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2026年7月 9日 (木)

「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第439回
廃墟から蘇る、陸奥宗光旧居、台東区根岸。別邸として鶯谷の洋館を購入したのは1883年(明治16年)。
ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はあるのか。
謎の洋館、病院坂の医者の家、坂道を降りる謎の美女、
【1883年(明治16年)】鹿鳴館が完成、欧化政策が本格化。政府による条約改正交渉。華族制度や西洋化政策が広がり、自由民権運動への弾圧、政府との対立が深まる。
近代国家としての外交・文化整備が進展した。
江戸の風情が残る日本橋と遠くに望むコンドル設計の洋館
「武蔵百景之内 江戸橋より日本橋の景」小林清親/画 1882年(明治15)
東京都江戸東京博物館蔵 85200735
現在の迎賓館赤坂離宮。大正天皇、皇太子時代の邸宅
東宮御所 彩鸞の間 (『東宮御所写真帖』より)小川一真/撮影 1909年(明治42)頃
東京都江戸東京博物館蔵 22604205
赤煉瓦、長大なファサード…現代に残る東京駅の誕生
「中央停車場建物展覧図」 1911年(明治44)頃、鉄道博物館蔵
「国会議事堂案 外観透視図」 エンデ&ベックマン/作 1887-8年(明 治20-21)頃
ベルリン工科大学建築博物館蔵 Architekturmuseum der Technischen Universität Berlin, Inv. Nr. 20190
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-92da5c.html
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「洋館 明治の夢と挑戦」江戸東京博物館、
日本建築史のはじまりともいえる法隆寺の建立から1,000年あまりの時が流れ、到来した明治という時代。江戸から明治への転換は、長きにわたり閉ざされていた西洋文化の入口が開き、洋風建築の流入が一気にはじまることを意味しました。本展では、人びとが建築に夢を抱いた「明治の洋館」の世界を、多種多様な資料と立体的な展示手法で描きます。
大工棟梁による擬洋風ぎようふう建築、外国人技術者による非本格的洋館や外国人建築家たちの手がけた本格的西洋建築、工部大学校卒業生等の挑戦、そして皇族や上流階級のための大邸宅にいたるまで、日本の建築史上稀にみるこの大変革の時代の多彩な成果を活写します。
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プロローグ 前夜―幕末の東京・横浜風景―
第1章 ナマコ壁と擬洋風ぎようふう建築
明治元年(1868)、東京開市とともに築地に居留地が開かれます。このとき、外国人のための宿泊・交易場として建てられたのが、伝統的な左官技術ナマコ壁を用いた東京初の洋館・築地ホテル館です。主設計はアメリカ人建築技術者リチャード・ブリジェンスが、工事は大工棟梁の二代目清水喜助が行いました。清水は明治5年 (1872)に大作、第一国立銀行の設計・施工を手がけます。このように、江戸時代以来の大工が明治初期に見よう見まねで作った和洋折衷の建物を「擬洋風建築」と呼びます。
第2章 建築家がやってきた―外国人建築家と「都市風景」
棟梁たちが見よう見まねで建てた擬洋風建築はどれも個性豊かなものでしたが、日本政府が求めていたのは個性よりも「本物の西洋」でした。欧米建築文化の摂取に努めるため、さまざまな国から技師や建築家が来日します。イギリス人のジョサイア・コンドル、ドイツ人のヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンらがその代表です。彼らのつくりだす建物は、擬洋風建築とはひと味違う本格的なものとして、都市・東京の風景を壮麗に刷新していきました。
第3章 開花する洋館の明治―日本人建築家の挑戦
明治12年(1879)、ジョサイア・コンドルが育成した日本人が工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業し、日本人最初の建築家4名が誕生しました。彼らが設計した建築作品のいくつかは東京に現存しており、片山東熊の表慶館(明治41)、曾禰中條建築事務所の慶應義塾図書館(明治45)、辰野金吾の中央停車場(現・東京駅、大正3)などが国の重要文化財に指定されています。日本人建築家たちの果敢な挑戦の軌跡を、現存する建物や失われた作品から見ていきます。
第4章 羨望の住処すみか―明治の洋風邸宅
明治の建築家たちに課せられた使命の中心は、国家を飾る大建築を設計することでしたが、時に邸宅も重要な創作の対象となり得ました。また、ジョサイア・コンドルのように、邸宅を得意とする建築家も少数ながら存在しました。彼らが創造した洋館に共通して言えるのは、そのほとんどが限られた上流階級の人たちの大邸宅であったことです。それらはまさに、人々が瞠目する「羨望の住処」として、明治の東京を華麗に装飾したのです。明治期に建てられた邸宅の群像を、古写真や絵画資料、残された家具、空間の再現などから描きます。
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/western-style-architecture/
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江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」
江戸東京博物館、2026年6月23日(火)~2026年8月23日(日)

2026年6月21日 (日)

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

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Gr-delph-theather-2025
Gr-delph-sphinx-archeology-museum-2026
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回

ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
――
★★★★★
参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回
ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
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参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html

2026年6月18日 (木)

没後50年、ピカソmeetsポール・スミス・・・パブロ・ピカソ、7つの時代

2026-meetsnact-2026
2026-1933-meetsnact-2026
2026-1953-meetsnact-2026
Picaso-1937-meets-nact-2026

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第437回
パブロ・ピカソ(1881–1973)は、7つの時代を生き、変貌し続けた。愛人、妻、恋人、娘らによって代物弁済された遺産によって膨大な作品宝庫となった、国立ピカソ美術館、富豪の遺産収蔵庫である。
1901年、友人カサジェマスの死を描く。彼は社会の最貧困層を深い青で描き、孤独や憂鬱を表現した。貧しい生活のなかで夜間にランプの下で制作された作品は、憂鬱な雰囲気を醸し出す独自の様式へと深化。1906年、キュビスム、1924年から1935年シュルレアリスムの時代は、世界に衝撃を与えた。
パブロ・ピカソ(1881–1973)、
ピカソ、7つの時代。
1881から1990 幼少期と教育 
1916から1923 バレエ・リュス チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールにて、ダダによる音楽と文学のパフォーマンス 《アルルカンに扮したパウロ》1924年、《初聖体拝領者たち》1919年
1901年から1904年「青の時代、薔薇色の時代」
1906年から1915年 キュビスム《アヴィニョンの娘たち》(1907年)。
1924年から1935年 シュルレアリスム パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年、パブロ・ピカソ《読書》1932年、パリ国立ピカソ美術館、《ゲルニカ》(1937年)
1936年から1945年 スペイン内戦とドイツによるフランス占領
1946年から1945年 コートダジュールにて
1965年から1973年 ピカソの晩年
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
★★★★★
【ピカソと7人の恋人】
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)の作品数は4万5000点で絵画1885点、彫刻1228点、陶器2280点、スケッチ4659点と 3万点に及ぶ版画作品などを手がけた。
【最初の恋人フェルナンドゥ・オリヴィエ Fernande Olivier】
ピカソが初めて愛した女は人妻。 1904年にパリで永住したときに出会ったフランス女フェルナンドゥオリビエはピカソのモデルであり、二人は恋に落ちてしまう。 ピカソと同い年で、1904年(23歳)に会った。
【第二の恋人エヴァ・グエルEva Gouel】
肌がすごく白かった女性。 ピカソは九年にわたるフェルナンドゥと同居生活に終止符を打ち、彼女を選ぶ。 体が弱かったエヴァ。 第一次世界大戦翌年の1915年12月14日この若い女性は、結核で死ぬ。
【第三の恋人-オルガ・クルロバOlga Kokhlova】
<パレード>公演の時に会ったロシアダンサー、ピカソが26歳のときに初めて結婚をした女性。オルガは庶民的で快適なことを楽しんだピカソとは異なり、上流社会的な気質を持った。 彼女はピカソの最初の息子パウロを生んだが、結婚4年で夫婦関係が解消。
【第四の恋人-マリーテレーズ・ヴァルターMarie Therese Walter】
ピカソが45歳になった年1927年当時17歳の健康で官能あふれた少女を6ヶ月間作業室に連れて来て超現実主義シュルレアリスムの時代の傑作<鏡の前に立っ処女>のモデルに立てた。 フェルナンドゥとエヴァ、オルガが茶色の髪を持っていたのとは異なり、彼女は金髪だった。 彼女が二十二歳の時ピカソの二番目の子供の娘マリアを生む。 ピカソに最も創造的なインスピレーションを与えた女性だったと言われている、ピカソが死んだときに死後もピカソを守らなければならならないと自殺した女性がテレーズだった。
【5番目の恋人-ドラ・マールDora Maar】
1936年ピカソは親しくしていシュールレアリズム詩人ポール・エリュアールから写真家ドラ・マール(本名マルコ・ヴィッツアンリエトロ)を紹介される。 ピカソの母国語であるスペイン語で彼と芸術を論じることができるほど知的だった。
1936年(55歳)ピカソが「ファシズムの狂気との戦いを取る時代」 彼女はピカソの「ゲルニカ」の時代を一緒にしており、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に「泣く女」に登場する。うつ病のための心理療法を受けなければならなかったが、ピカソの友人であり、有名な精神分析学者であるジャック・ラカンの精神分析を長く受けることになった 。
【第六の恋人-フランソワーズ・ジロットFrançoiseGilot】
第二次世界大戦中に出会った彼女は非常に若くて美しい女流画家である。 ピカソが六十三歳の時、1945年から一緒に暮らするが、このとき、彼女は二十歳だった。 完璧主義者であり、独占力が強かったフランソワーズは、息子クロードと娘パロマを生む。 ピカソは自分の子供を素材にして魅惑的で躍動感あふれる肖像画を残した。 ここで、子供たちは、時には母の懐に抱かれた姿で、時には自分たち同士で遊ぶ姿で登場する。
後日フランソワーズは当時を率直に回想してこう書いた。
オルガ、テレーズ、ドラ・マールとの関係が続いて、彼らは継続的にピカソと私の生活の中に存在するという事実により、私は、ピカソの表現になり、それはまた、自分が収集したすべての女性個人所有の小さな博物館に展示しようとするピカソの欲望を確信するようになった。
【1953年、72歳で出会ったジャクリーヌ・ロックJacqueline Roque】
ピカソの末期の作品は、外在的にも暗黙的に性愛が目立つ。 このときピカソが陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期であった。
ピカソが作品に専念できるように内助してくれた最後の女性ジャクリーヌ・ロックは、ピカソが72歳になった年に会った女性である。彼女は前夫との間に娘がいる離婚女性で、ピカソと8年間同棲した後、結婚した。 ジャクリーヌ・は料理をよく家事もよくしスペイン語で芸術家たちにも話を交わすことができた。
また、ピカソの客を楽しませてくれる魅力的なホステスの役割をした。ジャクリーヌはピカソよりも13年より住んでいた。 そして、これまで無私にピカソの複雑な財産の問題を処理した。1986年10月15日ピカソの生誕105年を十日前に彼女はピカソの墓の前で自ら命を絶った。
【ピカソの死1973】
20世紀の現代美術の巨匠ピカソは1973年にこの世を去った。 彼が死ぬ彼に会った多くの女性たちと子孫たちは一様に悲劇的な最後を迎えた。
ピカソが死んだという知らせを聞いてテレーズは首を毎月吊り、ジャクリーヌは1986年に マドリードの展示会を控えて拳銃自殺をした。 オルガとピカソの間の息子サンパウロは、薬物中毒で死に、ピカソの孫パヴェルリートは、 ピカソの葬儀に出席しに来てジャクリーヌは毒を食べて自殺した。
ピカソにとって女性と会話は筆 のようなもの、つまりなくてはならないし、本質的であり、致命的なものであった。
最初の恋人だったオリビエビーズマイヤーピカソは、後にこう回想した。果たしてピカソの恋人たちは、ピカソの絵画で筆のような存在だったのか。
【ピカソと恋人たちは、2本の映画に出た】最初は、1956年にアンリ・ジョルジュクルー趙監督の ドキュメンタリーThe Mystery of Picasso(ピカソ出演)、カンヌ映画祭審査員賞。ベニス映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受け。第二の映画は、1996年にジェームズ監督のSurviving Picasso(アンソニー・ホプキンス出演)である。
参考文献 https://matome.naver.jp/odai/2146640490474122401
★★★★★
参考文献
没後50年、ピカソmeetsポール・スミス・・・パブロ・ピカソ、7つの時代
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-69dab0.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
https://art.nikkei.com/picasso_ps26/gallerytour/
ポール・スミスがピカソ没後50周年展の会場デザインを担当。ルイーズ・ブルジョワなど現代アートと対比
https://artnewsjapan.com/article/856
★★★★★
展示作品の一部
パブロ・ピカソ《男の肖像》1902-1903年、パリ国立ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《女の胸像 (《アヴィニョンの娘たち》のための習作)》 1907年、パリ国立ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《初聖体拝領者たち》1919年、
パブロ・ピカソ《アンドレ・ドランの肖像》1919年
パブロ・ピカソ《アルルカンに扮したパウロ》1924年
パブロ・ピカソ《トラックの玩具で遊ぶ子ども》1953年
パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年
パブロ・ピカソ《読書》1932年
★★★★★
「ピカソmeetsポール・スミス 遊び心の冒険へ」国立新美術館
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
パリの国立ピカソ美術館が所蔵する20世紀を代表する芸術家パブロ・ピカソ(1881-1973)の作品からインスピレーションを得て、伝統的な仕立てと遊び心あふれる色使いで知られる英国人デザイナー、ポール・スミスが会場のレイアウトを考案します。自由な発想で創り上げられた会場構成は、ポール・スミスがデザインする洋服や小物のような色鮮やかさと楽しさに満ちています。ピカソの初期から晩年までの作品群を緩やかな時系列に従って展観します。
パブロ・ピカソ(1881–1973)
20世紀で最も影響力のある芸術家の一人。伝統的な絵画の概念を根底から覆した革新者です。「青の時代」やキュビスムなど多様な様式を切り拓き、陶芸、舞台芸術にも挑みました。《ゲルニカ》に象徴される社会的・政治的メッセージを込めた作品も知られています。
ポール・スミス(1946–)
英国ノッティンガム出身のデザイナー。サイクリストから転身し、デザイン、音楽、ファッションの道へ。「ひねりのあるクラシック」という哲学を軸に豊かな色彩を用いたファッションデザインで知られています。
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
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00 トロンプ・レスプリ (精神を欺くもの)

《牡牛の頭部》は自転車のサドルとハンドルという既製品を組み合わせ、牛の頭部を形づくった作品。これが牛の頭部なのか、あるいはサドルとハンドルなのか、鑑賞者の心に混乱を呼び起こします。ポール・スミスは青年期にはプロの自転車選手を目指していたほど、自転車を愛好しています。ピカソの本作に着想を得たスミスは、幾つもの自転車のサドルを用いて部屋のレイアウトを考案しました。

※展示風景は全てパリ国立ピカソ美術館で2023年に開催された「Picasso Celebration: The Collection in a New Light!」のものです。 フォトクレジット コピーライト Vinciane Lebrun/Voyez-Vous, courtesy of the Musée National Picasso-Paris.

パブロ・ピカソ《牡牛の頭部》1942年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF

01 『ヴォーグ(流行)』中の 芸術家

ピカソは子供のころから雑誌や漫画を愛読していました。その後は書物に絵をじかに描き込むようになり、バルザックやフロベールの小説のページに人物像をスケッチするようになります。こうした書物への描き込みは、1951年の雑誌『ヴォーグ・パリ』でも行われました。ピカソはウェディングドレスを纏う女性の写真の上にいくつか線を加え、その姿を不条理かつグロテスクなものへと変えました。

02 青の憂鬱

1901年から1904年にかけて、ピカソは青を基調とした絵画を数多く制作しました。「青の時代」と呼ばれるこの時代は、親友カサジェマスの死を契機に始まりました。彼は社会の最貧困層を深い青で描き、孤独や憂鬱を表現しました。貧しい生活のなかで夜間にランプの下で制作された作品は、やがて憂鬱な雰囲気を醸し出す独自の様式へと深化していきました。
パブロ・ピカソ《男の肖像》1902-1903年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


03 バラ色の女性たち 《アヴィニョンの娘たち》への前奏曲

1906年から1908年にかけて、ピカソは形態と空間の簡素化を追求し、キュビスムの基盤を築きました。彼はイベリア美術やアフリカ彫刻に着想を得て、バラ色を基調とした幾何学的で荒々しい新たな造形言語を模索しました。膨大な習作を経て完成した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)において、鑑賞者を圧倒するような暴力的なまでの視覚的革新を成し遂げたのです。ここではその習作を中心に紹介します。

パブロ・ピカソ《女の胸像 (《アヴィニョンの娘たち》のための習作)》 1907年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Adrien Didierjean / distributed by AMF


04 キュビスムの実験室

1906年頃からピカソは、イベリア美術やアフリ力美術から影響を受けつつ、対象を立方体のように単純化するキュビスムという新たな表現に取り組みます。ピカソは最初、テーブル、グラス、新聞、楽器などの日用品を主題としました。限られた色彩で抽象的に描かれた画面は主題の識別が難しいときもありますが、モノや装飾、あるいは身体など、かならず手がかりとなる細部が取り込まれています。

05 アッサンブラージュとコラージュ

ピカソは日用品を実践に組み込み、芸術は忠実に現実を再現するものだという規範に対抗します。木や大理石などに似た壁紙をカンヴァスに貼り付け(コラージュ)、現実の断片を直接作品に取り込んだのです。このアイデアは二次元にとどまらず、三次元の表現にも及びました。スプーンや自転車のサドルなどの日用品で作られた作品がアッサンブラージュです。

06 古典主義の画家

1910年代末から1920年代初頭にかけて、「秩序への回帰」という具象表現や古典的主題を復活させる風潮が芸術界に起こりました。こうした中で、1920年代にピカソはきわめて古典主義的な方法で、人物像を油彩とデッサンに描いています。妻でロシアのダンサーであったオルガ・コクローヴァや、息子パウロといった新しい家族がモデルに選ばれました。
パブロ・ピカソ《初聖体拝領者たち》1919年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn
(musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF
パブロ・ピカソ《アンドレ・ドランの肖像》1919年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF


07 子ども時代

ピカソはスペインでの幼少期に親しんだ闘牛やフラメンコ、パリのキャバレーやサーカスの鑑賞体験を通じて、生涯にわたり舞台芸術に深い関心を持ち続けました。特にアルルカン(道化師)には自身を投影し、多くの作品の主題となりました。オルガ・コクローヴァとの息子パウロがアルルカンに扮した作品や、マリー=テレーズ・ワルテルとの娘マヤを描いた作品などを紹介します。
パブロ・ピカソ《アルルカンに扮したパウロ》1924年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF
パブロ・ピカソ《トラックの玩具で遊ぶ子ども》1953年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF

08 闘牛

ピカソは生涯を通じて闘牛を重要なテーマとし、その力強さに焦点を当て続けました。1930年代には牡牛が馬や闘牛士を襲う激しく悲劇的な瞬間を好んで描き、闘牛場を生と死、あるいは性と死が交錯する象徴的な劇場として表現しました。一方、ヴァロリスに滞在した戦後に制作した軽快な筆致の版画の連作〈ラ・タウロマキア〉では、闘牛の儀式の躍動感や祝祭性を巧みに捉えています。
パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


09 ストライプ

1930年代にピカソはストライプ模様を実験的に用いて、愛する女性たちの肖像を描きました。柔らかな曲線とパステル調の色彩で描かれたマリー=テレーズ・ワルテルは官能性と安らぎを象徴し、鋭角的な形と暖色で描かれたドラ・マールは強い存在感を示していました。しかし、スペイン内戦やファシズムの影が忍び寄ると、連作〈泣く女〉に代表されるように、戦争の苦しみや絶望を投影した哀愁的な表現へと変容します。
パブロ・ピカソ《読書》1932年、パリ国立ピカソ美術館
コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


10 戦時中

ピカソはスペイン内戦から第二次世界大戦にかけて、ファシズムや抑圧への抵抗を続けました。大作《ゲルニカ》(1937)は蛮行に対する告発の象徴です。ナチス占領下のパリで、不安と窮乏の中で、彼は「死」や「飢え」を暗示する作品を制作しました。肖像画では人体が歪められ、生者と死者が混ざり合うような非人間性を強調し、静物画では動物の死骸や頭蓋骨を暗い色調で描き人間の虚しさを表現しました。
パブロ・ピカソ《室内のフクロウ》1946年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト
GrandPalaisRmn(musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


11一点もの

ピカソは1940年代後半、南仏のヴァロリスに定住し、陶芸に没頭しました。主にマドゥラエ房で制作された数千点に及ぶ作品は、水差しや皿に、女神、鳥、動物、闘牛士のモティーフを、ユーモア溢れる方法で施しました。熟練の職人と協力した、絵画、彫刻、工芸の境界を曖昧にした陶芸の実験は、晩年の芸術活動において喜びと生命力に満ちた中心的な役割を果たしました。
パブロ・ピカソ《表面に牧神の頭、裏面に花が装飾された長方形の陶器の皿》1948年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn
(musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF


12 《草上の昼食》

1950年代、ピカソは西洋美術の巨匠エドゥアール・マネの絵画《草上の昼食》(1863)の再解釈に取り組みました。27点の絵画や約140点のデッサンを含むこの連作において、彼は古典的な構図を解体し、人物の配置やポーズを大胆に変容し、絵画の平面性と装飾性を追求しました。この探求は三次元へと広がり、厚紙の模型をコンクリートで巨大化させた彫刻作品へと結実します。
パブロ・ピカソ《草上の昼食(マネに基づく)》1960年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn(musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


13 ピカソのボーダーシャツ

メディアで彼のイメージが本格的に固まったのは報道写真が興隆をきわめ、テレビが登場した第二次世界大戦後のことでした。すなわち白髪の薄い頭でボーダーシャツを着た男性、というイメージです。このイメージを決定的なものとした写真家ロベール・ドアノーによるポートレートは、ピカソが南仏のカンヌやヴァロリスで陶芸に熱中していたころに撮影されました。

14 晩年:1969—1972

ピカソは 1961年以後、南仏ムージャンで過ごし、ここでも精力的に絵画や版画の制作を続けました。最晩年の並外れた創造性と生産性は大きな特徴です。このころ彼は、以前よりも筆の動きが自由になり、人物像を好んで主題に取り上げました。晩年の作品でも衰えを見せない技量を見せつけ、これらの絵画は新世代の画家たちにも大きな影響を与えました。

15 展覧会のピカソ

ピカソのキャリアにおいて、数々の展覧会は彼の名声を世界的なものにする重要な役割を果たしました。1901年のパリでの初個展から、晩年の1970年のアヴィニョンでの大規模な個展に至るまで、展覧会ポスターは街中に掲げられることで芸術活動を大衆へ開放する役割を担いました。「ポスターの集積」に着想を得たスミスは、ピカソの膨大なエネルギーを象徴する展示空間を創出しました。


パブロ・ピカソ《ポンポン帽子と柄ブラウスを着た女の肖像》1962年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Adrien Didierjean / distributed by AMF
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
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国立新美術館
2026年6月10日(水) ~ 2026年9月21日(月・祝)
休館日:毎週火曜日
*ただし8月11日(火・祝)は開館、8月12日(水)は休館

2026年5月27日 (水)

伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム・・・阿弥陀如来立像、慶俊作

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第436回

皿井舞、先生のギャラリートーク、専修寺の悉皆調査、研究、展示の模様を聴く。闇の中から14歳で留学した近衛篤麿の弟、堯猷上人の面影が蘇る。 阿弥陀如来立像(御対面所本尊) 慶俊 木造 金泥塗り・切金 玉眼嵌入 鎌倉時代・延応2年(1240)専修寺蔵、運慶の弟子の作である。
近衛篤麿の弟:常磐井鶴松(堯猷上人)、近衛忠房の三男として生まれた。14歳でドイツ留学。
小学校を終えた後、1885年ドイツに留学した。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事、哲学、梵文学を専攻、イギリスなど、欧州各国を歴巡。帰国後京都帝大文学部教授となり、梵語を教えた。
将軍、家茂の婚礼の夫婦鳳凰は、『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀を思い出す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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霞会館記念学習院ミュージアム(東京都豊島区目白1-5-1)にて、特別企画「伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化」展を2026年5月22日(金)より6月13日(土)まで開催いたします。専修寺(せんじゅじ)は三重県津市に所在する真宗高田派の本山です。本展では、学習院大学文学部哲学科(美術史学専攻)が実施中の調査によって見出された新発見の美術工芸品などを通じて、門跡寺院が育んできた豊かな文化の一端をご紹介します。
学習院大学文学部哲学科(美術史学専攻)では、令和5年(2023)よりこれまで5回にわたり美術工芸品の悉皆調査を行ってまいりました。本展では、さまざまな文化が交わる結節点としての門跡寺院の姿を示す、選りすぐりの作品をご紹介いたします。
専修寺(せんじゅじ)
日本寺院で5番目の規模
三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山・専修寺は、「高田本山」の名で親しまれる伊勢の名刹です。 親鸞聖人の教えを受け継ぐ全国約600カ寺の中心寺院で、伊勢国内の拠点として創建され、関東の本寺焼失後に本山として定着しました。
約三万坪の史跡指定の境内には、国宝の如来堂・御影堂をはじめ多くの文化財が立ち並び、伽藍と門前町が一体となった宗教都市的景観を今に伝えています。
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参考文献
伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム・・・阿弥陀如来立像、慶俊作
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-3876dc.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html
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展示作品の一部
阿弥陀如来立像(御対面所本尊) 慶俊 木造 金泥塗り・切金 玉眼嵌入 鎌倉時代・延応2年(1240)専修寺蔵 
桐鳳凰蒔絵書棚、木胎 漆塗・蒔絵 江戸時代後期・1850年代
将軍、家茂の婚姻を祝う調度、近衛家から専修寺に伝わる。鳳凰の夫婦が天板に造形されている。
透彫双耳三足香炉 薩摩焼 陶胎 明治時代~大正時代・19~20世紀 昭憲皇太后御遺品
専修寺蔵
常磐井鶴松(堯猷上人)像 中丸精十郎、カンヴァス 油彩 明治19年(1886)
常磐井 堯猷(ときわい ぎょうゆう、明治5年3月15日(1872年4月22日)[1] - 昭和26年(1951年)1月27日)は、明治から昭和期にかけての僧侶、梵語学者、真宗高田派管長。
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常磐井 堯猷(ときわい ぎょうゆう、近衛 篤麿 (このえ あつまろ)の弟 経歴
近衛忠房の三男として生まれた。小学校を終えた後、1885年ドイツに留学した。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事、哲学、梵文学を専攻、イギリスなど、欧州各国を歴巡。帰国後京都帝大文学部教授となり、梵語を教えた。1913年(大正2年)、養父堯煕(叔父でもある)の後を受け真宗高田派管長となり、6年後、男爵を襲爵した。また、帝国東洋学会の創設者でもあり、生涯梵文学研究を続け「梵語辞典」(全11巻を刊行した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E4%BA%95%E5%A0%AF%E7%8C%B7 

近衛 篤麿(このえ あつまろ、旧字体: 近󠄁衞 篤麿󠄁、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月2日[1])は、明治時代の日本の政治家。五摂家筆頭・近衛家第29代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲二等公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長などを歴任した。号は霞山。
経歴
生い立ち
文久3年(1863年)6月26日、左大臣・近衛忠房の長男として京都に生まれた。母は島津斉彬養女(島津久長の娘)光子とされているが、島津家の資料では「光蘭夫人(光子)篤麿養母」と記載されている[2]。明治6年(1873年)父が家督を継いだ[3]翌月に35歳で病没したため、祖父近衛忠煕の養子となり家督を相続した(文献によっては忠煕九男と記載)。
明治12年(1879年)に大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされ、京都へ戻った[4]。以後、和漢に加え英語を独学。明治17年(1884年)、華族令制定に伴い公爵に叙せられる。翌明治18年(1885年)に伊藤博文の勧めでドイツ・オーストリアの両国に留学し、ボン大学及びライプツィヒ大学に学んだ[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
細川護熙は、近衛篤麿の曽孫
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伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム、2026年5月22日(金)~2026年6月13日(土)
霞会館記念学習院ミュージアム(東京都豊島区目白1-5-1)
https://www.artpr.jp/gakushuin-museum/senjuji2026

2026年5月18日 (月)

大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第435回

【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホは、画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をする。ついに天職を見つけた。1883年、両親の住むニューネンに移る。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》。ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーの影響を受ける。1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めで、パリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接な関係をもつ。モネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影に最も刺激を受ける。
1888年2月、アルルに向かう。陽光にあふれた南仏に憧れを抱いたファン・ゴッホ。色彩を駆使する芸術家。15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残した。
1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。
1890年7月29日。ゴッホが亡くなった、その2日前のピストル自殺未遂が死因とされている。
【終焉の地、オーヴェール・シュル・オワーズ】70日間、1890年5月20日から7月29日までの間に彼は油彩73点、デッサン33点を残した。
【ゴッホ、5つの時代】
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動は10年。1、オランダ時代、バルビゾン派、ハーグ派1880-1885、2、パリ時代 1986-1987、3,アルル時代 1988、4、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889、5、オーヴェール・シュル・オワーズ1890。
【ゴッホ、糸杉】
【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
【宮澤賢治とゴッホ】
【宮澤賢治『春と修羅』序(1924】
宮澤賢治は、なぜ、ZYPRESSEN「春と修羅」と書いたのか。詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922年4月8日)、『春と修羅』序(1924年1月20日)。阿修羅は仏教に帰依し、他の諸天とともに仏教を守護する眷属となった。興福寺、国宝「阿修羅像」。
大正八年八月(1919)の歌稿に『ゴオホサイプレスの歌』二首がある。
サイプレス/忿(いか)りは燃えて/天雲のうづ巻をさへ灼(や)かんとすなり
天雲の/わめきの中に湧きいでて/いらだち燃ゆる/サイプレスかも
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
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展示作品の一部
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
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プレスリリースより
世界中で愛される画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動はわずか10年ほどでしたが、彼が残した多くの作品と手紙から、苦悩に満ちた人生に立ち向かい、芸術へと昇華させる姿を見て取ることができます。
生前ほとんど評価されなかったファン・ゴッホにいち早く注目し、作品の収集に取り組んだのが、オランダのクレラー=ミュラー美術館の創設者、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)でした。2回にわたり開催する「大ゴッホ展」は、すべて同館の所蔵作品で構成されます。このたびの第1期では、バルビゾン派やハーグ派の影響を受けた草創期のオランダ時代に始まり、印象派を中心とする画家たちと交流したパリ時代を経て、南仏アルルで傑作《夜のカフェテラス(フォルム広場)》を描くに至るまでの、ファン・ゴッホの前半生に焦点を当てます。
――
展覧会構成
第1章 バルビゾン派、ハーグ派1880-1885
初期のフィンセント・ファン・ゴッホに強い影響を与えたふたつの画派として、オランダのハーグ派、そしてバルビゾン派があります。ハーグ派とは、19世紀後半のオランダ・ハーグを中心に展開した自然主義的傾向の画派で、風景画や農民の生活を題材とした風俗画で知られています。バルビゾン派は、19世紀前半から中頃にフランスのパリ郊外にあるバルビゾン村周辺を拠点に広まったグループで、自然主義的・写実的な風景画、風俗画により、絵画芸術の新たな時代を作りました。
特にファン・ゴッホは、バルビゾン派の芸術が持つ宗教的精神性に惹かれていました。そして、バルビゾン派への関心からフランス美術、そしてフランス自体にも惹かれていくようになります。
本章では、ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーという両派を代表する画家の作品を紹介しながら、画家ファン・ゴッホの原点に迫ります。
ミレー(1814-1875)はフランスのバルビゾン派を代表する画家です。農民が黙々と働く姿をクローズアップして、彼らの実直で信仰心の篤い生活を農村の風景とともに描きました。本作ではたくましい体格の農婦が全身を使って今まさに竈にパンを入れようとしています。農民画家ミレーにファン・ゴッホは強く共感し、初期から晩年まで繰り返しその作品に倣い、モティーフを参照しました。
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)はオランダのハーグ派の中心的な存在で、ファン・ゴッホが画業の最初期に特に手本とした画家です。漁師や農民などの風俗的な主題のほか、ユダヤ教を背景とした宗教主題も多く描き、その画風には17世紀のレンブラント・ファン・レインの影響が色濃く表れています。本作のユダヤ人の書記の姿は、イスラエルスがモロッコのタンジールで目にした光景が出発点と言われています。
第2章 オランダ時代 1880-1885
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホ。画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をします。決して早いスタートではありませんでしたが、ついに天職を見つけたのでした。教則本の模写から始め、ハーグに移住してからは従姉の夫で画家のマウフェからも指導を受けます。1883年、両親の住むニューネンに移ると、現地の風景や風俗、労働者の姿を描くことに没頭していきました。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》のリトグラフなどを通じて、画家として歩み始めたファン・ゴッホの姿を追います。
この作品にはファン・ゴッホが自宅の裏手を窓から眺めた光景が描かれています。1882年3月半ばから彼は叔父より風景画の注文を相次いで受けました。芸術家の道を歩み出してまだ1年半の彼は、この好機に光明を見つつも、注文主の期待に応えようと苦心しました。この時期に描かれた本作には、線遠近法を用いた構図で画面に臨場感が与えられ、画家の工夫が見受けれます。
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
1885年4月頃、ファン・ゴッホはそれまでの集大成となる油彩画《じゃがいもを食べる人々》(ファン・ゴッホ美術館蔵)の制作に取りかかりました。本作はその習作の後に作られたリトグラフで、自信作のイメージを親しい人たちに伝えようと作られました。不慣れな版画制作を試みたものの、周囲の評価は「効果が不鮮明」「表面的」と厳しいものでした。高い技術力が求められる版画制作を経験し、画家は芸術において技巧よりも抒情性の表現を追求していくようになります。
ファン・ゴッホはニューネンの女性たちが日常的に被っていた白い帽子に興味をもち、帽子とその影になる顔の部分が「まさに明暗技法のような上質な色調をもたらしている」と手紙に書いています。この地に暮らした1883年12月から1885年11月までに、彼は農民の頭部を多数描くことで、明暗技法を研究していました。当時、闇の中に存在する光にこそ美があると考えていた彼は、モデルの顔や衣服の色調を整えてから背景の明暗を調整することで、暗い色調の中に表れる光の効果や奥行を表現しました。
第3章 パリの画家とファン・ゴッホ
1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めもあり、新たな刺激を求めてパリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接なコミュニケーションをする機会を得ます。彼らを通じてファン・ゴッホも印象派の表現から様々な影響を受けていきました。彼は特にモネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影とタッチ、セザンヌの構図や色彩表現の大胆な手法に関心を寄せました。ここでは、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌといった、印象派やその前後をつなぐ巨匠たちの絵画作品を紹介します。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
印象派の画家ルノワール(1841-1919)はパリや郊外で余暇を楽しむ若い男女の光景を描いて好評を博し、グループの中でも早くから評価された一人です。本作の中央には、テーブルに手をつき何かを熱心に見入るふたりの若い女性が描かれ、彼女らを背後から見つめるシルクハットを被った若い男性の姿もあります。常連モデルがポーズをとり、ルノワールは人物の表情や仕草を丁寧に描き出しています。後景は瞬間をとらえるような素早い筆致でまとめられ、カフェの活況が効果的に表現されています。
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス、50.2×65.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作が制作された1874年、モネ(1840-1926)は仲間とともに印象派の第1回展を開催し、一瞬の光をとらえた絵画を発表していきました。本作は当時モネが拠点としていたアルジャントゥイユで描かれました。画面中央でセーヌ川に浮かぶ舟は、モネが小屋を乗せて水上の制作場所として使用していたアトリエ舟です。水面に反射する光の効果やそれまでにない視点を得られる舟上での制作をモネは気に入っていたようです。
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
親しみやすい人柄でファン・ゴッホとも親交のあったピサロ(1830-1903)。彼はイギリス滞在時に受けたターナーやコンスタブルの影響から、明るい色彩の田園風景を多く手がけました。本作が描かれたパリ郊外のポントワーズには1872年に居を構えました。前景の高台から見下ろされる中景部には、緑や茶色に整然と区切られた畑が広がります。はるか遠景に連なる丘陵は、空気遠近法的な景観の広がりを醸し出しています。初夏を思わせる湧雲の前に、鮮やかな虹がかかっています。本作は1877年の第3回印象派展に出品されました。
第4章 パリ時代 1986-1987
パリ時代のファン・ゴッホの絵画はたった2年の間に色調だけでなく筆触までも大きく発展しました。この変化はパリに移って数か月後、静物画に取り組んだ頃から顕著になりました。なかでも多彩な花々を集めた花束はさながら色彩表現の実験台でした。花の静物画を通じてファン・ゴッホは、鮮やかで強い色彩と彫刻的とも言える厚塗りの筆触を特徴とするモンティセリから深く影響を受けました。
この章ではファン・ゴッホがパリの前衛的な表現に触発されて明るい色彩と闊達な筆致を駆使するに至る過程を、風景画や静物画、自画像をとおして見ていきます。
ファン・ゴッホはパリ時代、人物画を描きたかったもののモデル代の捻出が難しく、代わりに自画像を多数描きました。その数はどの時期よりも多い25点にのぼりました。淡い色彩でまとめられた本作では、頭部は茶系にアクセントとして白や赤を用いて、短く細い筆致の連続で描き出されています。背景の緑と青の多様な筆致は、空間に奥行きを与えるとともに、画面全体を活気づけています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの丘》1886年4-5月、油彩/カンヴァス、38.1× 61.1cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
3台の風車と細長い農場の建物の下に農園が広がっています。のどかな光景が残るモンマルトルの丘で、ファン・ゴッホはテオと暮らしていました。風車というモティーフは、敬愛するコローや友人ポール・シニャックも描きましたが、直接的には雑誌の図版から着想を得たようです。画面の大半を大まかで素早い筆致が占める中、柵や旗などは繊細に描かれています。色彩と光の印象にも注意が向けられ、ファン・ゴッホの風景表現における変化が表れています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《レストランの室内》1887年夏、油彩/カンヴァス、45.5×56cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作はファン・ゴッホが新印象派の手法を最も鮮明にした作品の一つです。点描の筆遣いに加えて、コントラストを生む補色、すなわち壁の赤と緑、床の黄色とくすんだ紫、椅子のオレンジ色とテーブルクロスの青みが効果的に用いられています。ブルジョワジー向きのレストランに、当時彼らが好んだ黒いシルクハットも添えられ、モティーフの点でも印象主義が意識されています。
第5章 アルル時代 1988
「色彩豊かで陽光にあふれた南仏」に憧れを抱いたファン・ゴッホは、ついに1888年2月、アルルに向かいます。その素朴な風景や共同体的な生活は、彼が激しく憧れていた日本の浮世絵や近代以前の農村社会を思わせる「理想の場所」だったのです。
この地でファン・ゴッホは精力的に制作を行い、15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残します。アルル時代の鮮やかな色彩の対比を活かした油彩表現は、ファン・ゴッホ独自のスタイルとして花開きました。《夜のカフェテラス(フォルム広場)》に象徴されるように、色彩を駆使する芸術家としての進路を自覚したファン・ゴッホ。新しい表現に目覚めた喜びが満ちるアルル時代の傑作で、本展の最後を締めくくります。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
黄色、オレンジ、赤、青といった鮮やかな色彩とさまざまな筆致を駆使して、柳の木々が夕陽に照らされる光景が描かれています。柳は葦などが生える草地に立ち並び、遠方の青色の層は山脈または運河と思われます。大きな夕陽が秋の情景を思わせることから、本作は1888年10月に制作されたものと長く考えられてきましたが、柳には新芽が芽吹き、葦の描写には同年3月の作品との類似が認められています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
本作の構図は同時代画家による街頭風景や日本の浮世絵などからヒントを得た可能性があります。またそれ以上に制作動機として重要なのは、ファン・ゴッホの星空への憧憬です。彼は愛読したモーパッサンの小説『ベラミ』に現われる星空、あるいは1888年6月初めに地中海の浜辺で見た色彩豊かな星空に刺激を受けてその絵画化に取り組みました。同年9月中旬、彼はアルルのフォルム広場で夜中に本作を描きました。カフェテラスのガス灯の明かりは、鮮やかなコバルトブルーを背景に、輝く星々の美しさを際立たせています。
――
大ゴッホ展 夜のカフェテラス、、上野の森美術館。5月29日(金)~8月12日(水)
上野の森美術館(東京都台東区上野公園1-2)
2026年5月29日(金)~8月12日(水)

2026年5月 7日 (木)

王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃

Egypttutankhamunyoshimura2024
Egypt-tutankhamun-photograph-by-egyptian
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アリゾナ大学考古学者ニコラス・リーブス、王妃ネフェルティティの墓に新説

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第434回
【蘇る美しい王妃ネフェルティティ】
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨した。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
Egypt-tutankhamun-63phootgraph-by-kennet
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ネフェルティティの墓に考古学者が期待する理由
ツタンカーメンとともに埋葬? 王家の謎が解き明かされるかもしれない
2015.12.24
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/122200055/


ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
[画像のクリックで拡大表示]
 エジプトの王家の谷で新たな発見があるたび、関係者は色めき立つ。今度こそあの女王か? ついに見つかったのか?
 噂の主はネフェルティティ、古代エジプトの伝説の女王だ。未だに見つかっていない彼女の墓を、エジプト学者たちは長い間探し続けてきた。
 今、ネフェルティティの墓発見への期待はかつてないほど高まっている。ツタンカーメン王の墓をレーダースキャンしたところ、壁の奥に隠し部屋があるらしいと判明したためだ。ついにネフェルティティの墓が見つかったのではないか、壁の向こうにはいくつもの部屋が連なり、謎に包まれていた女王の豪華な副葬品で埋め尽くされているのではないかとの憶測が浮上している。(参考記事:「ツタンカーメンの隠し部屋、日本の技術者が活躍」)
 財宝の発見には胸が躍るが、考古学の世界で貴重なのは黄金よりも情報だ。専門家たちは、きらびやかなお宝以上の価値がある情報の発見に期待を寄せている。

古代エジプト美術の象徴とも言える、美しく優美なネフェルティティの胸像。【1912年にアマルナの遺跡で、王宮に仕えた彫刻家の工房跡から発見された。かつてはアケトアテンと呼ばれていたアマルナは、ネフェルティティの夫、アクエンアテンが首都として建設した街だ。】(Photograph by Michael Sohn, Reuters, Corbis)
【エジプト王の変遷を解く鍵】
 現在知られている歴代の古代エジプト王のリストは完璧なものではない。幾人もの学者たちが、細切れの情報を寄せ集めて作り上げたものにすぎず、今も不明点が数多く残っている。ネフェルティティの墓には、そんな王位継承の歴史を明らかにするヒントが眠っているかもしれないのだ。
――
 ネフェルティティの時代についてわかっていることを追ってみよう。
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨したのだ。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
――
エジプト王妃ネフェルティティの墓に新説、
謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の後ろに隠されていた?アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓
2015.08.21
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/082000228/
1912年に発見されたネフェルティティの胸像は、エジプト古代遺物の象徴的存在のひとつとなっている。(PHOTOGRAPH BY MICHAEL SOHN, DPA/CORBIS)
[画像のクリックで拡大表示]
 米アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓をついに発見したかもしれないという論文を発表し、注目を集めている。
 リーブス氏が発表した論文によれば、伝説のエジプト王妃の墓は、少し考えればすぐ分かりそうな場所に隠れていたという。ネフェルティティの息子と考えられているツタンカーメン王の墓に隠されたドアがあり、その向こうにある大きな玄室に埋葬されているという。
 歴史的な発見は、様々な憶測を呼ぶものだ。そこで、これまでの経緯を振り返ってみよう。
 ネフェルティティの墓を発見という発表は、過去12年間でこれが3度目だ。
 しかも、最近行われたDNA鑑定によって、1898年に発掘され現在はカイロのエジプト博物館に保管されている、数体のミイラのうちの1体がネフェルティティであるとの見方もある。
壁にあった謎の割れ目
 リーブス氏は、美術品のレプリカ製造を専門とするスペインのファクトム・アルテ社が作成したツタンカーメンの墓の詳細なスキャン画像を分析していた時にそれを発見した。
 少年王ツタンカーメンが眠っていた王家の墓を一目見ようと押し寄せる観光客のために、本物の墓のすぐそばにレプリカが作られており、スキャンによる高解像度画像は、これを建設するために撮影されたものだ。今年2月、スキャン画像を分析していたリーブス氏は、墓の北と西の壁に割れ目があることに気付き、それぞれ封印されたドアの輪郭ではないかと考えた。
★★★★★
エジプト、ツタンカーメン発掘100年、ツタンカーメンの王墓初公開、100年前の歴史的瞬間が蘇る ナショナルジオグラフィック
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/26/033100181/
――
★★★★★
参考文献
王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-981c5c.html
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
2026年5月7日

王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃

Egypttutankhamunyoshimura2024

Egypt-tutankhamun-photograph-by-egyptian
Egypt-tutankhamun-63phootgraph-by-kennet

アリゾナ大学考古学者ニコラス・リーブス、王妃ネフェルティティの墓に新説
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第434回
【蘇る美しい王妃ネフェルティティ】
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨した。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
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*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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ネフェルティティの墓に考古学者が期待する理由
ツタンカーメンとともに埋葬? 王家の謎が解き明かされるかもしれない
2015.12.24
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/122200055/


ネフェルティティ(右)と彼女の夫アクエンアテン王が、6人の娘のうちの3人と遊んでいる図。太陽円盤から降り注ぐのはアテン神の祝福の光だ。(Phootgraph by Kenneth Garrett, National Geographic Creative)
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 エジプトの王家の谷で新たな発見があるたび、関係者は色めき立つ。今度こそあの女王か? ついに見つかったのか?
 噂の主はネフェルティティ、古代エジプトの伝説の女王だ。未だに見つかっていない彼女の墓を、エジプト学者たちは長い間探し続けてきた。
 今、ネフェルティティの墓発見への期待はかつてないほど高まっている。ツタンカーメン王の墓をレーダースキャンしたところ、壁の奥に隠し部屋があるらしいと判明したためだ。ついにネフェルティティの墓が見つかったのではないか、壁の向こうにはいくつもの部屋が連なり、謎に包まれていた女王の豪華な副葬品で埋め尽くされているのではないかとの憶測が浮上している。(参考記事:「ツタンカーメンの隠し部屋、日本の技術者が活躍」)
 財宝の発見には胸が躍るが、考古学の世界で貴重なのは黄金よりも情報だ。専門家たちは、きらびやかなお宝以上の価値がある情報の発見に期待を寄せている。

古代エジプト美術の象徴とも言える、美しく優美なネフェルティティの胸像。【1912年にアマルナの遺跡で、王宮に仕えた彫刻家の工房跡から発見された。かつてはアケトアテンと呼ばれていたアマルナは、ネフェルティティの夫、アクエンアテンが首都として建設した街だ。】(Photograph by Michael Sohn, Reuters, Corbis)
【エジプト王の変遷を解く鍵】
 現在知られている歴代の古代エジプト王のリストは完璧なものではない。幾人もの学者たちが、細切れの情報を寄せ集めて作り上げたものにすぎず、今も不明点が数多く残っている。ネフェルティティの墓には、そんな王位継承の歴史を明らかにするヒントが眠っているかもしれないのだ。
――
 ネフェルティティの時代についてわかっていることを追ってみよう。
 第18王朝が最盛期を迎えた紀元前14世紀初頭、強大な権力を持つアメンヘテプ3世が40年以上にわたってエジプトを支配した。彼の死後には、息子のアメンヘテプ4世が王座を継いだ。
 新しい王は、伝統的に信仰の対象となってきたアメン神の寺院や像を破壊し、太陽円盤に象徴されるアテンを唯一神とする信仰を開いた。首都を西の砂漠に位置するアケトアテン(現在のアマルナ)に移し、自らの名も「アメン神は喜び給う」という意味のアメンヘテプから、「アテン神に使えし者」を意味するアクエンアテンへと変えた。彼はまた、この国の芸術に革命をもたらした。自らの姿を、若く理想的な体を持つ王ではなく、大きくふくらんだ腹の人物として描かせるなど、写実的なスタイルを推奨したのだ。
 ネフェルティティ(美しい者が訪れたの意)は、アクエンアテンの第1王妃であった。2人の間に息子がいたという記録はないが、6人の娘がいたことはわかっている。他の古代エジプトの王と同様に、アクエンアテンにも複数の妻がおり、そのうちのひとりは、後にツタンカーメン王となるトゥトアンクアテン(アテン神の生ける似姿の意)の母親であったとも言われる。
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エジプト王妃ネフェルティティの墓に新説、
謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の後ろに隠されていた?アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓
2015.08.21
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/082000228/
1912年に発見されたネフェルティティの胸像は、エジプト古代遺物の象徴的存在のひとつとなっている。(PHOTOGRAPH BY MICHAEL SOHN, DPA/CORBIS)
[画像のクリックで拡大表示]
 米アリゾナ大学の考古学者ニコラス・リーブス氏が、紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃の墓をついに発見したかもしれないという論文を発表し、注目を集めている。
 リーブス氏が発表した論文によれば、伝説のエジプト王妃の墓は、少し考えればすぐ分かりそうな場所に隠れていたという。ネフェルティティの息子と考えられているツタンカーメン王の墓に隠されたドアがあり、その向こうにある大きな玄室に埋葬されているという。
 歴史的な発見は、様々な憶測を呼ぶものだ。そこで、これまでの経緯を振り返ってみよう。
 ネフェルティティの墓を発見という発表は、過去12年間でこれが3度目だ。
 しかも、最近行われたDNA鑑定によって、1898年に発掘され現在はカイロのエジプト博物館に保管されている、数体のミイラのうちの1体がネフェルティティであるとの見方もある。
壁にあった謎の割れ目
 リーブス氏は、美術品のレプリカ製造を専門とするスペインのファクトム・アルテ社が作成したツタンカーメンの墓の詳細なスキャン画像を分析していた時にそれを発見した。
 少年王ツタンカーメンが眠っていた王家の墓を一目見ようと押し寄せる観光客のために、本物の墓のすぐそばにレプリカが作られており、スキャンによる高解像度画像は、これを建設するために撮影されたものだ。今年2月、スキャン画像を分析していたリーブス氏は、墓の北と西の壁に割れ目があることに気付き、それぞれ封印されたドアの輪郭ではないかと考えた。
★★★★★
エジプト、ツタンカーメン発掘100年、ツタンカーメンの王墓初公開、100年前の歴史的瞬間が蘇る ナショナルジオグラフィック
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/26/033100181/
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参考文献
王妃ネフェルティティの墓に新説、謎多き王妃は息子であるツタンカーメン王の墓の後ろに隠されていた。紀元前1331年に死んだネフェルティティ王妃
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-981c5c.html
ツタンカーメンの生涯と謎・・・秘められた古代エジプトの宗教的意味
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-207710.html
ツタンカーメン発掘100年・・・古代エジプトの王と王妃と女王
https://bit.ly/3usmqyp
ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」・・・絶世の美女ネフェルティティ王妃とアマルナ美術の謎
https://bit.ly/39mttQ1
2026年5月7日

2026年5月 5日 (火)

「私の出会ったダリ」女優・岸恵子、芸術のミューズ・・・《記憶の固執》1931、《ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感》』1936、《レダ・アトミカ》1949

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第433回
「私の出会ったダリ」 ダリ 本人と交流があった俳優の 岸恵子 さんに素顔のダリ、芸術家としてのダリ、人間ダリの魅力。1995年放送
ダリのミューズは、ガラであった。カダケスの冬の海に行くと、「内乱の予感」の腕のような木がある。フィゲラス(Figueres)で若いころダリに会った。村人といるときは奇人ではなかったが、記者がいると変人であることを自己演出した。「レダの卵から、私とガラは生まれた。ガラは私の芸術のミューズ。芸術の源泉だ」。岸恵子「私はだれのミューズにもなっていない。ミューズと言われたこともない」。紅いドレスの岸恵子は、藝術のミューズである。私の藝術のミューズはだれか。
ダリとガラの城のような卵の美術館も、今は廃れた。ダリ《記憶の固執》1931「溶けた時計」は27歳の作品、3つの時計が溶けている。時計は溶ける、そのとき、自分の時間、自由が始まる。岸恵子「私はこの作品が好きだ」。《ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感》』1936、カダケスの枯れた木のようだ。と、岸恵子は言う。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
ダリ《レダ・アトミカ(Leda atomica)》1949、フィゲラスのダリ劇場美術館所蔵。ギリシア神話の「レダ」で、白鳥と台座に座ったスパルタの神話の女王レダが描かれている。《レダ・アトミカ》では、レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変えて描かれている。彼女の周囲には本、卵、定規、2つの踏み台が浮遊している。背景はおなじみのカタルーニャのカダケスの海岸と岩である。レダはスパルタ王テュンダレオースと結婚した夜、テュンダレオース王が眠っているときに白鳥に姿を変えたゼウスに犯されてしまう。この二重婚姻問題が2つの卵を産むことになり、最初の卵から双子の兄弟カストールとポリュデウケースが、後の卵から双子の姉妹クリュタイムネーストラーとヘレネーが生まれる。
ダリは自分自身をポリュデウケースとみなし、死んだ兄をカストールとみなした。また妹のアナ・マリアをクリュタイムネーストラーに、ガラをヘレネーとみなしている。
――
岸恵子。1932年8月11日(93歳)生まれ。11951年に大学入学までという条件で松竹に入社。1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出る。1975年、41歳のとき離婚、娘は11歳だった。
私の人生を大きく変えた、3つの節目
結婚が24歳。18年弱の結婚生活の後、41歳で離婚『岸惠子自伝 卵を割らなければ,オムレツは食べられない』を上梓しました。岸さんは『婦人公論』2016年2月7日号で人生を変えた「3つの節目」について語っています。岸さんの人生観
――
「41歳で紙一枚持ち出さずに離婚、51歳で作家デビュー。どんな苦境にあっても自由と孤独を取りこんで生きてきた」〈後編〉
https://fujinkoron.jp/articles/-/5257
岸惠子さん「女子高生でデビューし、女優の絶頂期にフランス人監督・イヴ・シャンピと結婚。スターの身分を捨て、ただ世界を見てみたかった」〈前編〉
https://fujinkoron.jp/articles/-/5256
【サルバドール・ダリ(1904-89)】『記憶の固執』1931、『ロートレアモンのカマキリの人肉食』1934、『ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』1936『ナルシスの変貌』37『燃えるキリン』37『ヴィーナスの夢』1939『聖アントニウスの誘惑』46『ビキニの3つのスフィンクス』1947、『記憶の固執の崩壊』1954、「テトゥアンの大会戦」1962、『引き出しのあるミロのヴィーナス』1936『夜のメクラグモ 希望』40『焼いたベーコンのある自画像』41『象』1948『ポルト・リガトの聖母』1950『MeltingWatch溶けた時計』54、『大惨事シリーズ(Série des catastrophes)《ツバメの尾》』1979【初期ダリ】『窓辺の少女』1925『陰鬱な遊戯』29『不可視のライオン』1930『降りてくる夜の影』1931、ダリ『ロートレアモンのカマキリの人肉食』1934
【『記憶の固執』1931】ダリのアトリエからみえるポルト・リガトの海と岩と柔らかい時計がある。ある日の午後、溶けた時計が見えた。「私は二つの柔らかい時計を見た。そのうちひとつはオリーヴの木の枝に嘆かわしい姿でぶらさがっていた。」ダリ『わが秘められた生涯』1942
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★★★★★
参考文献
「私の出会ったダリ」女優・岸恵子、芸術のミューズ・・・《記憶の固執》1931、《ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感》』1936、《レダ・アトミカ》1949
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-c59349.html
生誕120 周年サルバドール・ダリ―天才の秘密―・・・魔術的写実主義、ヴィーナスの夢
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-0c6967.html
「NHK日曜美術館50年展」・・・語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉、日本美の再発見、超絶技巧、作家の生き様と美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-da8f56.html

2026年5月 4日 (月)

「NHK日曜美術館50年展」・・・語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉、日本美の再発見、超絶技巧、作家の生き様と美

2026
Nichibi-2026
Nichibi-18-2026
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第432回

桜満開の森を歩いて、藝術大学美術館に行く。日曜美術館は、埋もれた藝術家を発掘してきた。田中一村、高島野十郎、等である。
その他、美術愛好家、知識人、詩人、作家、女優によって、忘れられた美術と美を再発見してきた。女優・岸恵子のダリとカダケス(ポルト・リガート)、フィゲラスへの旅、「レダ・アトミカ」は、美しい思い出である。1995年。
ポール・セザンヌ 《水浴》 1883-87年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館蔵
石田徹也 《飛べなくなった人》 1996年 静岡県立美術館蔵。画家として注目を集め出した矢先に、踏切事故のため31歳の若さでその生涯を閉じた石田徹也(1973-2005)。代表作約110点を残した。
《縄文土器 深鉢 火焔型土器》 新潟県長岡市 岩野原遺跡出土 縄文時代(中期) 國學院大學博物館蔵
アルベルト・ジャコメッティ 《ヤナイハラⅠ》 1960-61年 国立国際美術館蔵 撮影:福永一夫
舟越桂《水に映る月蝕》 (右)舟越桂《「水に映る月蝕」のためのドローイング》ともに2003年 個人蔵
曾我蕭白《柳下鬼女図屏風》18世紀、東京藝術大学美術館
曽我蕭白《群仙図屏風》18世紀 東京藝術大学大学美術館
安藤緑山 《竹の子に梅 牙彫置物》 大正–昭和初期 京都国立近代美術館蔵 撮影:木村羊一
月岡芳年 《義経記五條橋之図》 明治14年(1881) 横浜美術館蔵(加藤栄一氏寄贈)
室瀬和美 《蒔絵飾箱「麦穂」》 1985年 個人蔵
塩見亮介 《白銀角鴟面附白絲縅兜袖》 2022年 個人蔵
香月泰男 《青の太陽》 1969年 山口県立美術館蔵
柚木沙弥郎 《いのちの樹》 2018年 松本市美術館蔵
岡本太郎 《遭遇》 1981年 川崎市岡本太郎美術館蔵
岡本太郎(画家)
職業なんてないんだと。人間だと。
誰だって人間だから、芸術だと。
芸術家じゃなくて、芸術だと。
セクションのなかに入ってることが芸術じゃないんですよ。
全人間的に生きることが芸術なんです。(1981年3月8日放送 「アトリエ訪問 岡本太郎」 より)
石田徹也×大槻ケンヂ(ロックミュージシャン)
幼い頃の「未来に対して、人生に対して不安だ」みたいな、みんなが持っているそういうモノを彼が一身に引き受けて絵にしていたかのようなイメージを僕は受けましたね。(ロックミュージシャン 大槻ケンヂ 2006年9月17日放送 「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」 より)
曾我蕭白×大野一雄(舞踏家)
蕭白は私の大先生。なぜなら非常に粗放、あらっぽくみえるけど非常に繊細。目を見ても繊細極まる目だけど、普通の目じゃなくて、浮世をのぞき見しているような。宇宙の構造というか私の構造というか、そういうものとの出会いのような感じで、極まりなく感動をいつも受けさせてもらっている。先生のおかげですよ。(舞踏家 大野一雄 1997年2月16日放送 「奇想の魂 大野一雄・蕭白を舞う」 より)
志村ふくみ(染織家)
色にいのちがあるってことを教えてくれたのは藍ですよね。そういうものがなかったら、色は色ですよね。でも私は色は色ではないんじゃないかという思いで色を染めてる、色を出してるっていう感じですよね。(2005年12月4日放送「京の〝いろ〞ごよみ 染織家・志村ふくみの日々 冬から春へ」 より)
李禹煥(現代美術家)
ほんの最小限の行為が最大限の大きな世界との響きあいになることに望みをかけるわけです。(2005年12月4日放送「出会いの芸術を求めて ~李禹煥 半世紀の挑戦~」 より)
香月泰男(画家)
僕は国家というよりも、国家の原点にあるひとつの家庭というものを大事だと思うんです。国家という目に見えないものは、僕は納得いかない。(1979年8月12日放送 「私と香月泰男」 より)
安藤緑山×前原冬樹(彫刻家) 抜群にかっこいい。曲面に正確な線をいれるのはかなり難しい。だからその筋の正確さとかずっとみていたいぐらいすごい。(彫刻家 前原冬樹 2014年5月11日放送 「明治の工芸 知られざる超絶技巧」 より)
塩見亮介 《白銀角鴟面附白絲縅兜袖》 2022年 個人蔵
塩見亮介(鍛金家) 明治工芸や江戸の名工も、すごい人たちがいっぱいいて、過去の人とも常に勝負してる、未来にもすごい人たちが出てくるだろう。そういう人たちとも勝負してる。(鍛金家 塩見亮介 2023年5月14日放送 「現代の超絶技巧 2」 より)
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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東京藝術大学美術館、プレスリリース
2026年に放送開始から50年を迎える長寿番組、NHK「日曜美術館」。これまで番組に登場した“美”の魅力を伝える展覧会「NHK日曜美術館50年展」が、東京藝術大学大学美術館(東京・上野)で3月28日(土)から6月21日(日)まで開催されます。
本展の見どころ
1.放送50年を迎えるNHK「日曜美術館」を彩った、120点を超える名品を展示。西洋・日本の絵画や彫刻、浮世絵、屏風、土器、伝統工芸などジャンルを超えた名品が勢揃いします。
2.貴重な当時の番組映像・出演者たちがつむいできた言葉が展示室内に! 出展作品がどのように語られ、紹介されたのかを当時の映像や言葉とともに追体験出来ます。
3.第5章 作家の生き様と美~アトリエ&創作の現場では、創作現場の貴重な映像が登場! 制作中の作家の言葉・作品が生み出される瞬間を、作品と共に味わうことが出来ます。
エドヴァルド・ムンク 《マイスナー嬢の肖像》 1907年 ひろしま美術館蔵
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第1章 語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉・語らせる作品
1976年4月、日曜美術館は「私と○○」という企画で放送を開始しました。各界の第一線で活躍するゲストが、敬愛する作家や作品への思いを語り、美の本質や創作の背景に迫る内容でした。50年を経た今も、「美を語る言葉」を大切に伝えるという精神は息づいており、繰り返し取り上げられる作家や名品も多くあります。一人のゲストが同じ作家を30年後に再び語ることもあり、語りの熱は時代を超えて受け継がれています。それは作品自体が「語らせる」力を持ち、人々に感動と表現への衝動を呼び覚ます証です。

大江健三郎が語るフランシス・ベーコン、舟越保武が伝える松本竣介、モデルとなった矢内原伊作が伝えるアルベルト・ジャコメッティなど、各界の第一線で活躍するゲストの言葉と古今東西の作家と作品を紹介します。

ポール・セザンヌ 《水浴》 1883-87年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館蔵
セザンヌ×吉田秀和(音楽評論家)
水浴図というのが自然の中にあるものを再現したような絵であるどころか、彼が求めていたあるいは心の中でみていたあるファンタスティックな世界の絵画的実現だ。(音楽評論家 吉田秀和 1996年12月1日放送「セザンヌはなぜ“水浴図”を描いたか」 より)

オーギュスト・ロダン 《考える人》 1880年 静岡県立美術館蔵
ロダン×舟越桂(彫刻家)
ロダンの技術はすごいが、イメージ力というのか、彫刻に物語を組みいれていくときの発想力がすごいなと思う。(彫刻家 舟越桂 2009年6月14日放送 「ロダン 新たな生命の探求者」より)

アルベルト・ジャコメッティ 《ヤナイハラⅠ》 1960-61年 国立国際美術館蔵 撮影:福永一夫
ジャコメッティ×矢内原伊作(哲学者)
ジャコメッティのそういう真実を追求してやまない情熱っていうか。 それこそ真剣な仕事のしかた、あるいは生き方そういったものに非常に私は感動した。(哲学者 矢内原伊作 1977年6月12日放送 「私とジャコメッティ」 より)

岸田劉生×会田誠(美術家)
強い意思を感じますね。 筆先にこう、力がこもっている。こうねりねりと、練り込むような感じで。 決意がこもったような独特な圧がありますよね。俺、俺を見ろ!みたいな。俺が俺であることが大切だというアピールというか。(美術家 会田誠 2019年9月29日放送 「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」 より)
石田徹也 《飛べなくなった人》 1996年 静岡県立美術館蔵

松本竣介×舟越保武(彫刻家)
少しほかの風景と違ったかわいらしいというとおかしいが、ほとんどの人はこれが好き。ルソーと共通したものが、素朴なものが出ているし、あそこ歩いているのは竣介という風に私は見てます。いつもひとりで歩いてましたから。非常にきれいな統一された雰囲気をもっておりますね。(彫刻家 舟越保武 1977年10月23日放送 「私と松本竣介」 より)
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第2章 日本美の再発見 古代から明治まで
1950年代の岡本太郎による縄文の美の再発見、1970年代の辻惟雄による江戸の奇想絵画の評価、そして琳派や浮世絵を現代アーティストが再解釈する動きなど、日本美術には、時代や人物の視点によって新たな光を放つ魅力があります。

1976年に始まった「日曜美術館」は、放送初期から北斎や若冲を紹介してきましたが、2016年の若冲展では空前の行列が生まれ、日本美の再評価を象徴しました。2000年代以降は奇想の絵師の特集が増え、「“にっぽん”美の旅」シリーズでは井浦新さんの企画により縄文の美が数多く取り上げられました。

村上隆、大野一雄、井浦新らがつむぐ言葉で、縄文土器・土偶、伊藤若冲、曾我蕭白、葛飾北斎など、日本美術の名品が再び輝きだします。

《縄文土器 深鉢 火焔型土器》 新潟県長岡市 岩野原遺跡出土 縄文時代(中期) 國學院大學博物館蔵
縄文土器×冨永愛(モデル・俳優)
きっと今より厳しい環境で生きていて、その中でもちょっとした楽しみだったりとか、 喜び、幸せというものをより噛み締めて、より大事にして生きてるんだろうなって思うと、アートっていうものがそれに寄り添ってきたんじゃないかなと思いますよね。やっぱり人って生きてる中でどうしてもアートしちゃうんじゃないかなって思います。(モデル・俳優 冨永愛 2026年1月4日放送 「放送開始 50 年特集 時を超え 美を語る」 より)

曾我蕭白×大野一雄(舞踏家)
重要文化財 伊藤若冲 《蓮池図》 江戸時代・天明9年(1789) 大阪・西福寺蔵 ※後期展示:5月12日(火)~6月21日(日)
伊藤若冲×村上隆(アーティスト)
世界を全部自分の手元に捕まえたいという欲求が投影されてる。リアルな自分と等身大の世の中を自分の中に取り込みたいという心の平静の境地がこの作品にある。(アーティスト 村上隆 2000年11月12日放送 「奇は美なり 若冲・細密の世界」 より)

月岡芳年 《義経記五條橋之図》 明治14年(1881) 横浜美術館蔵(加藤栄一氏寄贈)
月岡芳年×楳図かずお(漫画家・芸術家)
弁慶の足元、ドキッとする。ポーズも普通の人は描かない、ドラマチックですよね。今生きていたら映画とか漫画とか作っていそうだな。(漫画家・芸術家 楳図かずお 1999年5月16日放送 「最後の浮世絵師 月岡芳年 怪奇の美」 より)

長沢芦雪×井浦新(俳優)
清々しさというか、作為をまったく感じさせない。あんな表現が自分もいつか出来たらって。やっぱり素直であった方が、何事もうまくいくんじゃないかなって思うんですよ。学び続けながら、その分ちゃんと出していくことが出来る場が、役者の仕事であり、ものづくりの仕事であり。だからちゃんとそこを謙虚な気持ちで素直に。本当に芦雪が、間違ってないよっていってくれているような、こっちに来いよみたいな。(俳優 井浦新 2014年6月8日放送「紀州へ 長沢芦雪×井浦新」 より)
――
第3章 工芸 伝統と革新
50年間、日曜美術館が継続して取り上げてきたのが「工芸」です。1976年の「日本伝統工芸展」から始まり、翌年からは「正倉院展」も放送し、日本の優れた工芸美術を紹介してきました。

番組では、正倉院の宝物や、各時代を代表する匠たちの制作風景、そして技と素材に真摯に向き合う姿が映像として残されています。その中には、後に人間国宝となる職人たちの若き日の挑戦や、親から子へと受け継がれる技の葛藤、厳しい時代にも続く伝統継承の奇跡が映し出されています。近年は明治から現代に至る超絶技巧にも注目し、過去の名工の技に学びつつ新たな表現を探る若手作家たちを紹介しています。自然と深く結びついた日本の工芸の誇りと精神は、今もなお匠たちの手の中で脈々と受け継がれているのです。

正倉院宝物(模造)、松田権六、室瀬和美、森口華弘・邦彦、安藤緑山、塩見亮介などの名品をご紹介します。

人間国宝
室瀬和美 《蒔絵飾箱「麦穂」》 1985年 個人蔵
室瀬和美(漆芸家)
作品の中に1つの空気を流してみようって、そういう構想が自分の心の中にあるんです。漆芸家 重要無形文化財「蒔絵」保持者 室瀬和美(1985年9月29日放送 「美と技と用 第32回日本伝統工芸展から」 より)

超絶技巧
安藤緑山 《竹の子に梅 牙彫置物》 大正–昭和初期 京都国立近代美術館蔵 撮影:木村羊一

第4章 災いと美
2020年、コロナ禍により美術館が休館し、番組の継続も危ぶまれる中で日曜美術館は大きな危機を迎えました。しかし「美を届けることを止めない」という信念のもと、過去の映像を活用した「蔵出し日本絵画・西洋絵画シリーズ」や、困難な時にこそ分かち合いたい作品を紹介する「♯アートシェア」などが生まれました。中でも「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」は、災いと人間の表現の関わりを美の視点から見つめ直す象徴的な番組でした。古来より人は災厄に向き合う中で美を通してそれを理解し、昇華してきたことが明らかになり、社会の災害や戦争にも同様の姿勢が見られます。

本章では、災いと向き合い、理解し、受け止めるために美が果たしてきた役割とその力を考えます。香月泰男、靉光、野見山暁治、石内都などの作品とあわせてパブロ・ピカソの傑作「ゲルニカ」を原寸大高精細映像で展示します。

疫病
作者不明 《肥後国海中の怪》 1846年 京都大学附属図書館蔵 ※前期展示:3月28日(土)~5月10日(日)
アマビエ×小野正嗣(作家)
健康に楽しく周りの人と出会い言葉を交わし合いながら美術について語り、笑ったりすることがどれほど人間にとって本質的な活動かと強く感じられる。(作家 小野正嗣 2020年4月19日放送 「疫病をこえて 人間は何を描いてきたか」 より)

戦争
香月泰男 《青の太陽》 1969年 山口県立美術館蔵

自然災害
野見山暁治(画家)
悲しいとか何とかとか、なんか違う。人間に限らず生物というものははかないもの。大きな中でただうごめいているだけ なす術がない。(2014年3月9日放送 「行き暮れてひとり ~画家 野見山暁治のアトリエ日記~」 より)
――
第5章 作家の生き様と美 ~アトリエ&創作の現場
作家のアトリエは、歓喜や苦悩、葛藤、孤独といったあらゆる感情が交錯する、美の舞台裏です。日曜美術館では1980年から「アトリエ訪問」シリーズを通して、多くの作家の創作現場を紹介してきました。散乱した空間もあれば道場のように整然とした場もあり、そこには作家それぞれの生き様と個性が刻まれています。作品がまさに誕生する瞬間に立ち会うことは、創造の核心に触れる特別な体験です。

岡本太郎、柚木沙弥郎、志村ふくみ、加山又造、李禹煥、舟越桂、諏訪敦、山口晃など、放送時の映像とともに制作の過程で作家が語る言葉に耳を傾けながら、創造という行為の深淵を。

柚木沙弥郎 《いのちの樹》 2018年 松本市美術館蔵
李禹煥(現代美術家)
ほんの最小限の行為が最大限の大きな世界との響きあいになることに望みをかけるわけです。(2005年12月4日放送「出会いの芸術を求めて ~李禹煥 半世紀の挑戦~」 より)
岡本太郎 《遭遇》 1981年 川崎市岡本太郎美術館蔵
山口晃 《ショッピングモール》 2015年~ 桐生市(大川美術館寄託)
山口晃(画家)
シャッター商店街問題になっているけれど、これ描いて何になるんだっていうわけじゃないが、ふるさとの絵を一枚描いておこうかしら、描く時にそこは画題をぴりっと利かせたいというのもありまして。
ショッピングモールっていうのは、巨大さをみると街が一つできちゃったような。あそこまで大きいと街でいいんじゃないかしらと。普通の商店街に壁作って屋根をかけて、「あれ?新しいショッピングモールだわ」とか言ってね。ショッピングも出来るじゃないかしらとまちがった人がきて流行りやしないかと。空想は空想ですけど、そういうしたたかな生き残り戦略じゃないですけど。(2015年4月19日放送 「画伯! あなたの正体は? ドキュメント・山口晃」 より)
――
★★★★★
参考文献
「NHK日曜美術館50年展」・・・語り継ぐ美 ~時を超えて美を語る言葉、日本美の再発見、超絶技巧、作家の生き様と美
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-da8f56.html
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」・・・孤高の画家、人生の光芒、彼岸への旅
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/09/post-236a16.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
――
NHK日曜美術館50年展
会場:東京藝術大学大学美術館(東京・上野)
会期:2026年3月28日(土)~6月21日(日)
休館日:月曜日(ただし5月4日は開館)
公式サイト:https://nichibiten50.jp/
巡回先:静岡県立美術館2026年7月18日(土)~9月27日(日)/大阪中之島美術館2026年10月10日(土)~12月20日(日)

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