直どうしていいか分かりません。それ以外にやりたいと感じたものがないからです。人生の目的を見つけられたことは、非常に幸運だと思っています。
参考文献
クリストファー・ノーラン監督インタビュー 韓国・ソウル取材会場
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参考文献
クリストファー・ノーラン監督「オデュッセイア」・・・叙事詩の謎、神々の企みは何か
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-82522f.html
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-062e20.html
https://bit.ly/3C2fXNP
【叙事詩の円環】
運命の美人姉妹、クリュタイムネストラ、ヘレネー
トロイア戦争の始まり 失われた『叙事詩の円環』
https://t.co/JjeYXXOypq
https://en.wikipedia.org/wiki/Epic_Cycle
大久保正雄『地中海紀行』第61回トロイア戦争 パリスの審判P29
岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』
岡道男『ホメロスと叙事詩の環』1976 京都大学文学部紀要1976.16.55-338,
安村 典子『ゼウスの覇権 反逆のギリシア神話』京都大学学術出版会
城江良知「ガイアの嘆願と『イリアス』」西洋古典学研究
『キュプリア』によれば,ガイアは、増えすぎた人間の重みに耐えかね,. しかも人間には神 を畏敬する心がまったくなかったため, ゼウスにこの重荷.を軽減してくれるようにと願い出た. ゼウスは同情してまずテーバイ戦争を起こし多数の人間を滅ぼした。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/68585/1/KJ00004263559.pdf

2026年8月23日 (日)

大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画・・・談山神社と狩野宗眼「秋冬花鳥図襖」「春景花鳥図襖」の謎

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第445回

なぜ、狩野宗眼(そうげん)重信による一連の襖絵、奈良の談山(たんざん)神社にあったのか。
「襖は17世紀初頭の談山神社再建時に制作されたと考えられる。襖絵4面の表と裏は分けられた。四季花鳥図(秋冬景)は大英博物館のコレクションに収蔵され、残りの襖絵は1951年にシアトル美術館に収蔵された。作者の比定は時代とともに変化し、狩野山楽から狩野孝信、そして最近では狩野宗眼重信へと変わってきた。これは狩野派の作者についての議論を反映している。」狩野宗眼重信筆 琴棋書画仙人図(國華1569号〈特輯 宮越家詩夢庵の襖絵とステンドグラス〉要旨)
江戸幕府が開かれた直後の1612年、徳川家康の命によって「賢盛法印(けんじょうほういん)」という僧侶が初代学頭(山内の最高責任者)に任じられました。これにともない、多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の本格的な再建・復興プロジェクトが始動。学頭の住まいであった屋敷「竹林坊」を格調高く飾り立てるために、当時の一流絵師集団であった狩野派へ襖絵の制作が依頼された。
多武峰は、京都の最高級公家である九条家と深い結びつきがありました。この一連の襖絵は、九条家が談山神社の再建・復興を支援するために、お抱え、あるいは縁のあった実力派絵師の狩野宗眼重信に描かせ、寺へ寄進。
襖絵には「琴棋書画仙人図」や「名所風俗図」などが描かれていましたが、中には富士山を望む名所(駿府など)が描かれた「富士の間」の襖絵もありました。駿府は家康ゆかりの地であり、家康の命で始まった多武峰復興の象徴、そして幕府への敬意を表すためである。
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第2部には、浮世絵が展示されている。
喜多川歌麿《文読む遊女》江戸時代・1805~1806年 大英博物館蔵
葛飾北斎《万物絵本大全図》版下絵 江戸時代・1820年代~1840年代 大英博物館蔵
葛飾北斎《万物絵本大全図》版下絵 江戸時代・1820年代~1840年代 大英博物館蔵
コピーライト The Trustees of the British Museum
版下絵とは版画にするための原画のこと。本の挿絵として描かれたが、本が出版されなかったため貴重な版下絵103点が残りました。長く行方不明になっていましたが、2020年に大英博物館が103点をまとめて購入し、世界的に話題に。本展ではうち8点を展示。
円山応挙《虎の子渡し図屏風》江戸時代・1781~1782年 大英博物館蔵
コピーライト The Trustees of the British Museum
母虎が三匹の子を産むと、必ず一匹は彪(ヒョウ)である、という古代中国の伝説に着想を得た応挙中期の作品。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示構成
展示作品の一部
東京都美術館
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_britishmuseum.html
1章:華やかな江戸絵画の世界へ」
狩野宗眼(そうげん)重信による一連の襖絵です。これらはかつて奈良の談山(たんざん)神社にありましたが、明治以降の廃仏毀釈(きしゃく)のあおりをうけて流出し、世界各地に離散してしまいます。
狩野宗眼重信「春景花鳥図襖」(17世紀初、個人蔵)
このうち「秋冬花鳥図襖」が大英博に、「春景花鳥図襖」が青森・津軽の旧家に分かれて所蔵されていましたが、最近の研究により、これらの花鳥図が一連の作品であることが判明。本展の開催をきっかけに、じつに150年ぶりの再会を果たし、隣り合っての奇跡の展示が実現しています。
いずれも狩野宗眼重信による「秋冬花鳥図襖」(左)と「春景花鳥図襖」(ともに17世紀初め)
このほか、大英博所蔵の花鳥図とかつて一組(両面仕立ての片側)だった襖絵があり、現在は花鳥図と分かれてアメリカのシアトル美術館所蔵となっていますが、今回この作品も特別出品されています。
かつて同じ場所に収められていた襖絵が、150年の時と場所を越えて日英米から集結。元々の襖絵の配置を再現した立体的な展示で、じっくりと味わうことができます。
展示されている2点の花鳥図の反対側に回ると、さらに同じ談山神社伝来の、狩野宗眼重信による襖絵が。左は「名所風俗図襖(三保松原・清見寺)」(17世紀初、個人蔵)、右は「琴棋書画仙人図襖」(17世紀初、シアトル美術館蔵)。かつて神社の屋敷にあった実際の配置を再現する形で展示され、当時のようすに思いをはせることができる
朝日新聞
https://www.asahi.com/and/w/article/16788324

2章:スター絵師、大集合 浮世絵の傑作が競演
展示作品の一部
尾形光琳「松島図屏風」円山応挙「虎の子渡し図屛風」、葛飾北斎「『万物絵本大全』版下絵」
肉筆浮世絵、葛飾北斎「為朝図」、喜多川歌麿「文読む遊女」、
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参考文献
大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画・・・狩野宗眼「秋冬花鳥図襖」「春景花鳥図襖」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-bac856.html
ボストン美術館 日本美術の至宝、東京国立博物館・・・美の宴2012
https://bit.ly/2C5NsU6
ボストン美術館の至宝展、東京都美術館・・・陳容「九龍図巻」2017
https://bit.ly/3Of7s6v
ボストン美術館、肉筆浮世絵「江戸の誘惑」江戸東京博物館2006
ボストン美術館展 芸術×力・・・増山雪斎「孔雀図」、「平治物語絵巻」三条殿夜討
https://bit.ly/3cMgcUC
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1753年に創立したイギリス・ロンドンの大英博物館は、世界を代表するミュージアムのひとつです。同館の日本美術コレクションは、海外では最も包括的なもののひとつと評されるほど量・質ともに充実しています。そのコレクション形成を支えてきたのは、ジャポニスムが流行した19世紀後半以来、海を隔てた異国の地・日本の文化に魅了された人々でした。
数々の収集家や学芸員が築いたつながりは、国境や時代を越えて広がり、今日まで受け継がれています。
本展では、4万点に及ぶ同館の日本コレクションから、江戸時代の屏風、掛軸、絵巻の絵画作品と、歌麿、写楽、北斎、広重など代表的な8人の浮世絵師による版画を中心に、優れた作品を厳選してご紹介いたします。さらに、近年の調査成果や収集の背景にも光をあてることで同館が日本美術の収集・研究・保存の第一線で果たしてきた役割をたどります。それは、国際的な文化交流の歴史を振り返ると同時に、大英博物館に受け継がれてきた日本美術の名品と、今日を生きる私たちとのあいだに新たな対話をひらく機会ともなるでしょう。
https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_britishmuseum.html

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世界有数の規模を誇る大英博物館の日本コレクションは約4万点。そのうち日本絵画だけでも4,000点を超える。本展では、江戸時代の作品を中心に、屏風、掛軸、絵巻、浮世絵版画、肉筆画などが幅広く紹介される。
尾形光琳「松島図屏風」円山応挙「虎の子渡し図屛風」、葛飾北斎「『万物絵本大全』版下絵」等、イギリスから初めて里帰りした作品、多数。
青森県中泊町の宮越家、大英博物館、シアトル美術館に分かれていた狩野宗眼重信の襖絵が、約150年ぶりに再会した。別々の土地で守られてきた作品が並ぶことで、本来ひとつの空間を飾っていた頃の姿が偲ばれる。
浮世絵版画は、肉筆浮世絵、葛飾北斎「為朝図」、喜多川歌麿「文読む遊女」、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、初代歌川豊国、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の8人を作家ごとに展示。非常に状態がよく、鮮やかな色彩や繊細な彫り、摺りまで観察できる。作品に合わせて壁の色を変え、展示方法にも細やかな工夫が施されている。
名高い絵師の傑作から、知られていない絵師の優品まで、大英博物館の歴代収集家や学芸員が作品そのものの価値を見極めてきたことが伝わりました。海を渡った日本美術がどのように集められ、守られ、研究されてきたのか。
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東京都美術館開館100周年記念
大英博物館日本美術コレクション 百花繚乱~海を越えた江戸絵画
会期2026年7月25日(土)~10月18日(日

2026年8月17日 (月)

マリー・アントワネット・スタイル・・・ハプスブルク家とヴァロワ家の戦争

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第444回
サラ・グラント研究員ヴィクトリア・アルバート美術館の記者発表会を聴く。マリーアントワネットのファッション・スタイルの展覧会であり、ハプスブルク家の政略結婚の背景についての説明はない。
マリー・アントワネット(1755–1793)は、14歳でハプスブルク家から、フランス王家に嫁ぎ、19歳で、王妃、37歳で断頭台の露と消えた。

マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
ハプスブルク家、マリアテレジアの15番目の娘、ハプスブルク家の政略結婚の一環として、マリー・アントワネットは、フランスに派遣。
イタリア戦争、ハプスブルク家とヴァロワ家の戦争、15世紀
マクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュの結婚からハプスブルク家、始まる。15世紀
ハービヒツブルク城、ハービヒツブルク辺境伯、神聖ローマ帝国の選帝侯。
フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト(1837-1898)の結婚と破綻。
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1886年、ルートヴィッヒ2世、41歳の時、シュタルンベルク湖で、謎の溺死を遂げた。
ヴィスコンティ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』に美しく描かれる。
1916年、フランツ・ヨーゼフ1世、死去。
1918年、オーストリア皇帝カール1世、死す。ハプスブルク帝国、滅亡。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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概要
—彼女が刺激的なわけ。横浜美術館
歴史上もっともファッショナブルな王妃、マリー・アントワネット(1755–1793)。彼女の装いやインテリアは、18世紀から現代にいたるまで、ファッションやデザイン、映画などに広く影響を与えてきました。本展は、あらゆる点で新しい様式(スタイル)をうちたてた王妃の革新性と人物像に迫るとともに、その「スタイル」が、いかに時代を超えて人びとを魅了し、今日のクリエーターたちにも示唆を与え続けているかについて紹介します。
詳細は「展覧会特設サイト」をご覧ください。
https://yokohama.art.museum/exhibition/202608_marie2026/
構成 
展示作品の一部
1 マリー・アントワネット:スタイルの源泉 1770–1793
オーストリア皇女マリー・アントワネット(1755–1793)は、1770年春、14歳の時に王太子妃としてフランスに嫁ぎました。以来、宮廷に新たな視点をもちこみながら、ルイ16世下フランスにおける高級産業、とりわけ ファッションと織物産業の発展に、多大な影響を与えました。
当時のフランスは、植民地と奴隷制を基盤とした国際的なプレゼンスに加え、文化においても中心的な役割を担っていました。そうしたなか、アントワネットは、堅苦しい宮廷の慣習に挑み、あらゆる面で自らの意向を形にしていきました。衣裳のみならずインテリアから音楽、ライフスタイルまで、よりシンプルで洗練された王妃の趣向は、またたく間に国内外で流行します。一方で、そのスタイルは斬新ゆえに取り沙汰され、民衆には想像もつかないほどの贅沢の象徴と受けとめられるようになっていきました。
革命の気運が高まるなか、アントワネットは次第に反体制派の標的となり、ギロチンへと導かれていくのです。
ローブ・ア・ラ・フランセーズ(フランス風ドレス)フランス製 1760年代(1770年代に加工) 絹、光沢をつけた麻 ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London
通称「サザーランド・ダイヤモンド」1780年代にネックレスに加工 金、銀、プラチナ、ダイヤモンド 長さ 35.8 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London
https://artexhibition.jp/topics/news/20260731-
マリー・アントワネットの肘かけ椅子(4点組の1点)
ジャン゠バティスト゠クロード・スネ(作) 1788年 木(クルミ)に着彩、絹で刺繍した綿(近年の上張り) H. 97.5 × 63.5 × 63.0 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London

2 マリー・アントワネット:追憶と偶像化 1800–1940
マリー・アントワネットは、死後も人びとの記憶のなかに生き続けました。ナポレオン3世の后ウジェニー(1826–1920)を筆頭に、19世紀には王党派の支持者たちが彼女のスタイルを懐古しました。スペインからフランスに嫁いだ皇后は、同じく外国から嫁いだアントワネットに心を寄せ、自らのイメージづくりにおいても王妃を参照しました。

3 永遠に新しく — マリー・アントワネット・スタイル
映画『マリー・アントワネット』(ソフィア・コッポラ監督、2006年)より
Photo: Courtesy of I WANT CANDY LLC. and Zoetrope Corp.
ソフィア・コッポラ脚本・監督、キルスティン・ダンスト主演の映画『マリー・アントワネット』。ピンヒールのパンプス、ポップミュージック、色とりどりのマカロンなど、18世紀の宮廷に「現代」を織り込んだ

主な出品作

コートドレスのマリー・アントワネット
フランソワ=ユベール・ドルーエ(画) 1773年
油彩、カンヴァス 63.5 × 52.0 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


ローブ・ア・ラ・フランセーズ(フランス風ドレス)
フランス製 1760年代(1770年代に加工)
絹、光沢をつけた麻
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


通称「サザーランド・ダイヤモンド」
1780年代にネックレスに加工
金、銀、プラチナ、ダイヤモンド 長さ 35.8 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


イヴニングドレス「ローブ・ド・スティル」
ジャンヌ・ランバン(作) 1922–23年頃
絹オーガンザ、絹の花かざり、パニエ
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London


目隠し鬼(流行年鑑『襞かざりと縁かざり』より)
ジョルジュ・バルビエ(画) 1924年(1925年刊行/
メニアル、パリ) ポショワール(ステンシル)による手彩色の挿絵本 冊子:26.5 × 18.0 × 3.0 cm
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵
コピーライト Victoria and Albert Museum, London / George Barbier
ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)の展示風景
コピーライト Victoria and Albert Museum, London
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マリー・アントワネット・スタイル 横浜美術館、
2026年8月1日(土)~11月23日(月・祝)
https://yokohama.art.museum/exhibition/202608_marie2026/
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参考文献
マリー・アントワネット・スタイル・・・ハプスブルク家とヴァロワ家の戦争
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-b6ba4e.html
THEハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち・・・黄昏のウィーンの思い出
https://bit.ly/2obtPA4
「プラド美術館 ベラスケスと絵画の栄光」・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
美しき女相続人、マリー、ベルギー、奇想の系譜・・・怪奇と幻想うごめくフランドル
https://bit.ly/349ffME
ハプスブルク帝国年代記 王女マルガリータ、帝国の美と花
https://t.co/T2it2d8Zb1
ハプスブルク帝国、ヴェラスケス、黄昏の光芒
http://bit.ly/2zGK4N2
スペイン・ハプスブルグ家、太陽の沈まぬ帝国、黄金の世紀
https://bit.ly/31UvEmm
ハプスブルク家 皇妃エリザベート、バイエルンの薔薇
https://bit.ly/2PqaVUV
ハプスブルク家 マリー・アントワネット 革命に散る
https://bit.ly/2opYnlB
「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界」・・・ハプスブルグ家の悪趣味の館
https://bit.ly/2JtpinR
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ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史・・・黄昏の帝国、旅の思い出
https://bit.ly/2C7rE7K
マクシミリアン1世(1459-1519)からオーストリア・ハンガリー二重帝国「最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)まで
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
★日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史
10月19日(土)~2020年1月26日(日)国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2019haus_habsburg.html
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マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの第15子。
政略結婚で、14歳の時、フランス王ルイ16世に嫁がせられる。フランス王妃となる。しかし、フランス革命勃発。37歳で、断頭台の露と消える。
マリー・アントワネットは、本当に愛したのはだれか。
マリーの死を悲しんだのは、スウェーデン貴族フェルセン伯爵だけだった。
「私は生きています。それは奇跡なのです」マリー・アントワネット1792年
ヨーロッパ最大の権力、ハプスブルク帝国。最も豊かで、自由なき人々、

2026年8月12日 (水)

「空海と真言の名宝」・・・密教美術、後七日御修、秘仏、『三十帖策子』、空海の思想の表現

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第443回

弘法大師と真言寺院の密教空間
空海(774-835)は、774年、讃岐の豪族・多度郡、佐伯家に生まれ、学問を志して上京するが、大学寮の儒学にに倦み、【大学寮退学】山野で修行に明け暮れ、【虚空蔵求聞持法】一人の沙門と出会い、虚空蔵求聞持法を学び、正式な僧となり空海を名乗るのは31歳のとき。【入唐求法】難破で1年延期されていた遣唐使船に乗り込み、唐に渡る。【長安で青龍寺の恵果に師事】恵果は空海と会った瞬間「汝を待っていた」と告げた。
体系化された密教のすべてを受け継いで帰国。本来、20年をかけて学ぶべき立場でありながら、わずか3年ほどで戻った。嵯峨天皇により入京勅許。【平城上皇の乱】、嵯峨天皇、征夷大将軍・坂上田村麻呂を、
空海は、その後、嵯峨天皇より東寺を与えられ、真言道場を開き、体系的密教を日本に定着させる。人生の最期には宮中での密教修行の実施を奏上し、勅許を得た翌835年の正月、「後七日御修法ごしちにちみしほ」が宮中祭祀として勤修された2カ月後、高野山奥の院にて入定。921年「弘法大師」の諡号しごうが下賜される。
空海の思想は、「即身成仏義」不空「般若理趣釈」に表されている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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各地の仏像をと集めている。中には「如意輪観音菩薩坐像」(大阪、大門寺)や「十一面観音菩薩立像」(三重、観菩提寺)のような公開されること稀な秘仏も含まれています。前者は平安時代11世紀の一木造。板光背には墨で宝相華唐草を描くなど、書画に興味のある方にも見逃せません。 快慶「深沙大将立像」(和歌山、金剛峯寺)大きなものから圓勢・長圓「薬師如来坐像」(京都、仁和寺)のような小さなものまで、周知の仏像のうちには、いつも京博に置いてあるのでありがたくない安祥寺の「五智如来坐像」5軀もあり、ほかに珍しいものが多いです。もちろん仏画や密教法具の名品も並びますが、「信貴山縁起」(朝護孫子寺)が出ているを。
第1章 空海と真言密教
空海の事跡は、密教にとどまらず、それまで支配階級の子弟のみを対象としていた学問を庶民に開き、各地の土木工事に手腕を発揮、文筆家としても多くの詩文や著作を残しています。自身の思想を言語化する才に加え、三筆に謳われた能筆家であったことはよく知られているでしょう。また、密教の教義理解には、視覚的訴求が必要と喝破し、多くの仏教美術の創造に貢献した。こうした深く大きな才と活動は、のちに空海自身への信仰も生み出します。聖徳太子同様、弘法大師もまた、いまも生き続ける日本の巨人。
特別公開の金剛峯寺の秘仏、「弘法大師坐像」でその面影を確認して、空海と真言密教の世界へと踏み入っていきます。
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https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2760
展示構成
第1節「空海ゆかりの名宝」
空海直筆の冊子や唐から持ち帰った法具、
【『三十帖策子』仁和寺】師。恵果の言葉や経典、サンスクリット語を弟子が書写したもの、天皇宸筆による空海の伝記など。

第2章 後七日御修法の世界
毎年正月8日から14日まで勤修される後七日御修法は、空海の奏上によって嵯峨天皇の宮中に初めて密教の修法が実行された、真言宗最大の儀式。玉体(天皇)の安穏と国家安寧、五穀豊穣を祈る、長い歴史のなかで、ときに中断し、場所やかたちを変えつつも今日まで継承されてきた。明治以降は、京都・教王護国寺[東寺]を会場に、玉体に代わり御衣を加持する。
後七日御修法は秘儀であり、一般には公開されない。本年の予行の様子を写した貴重な写真パネルとともに、御修法のうち観音供で本尊となる秘仏や、御修法の設えを伝える図像、御修法に使用されていた十二天像などで、知られざる密儀を垣間る。

第3章 真言宗各派の名宝
空海が開いた真言宗は、さまざまに分派、各派の独立の原因は多様ながら、主なひとつに修法や儀式の実践面での相違があった。
根底は空海の伝えた密教の教えに基づく。重要な儀式は、後七日御修法であり、各山会の存在、現在十八本山に連なる寺院数は、12,000を超える。各地でそれぞれに守り伝えてきた寺宝に、変わらぬ信仰のかたちと、各派の個性を見出する。
国宝 「一字一仏法華経序品(部分)」 平安時代・11世紀 香川・善通寺蔵 ※前期展示 法華経と仏像を一行おきに配する経文巻は、それぞれ異なる表情を持つ仏像。

第4章 真言宗各派の彫刻と秘仏
最後に真言宗各派が所蔵する仏像が紹介される。空海が拝した奈良時代の古仏から、快慶、影響と土地の味わいが混合された作例、近世に僧が自ら作成した像まで、多彩な造形。
重要文化財 快慶作 「不動明王坐像」 鎌倉時代・建仁3年(1203) 京都・醍醐寺蔵 像内の銘文により快慶作とわかっている作品。顔を左に、目を正面に向け、下唇を噛む表情が火焔と相まって迫力の一作
「秘仏」たち。
重要文化財 「如意輪観音菩薩坐像」 平安時代・11世紀 大阪・大門寺蔵 なまめかしい観音菩薩像。台座から本体まで一木から彫り出している。彩色がなく、顔や宝冠、光背の文様を墨で描いている。
重要文化財 「十一面観音菩薩立像」 平安時代・9~10世紀 三重・観菩提寺蔵。
「厨子入十一面観音菩薩立像」 江戸時代・19世紀 京都・泉涌寺蔵 小さな厨子に納められた仏像は、和宮内親王の念持仏と伝わる。像は伽羅製、明治天皇から贈られた銘木・蘭奢待も収められている
国宝 「薬師如来坐像」 平安時代・康和5年(1103) 京都・仁和寺蔵 総高約25㎝小さな坐像は白檀製。台座や光背にも仏像が彫られ、細やかな截金が多彩に刻まれる。360度から見られる展示なので、驚嘆の超絶技。
重要文化財 「愛染明王坐像」 平安時代・12世紀 山梨・放光寺蔵 天を射る、顔の前で弓を構える「天弓愛染」。彫像では珍しい。
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展示作品の一部
国宝
1 三十帖冊子 平安時代・9世紀 京都・仁和寺 前期:第六帖・第十八帖/後期:第二十二帖・第二十四帖
国宝 三十帖冊子 平安時代・9世紀 京都・仁和寺 前期(7/14~8/9):第六帖・第十八帖/後期(8/11~9/6):第二十二帖・第二十四帖
2 後宇多天皇宸翰 弘法大師伝 鎌倉時代・正和4年(1315)京都・大覚寺 前期
(左)国宝 後宇多天皇宸翰 弘法大師伝 鎌倉時代・正和4年(1315)京都・大覚寺 前期(7/14~8/9)
3 後宇多天皇宸翰 御手印遺告 鎌倉時代・14世紀 京都・大覚寺 後期(8/11~9/6)
4 金銅錫杖頭 中国・唐時代・8世紀 香川・善通寺 通期
国宝 金銅錫杖頭 中国・唐時代・8世紀 香川・善通寺 通期
5 閻魔天像 平安時代・12世紀 京都・醍醐寺 前期
国宝 閻魔天像 平安時代・12世紀 京都・醍醐寺 前期(7/14~8/9)
6 十二天屛風 平安時代・建久2年(1191) 京都・教王護国寺[東寺]①7/14~7/26:伊舎那天・帝釈天・火天/②7/28~8/9:閻魔天・羅刹天・水天/③8/11~8/23:風天・毘沙門天・梵天/④8/25~9/6:地天・日天・月天
国宝 十二天屛風 平安時代・建久2年(1191) 京都・教王護国寺[東寺]①7/14~7/26:伊舎那天・帝釈天・火天/②7/28~8/9:閻魔天・羅刹天・水天/③8/11~8/23:風天・毘沙門天・梵天/④8/25~9/6:地天・日天・月天
7 五大尊像 鎌倉時代・12~13世紀 京都・醍醐寺 前期:不動明王・降三世明王/後期:軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王
国宝 五大尊像 鎌倉時代・12~13世紀 京都・醍醐寺 前期:不動明王・降三世明王/後期:軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王
8 十二天像(羅刹天・水天・風天) 平安時代・9世紀 奈良・西大寺 前期:羅刹天/後期:水天・風天
国宝 十二天像(羅刹天・水天・風天) 平安時代・9世紀 奈良・西大寺 前期:羅刹天/後期:水天・風天
9 一字一仏法華経序品 平安時代・11世紀 香川・善通寺 前期
国宝 一字一仏法華経序品 平安時代・11世紀 香川・善通寺 前期(7/14~8/9)
10 泉涌寺勧縁疏 鎌倉時代・承久元年(1219) 京都・泉涌寺 後期
国宝 泉涌寺勧縁疏(部分) 俊芿筆 鎌倉時代 承久元年(1219) 京都・泉涌寺蔵 後期(8/11~9/6) 画像提供:奈良国立博物館
11 金銅透彫舎利塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 通期
国宝 金銅透彫舎利塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 通期(7/14~9/6)
12 信貴山縁起絵巻(飛倉巻・延喜加持巻)平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 前期:飛倉巻/後期:延喜加持巻
国宝 信貴山縁起絵巻(飛倉巻・延喜加持巻) 平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 前期:飛倉巻/後期:延喜加持巻
13 地蔵菩薩立像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 京都・大報恩寺 通期
国宝 地蔵菩薩立像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 京都・大報恩寺 通期(7/14~9/6)
14 薬師如来坐像 平安時代・康和5年(1103)京都・仁和寺 通期
国宝 薬師如来坐像 平安時代・康和5年(1103)京都・仁和寺 通期(7/14~9/6)
15 五智如来坐像 平安時代・9世紀 京都・安祥寺 通期
国宝 五智如来坐像 平安時代・9世紀 京都・安祥寺 通期(7/14~9/6)※撮影可
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重要文化財
重要文化財 十一面観音菩薩立像(部分)平安時代 9~10世紀 三重・観菩提寺蔵 通期展示 撮影:佐々木香輔
国宝 五智如来坐像 平安時代 9世紀 京都・安祥寺蔵 通期展示
重要文化財 愛染明王坐像 平安時代 12世紀 山梨・放光寺蔵 通期展示 画像提供:山梨県立博物館
国宝 薬師如来坐像 円勢・長円作 平安時代 康和5年(1103) 京都・仁和寺蔵 通期展示
重要文化財 如意輪観音菩薩坐像 平安時代 11世紀 大阪・大門寺蔵
宮中行事、御七日の御修法の本尊も
かつて宮中の仁寿殿で行われた、天皇の身体健全を祈る儀式の本尊である重要文化財『聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(二間観音)』 。その精巧極まりない造作に魅了される。
重要文化財『聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(二間観音)』 鎌倉時代・13世紀 京都・教王護国寺[東寺]蔵
のちに清涼殿二間に場所を移したことから「二間観音」と呼ばれる。江戸時代に真言宗最大の儀式である後七日御修法に組み込まれた。本体、光背、台座などすべてに一流の技術が凝縮されている。
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参考文献
「空海と真言の名宝」・・・密教美術、後七日御修、秘仏、『三十帖策子』、空海の思想の表現
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-1ec44e.html
美への旅 旧嵯峨御所 大覚寺百花繚乱御所ゆかりの絵画 質疑応答篇
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-fe0b54.html
参考文献
「旧嵯峨御所大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画」・・・嵯峨天皇と空海、運命の美女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-075dfa.html
学問僧、空海 ・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
空海『秘密曼荼羅十住心論』・・・大日如来は、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)をもつ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-2f9322.html
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
https://t.co/MIXigqe3xH
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
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金剛峯寺(和歌山県)や教王護国寺[東寺](京都市)、善通寺(香川県)など真言宗の主要な総本山・大本山である18寺院で構成される「真言宗各派総大本山会(各山会)」所属の十八本山と関係寺院から、
国宝「信貴山縁起絵巻」(奈良・朝護孫子寺蔵)や国宝「十二天像」(奈良・西大寺蔵)など国宝15件、重要文化財60件を含む88件の貴重な名宝が一堂に会します。

出展数の「88」は弘法大師(空海)の御跡を巡礼する「お遍路」で知られる「四国遍路八十八ヶ所」と合わせた数字

また、各山会各派の山主らによって営まれる真言宗最高の法会「後七日御修法ごしちにちみしほ」。この秘められた儀式の世界が、ゆかりの仏像や図像を通して紹介されるのも注目である。
そして「弘法大師坐像」(和歌山・金剛峯寺蔵)や重要文化財「十一面観音菩薩立像」(三重・観菩提寺蔵)、重要文化財「如意輪観音菩薩坐像」(大阪・大門寺蔵)といった、普段は目にすることのできない各地の秘仏9件が並びます。
みどころ①弘法大使生誕1250年!
みどころ②至宝集結88件
みどころ③後七日御修法ごしちにちみしほ
みどころ④秘仏開帳!

真言宗各派総大本山会(各山会)所属の十八本山
長谷寺(真言宗豊山派総本山)、仁和寺(真言宗御室派総本山)、寳山寺(真言律宗大本山)、智積院(真言宗智山派総本山)、朝護孫子寺(信貴山真言宗総本山)、勧修寺(真言宗山階派大本山)、大覚寺(真言宗大覚寺派大本山)、醍醐寺(真言宗醍醐派総本山)、根來寺(新義真言宗総本山)、中山寺(真言宗中山寺派大本山)、金剛峯寺(高野山真言宗総本山)、西大寺(真言律宗総本山)、教王護国寺[東寺](東寺真言宗総本山)、清荒神清澄寺(真言三宝宗大本山)、泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)、善通寺(真言宗善通寺派総本山)、須磨寺(真言宗須磨寺派大本山)、隨心院(真言宗善通寺派大本山)※いろは順
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弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2760
東京国立博物館 平成館(東京都台東区上野公園13-9)

2026年7月28日 (火)

「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」・・・幻想、神秘、静謐な世界

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第442回
長谷川潔の銅版画の世界には不思議な魅力がある。幻想、神秘、静謐な世界はどのようにして生まれたのか。孤高な版画家、長谷川潔は、不滅な世界を築いた。
長谷川潔は、1919年4月、長い航海を終えて、パリに到着するが、医師の勧めで、南仏、カンヌ。ル・カーネで、転地療養を勧められた。南仏の地で、版画制作の研究を始める。「直刻法」の技法で、アンドレア・マンテーニャ、アルブレヒト・デューラーら、ルネサンスの巨匠の線刻表現に範を求め、ビュランで線を刻む、エングレーヴィング、ニードルで刻むドライポイントの技法を探求する。
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長谷川潔《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、手彩色(雁皮紙刷り)、町田市立国際版画美術館藏
《思想の生れる時》1925年には、象徴派のルドンの影響がある。
《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年、《丘の上の村 サン・メーム》1930年には、静謐な世界がある
万物は本質的に同じ
2041年、一本の樹木が「ボン・ジュール」語りかけ挨拶をしてきた。啓示的体験をした。「草木にも人間の目鼻立ちと同じように意味があり、万物は本質的に同じなのだ」「白昼に神を視る」長谷川潔。《一樹(ニレの木)》1941年
《一樹(ニレの木)》1941年、ドライポイント、町田市立国際版画美術館蔵。荒廃した世界の中で、1本の木が人間の顔のような姿。第5章 静物画 ―マニエール・ノワールの宇宙
1950年代後半、長谷川は伝統的なマニエール・ノワール(メゾチント)の制作に立ち返り、深遠な黒を背景とする象徴性を帯びた静物画を制作する。
長谷川潔《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》 1969年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
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長谷川潔の世界には、老子の万物斉同、華厳経の事事無碍法界、空海の即身融一の思想があると思う。
「アクアリウムの前の草花は水を、水は魚を、魚は虫を、虫は草花を、と次々と連想を進めると大自然のあらゆる存在物は一大円形を形成する」長谷川潔 1969 図録p124
アクアリウムの前の草花は、魚と渾然一体、事事無碍法界、理事無碍法界、事物が理によって、渾然一体となる世界観を表現している。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」・・・幻想、神秘、静謐な世界
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-f462e3.html
オディロン・ルドン 夢の起源・・・「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-7414.html
「1894 Visions ルドン、ロートレック展」・・・世紀末の印象派と象徴派、ロマン主義の苦悶
https://bit.ly/3pw5x2g
「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-40e824.html
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「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/26/260711/
日本を代表する版画家長谷川潔(1891-1980)は第一次世界大戦後に単身渡仏し、同地で生涯を終えました。失われつつあった銅版画の古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の形で復興させ、版画の歴史に大きな足跡を残し、またエングレーヴィング、アクアチントなど様々な技法を探求しました。モノクロームで表現された深遠な精神世界は、今なお多くの人を惹きつけています。
長谷川の作品は日本の版画界に大きな影響を与えましたが、彼の活躍の舞台はやはりパリでした。1920年代から版画家としての才能を発揮した長谷川は、まもなくフォーヴの画家・版画家デュフィに見いだされ、マティス、ピカソ、シャガールら名だたる画家が名を連ねる「独立画家=版画家協会」に加わりました。またフランスの人々に日本の版画を紹介することにも尽力した長谷川は、日本の古典文学にエングレーヴィングのイラストレーションを添えた挿絵本『竹取物語』を手がけています。本展では、長谷川に影響を与えた十九世紀以前の版画や、パリで交流した同時代画家の作品とともに、町田市立国際版画美術館が所蔵する日本有数の長谷川潔作品コレクションを中心に初期から晩年に至る名品を展覧します。
展示室では、身近な物を描きながら、無限の奥行きを感じさせる作品に出会えるでしょう。そこには、深く沈む黒とやわらかに澄んだ白とが静かにひびき合っています。その前に立つとき、見えるものは一つではないのかもしれません。見つめるまなざしにだけ、ひらかれるものがあります。ぜひ会場で作品と向き合ってください。「町田市立国際版画美術
第1章 銅版画の研鑽 ―古典技法の発見と刷新
1919年、銅版画を学ぶためにフランスに渡った長谷川は、銅版をビュランで刻むエングレーヴィングなどの高度な技法を会得し、失われつつあった古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の手法で復興させました。本章では長谷川の作品を技法別に紹介します。
長谷川潔 《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、手彩色(雁皮紙刷り)、 町田市立国際版画美術館蔵
長谷川潔 《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
第2章 パリの版画界 ―画家たちとの交友
1920年代初頭、フォーヴの画家ラウル・デュフィと知り合った長谷川は、彼が創設に関わった「独立画家=版画家協会」に勧誘されるなど活動の幅を広げ、次第にパリの版画界で注目されるようになりました。本章では、1920-30年代の長谷川の作品を、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ジャン=エミール・ラブルールら同協会の画家たちの作品と並べて展示します。
長谷川潔 《オランジュと葡萄》1932年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
長谷川潔 《二つのアネモネ》 1934年、アクアチント、町田市立国際版画美術館蔵
第3章 『竹取物語』 ―フランスで刻まれた日本の美
渡仏後に「日本の尊厳」を知ったという長谷川は、1920年代後半から竹取物語を題材とする銅版画の制作に取り組み、1933年に挿絵本を完成させました。本章では、口絵から文字の図案、紙の種類にまでこだわった長谷川の珠玉の挿絵本をご紹介します。
長谷川潔『竹取物語』《「貴公子たちの求婚」の章 挿絵》1927-34年(1934年刊)、エングレーヴィング、ドライポイント、町田市立国際版画美術館蔵
第4章 自然 ―白昼に神を視る
第二次世界大戦中もフランスに留まった長谷川は、物心両面の苦労を重ねる日々のなかで創作活動を続け、ありふれた樹木や草木にも神秘が宿ることに気づいたといいます。本章では、戦中・戦後の長谷川が自然のかたちを克明に描き出した版画をご紹介します。
長谷川潔 《一樹(ニレの木)》1941年、ドライポイント、町田市立国際版画美術館蔵
第5章 静物画 ―マニエール・ノワールの宇宙
1950年代後半、長谷川は伝統的なマニエール・ノワール(メゾチント)の制作に立ち返り、深遠な黒を背景とする象徴性を帯びた静物画を制作するようになりました。本章では、激動の時代を生きた長谷川の集大成とも言える晩年の代表作が一堂に会します。
長谷川潔 《狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)》1963年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/26/260711/
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館所蔵 長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
2026年7月11日(土)~ 9月23日(水・祝)

2026年7月19日 (日)

没後50年 髙島野十郎 展・・・写実絵画と仏教思想

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第441回
東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業で才能を嘱望されながら、なぜ洋画家になる道を選んだのか。なぜ誰も師に就かず、孤独の道を選んだのか。実主義絵画と、仏教思想はどう関わるのか。友人たちに贈った蠟燭の絵はいのちの焔か。
1、
高島弥十郎の生涯と藝術
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市出身の洋画家。写実と仏教思想を探求した画家。1904-9年「蓮華」を描く。
福岡県御井郡合川村(現・久留米市)の裕福な酒造家であった髙嶋家の五男に生まれる。本名は彌壽(やじゅ)。福岡県立中学明善校(現・明善高等学校)に学んだ頃から絵に目覚め、長兄の宇朗(詩人)の友人であった青木繁を知る。
旧制第八高等学校(名古屋)を経て1912年東京帝国大学農学部水産学科に入学。1916年、東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業しながらも恩師の銀時計を辞退、画家の道を選び、独学で絵を学んだ野十郎は、特定の美術団体に属さず、流行や時代に迎合することなく、自らの理想と信念にひたすら忠実であろうとした。
1930~33 1930年欧州に向け旅立つ。2月アメリカ滞在。4月スコットランド、グラスゴー滞在。ベルギー、オランダ経由でパリに入る。イタリア、ヴェネツィア近郊キオッジア滞在。パリに戻る。留学や帰郷を挟みながら絵画を探求。1936実家と断絶。1936年赤坂区青山北町4丁目43に住む。東京の渋谷や青山にアトリエを構えていた、渋谷区にゆかりの深い人物でもあり。
1945年空襲で被災、姉スエノの嫁ぎ先中島家に疎開。1948年、港区赤坂青山南町3丁目21に住む。1960年70歳、晩年に千葉県柏市増尾へ移る前の約50年、1975年85歳で死去。没後50年を機に開催する本展は、初公開作品や青木繁、坂本繁二郎、岸田劉生など関連する作家の作品、関係資料を含めた約170点を展覧する、髙島野十郎展としては最大規模の回顧展となります。「蝋燭」や「月」を主題とした代表作を含む、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、
これまで大きく取り上げられなかった部分にも焦点を当てます。また、野十郎関係者による書簡やメモ等の資料から、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築いたのか、彼の人間像にも改めて迫ります。「孤高の画家」と称されてきた髙島野十郎の新たな全貌をお楽しみください。
1986(昭和61)年に初の回顧展「写実にかけた孤独の画境 髙島野十郎展」が福岡県立美術館で開催されて以降、連続的に展覧会が開催され、その作品や画業の全体像が明らかになってきた。代表作「蝋燭」や「月」をはじめとする作品は、卓越した技量と、緊張感さえもみなぎる独特の写実的筆致を魅力とする。
【1】《満月》昭和38(1963)年頃 油彩・画布 東京大学医科学研究所蔵
【2】《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年 油彩・画布、福岡県立美術館蔵
プロローグ 野十郎とはだれか
野十郎の回顧展が初めて開催されたのは昭和61(1986)年でした。それ以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されてきましたが、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこで本章では、まず野十郎の全体像を概観します。
【3】《からすうり》昭和10(1935)年 油彩・画布福岡県立美術館蔵 からすうりは、月や蝋燭に並ぶ野十郎作品を象徴するモチーフ。
【4】《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃 油彩・画布 福岡県立美術館蔵留学時代、ノートルダム寺院を望むアパルトマンの窓からの風景を描いた作品。パリでの拠点であったのだろう。
【5】《すいれんの池》昭和24(1949)年 油彩・画布 福岡県立美術館蔵 昭和55(1980)年、福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)での展覧会「近代洋画と福岡県」に出品され、野十郎が“発見”されるきっかけとなった作品。
【10】《岸上鎌吉先生像》大正10年代(1921-26)頃 油彩・画布 東京大学大学院農学生命科学研究科水圏生物科学専攻蔵 野十郎の東京帝大在学時の恩師を描いた作品。柔和な表情や丁寧に描かれた研究室の細部からは、師への敬愛と感謝の気持ちを読み取ることができる。
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2、写実主義と仏教思想
東京帝国大学農学部水産学科で才能を嘱望されながら、なぜ洋画家になる道を選んだのか。なぜ誰も師に就かず、学校に学ばず、孤独の道を選んだのか。なぜ写実主義絵画を志し、仏教思想はどう関わるのか。高島野十郎の写実主義の核心は何か、仏教思想の核心は何か。なぜ孤高の道を選んだのか。
高島野十郎の「遺稿」の言葉は、即身成仏義を思い出す。
【空海『即身成仏義』】六大無碍にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各離れず(相)三密加持すれば速疾に顕はる(用)重重帝網なるを即身と名づく(瑜伽)法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり、各五智・無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり(成仏)。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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写実と慈悲 髙島野十郎「遺稿ノート」より
「寫実(しゃじつの)極致 それを慈悲といふ」髙島野十郎
『世の画壇と全く無縁になることが、私を本当に自由にし私の願う勉強を完全にさせてくれた』
全宇宙を一握する、是れ写実、全宇宙を一口に飲む、是写実 
「四曼を一にしてあらはす、それを写実といふ」
髙島野十郎「遺稿ノート」
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参考文献
没後50年 髙島野十郎 展・・・写実絵画と仏教思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-a66b4c.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
千葉県立美術館、没後50年 髙島野十郎展 プレスリリースより
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
参考文献2
空海『秘密曼荼羅十住心論』・・・大日如来は、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)をもつ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-2f9322.html
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
学問僧、空海・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
「没後50年 髙島野十郎 展」図録2025 2026
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3、展示構成
展示作品の一部
プロローグ 野十郎とは誰か
髙島野十郎の画業が世に初めて知られたのは、彼の死後約10年を経た昭和61(1986)年でした。以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されたとはいえ、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこでこの章では、髙島野十郎の人と作品についての全体像を概観します。

第1章 時代とともに
青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など、交流のあった作家や同時代の画風を共有した作家の作品も紹介しながら、野十郎が写実の画風を確立させていく道程を同時代の美術の中で捉え、従来の「孤高の画家」像を解体します。

第2章 人とともに
野十郎と、東京帝国大学からの友人や画家仲間、文化人、著名人との関係やエピソードを作品や資料で紹介し、彼の人間関係や人となり、人生観に迫ります。
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵

第3章 風とともに
ヨーロッパ留学中の風景画や日本全国を旅して描いた四季の風景画を展示し、制作や構図の一貫性を提示するとともに、最新の調査結果を紹介します。

第4章 仏の心とともに
野十郎が生涯よりどころとしていた仏教に注目し、寺社仏閣をダイレクトに描いたもののほか、霊場巡りへの関心のなかで訪れた場所を描いた風景画、さらには一見すると普通の静物画や風景画に込められた仏教的な考え方を紹介します。
《空》 昭和23(1948)年以降、個人蔵

エピローグ 野十郎とともに
本展全体を振り返りながら、もう一度野十郎の作品と世界観に浸っていただく章とします。展覧会を通して揺らぎ、あるいは膨らんだ野十郎像を、ふたたび見つめなおし、身近に野十郎を感じていただけましたら幸いです。
《秋陽》昭和42(1967)年、福岡県立美術館蔵
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没後50年 髙島野十郎 展 渋谷区立松濤美術館
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2026年7月4日(土)~ 9月6日(日)
前期:7月4日(土)~8月2日(日)/後期:8月4日(火)~9月6日(日)
※会期中、一部展示替えあり
展覧会概要
没後50年 髙島野十郎 展 渋谷区立松濤美術館
展覧会公式HP: https://takashimayajuro50.jp/
会場 渋谷区立松濤美術館
〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
電話:03-3465-9421 HP: https://shoto-museum.jp
プレスリリース https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2026/03/05deeb6e94cc4ff6a67343a7cc0b0a1e.pdf

2026年7月16日 (木)

「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第440回

レンブラントの生涯、栄光と没後
レンブラント・ハルメレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606~1669年)は版画史上最大の巨匠とも評され、伝統的表現となったエッチング(腐食銅版画)に新たな表現や技術で取り組んだ。レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン《書斎の学者(ファウスト)》1652年頃 エッチング、ビュラン、ドライポイント 国立西洋美術館は、19世紀、ゴヤ、ピカソ、マティスといった画家から、ゲーテの『ファウスト』、ボードレールの詩集『悪の華』やユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ(ノートルダムのせむし男)』などに、大きな影響を与えた。
レンブラント・ハルメレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインは1607年7月15日、オランダのレイデンの裕福な製粉商人に10人兄弟の9番目の息子として誕生した。14歳のときに画家を目指して修行を始め、18歳レイデンで仲間の画家たちと一緒に工房を開いた。1631年、レンブラントはアムステルダムにアトリエを移すと、翌1632年「テュルプ博士の解剖学講義」を描き、その名声を揺るぎないものにした。当時、オランダでは資金を出し合い、一枚の絵にする「集団肖像画」が流行っていた。
レンブラントは28歳でサスキア6歳年下の女性と結婚。幸福な家庭を得て、レンブラントの創作活動はますます旺盛。サスキアをモデルにした素晴らしい作品も沢山描き、高い値段で売れた。若く美しい妻、画家として手に入れた名誉と金。幸せの絶頂にあったレンブラントの暮らしは贅沢になった。世界中の美術品や骨董品を買い漁り、レンブラントは浪費家となった。
サスキアとの間に生まれた二人の子どもが幼くして次々に亡くなってしまった。1639年、33歳のとき大金を借りて大きな家を買い、この家で生まれた3人目の子どもも育たなかった。さらに4人目の子どもティトゥスが生まれた翌年には妻のサスキアが病気でこの世を去る。
1942年「夜警」を完成させたが、徐々にレンブレントの人気にも陰りが見え始める。当時オランダでは集団肖像画の依頼人が割り勘(Dutch account)で絵の代金を支払うのが一般的。
1652年オランダとイギリスが戦争を始め、オランダの人々は絵を買うどころではなくなり。お金が入らなくなったレンブラントは借金の取り立てに追われ、1656年、50歳のときに破産。
1660年、レンブラントは住み慣れた家を売り払い、小さな家に移り、そこで息子ティトゥスと新しい妻ヘンドリッキェ、彼女との間に出来た娘コルネリアと慎ましやかでありながらも幸せな家族生活を過ごす。しかし、3年後にヘンドリッキェ、さらにその5年後にはティトゥスが27歳の若さで亡くなる。
レンブレントは自画像を描き続けた画家としても良く知られている。1669年、レンブラントが63歳で亡くなったとき、部屋の画架には未完成の絵が置かれたままだった。
17世紀オランダ、商業主義と立身出世主義の勃興の時代である。
長谷川潔(1891-1980)は第一次世界大戦後に単身渡仏し、同地で生涯を終えた。失われつつあった銅版画の古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の形で復興させ、版画の歴史に大きな足跡を残し、またエングレーヴィング、アクアチントなど様々な技法を探求した。《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》 1969年、メゾチント、を残した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」エッチング、銅板に直接線を刻んで版を作るエングレーヴィングの代替技法
第1章 版画家レンブラント エッチング
レンブラントが制作に着手した17世紀初頭、エッチングは歴史的な転換期を迎えていました。以前のエッチングは主として、銅板に直接線を刻んで版を作るエングレーヴィングの代替技法であり、その規則正しい線描の再現が重視されました。
第2章 レンブラント版画の影響:17-18世紀
イタリアのジョヴァンニ・ベネデット・カスティリオーネやステファーノ・デッラ・ベッラの例のように、レンブラントのエッチングに創造的に感化を受けた作品も生み出されました。
18世紀には、ドイツの芸術家たちを中心に、レンブラントのエッチングへの関心が高まります
第3章 レンブラント版画の影響:19-20世紀
ゴヤはスペイン国内におけるレンブラントのエッチングを熱心に研究し、受けた刺激を自作に反映させました。続いて、19世紀フランスを中心としたエッチング復興リヴァイヴァルの文脈における、レンブラント人気の興隆
フレデリック・レガメ 《『エッチングのパリ』誌ポスター》1875年 リトグラフ/青色紙 レンブラント・ハウス美術館
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参考文献
「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-40e824.html
「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」国立西洋美術館・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
エル・グレコ展・・・天上界と地上界の融合、 「昨夜私は永遠を見た」
https://bit.ly/3radRHN
フェルメールと17世紀オランダ絵画・・・ドレスデンの思い出
https://bit.ly/3sPtioB
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史、国立西洋美術館・・・黄昏の帝国、旅の思い出
https://bit.ly/2C7rE7K
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
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メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年・・・美女の歴史、詐欺師女、残酷な美女、欲望に溺れる女
https://bit.ly/3p6BrUA
西洋絵画の500年、カラバッジョ・・・バロック、若者たち、女詐欺師、残酷な美女、欲望に溺れる女
https://bit.ly/3hrwK3b
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オランダ、アムステルダムの中心に位置するレンブラント・ハウス美術館は、レンブラントが1639年から1658年にかけて実際に暮らした家を利用した、世界で唯一のレンブラント専門の美術館です。レンブラントによるエッチング(腐蝕銅版画)の世界有数のコレクションを中心に、同じく素描作品、さらに彼と関連の深い、あるいは、その強い影響を受けた芸術家たちの作品を収蔵しています。一方、国立西洋美術館でも、レンブラントのエッチングを重点的な収集の対象としており、《病人たちを癒すキリスト》や《三本の木》など代表作を含む、20点余の作品を所蔵しています。
今回の展覧会は、この2つのコレクションを組み合わせ、国内の美術館、大学図書館および海外の個人コレクターから拝借した作品や書籍も加えて、レンブラントのエッチングと、それが同時代および続く時代に与えた影響を見ていく企画です。
展覧会の前半では、まずレンブラントのエッチングに焦点をあてます。彼は当時、先例より刺激を受けつつ、さまざまな実験的な試みを通してエッチング表現の可能性を追究し、その地平を拡げました。そうして生み出された諸作品は、数世紀にわたって芸術家たちに影響を与え続けます。とくに、19世紀には、エッチング技法そのものの再評価と結びつき、レンブラントのエッチングへの関心は熱狂的な高まりをみせました。展覧会の後半では、そうした事例を、版画のみならず文学や批評なども交えてご紹介します。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《書斎の学者(ファウスト)》 1652年頃 エッチング、ビュラン、ドライポイント 国立西洋美術館
フレデリック・レガメ 『エッチングのパリ』誌ポスター 1875年 リトグラフ/青色紙 レンブラント・ハウス美術館
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《窓辺でエッチングを制作する自画像》 1648年 エッチング、ドライポイント、ビュラン/中国紙 レンブラント・ハウス美術館
アンリ・マティス 《版画を彫るアンリ・マティス》 1900-03年 ドライポイント 国立西洋美術館
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《百グルデン版画》 1648年頃 エッチング、ドライポイント、ビュラン/和紙 国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026rembrandt.html
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「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」が国立西洋美術館、7月7日から9月23日

2026年7月 9日 (木)

「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第439回
廃墟から蘇る、陸奥宗光旧居、台東区根岸。別邸として鶯谷の洋館を購入したのは1883年(明治16年)。
ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はあるのか。
謎の洋館、病院坂の医者の家、坂道を降りる謎の美女、
【1883年(明治16年)】鹿鳴館が完成、欧化政策が本格化。政府による条約改正交渉。華族制度や西洋化政策が広がり、自由民権運動への弾圧、政府との対立が深まる。
近代国家としての外交・文化整備が進展した。
江戸の風情が残る日本橋と遠くに望むコンドル設計の洋館
「武蔵百景之内 江戸橋より日本橋の景」小林清親/画 1882年(明治15)
東京都江戸東京博物館蔵 85200735
現在の迎賓館赤坂離宮。大正天皇、皇太子時代の邸宅
東宮御所 彩鸞の間 (『東宮御所写真帖』より)小川一真/撮影 1909年(明治42)頃
東京都江戸東京博物館蔵 22604205
赤煉瓦、長大なファサード…現代に残る東京駅の誕生
「中央停車場建物展覧図」 1911年(明治44)頃、鉄道博物館蔵
「国会議事堂案 外観透視図」 エンデ&ベックマン/作 1887-8年(明 治20-21)頃
ベルリン工科大学建築博物館蔵 Architekturmuseum der Technischen Universität Berlin, Inv. Nr. 20190
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-92da5c.html
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「洋館 明治の夢と挑戦」江戸東京博物館、
日本建築史のはじまりともいえる法隆寺の建立から1,000年あまりの時が流れ、到来した明治という時代。江戸から明治への転換は、長きにわたり閉ざされていた西洋文化の入口が開き、洋風建築の流入が一気にはじまることを意味しました。本展では、人びとが建築に夢を抱いた「明治の洋館」の世界を、多種多様な資料と立体的な展示手法で描きます。
大工棟梁による擬洋風ぎようふう建築、外国人技術者による非本格的洋館や外国人建築家たちの手がけた本格的西洋建築、工部大学校卒業生等の挑戦、そして皇族や上流階級のための大邸宅にいたるまで、日本の建築史上稀にみるこの大変革の時代の多彩な成果を活写します。
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プロローグ 前夜―幕末の東京・横浜風景―
第1章 ナマコ壁と擬洋風ぎようふう建築
明治元年(1868)、東京開市とともに築地に居留地が開かれます。このとき、外国人のための宿泊・交易場として建てられたのが、伝統的な左官技術ナマコ壁を用いた東京初の洋館・築地ホテル館です。主設計はアメリカ人建築技術者リチャード・ブリジェンスが、工事は大工棟梁の二代目清水喜助が行いました。清水は明治5年 (1872)に大作、第一国立銀行の設計・施工を手がけます。このように、江戸時代以来の大工が明治初期に見よう見まねで作った和洋折衷の建物を「擬洋風建築」と呼びます。
第2章 建築家がやってきた―外国人建築家と「都市風景」
棟梁たちが見よう見まねで建てた擬洋風建築はどれも個性豊かなものでしたが、日本政府が求めていたのは個性よりも「本物の西洋」でした。欧米建築文化の摂取に努めるため、さまざまな国から技師や建築家が来日します。イギリス人のジョサイア・コンドル、ドイツ人のヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンらがその代表です。彼らのつくりだす建物は、擬洋風建築とはひと味違う本格的なものとして、都市・東京の風景を壮麗に刷新していきました。
第3章 開花する洋館の明治―日本人建築家の挑戦
明治12年(1879)、ジョサイア・コンドルが育成した日本人が工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業し、日本人最初の建築家4名が誕生しました。彼らが設計した建築作品のいくつかは東京に現存しており、片山東熊の表慶館(明治41)、曾禰中條建築事務所の慶應義塾図書館(明治45)、辰野金吾の中央停車場(現・東京駅、大正3)などが国の重要文化財に指定されています。日本人建築家たちの果敢な挑戦の軌跡を、現存する建物や失われた作品から見ていきます。
第4章 羨望の住処すみか―明治の洋風邸宅
明治の建築家たちに課せられた使命の中心は、国家を飾る大建築を設計することでしたが、時に邸宅も重要な創作の対象となり得ました。また、ジョサイア・コンドルのように、邸宅を得意とする建築家も少数ながら存在しました。彼らが創造した洋館に共通して言えるのは、そのほとんどが限られた上流階級の人たちの大邸宅であったことです。それらはまさに、人々が瞠目する「羨望の住処」として、明治の東京を華麗に装飾したのです。明治期に建てられた邸宅の群像を、古写真や絵画資料、残された家具、空間の再現などから描きます。
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/western-style-architecture/
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江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」
江戸東京博物館、2026年6月23日(火)~2026年8月23日(日)

2026年6月21日 (日)

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回

ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
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参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
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「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
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