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2026年8月12日 (水)

「空海と真言の名宝」・・・密教美術、後七日御修、秘仏、『三十帖策子』、空海の思想の表現

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第443回

弘法大師と真言寺院の密教空間
空海(774-835)は、774年、讃岐の豪族・多度郡、佐伯家に生まれ、学問を志して上京するが、大学寮の儒学にに倦み、【大学寮退学】山野で修行に明け暮れ、【虚空蔵求聞持法】一人の沙門と出会い、虚空蔵求聞持法を学び、正式な僧となり空海を名乗るのは31歳のとき。【入唐求法】難破で1年延期されていた遣唐使船に乗り込み、唐に渡る。【長安で青龍寺の恵果に師事】恵果は空海と会った瞬間「汝を待っていた」と告げた。
体系化された密教のすべてを受け継いで帰国。本来、20年をかけて学ぶべき立場でありながら、わずか3年ほどで戻った。嵯峨天皇により入京勅許。【平城上皇の乱】、嵯峨天皇、征夷大将軍・坂上田村麻呂を、
空海は、その後、嵯峨天皇より東寺を与えられ、真言道場を開き、体系的密教を日本に定着させる。人生の最期には宮中での密教修行の実施を奏上し、勅許を得た翌835年の正月、「後七日御修法ごしちにちみしほ」が宮中祭祀として勤修された2カ月後、高野山奥の院にて入定。921年「弘法大師」の諡号しごうが下賜される。
空海の思想は、「即身成仏義」不空「般若理趣釈」に表されている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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各地の仏像をと集めている。中には「如意輪観音菩薩坐像」(大阪、大門寺)や「十一面観音菩薩立像」(三重、観菩提寺)のような公開されること稀な秘仏も含まれています。前者は平安時代11世紀の一木造。板光背には墨で宝相華唐草を描くなど、書画に興味のある方にも見逃せません。 快慶「深沙大将立像」(和歌山、金剛峯寺)大きなものから圓勢・長圓「薬師如来坐像」(京都、仁和寺)のような小さなものまで、周知の仏像のうちには、いつも京博に置いてあるのでありがたくない安祥寺の「五智如来坐像」5軀もあり、ほかに珍しいものが多いです。もちろん仏画や密教法具の名品も並びますが、「信貴山縁起」(朝護孫子寺)が出ているを。
第1章 空海と真言密教
空海の事跡は、密教にとどまらず、それまで支配階級の子弟のみを対象としていた学問を庶民に開き、各地の土木工事に手腕を発揮、文筆家としても多くの詩文や著作を残しています。自身の思想を言語化する才に加え、三筆に謳われた能筆家であったことはよく知られているでしょう。また、密教の教義理解には、視覚的訴求が必要と喝破し、多くの仏教美術の創造に貢献した。こうした深く大きな才と活動は、のちに空海自身への信仰も生み出します。聖徳太子同様、弘法大師もまた、いまも生き続ける日本の巨人。
特別公開の金剛峯寺の秘仏、「弘法大師坐像」でその面影を確認して、空海と真言密教の世界へと踏み入っていきます。
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https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2760
展示構成
第1節「空海ゆかりの名宝」
空海直筆の冊子や唐から持ち帰った法具、
【『三十帖策子』仁和寺】師。恵果の言葉や経典、サンスクリット語を弟子が書写したもの、天皇宸筆による空海の伝記など。

第2章 後七日御修法の世界
毎年正月8日から14日まで勤修される後七日御修法は、空海の奏上によって嵯峨天皇の宮中に初めて密教の修法が実行された、真言宗最大の儀式。玉体(天皇)の安穏と国家安寧、五穀豊穣を祈る、長い歴史のなかで、ときに中断し、場所やかたちを変えつつも今日まで継承されてきた。明治以降は、京都・教王護国寺[東寺]を会場に、玉体に代わり御衣を加持する。
後七日御修法は秘儀であり、一般には公開されない。本年の予行の様子を写した貴重な写真パネルとともに、御修法のうち観音供で本尊となる秘仏や、御修法の設えを伝える図像、御修法に使用されていた十二天像などで、知られざる密儀を垣間る。

第3章 真言宗各派の名宝
空海が開いた真言宗は、さまざまに分派、各派の独立の原因は多様ながら、主なひとつに修法や儀式の実践面での相違があった。
根底は空海の伝えた密教の教えに基づく。重要な儀式は、後七日御修法であり、各山会の存在、現在十八本山に連なる寺院数は、12,000を超える。各地でそれぞれに守り伝えてきた寺宝に、変わらぬ信仰のかたちと、各派の個性を見出する。
国宝 「一字一仏法華経序品(部分)」 平安時代・11世紀 香川・善通寺蔵 ※前期展示 法華経と仏像を一行おきに配する経文巻は、それぞれ異なる表情を持つ仏像。

第4章 真言宗各派の彫刻と秘仏
最後に真言宗各派が所蔵する仏像が紹介される。空海が拝した奈良時代の古仏から、快慶、影響と土地の味わいが混合された作例、近世に僧が自ら作成した像まで、多彩な造形。
重要文化財 快慶作 「不動明王坐像」 鎌倉時代・建仁3年(1203) 京都・醍醐寺蔵 像内の銘文により快慶作とわかっている作品。顔を左に、目を正面に向け、下唇を噛む表情が火焔と相まって迫力の一作
「秘仏」たち。
重要文化財 「如意輪観音菩薩坐像」 平安時代・11世紀 大阪・大門寺蔵 なまめかしい観音菩薩像。台座から本体まで一木から彫り出している。彩色がなく、顔や宝冠、光背の文様を墨で描いている。
重要文化財 「十一面観音菩薩立像」 平安時代・9~10世紀 三重・観菩提寺蔵。
「厨子入十一面観音菩薩立像」 江戸時代・19世紀 京都・泉涌寺蔵 小さな厨子に納められた仏像は、和宮内親王の念持仏と伝わる。像は伽羅製、明治天皇から贈られた銘木・蘭奢待も収められている
国宝 「薬師如来坐像」 平安時代・康和5年(1103) 京都・仁和寺蔵 総高約25㎝小さな坐像は白檀製。台座や光背にも仏像が彫られ、細やかな截金が多彩に刻まれる。360度から見られる展示なので、驚嘆の超絶技。
重要文化財 「愛染明王坐像」 平安時代・12世紀 山梨・放光寺蔵 天を射る、顔の前で弓を構える「天弓愛染」。彫像では珍しい。
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展示作品の一部
国宝
1 三十帖冊子 平安時代・9世紀 京都・仁和寺 前期:第六帖・第十八帖/後期:第二十二帖・第二十四帖
国宝 三十帖冊子 平安時代・9世紀 京都・仁和寺 前期(7/14~8/9):第六帖・第十八帖/後期(8/11~9/6):第二十二帖・第二十四帖
2 後宇多天皇宸翰 弘法大師伝 鎌倉時代・正和4年(1315)京都・大覚寺 前期
(左)国宝 後宇多天皇宸翰 弘法大師伝 鎌倉時代・正和4年(1315)京都・大覚寺 前期(7/14~8/9)
3 後宇多天皇宸翰 御手印遺告 鎌倉時代・14世紀 京都・大覚寺 後期(8/11~9/6)
4 金銅錫杖頭 中国・唐時代・8世紀 香川・善通寺 通期
国宝 金銅錫杖頭 中国・唐時代・8世紀 香川・善通寺 通期
5 閻魔天像 平安時代・12世紀 京都・醍醐寺 前期
国宝 閻魔天像 平安時代・12世紀 京都・醍醐寺 前期(7/14~8/9)
6 十二天屛風 平安時代・建久2年(1191) 京都・教王護国寺[東寺]①7/14~7/26:伊舎那天・帝釈天・火天/②7/28~8/9:閻魔天・羅刹天・水天/③8/11~8/23:風天・毘沙門天・梵天/④8/25~9/6:地天・日天・月天
国宝 十二天屛風 平安時代・建久2年(1191) 京都・教王護国寺[東寺]①7/14~7/26:伊舎那天・帝釈天・火天/②7/28~8/9:閻魔天・羅刹天・水天/③8/11~8/23:風天・毘沙門天・梵天/④8/25~9/6:地天・日天・月天
7 五大尊像 鎌倉時代・12~13世紀 京都・醍醐寺 前期:不動明王・降三世明王/後期:軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王
国宝 五大尊像 鎌倉時代・12~13世紀 京都・醍醐寺 前期:不動明王・降三世明王/後期:軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王
8 十二天像(羅刹天・水天・風天) 平安時代・9世紀 奈良・西大寺 前期:羅刹天/後期:水天・風天
国宝 十二天像(羅刹天・水天・風天) 平安時代・9世紀 奈良・西大寺 前期:羅刹天/後期:水天・風天
9 一字一仏法華経序品 平安時代・11世紀 香川・善通寺 前期
国宝 一字一仏法華経序品 平安時代・11世紀 香川・善通寺 前期(7/14~8/9)
10 泉涌寺勧縁疏 鎌倉時代・承久元年(1219) 京都・泉涌寺 後期
国宝 泉涌寺勧縁疏(部分) 俊芿筆 鎌倉時代 承久元年(1219) 京都・泉涌寺蔵 後期(8/11~9/6) 画像提供:奈良国立博物館
11 金銅透彫舎利塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 通期
国宝 金銅透彫舎利塔 鎌倉時代・13世紀 奈良・西大寺 通期(7/14~9/6)
12 信貴山縁起絵巻(飛倉巻・延喜加持巻)平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 前期:飛倉巻/後期:延喜加持巻
国宝 信貴山縁起絵巻(飛倉巻・延喜加持巻) 平安時代・12世紀 奈良・朝護孫子寺 前期:飛倉巻/後期:延喜加持巻
13 地蔵菩薩立像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 京都・大報恩寺 通期
国宝 地蔵菩薩立像 鎌倉時代・貞応3年(1224) 京都・大報恩寺 通期(7/14~9/6)
14 薬師如来坐像 平安時代・康和5年(1103)京都・仁和寺 通期
国宝 薬師如来坐像 平安時代・康和5年(1103)京都・仁和寺 通期(7/14~9/6)
15 五智如来坐像 平安時代・9世紀 京都・安祥寺 通期
国宝 五智如来坐像 平安時代・9世紀 京都・安祥寺 通期(7/14~9/6)※撮影可
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重要文化財
重要文化財 十一面観音菩薩立像(部分)平安時代 9~10世紀 三重・観菩提寺蔵 通期展示 撮影:佐々木香輔
国宝 五智如来坐像 平安時代 9世紀 京都・安祥寺蔵 通期展示
重要文化財 愛染明王坐像 平安時代 12世紀 山梨・放光寺蔵 通期展示 画像提供:山梨県立博物館
国宝 薬師如来坐像 円勢・長円作 平安時代 康和5年(1103) 京都・仁和寺蔵 通期展示
重要文化財 如意輪観音菩薩坐像 平安時代 11世紀 大阪・大門寺蔵
宮中行事、御七日の御修法の本尊も
かつて宮中の仁寿殿で行われた、天皇の身体健全を祈る儀式の本尊である重要文化財『聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(二間観音)』 。その精巧極まりない造作に魅了される。
重要文化財『聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(二間観音)』 鎌倉時代・13世紀 京都・教王護国寺[東寺]蔵
のちに清涼殿二間に場所を移したことから「二間観音」と呼ばれる。江戸時代に真言宗最大の儀式である後七日御修法に組み込まれた。本体、光背、台座などすべてに一流の技術が凝縮されている。
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参考文献
「空海と真言の名宝」・・・密教美術、後七日御修、秘仏、『三十帖策子』、空海の思想の表現
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/08/post-1ec44e.html
美への旅 旧嵯峨御所 大覚寺百花繚乱御所ゆかりの絵画 質疑応答篇
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-fe0b54.html
参考文献
「旧嵯峨御所大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画」・・・嵯峨天皇と空海、運命の美女
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/01/post-075dfa.html
学問僧、空海 ・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
空海『秘密曼荼羅十住心論』・・・大日如来は、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)をもつ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-2f9322.html
金剛界曼荼羅の五仏、五智如来、仏陀への旅
転識得智、種子薫習
https://t.co/MIXigqe3xH
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
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金剛峯寺(和歌山県)や教王護国寺[東寺](京都市)、善通寺(香川県)など真言宗の主要な総本山・大本山である18寺院で構成される「真言宗各派総大本山会(各山会)」所属の十八本山と関係寺院から、
国宝「信貴山縁起絵巻」(奈良・朝護孫子寺蔵)や国宝「十二天像」(奈良・西大寺蔵)など国宝15件、重要文化財60件を含む88件の貴重な名宝が一堂に会します。

出展数の「88」は弘法大師(空海)の御跡を巡礼する「お遍路」で知られる「四国遍路八十八ヶ所」と合わせた数字

また、各山会各派の山主らによって営まれる真言宗最高の法会「後七日御修法ごしちにちみしほ」。この秘められた儀式の世界が、ゆかりの仏像や図像を通して紹介されるのも注目である。
そして「弘法大師坐像」(和歌山・金剛峯寺蔵)や重要文化財「十一面観音菩薩立像」(三重・観菩提寺蔵)、重要文化財「如意輪観音菩薩坐像」(大阪・大門寺蔵)といった、普段は目にすることのできない各地の秘仏9件が並びます。
みどころ①弘法大使生誕1250年!
みどころ②至宝集結88件
みどころ③後七日御修法ごしちにちみしほ
みどころ④秘仏開帳!

真言宗各派総大本山会(各山会)所属の十八本山
長谷寺(真言宗豊山派総本山)、仁和寺(真言宗御室派総本山)、寳山寺(真言律宗大本山)、智積院(真言宗智山派総本山)、朝護孫子寺(信貴山真言宗総本山)、勧修寺(真言宗山階派大本山)、大覚寺(真言宗大覚寺派大本山)、醍醐寺(真言宗醍醐派総本山)、根來寺(新義真言宗総本山)、中山寺(真言宗中山寺派大本山)、金剛峯寺(高野山真言宗総本山)、西大寺(真言律宗総本山)、教王護国寺[東寺](東寺真言宗総本山)、清荒神清澄寺(真言三宝宗大本山)、泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)、善通寺(真言宗善通寺派総本山)、須磨寺(真言宗須磨寺派大本山)、隨心院(真言宗善通寺派大本山)※いろは順
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弘法大師生誕1250年記念 特別展「空海と真言の名宝」
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2760
東京国立博物館 平成館(東京都台東区上野公園13-9)

2026年7月28日 (火)

「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」・・・幻想、神秘、静謐な世界

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第442回
長谷川潔の銅版画の世界には不思議な魅力がある。幻想、神秘、静謐な世界はどのようにして生まれたのか。孤高な版画家、長谷川潔は、不滅な世界を築いた。
長谷川潔は、1919年4月、長い航海を終えて、パリに到着するが、医師の勧めで、南仏、カンヌ。ル・カーネで、転地療養を勧められた。南仏の地で、版画制作の研究を始める。「直刻法」の技法で、アンドレア・マンテーニャ、アルブレヒト・デューラーら、ルネサンスの巨匠の線刻表現に範を求め、ビュランで線を刻む、エングレーヴィング、ニードルで刻むドライポイントの技法を探求する。
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長谷川潔《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、手彩色(雁皮紙刷り)、町田市立国際版画美術館藏
《思想の生れる時》1925年には、象徴派のルドンの影響がある。
《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年、《丘の上の村 サン・メーム》1930年には、静謐な世界がある
万物は本質的に同じ
2041年、一本の樹木が「ボン・ジュール」語りかけ挨拶をしてきた。啓示的体験をした。「草木にも人間の目鼻立ちと同じように意味があり、万物は本質的に同じなのだ」「白昼に神を視る」長谷川潔。《一樹(ニレの木)》1941年
《一樹(ニレの木)》1941年、ドライポイント、町田市立国際版画美術館蔵。荒廃した世界の中で、1本の木が人間の顔のような姿。第5章 静物画 ―マニエール・ノワールの宇宙
1950年代後半、長谷川は伝統的なマニエール・ノワール(メゾチント)の制作に立ち返り、深遠な黒を背景とする象徴性を帯びた静物画を制作する。
長谷川潔《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》 1969年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
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長谷川潔の世界には、老子の万物斉同、華厳経の事事無碍法界、空海の即身融一の思想があると思う。
「アクアリウムの前の草花は水を、水は魚を、魚は虫を、虫は草花を、と次々と連想を進めると大自然のあらゆる存在物は一大円形を形成する」長谷川潔 1969 図録p124
アクアリウムの前の草花は、魚と渾然一体、事事無碍法界、理事無碍法界、事物が理によって、渾然一体となる世界観を表現している。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」・・・幻想、神秘、静謐な世界
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-f462e3.html
オディロン・ルドン 夢の起源・・・「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-7414.html
「1894 Visions ルドン、ロートレック展」・・・世紀末の印象派と象徴派、ロマン主義の苦悶
https://bit.ly/3pw5x2g
「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-40e824.html
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「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/26/260711/
日本を代表する版画家長谷川潔(1891-1980)は第一次世界大戦後に単身渡仏し、同地で生涯を終えました。失われつつあった銅版画の古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の形で復興させ、版画の歴史に大きな足跡を残し、またエングレーヴィング、アクアチントなど様々な技法を探求しました。モノクロームで表現された深遠な精神世界は、今なお多くの人を惹きつけています。
長谷川の作品は日本の版画界に大きな影響を与えましたが、彼の活躍の舞台はやはりパリでした。1920年代から版画家としての才能を発揮した長谷川は、まもなくフォーヴの画家・版画家デュフィに見いだされ、マティス、ピカソ、シャガールら名だたる画家が名を連ねる「独立画家=版画家協会」に加わりました。またフランスの人々に日本の版画を紹介することにも尽力した長谷川は、日本の古典文学にエングレーヴィングのイラストレーションを添えた挿絵本『竹取物語』を手がけています。本展では、長谷川に影響を与えた十九世紀以前の版画や、パリで交流した同時代画家の作品とともに、町田市立国際版画美術館が所蔵する日本有数の長谷川潔作品コレクションを中心に初期から晩年に至る名品を展覧します。
展示室では、身近な物を描きながら、無限の奥行きを感じさせる作品に出会えるでしょう。そこには、深く沈む黒とやわらかに澄んだ白とが静かにひびき合っています。その前に立つとき、見えるものは一つではないのかもしれません。見つめるまなざしにだけ、ひらかれるものがあります。ぜひ会場で作品と向き合ってください。「町田市立国際版画美術
第1章 銅版画の研鑽 ―古典技法の発見と刷新
1919年、銅版画を学ぶためにフランスに渡った長谷川は、銅版をビュランで刻むエングレーヴィングなどの高度な技法を会得し、失われつつあった古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の手法で復興させました。本章では長谷川の作品を技法別に紹介します。
長谷川潔 《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、手彩色(雁皮紙刷り)、 町田市立国際版画美術館蔵
長谷川潔 《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》1930年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
第2章 パリの版画界 ―画家たちとの交友
1920年代初頭、フォーヴの画家ラウル・デュフィと知り合った長谷川は、彼が創設に関わった「独立画家=版画家協会」に勧誘されるなど活動の幅を広げ、次第にパリの版画界で注目されるようになりました。本章では、1920-30年代の長谷川の作品を、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ジャン=エミール・ラブルールら同協会の画家たちの作品と並べて展示します。
長谷川潔 《オランジュと葡萄》1932年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
長谷川潔 《二つのアネモネ》 1934年、アクアチント、町田市立国際版画美術館蔵
第3章 『竹取物語』 ―フランスで刻まれた日本の美
渡仏後に「日本の尊厳」を知ったという長谷川は、1920年代後半から竹取物語を題材とする銅版画の制作に取り組み、1933年に挿絵本を完成させました。本章では、口絵から文字の図案、紙の種類にまでこだわった長谷川の珠玉の挿絵本をご紹介します。
長谷川潔『竹取物語』《「貴公子たちの求婚」の章 挿絵》1927-34年(1934年刊)、エングレーヴィング、ドライポイント、町田市立国際版画美術館蔵
第4章 自然 ―白昼に神を視る
第二次世界大戦中もフランスに留まった長谷川は、物心両面の苦労を重ねる日々のなかで創作活動を続け、ありふれた樹木や草木にも神秘が宿ることに気づいたといいます。本章では、戦中・戦後の長谷川が自然のかたちを克明に描き出した版画をご紹介します。
長谷川潔 《一樹(ニレの木)》1941年、ドライポイント、町田市立国際版画美術館蔵
第5章 静物画 ―マニエール・ノワールの宇宙
1950年代後半、長谷川は伝統的なマニエール・ノワール(メゾチント)の制作に立ち返り、深遠な黒を背景とする象徴性を帯びた静物画を制作するようになりました。本章では、激動の時代を生きた長谷川の集大成とも言える晩年の代表作が一堂に会します。
長谷川潔 《狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)》1963年、メゾチント、町田市立国際版画美術館蔵
「長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/26/260711/
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館所蔵 長谷川潔展―パリに生きた銅版画家の軌跡」
2026年7月11日(土)~ 9月23日(水・祝)

2026年7月19日 (日)

没後50年 髙島野十郎 展・・・写実絵画と仏教思想

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第441回
東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業で才能を嘱望されながら、なぜ洋画家になる道を選んだのか。なぜ誰も師に就かず、孤独の道を選んだのか。実主義絵画と、仏教思想はどう関わるのか。友人たちに贈った蠟燭の絵はいのちの焔か。
1、
高島弥十郎の生涯と藝術
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市出身の洋画家。写実と仏教思想を探求した画家。1904-9年「蓮華」を描く。
福岡県御井郡合川村(現・久留米市)の裕福な酒造家であった髙嶋家の五男に生まれる。本名は彌壽(やじゅ)。福岡県立中学明善校(現・明善高等学校)に学んだ頃から絵に目覚め、長兄の宇朗(詩人)の友人であった青木繁を知る。
旧制第八高等学校(名古屋)を経て1912年東京帝国大学農学部水産学科に入学。1916年、東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業しながらも恩師の銀時計を辞退、画家の道を選び、独学で絵を学んだ野十郎は、特定の美術団体に属さず、流行や時代に迎合することなく、自らの理想と信念にひたすら忠実であろうとした。
1930~33 1930年欧州に向け旅立つ。2月アメリカ滞在。4月スコットランド、グラスゴー滞在。ベルギー、オランダ経由でパリに入る。イタリア、ヴェネツィア近郊キオッジア滞在。パリに戻る。留学や帰郷を挟みながら絵画を探求。1936実家と断絶。1936年赤坂区青山北町4丁目43に住む。東京の渋谷や青山にアトリエを構えていた、渋谷区にゆかりの深い人物でもあり。
1945年空襲で被災、姉スエノの嫁ぎ先中島家に疎開。1948年、港区赤坂青山南町3丁目21に住む。1960年70歳、晩年に千葉県柏市増尾へ移る前の約50年、1975年85歳で死去。没後50年を機に開催する本展は、初公開作品や青木繁、坂本繁二郎、岸田劉生など関連する作家の作品、関係資料を含めた約170点を展覧する、髙島野十郎展としては最大規模の回顧展となります。「蝋燭」や「月」を主題とした代表作を含む、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、
これまで大きく取り上げられなかった部分にも焦点を当てます。また、野十郎関係者による書簡やメモ等の資料から、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築いたのか、彼の人間像にも改めて迫ります。「孤高の画家」と称されてきた髙島野十郎の新たな全貌をお楽しみください。
1986(昭和61)年に初の回顧展「写実にかけた孤独の画境 髙島野十郎展」が福岡県立美術館で開催されて以降、連続的に展覧会が開催され、その作品や画業の全体像が明らかになってきた。代表作「蝋燭」や「月」をはじめとする作品は、卓越した技量と、緊張感さえもみなぎる独特の写実的筆致を魅力とする。
【1】《満月》昭和38(1963)年頃 油彩・画布 東京大学医科学研究所蔵
【2】《絡子をかけたる自画像》大正9(1920)年 油彩・画布、福岡県立美術館蔵
プロローグ 野十郎とはだれか
野十郎の回顧展が初めて開催されたのは昭和61(1986)年でした。それ以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されてきましたが、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこで本章では、まず野十郎の全体像を概観します。
【3】《からすうり》昭和10(1935)年 油彩・画布福岡県立美術館蔵 からすうりは、月や蝋燭に並ぶ野十郎作品を象徴するモチーフ。
【4】《ノートルダムとモンターニュ通Ⅱ》昭和7(1932)年頃 油彩・画布 福岡県立美術館蔵留学時代、ノートルダム寺院を望むアパルトマンの窓からの風景を描いた作品。パリでの拠点であったのだろう。
【5】《すいれんの池》昭和24(1949)年 油彩・画布 福岡県立美術館蔵 昭和55(1980)年、福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)での展覧会「近代洋画と福岡県」に出品され、野十郎が“発見”されるきっかけとなった作品。
【10】《岸上鎌吉先生像》大正10年代(1921-26)頃 油彩・画布 東京大学大学院農学生命科学研究科水圏生物科学専攻蔵 野十郎の東京帝大在学時の恩師を描いた作品。柔和な表情や丁寧に描かれた研究室の細部からは、師への敬愛と感謝の気持ちを読み取ることができる。
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2、写実主義と仏教思想
東京帝国大学農学部水産学科で才能を嘱望されながら、なぜ洋画家になる道を選んだのか。なぜ誰も師に就かず、学校に学ばず、孤独の道を選んだのか。なぜ写実主義絵画を志し、仏教思想はどう関わるのか。高島野十郎の写実主義の核心は何か、仏教思想の核心は何か。なぜ孤高の道を選んだのか。
高島野十郎の「遺稿」の言葉は、即身成仏義を思い出す。
【空海『即身成仏義』】六大無碍にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各離れず(相)三密加持すれば速疾に顕はる(用)重重帝網なるを即身と名づく(瑜伽)法然に薩般若を具足して、心数・心王、刹塵に過ぎたり、各五智・無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり(成仏)。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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写実と慈悲 髙島野十郎「遺稿ノート」より
「寫実(しゃじつの)極致 それを慈悲といふ」髙島野十郎
『世の画壇と全く無縁になることが、私を本当に自由にし私の願う勉強を完全にさせてくれた』
全宇宙を一握する、是れ写実、全宇宙を一口に飲む、是写実 
「四曼を一にしてあらはす、それを写実といふ」
髙島野十郎「遺稿ノート」
★★★★★
参考文献
没後50年 髙島野十郎 展・・・写実絵画と仏教思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-a66b4c.html
「没後50年 髙島野十郎展」・・・空海の密教思想への傾倒
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-fc2837.html
千葉県立美術館、没後50年 髙島野十郎展 プレスリリースより
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/exhibition/events/event-7689/
参考文献2
空海『秘密曼荼羅十住心論』・・・大日如来は、法界体性智、自性清浄心(阿摩羅識)をもつ
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-2f9322.html
空海『即身成仏義』、大日如来の知恵 五智如来の知恵
https://bit.ly/2O8YtbU
学問僧、空海・・・空海の生涯と思想
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2024/05/post-964d84.html
「没後50年 髙島野十郎 展」図録2025 2026
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3、展示構成
展示作品の一部
プロローグ 野十郎とは誰か
髙島野十郎の画業が世に初めて知られたのは、彼の死後約10年を経た昭和61(1986)年でした。以来、いくつかの展覧会や書籍で紹介されたとはいえ、多くの人の目に触れてきたわけではありません。そこでこの章では、髙島野十郎の人と作品についての全体像を概観します。

第1章 時代とともに
青木繁や坂本繁二郎、古賀春江など、交流のあった作家や同時代の画風を共有した作家の作品も紹介しながら、野十郎が写実の画風を確立させていく道程を同時代の美術の中で捉え、従来の「孤高の画家」像を解体します。

第2章 人とともに
野十郎と、東京帝国大学からの友人や画家仲間、文化人、著名人との関係やエピソードを作品や資料で紹介し、彼の人間関係や人となり、人生観に迫ります。
《蝋燭》大正期、福岡県立美術館蔵

第3章 風とともに
ヨーロッパ留学中の風景画や日本全国を旅して描いた四季の風景画を展示し、制作や構図の一貫性を提示するとともに、最新の調査結果を紹介します。

第4章 仏の心とともに
野十郎が生涯よりどころとしていた仏教に注目し、寺社仏閣をダイレクトに描いたもののほか、霊場巡りへの関心のなかで訪れた場所を描いた風景画、さらには一見すると普通の静物画や風景画に込められた仏教的な考え方を紹介します。
《空》 昭和23(1948)年以降、個人蔵

エピローグ 野十郎とともに
本展全体を振り返りながら、もう一度野十郎の作品と世界観に浸っていただく章とします。展覧会を通して揺らぎ、あるいは膨らんだ野十郎像を、ふたたび見つめなおし、身近に野十郎を感じていただけましたら幸いです。
《秋陽》昭和42(1967)年、福岡県立美術館蔵
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没後50年 髙島野十郎 展 渋谷区立松濤美術館
50 Years after His PassingTakashima Yajuro
2026年7月4日(土)~ 9月6日(日)
前期:7月4日(土)~8月2日(日)/後期:8月4日(火)~9月6日(日)
※会期中、一部展示替えあり
展覧会概要
没後50年 髙島野十郎 展 渋谷区立松濤美術館
展覧会公式HP: https://takashimayajuro50.jp/
会場 渋谷区立松濤美術館
〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
電話:03-3465-9421 HP: https://shoto-museum.jp
プレスリリース https://shoto-museum.jp/wp-content/uploads/2026/03/05deeb6e94cc4ff6a67343a7cc0b0a1e.pdf

2026年7月16日 (木)

「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第440回

レンブラントの生涯、栄光と没後
レンブラント・ハルメレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606~1669年)は版画史上最大の巨匠とも評され、伝統的表現となったエッチング(腐食銅版画)に新たな表現や技術で取り組んだ。レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン《書斎の学者(ファウスト)》1652年頃 エッチング、ビュラン、ドライポイント 国立西洋美術館は、19世紀、ゴヤ、ピカソ、マティスといった画家から、ゲーテの『ファウスト』、ボードレールの詩集『悪の華』やユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ(ノートルダムのせむし男)』などに、大きな影響を与えた。
レンブラント・ハルメレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインは1607年7月15日、オランダのレイデンの裕福な製粉商人に10人兄弟の9番目の息子として誕生した。14歳のときに画家を目指して修行を始め、18歳レイデンで仲間の画家たちと一緒に工房を開いた。1631年、レンブラントはアムステルダムにアトリエを移すと、翌1632年「テュルプ博士の解剖学講義」を描き、その名声を揺るぎないものにした。当時、オランダでは資金を出し合い、一枚の絵にする「集団肖像画」が流行っていた。
レンブラントは28歳でサスキア6歳年下の女性と結婚。幸福な家庭を得て、レンブラントの創作活動はますます旺盛。サスキアをモデルにした素晴らしい作品も沢山描き、高い値段で売れた。若く美しい妻、画家として手に入れた名誉と金。幸せの絶頂にあったレンブラントの暮らしは贅沢になった。世界中の美術品や骨董品を買い漁り、レンブラントは浪費家となった。
サスキアとの間に生まれた二人の子どもが幼くして次々に亡くなってしまった。1639年、33歳のとき大金を借りて大きな家を買い、この家で生まれた3人目の子どもも育たなかった。さらに4人目の子どもティトゥスが生まれた翌年には妻のサスキアが病気でこの世を去る。
1942年「夜警」を完成させたが、徐々にレンブレントの人気にも陰りが見え始める。当時オランダでは集団肖像画の依頼人が割り勘(Dutch account)で絵の代金を支払うのが一般的。
1652年オランダとイギリスが戦争を始め、オランダの人々は絵を買うどころではなくなり。お金が入らなくなったレンブラントは借金の取り立てに追われ、1656年、50歳のときに破産。
1660年、レンブラントは住み慣れた家を売り払い、小さな家に移り、そこで息子ティトゥスと新しい妻ヘンドリッキェ、彼女との間に出来た娘コルネリアと慎ましやかでありながらも幸せな家族生活を過ごす。しかし、3年後にヘンドリッキェ、さらにその5年後にはティトゥスが27歳の若さで亡くなる。
レンブレントは自画像を描き続けた画家としても良く知られている。1669年、レンブラントが63歳で亡くなったとき、部屋の画架には未完成の絵が置かれたままだった。
17世紀オランダ、商業主義と立身出世主義の勃興の時代である。
長谷川潔(1891-1980)は第一次世界大戦後に単身渡仏し、同地で生涯を終えた。失われつつあった銅版画の古典技法マニエール・ノワール(メゾチント)を独自の形で復興させ、版画の歴史に大きな足跡を残し、またエングレーヴィング、アクアチントなど様々な技法を探求した。《思想の生れる時》 1925年、ドライポイント、《アカリョムの前の草花(草花とアカリョム)》 1969年、メゾチント、を残した。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」エッチング、銅板に直接線を刻んで版を作るエングレーヴィングの代替技法
第1章 版画家レンブラント エッチング
レンブラントが制作に着手した17世紀初頭、エッチングは歴史的な転換期を迎えていました。以前のエッチングは主として、銅板に直接線を刻んで版を作るエングレーヴィングの代替技法であり、その規則正しい線描の再現が重視されました。
第2章 レンブラント版画の影響:17-18世紀
イタリアのジョヴァンニ・ベネデット・カスティリオーネやステファーノ・デッラ・ベッラの例のように、レンブラントのエッチングに創造的に感化を受けた作品も生み出されました。
18世紀には、ドイツの芸術家たちを中心に、レンブラントのエッチングへの関心が高まります
第3章 レンブラント版画の影響:19-20世紀
ゴヤはスペイン国内におけるレンブラントのエッチングを熱心に研究し、受けた刺激を自作に反映させました。続いて、19世紀フランスを中心としたエッチング復興リヴァイヴァルの文脈における、レンブラント人気の興隆
フレデリック・レガメ 《『エッチングのパリ』誌ポスター》1875年 リトグラフ/青色紙 レンブラント・ハウス美術館
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参考文献
「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」・・・集団肖像画の巨匠の生涯と没落
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-40e824.html
「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」国立西洋美術館・・・フェリペ4世と宮廷画家ベラスケス
http://bit.ly/2Ho8bR0 
エル・グレコ展・・・天上界と地上界の融合、 「昨夜私は永遠を見た」
https://bit.ly/3radRHN
フェルメールと17世紀オランダ絵画・・・ドレスデンの思い出
https://bit.ly/3sPtioB
ハプスブルク家、600年にわたる帝国コレクションの歴史、国立西洋美術館・・・黄昏の帝国、旅の思い出
https://bit.ly/2C7rE7K
ハプスブルク家、600年にわたる帝国・・・旅する皇帝と憂愁の王妃
https://bit.ly/2Q14xnz
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メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年・・・美女の歴史、詐欺師女、残酷な美女、欲望に溺れる女
https://bit.ly/3p6BrUA
西洋絵画の500年、カラバッジョ・・・バロック、若者たち、女詐欺師、残酷な美女、欲望に溺れる女
https://bit.ly/3hrwK3b
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オランダ、アムステルダムの中心に位置するレンブラント・ハウス美術館は、レンブラントが1639年から1658年にかけて実際に暮らした家を利用した、世界で唯一のレンブラント専門の美術館です。レンブラントによるエッチング(腐蝕銅版画)の世界有数のコレクションを中心に、同じく素描作品、さらに彼と関連の深い、あるいは、その強い影響を受けた芸術家たちの作品を収蔵しています。一方、国立西洋美術館でも、レンブラントのエッチングを重点的な収集の対象としており、《病人たちを癒すキリスト》や《三本の木》など代表作を含む、20点余の作品を所蔵しています。
今回の展覧会は、この2つのコレクションを組み合わせ、国内の美術館、大学図書館および海外の個人コレクターから拝借した作品や書籍も加えて、レンブラントのエッチングと、それが同時代および続く時代に与えた影響を見ていく企画です。
展覧会の前半では、まずレンブラントのエッチングに焦点をあてます。彼は当時、先例より刺激を受けつつ、さまざまな実験的な試みを通してエッチング表現の可能性を追究し、その地平を拡げました。そうして生み出された諸作品は、数世紀にわたって芸術家たちに影響を与え続けます。とくに、19世紀には、エッチング技法そのものの再評価と結びつき、レンブラントのエッチングへの関心は熱狂的な高まりをみせました。展覧会の後半では、そうした事例を、版画のみならず文学や批評なども交えてご紹介します。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《書斎の学者(ファウスト)》 1652年頃 エッチング、ビュラン、ドライポイント 国立西洋美術館
フレデリック・レガメ 『エッチングのパリ』誌ポスター 1875年 リトグラフ/青色紙 レンブラント・ハウス美術館
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《窓辺でエッチングを制作する自画像》 1648年 エッチング、ドライポイント、ビュラン/中国紙 レンブラント・ハウス美術館
アンリ・マティス 《版画を彫るアンリ・マティス》 1900-03年 ドライポイント 国立西洋美術館
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン 《百グルデン版画》 1648年頃 エッチング、ドライポイント、ビュラン/和紙 国立西洋美術館
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026rembrandt.html
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「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」が国立西洋美術館、7月7日から9月23日

2026年7月 9日 (木)

「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第439回
廃墟から蘇る、陸奥宗光旧居、台東区根岸。別邸として鶯谷の洋館を購入したのは1883年(明治16年)。
ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はあるのか。
謎の洋館、病院坂の医者の家、坂道を降りる謎の美女、
【1883年(明治16年)】鹿鳴館が完成、欧化政策が本格化。政府による条約改正交渉。華族制度や西洋化政策が広がり、自由民権運動への弾圧、政府との対立が深まる。
近代国家としての外交・文化整備が進展した。
江戸の風情が残る日本橋と遠くに望むコンドル設計の洋館
「武蔵百景之内 江戸橋より日本橋の景」小林清親/画 1882年(明治15)
東京都江戸東京博物館蔵 85200735
現在の迎賓館赤坂離宮。大正天皇、皇太子時代の邸宅
東宮御所 彩鸞の間 (『東宮御所写真帖』より)小川一真/撮影 1909年(明治42)頃
東京都江戸東京博物館蔵 22604205
赤煉瓦、長大なファサード…現代に残る東京駅の誕生
「中央停車場建物展覧図」 1911年(明治44)頃、鉄道博物館蔵
「国会議事堂案 外観透視図」 エンデ&ベックマン/作 1887-8年(明 治20-21)頃
ベルリン工科大学建築博物館蔵 Architekturmuseum der Technischen Universität Berlin, Inv. Nr. 20190
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
「洋館 明治の夢と挑戦」・・・ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館、辰野金吾の中央停車場、100年後に残る建築はなにか
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/07/post-92da5c.html
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「洋館 明治の夢と挑戦」江戸東京博物館、
日本建築史のはじまりともいえる法隆寺の建立から1,000年あまりの時が流れ、到来した明治という時代。江戸から明治への転換は、長きにわたり閉ざされていた西洋文化の入口が開き、洋風建築の流入が一気にはじまることを意味しました。本展では、人びとが建築に夢を抱いた「明治の洋館」の世界を、多種多様な資料と立体的な展示手法で描きます。
大工棟梁による擬洋風ぎようふう建築、外国人技術者による非本格的洋館や外国人建築家たちの手がけた本格的西洋建築、工部大学校卒業生等の挑戦、そして皇族や上流階級のための大邸宅にいたるまで、日本の建築史上稀にみるこの大変革の時代の多彩な成果を活写します。
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プロローグ 前夜―幕末の東京・横浜風景―
第1章 ナマコ壁と擬洋風ぎようふう建築
明治元年(1868)、東京開市とともに築地に居留地が開かれます。このとき、外国人のための宿泊・交易場として建てられたのが、伝統的な左官技術ナマコ壁を用いた東京初の洋館・築地ホテル館です。主設計はアメリカ人建築技術者リチャード・ブリジェンスが、工事は大工棟梁の二代目清水喜助が行いました。清水は明治5年 (1872)に大作、第一国立銀行の設計・施工を手がけます。このように、江戸時代以来の大工が明治初期に見よう見まねで作った和洋折衷の建物を「擬洋風建築」と呼びます。
第2章 建築家がやってきた―外国人建築家と「都市風景」
棟梁たちが見よう見まねで建てた擬洋風建築はどれも個性豊かなものでしたが、日本政府が求めていたのは個性よりも「本物の西洋」でした。欧米建築文化の摂取に努めるため、さまざまな国から技師や建築家が来日します。イギリス人のジョサイア・コンドル、ドイツ人のヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンらがその代表です。彼らのつくりだす建物は、擬洋風建築とはひと味違う本格的なものとして、都市・東京の風景を壮麗に刷新していきました。
第3章 開花する洋館の明治―日本人建築家の挑戦
明治12年(1879)、ジョサイア・コンドルが育成した日本人が工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業し、日本人最初の建築家4名が誕生しました。彼らが設計した建築作品のいくつかは東京に現存しており、片山東熊の表慶館(明治41)、曾禰中條建築事務所の慶應義塾図書館(明治45)、辰野金吾の中央停車場(現・東京駅、大正3)などが国の重要文化財に指定されています。日本人建築家たちの果敢な挑戦の軌跡を、現存する建物や失われた作品から見ていきます。
第4章 羨望の住処すみか―明治の洋風邸宅
明治の建築家たちに課せられた使命の中心は、国家を飾る大建築を設計することでしたが、時に邸宅も重要な創作の対象となり得ました。また、ジョサイア・コンドルのように、邸宅を得意とする建築家も少数ながら存在しました。彼らが創造した洋館に共通して言えるのは、そのほとんどが限られた上流階級の人たちの大邸宅であったことです。それらはまさに、人々が瞠目する「羨望の住処」として、明治の東京を華麗に装飾したのです。明治期に建てられた邸宅の群像を、古写真や絵画資料、残された家具、空間の再現などから描きます。
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/western-style-architecture/
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★★★★★
江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」
江戸東京博物館、2026年6月23日(火)~2026年8月23日(日)

2026年6月21日 (日)

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回

ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
――
★★★★★
参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html

デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第438回
ゴッホ『星月夜』1889、サン・ルイ・ド・プロヴァンス(The Museum of Modern Art, New Yorkニューヨーク近代美術館)を見ると、デルフォイのアポロン神殿の糸杉を思い出す。
1、糸杉への旅
デルフォイのアポロン神殿の糸杉の種子を採取して、自宅の庭に播いて栽培し、15メートルに成長した。
私は、旅した地、アルハンブラ宮殿、獅子の中庭の糸杉、フィレンツェの発祥の地、フィエーゾレの糸杉、ヘファイストス神殿の糸杉、ペルガモンのアスクレピオスの聖域の糸杉、を思い出す。糸杉は、古代ギリシア文化、地中海文化において、死と再生と蘇りの象徴である。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
2、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』1472-75、UFFIZI Museum
大天使ガブリエルが右手で暗示し、マリアが右手で受け止める場面。レオナルド20代の作品である。
3、
デルフォイのアポロン神殿の糸杉 
ソクラテスが神託を受けた。アポロン神殿
ソクラテス(紀元前470-399年71歳)は、37歳の時、デルフォイのアポロン神殿の「ソクラテスより知恵のあるものはいない」という神託を受け、それを確かめるために当時知者と言われた人々と対話を重ね、「無知の知」の自覚に至った(『ソクラテスの弁明』)。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦デリオンの戦いで重装歩兵として従軍した。青年期にはアナクサゴラスの自然学に興味を持った(『パイドン』)。
4、
古代ギリシア都市デルフォイにあるアポロン神殿の遺跡。
アテナ神殿、劇場、競技場、考古学的遺跡は、パルナッソス山の風光明媚な斜面に位置している。デルフォイ考古学博物館に、紀元前5世紀、アルカイック期の彫刻、スフィンクス、御者(BC470)、クーロス、がある。クーロス2体がなぜクオレビスとビトンと呼ばれるか。へロドトスの歴史の第1巻クレイオの31段に記述されている。
5、
ヘファイストス神殿、アテネ、紀元前449年に建てられ始め、紀元前416年から415年頃に完成した。ドーリア式。短辺は6本の、長辺は13本(総数34本)の円柱で屋根を支えるドーリア式建築物である。メトープ(Metope)にはヘラクレスの難行とテーセウスの英雄伝が彫られている。
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参考文献
デルフォイのアポロン神殿の糸杉・・・ ソクラテスは、37歳の時、アポロン神殿の神託を受けた
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-39a602.html
哲学者の魂 ソクラテスの死
https://t.co/K1EiSrdg79
大久保正雄『地中海紀行』第43回哲学者の魂 ソクラテスの死1 P2
旅する哲学者、ソクラテスの戦い ソクラテスの祈り
https://t.co/gW05rsb44i
ソクラテスは、論理の達人に止まらず、夢と瞑想とダイモーン(守護霊)の声を聴く人。
オウィディウス『変身物語』第10巻、岩波文庫。キパリッソス。美少年。アポロンに寵愛されていた鹿を誤って殺してしまった彼は、深い悲しみのあまり涙を流し続けた。哀れに思ったアポロンによって、永遠に悲しみを象徴する「イトスギ」に変身させられる。
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html

2026年6月18日 (木)

没後50年、ピカソmeetsポール・スミス・・・パブロ・ピカソ、7つの時代

2026-meetsnact-2026
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第437回
パブロ・ピカソ(1881–1973)は、7つの時代を生き、変貌し続けた。愛人、妻、恋人、娘らによって代物弁済された遺産によって膨大な作品宝庫となった、国立ピカソ美術館、富豪の遺産収蔵庫である。
1901年、友人カサジェマスの死を描く。彼は社会の最貧困層を深い青で描き、孤独や憂鬱を表現した。貧しい生活のなかで夜間にランプの下で制作された作品は、憂鬱な雰囲気を醸し出す独自の様式へと深化。1906年、キュビスム、1924年から1935年シュルレアリスムの時代は、世界に衝撃を与えた。
パブロ・ピカソ(1881–1973)、
ピカソ、7つの時代。
1881から1990 幼少期と教育 
1916から1923 バレエ・リュス チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールにて、ダダによる音楽と文学のパフォーマンス 《アルルカンに扮したパウロ》1924年、《初聖体拝領者たち》1919年
1901年から1904年「青の時代、薔薇色の時代」
1906年から1915年 キュビスム《アヴィニョンの娘たち》(1907年)。
1924年から1935年 シュルレアリスム パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年、パブロ・ピカソ《読書》1932年、パリ国立ピカソ美術館、《ゲルニカ》(1937年)
1936年から1945年 スペイン内戦とドイツによるフランス占領
1946年から1945年 コートダジュールにて
1965年から1973年 ピカソの晩年
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【ピカソと7人の恋人】
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)の作品数は4万5000点で絵画1885点、彫刻1228点、陶器2280点、スケッチ4659点と 3万点に及ぶ版画作品などを手がけた。
【最初の恋人フェルナンドゥ・オリヴィエ Fernande Olivier】
ピカソが初めて愛した女は人妻。 1904年にパリで永住したときに出会ったフランス女フェルナンドゥオリビエはピカソのモデルであり、二人は恋に落ちてしまう。 ピカソと同い年で、1904年(23歳)に会った。
【第二の恋人エヴァ・グエルEva Gouel】
肌がすごく白かった女性。 ピカソは九年にわたるフェルナンドゥと同居生活に終止符を打ち、彼女を選ぶ。 体が弱かったエヴァ。 第一次世界大戦翌年の1915年12月14日この若い女性は、結核で死ぬ。
【第三の恋人-オルガ・クルロバOlga Kokhlova】
<パレード>公演の時に会ったロシアダンサー、ピカソが26歳のときに初めて結婚をした女性。オルガは庶民的で快適なことを楽しんだピカソとは異なり、上流社会的な気質を持った。 彼女はピカソの最初の息子パウロを生んだが、結婚4年で夫婦関係が解消。
【第四の恋人-マリーテレーズ・ヴァルターMarie Therese Walter】
ピカソが45歳になった年1927年当時17歳の健康で官能あふれた少女を6ヶ月間作業室に連れて来て超現実主義シュルレアリスムの時代の傑作<鏡の前に立っ処女>のモデルに立てた。 フェルナンドゥとエヴァ、オルガが茶色の髪を持っていたのとは異なり、彼女は金髪だった。 彼女が二十二歳の時ピカソの二番目の子供の娘マリアを生む。 ピカソに最も創造的なインスピレーションを与えた女性だったと言われている、ピカソが死んだときに死後もピカソを守らなければならならないと自殺した女性がテレーズだった。
【5番目の恋人-ドラ・マールDora Maar】
1936年ピカソは親しくしていシュールレアリズム詩人ポール・エリュアールから写真家ドラ・マール(本名マルコ・ヴィッツアンリエトロ)を紹介される。 ピカソの母国語であるスペイン語で彼と芸術を論じることができるほど知的だった。
1936年(55歳)ピカソが「ファシズムの狂気との戦いを取る時代」 彼女はピカソの「ゲルニカ」の時代を一緒にしており、この作品の制作過程全体を写真で記録した。 憂鬱な2次世界大戦の時期を一緒にした乾燥したピカソの作品で主に「泣く女」に登場する。うつ病のための心理療法を受けなければならなかったが、ピカソの友人であり、有名な精神分析学者であるジャック・ラカンの精神分析を長く受けることになった 。
【第六の恋人-フランソワーズ・ジロットFrançoiseGilot】
第二次世界大戦中に出会った彼女は非常に若くて美しい女流画家である。 ピカソが六十三歳の時、1945年から一緒に暮らするが、このとき、彼女は二十歳だった。 完璧主義者であり、独占力が強かったフランソワーズは、息子クロードと娘パロマを生む。 ピカソは自分の子供を素材にして魅惑的で躍動感あふれる肖像画を残した。 ここで、子供たちは、時には母の懐に抱かれた姿で、時には自分たち同士で遊ぶ姿で登場する。
後日フランソワーズは当時を率直に回想してこう書いた。
オルガ、テレーズ、ドラ・マールとの関係が続いて、彼らは継続的にピカソと私の生活の中に存在するという事実により、私は、ピカソの表現になり、それはまた、自分が収集したすべての女性個人所有の小さな博物館に展示しようとするピカソの欲望を確信するようになった。
【1953年、72歳で出会ったジャクリーヌ・ロックJacqueline Roque】
ピカソの末期の作品は、外在的にも暗黙的に性愛が目立つ。 このときピカソが陶芸と「古典的な作家の再解釈」に傾倒した時期であった。
ピカソが作品に専念できるように内助してくれた最後の女性ジャクリーヌ・ロックは、ピカソが72歳になった年に会った女性である。彼女は前夫との間に娘がいる離婚女性で、ピカソと8年間同棲した後、結婚した。 ジャクリーヌ・は料理をよく家事もよくしスペイン語で芸術家たちにも話を交わすことができた。
また、ピカソの客を楽しませてくれる魅力的なホステスの役割をした。ジャクリーヌはピカソよりも13年より住んでいた。 そして、これまで無私にピカソの複雑な財産の問題を処理した。1986年10月15日ピカソの生誕105年を十日前に彼女はピカソの墓の前で自ら命を絶った。
【ピカソの死1973】
20世紀の現代美術の巨匠ピカソは1973年にこの世を去った。 彼が死ぬ彼に会った多くの女性たちと子孫たちは一様に悲劇的な最後を迎えた。
ピカソが死んだという知らせを聞いてテレーズは首を毎月吊り、ジャクリーヌは1986年に マドリードの展示会を控えて拳銃自殺をした。 オルガとピカソの間の息子サンパウロは、薬物中毒で死に、ピカソの孫パヴェルリートは、 ピカソの葬儀に出席しに来てジャクリーヌは毒を食べて自殺した。
ピカソにとって女性と会話は筆 のようなもの、つまりなくてはならないし、本質的であり、致命的なものであった。
最初の恋人だったオリビエビーズマイヤーピカソは、後にこう回想した。果たしてピカソの恋人たちは、ピカソの絵画で筆のような存在だったのか。
【ピカソと恋人たちは、2本の映画に出た】最初は、1956年にアンリ・ジョルジュクルー趙監督の ドキュメンタリーThe Mystery of Picasso(ピカソ出演)、カンヌ映画祭審査員賞。ベニス映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受け。第二の映画は、1996年にジェームズ監督のSurviving Picasso(アンソニー・ホプキンス出演)である。
参考文献 https://matome.naver.jp/odai/2146640490474122401
★★★★★
参考文献
没後50年、ピカソmeetsポール・スミス・・・パブロ・ピカソ、7つの時代
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/06/post-69dab0.html
キュビスム展─美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ・・・美の根拠はどこにある
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2023/10/post-8e9885.html
https://art.nikkei.com/picasso_ps26/gallerytour/
ポール・スミスがピカソ没後50周年展の会場デザインを担当。ルイーズ・ブルジョワなど現代アートと対比
https://artnewsjapan.com/article/856
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展示作品の一部
パブロ・ピカソ《男の肖像》1902-1903年、パリ国立ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《女の胸像 (《アヴィニョンの娘たち》のための習作)》 1907年、パリ国立ピカソ美術館
パブロ・ピカソ《初聖体拝領者たち》1919年、
パブロ・ピカソ《アンドレ・ドランの肖像》1919年
パブロ・ピカソ《アルルカンに扮したパウロ》1924年
パブロ・ピカソ《トラックの玩具で遊ぶ子ども》1953年
パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年
パブロ・ピカソ《読書》1932年
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「ピカソmeetsポール・スミス 遊び心の冒険へ」国立新美術館
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
パリの国立ピカソ美術館が所蔵する20世紀を代表する芸術家パブロ・ピカソ(1881-1973)の作品からインスピレーションを得て、伝統的な仕立てと遊び心あふれる色使いで知られる英国人デザイナー、ポール・スミスが会場のレイアウトを考案します。自由な発想で創り上げられた会場構成は、ポール・スミスがデザインする洋服や小物のような色鮮やかさと楽しさに満ちています。ピカソの初期から晩年までの作品群を緩やかな時系列に従って展観します。
パブロ・ピカソ(1881–1973)
20世紀で最も影響力のある芸術家の一人。伝統的な絵画の概念を根底から覆した革新者です。「青の時代」やキュビスムなど多様な様式を切り拓き、陶芸、舞台芸術にも挑みました。《ゲルニカ》に象徴される社会的・政治的メッセージを込めた作品も知られています。
ポール・スミス(1946–)
英国ノッティンガム出身のデザイナー。サイクリストから転身し、デザイン、音楽、ファッションの道へ。「ひねりのあるクラシック」という哲学を軸に豊かな色彩を用いたファッションデザインで知られています。
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
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00 トロンプ・レスプリ (精神を欺くもの)

《牡牛の頭部》は自転車のサドルとハンドルという既製品を組み合わせ、牛の頭部を形づくった作品。これが牛の頭部なのか、あるいはサドルとハンドルなのか、鑑賞者の心に混乱を呼び起こします。ポール・スミスは青年期にはプロの自転車選手を目指していたほど、自転車を愛好しています。ピカソの本作に着想を得たスミスは、幾つもの自転車のサドルを用いて部屋のレイアウトを考案しました。

※展示風景は全てパリ国立ピカソ美術館で2023年に開催された「Picasso Celebration: The Collection in a New Light!」のものです。 フォトクレジット コピーライト Vinciane Lebrun/Voyez-Vous, courtesy of the Musée National Picasso-Paris.

パブロ・ピカソ《牡牛の頭部》1942年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF

01 『ヴォーグ(流行)』中の 芸術家

ピカソは子供のころから雑誌や漫画を愛読していました。その後は書物に絵をじかに描き込むようになり、バルザックやフロベールの小説のページに人物像をスケッチするようになります。こうした書物への描き込みは、1951年の雑誌『ヴォーグ・パリ』でも行われました。ピカソはウェディングドレスを纏う女性の写真の上にいくつか線を加え、その姿を不条理かつグロテスクなものへと変えました。

02 青の憂鬱

1901年から1904年にかけて、ピカソは青を基調とした絵画を数多く制作しました。「青の時代」と呼ばれるこの時代は、親友カサジェマスの死を契機に始まりました。彼は社会の最貧困層を深い青で描き、孤独や憂鬱を表現しました。貧しい生活のなかで夜間にランプの下で制作された作品は、やがて憂鬱な雰囲気を醸し出す独自の様式へと深化していきました。
パブロ・ピカソ《男の肖像》1902-1903年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


03 バラ色の女性たち 《アヴィニョンの娘たち》への前奏曲

1906年から1908年にかけて、ピカソは形態と空間の簡素化を追求し、キュビスムの基盤を築きました。彼はイベリア美術やアフリカ彫刻に着想を得て、バラ色を基調とした幾何学的で荒々しい新たな造形言語を模索しました。膨大な習作を経て完成した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)において、鑑賞者を圧倒するような暴力的なまでの視覚的革新を成し遂げたのです。ここではその習作を中心に紹介します。

パブロ・ピカソ《女の胸像 (《アヴィニョンの娘たち》のための習作)》 1907年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Adrien Didierjean / distributed by AMF


04 キュビスムの実験室

1906年頃からピカソは、イベリア美術やアフリ力美術から影響を受けつつ、対象を立方体のように単純化するキュビスムという新たな表現に取り組みます。ピカソは最初、テーブル、グラス、新聞、楽器などの日用品を主題としました。限られた色彩で抽象的に描かれた画面は主題の識別が難しいときもありますが、モノや装飾、あるいは身体など、かならず手がかりとなる細部が取り込まれています。

05 アッサンブラージュとコラージュ

ピカソは日用品を実践に組み込み、芸術は忠実に現実を再現するものだという規範に対抗します。木や大理石などに似た壁紙をカンヴァスに貼り付け(コラージュ)、現実の断片を直接作品に取り込んだのです。このアイデアは二次元にとどまらず、三次元の表現にも及びました。スプーンや自転車のサドルなどの日用品で作られた作品がアッサンブラージュです。

06 古典主義の画家

1910年代末から1920年代初頭にかけて、「秩序への回帰」という具象表現や古典的主題を復活させる風潮が芸術界に起こりました。こうした中で、1920年代にピカソはきわめて古典主義的な方法で、人物像を油彩とデッサンに描いています。妻でロシアのダンサーであったオルガ・コクローヴァや、息子パウロといった新しい家族がモデルに選ばれました。
パブロ・ピカソ《初聖体拝領者たち》1919年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn
(musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF
パブロ・ピカソ《アンドレ・ドランの肖像》1919年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Gabriel De Carvalho / distributed by AMF


07 子ども時代

ピカソはスペインでの幼少期に親しんだ闘牛やフラメンコ、パリのキャバレーやサーカスの鑑賞体験を通じて、生涯にわたり舞台芸術に深い関心を持ち続けました。特にアルルカン(道化師)には自身を投影し、多くの作品の主題となりました。オルガ・コクローヴァとの息子パウロがアルルカンに扮した作品や、マリー=テレーズ・ワルテルとの娘マヤを描いた作品などを紹介します。
パブロ・ピカソ《アルルカンに扮したパウロ》1924年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF
パブロ・ピカソ《トラックの玩具で遊ぶ子ども》1953年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF

08 闘牛

ピカソは生涯を通じて闘牛を重要なテーマとし、その力強さに焦点を当て続けました。1930年代には牡牛が馬や闘牛士を襲う激しく悲劇的な瞬間を好んで描き、闘牛場を生と死、あるいは性と死が交錯する象徴的な劇場として表現しました。一方、ヴァロリスに滞在した戦後に制作した軽快な筆致の版画の連作〈ラ・タウロマキア〉では、闘牛の儀式の躍動感や祝祭性を巧みに捉えています。
パブロ・ピカソ《コリーダ:闘牛士の死》1933年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


09 ストライプ

1930年代にピカソはストライプ模様を実験的に用いて、愛する女性たちの肖像を描きました。柔らかな曲線とパステル調の色彩で描かれたマリー=テレーズ・ワルテルは官能性と安らぎを象徴し、鋭角的な形と暖色で描かれたドラ・マールは強い存在感を示していました。しかし、スペイン内戦やファシズムの影が忍び寄ると、連作〈泣く女〉に代表されるように、戦争の苦しみや絶望を投影した哀愁的な表現へと変容します。
パブロ・ピカソ《読書》1932年、パリ国立ピカソ美術館
コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


10 戦時中

ピカソはスペイン内戦から第二次世界大戦にかけて、ファシズムや抑圧への抵抗を続けました。大作《ゲルニカ》(1937)は蛮行に対する告発の象徴です。ナチス占領下のパリで、不安と窮乏の中で、彼は「死」や「飢え」を暗示する作品を制作しました。肖像画では人体が歪められ、生者と死者が混ざり合うような非人間性を強調し、静物画では動物の死骸や頭蓋骨を暗い色調で描き人間の虚しさを表現しました。
パブロ・ピカソ《室内のフクロウ》1946年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト
GrandPalaisRmn(musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


11一点もの

ピカソは1940年代後半、南仏のヴァロリスに定住し、陶芸に没頭しました。主にマドゥラエ房で制作された数千点に及ぶ作品は、水差しや皿に、女神、鳥、動物、闘牛士のモティーフを、ユーモア溢れる方法で施しました。熟練の職人と協力した、絵画、彫刻、工芸の境界を曖昧にした陶芸の実験は、晩年の芸術活動において喜びと生命力に満ちた中心的な役割を果たしました。
パブロ・ピカソ《表面に牧神の頭、裏面に花が装飾された長方形の陶器の皿》1948年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn
(musée national Picasso-Paris)/ Adrien Didierjean / distributed by AMF


12 《草上の昼食》

1950年代、ピカソは西洋美術の巨匠エドゥアール・マネの絵画《草上の昼食》(1863)の再解釈に取り組みました。27点の絵画や約140点のデッサンを含むこの連作において、彼は古典的な構図を解体し、人物の配置やポーズを大胆に変容し、絵画の平面性と装飾性を追求しました。この探求は三次元へと広がり、厚紙の模型をコンクリートで巨大化させた彫刻作品へと結実します。
パブロ・ピカソ《草上の昼食(マネに基づく)》1960年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn(musée national Picasso-Paris) / Mathieu Rabeau / distributed by AMF


13 ピカソのボーダーシャツ

メディアで彼のイメージが本格的に固まったのは報道写真が興隆をきわめ、テレビが登場した第二次世界大戦後のことでした。すなわち白髪の薄い頭でボーダーシャツを着た男性、というイメージです。このイメージを決定的なものとした写真家ロベール・ドアノーによるポートレートは、ピカソが南仏のカンヌやヴァロリスで陶芸に熱中していたころに撮影されました。

14 晩年:1969—1972

ピカソは 1961年以後、南仏ムージャンで過ごし、ここでも精力的に絵画や版画の制作を続けました。最晩年の並外れた創造性と生産性は大きな特徴です。このころ彼は、以前よりも筆の動きが自由になり、人物像を好んで主題に取り上げました。晩年の作品でも衰えを見せない技量を見せつけ、これらの絵画は新世代の画家たちにも大きな影響を与えました。

15 展覧会のピカソ

ピカソのキャリアにおいて、数々の展覧会は彼の名声を世界的なものにする重要な役割を果たしました。1901年のパリでの初個展から、晩年の1970年のアヴィニョンでの大規模な個展に至るまで、展覧会ポスターは街中に掲げられることで芸術活動を大衆へ開放する役割を担いました。「ポスターの集積」に着想を得たスミスは、ピカソの膨大なエネルギーを象徴する展示空間を創出しました。


パブロ・ピカソ《ポンポン帽子と柄ブラウスを着た女の肖像》1962年、パリ国立ピカソ美術館 コピーライト GrandPalaisRmn (musée national Picasso-Paris) / Adrien Didierjean / distributed by AMF
https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/picasso_paulsmith/
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国立新美術館
2026年6月10日(水) ~ 2026年9月21日(月・祝)
休館日:毎週火曜日
*ただし8月11日(火・祝)は開館、8月12日(水)は休館

2026年5月27日 (水)

伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム・・・阿弥陀如来立像、慶俊作

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第436回

皿井舞、先生のギャラリートーク、専修寺の悉皆調査、研究、展示の模様を聴く。闇の中から14歳で留学した近衛篤麿の弟、堯猷上人の面影が蘇る。 阿弥陀如来立像(御対面所本尊) 慶俊 木造 金泥塗り・切金 玉眼嵌入 鎌倉時代・延応2年(1240)専修寺蔵、運慶の弟子の作である。
近衛篤麿の弟:常磐井鶴松(堯猷上人)、近衛忠房の三男として生まれた。14歳でドイツ留学。
小学校を終えた後、1885年ドイツに留学した。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事、哲学、梵文学を専攻、イギリスなど、欧州各国を歴巡。帰国後京都帝大文学部教授となり、梵語を教えた。
将軍、家茂の婚礼の夫婦鳳凰は、『鳳凰石竹図』林良筆、明時代、16世紀を思い出す。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
――
霞会館記念学習院ミュージアム(東京都豊島区目白1-5-1)にて、特別企画「伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化」展を2026年5月22日(金)より6月13日(土)まで開催いたします。専修寺(せんじゅじ)は三重県津市に所在する真宗高田派の本山です。本展では、学習院大学文学部哲学科(美術史学専攻)が実施中の調査によって見出された新発見の美術工芸品などを通じて、門跡寺院が育んできた豊かな文化の一端をご紹介します。
学習院大学文学部哲学科(美術史学専攻)では、令和5年(2023)よりこれまで5回にわたり美術工芸品の悉皆調査を行ってまいりました。本展では、さまざまな文化が交わる結節点としての門跡寺院の姿を示す、選りすぐりの作品をご紹介いたします。
専修寺(せんじゅじ)
日本寺院で5番目の規模
三重県津市一身田町にある真宗高田派の本山・専修寺は、「高田本山」の名で親しまれる伊勢の名刹です。 親鸞聖人の教えを受け継ぐ全国約600カ寺の中心寺院で、伊勢国内の拠点として創建され、関東の本寺焼失後に本山として定着しました。
約三万坪の史跡指定の境内には、国宝の如来堂・御影堂をはじめ多くの文化財が立ち並び、伽藍と門前町が一体となった宗教都市的景観を今に伝えています。
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★★★★★
参考文献
伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム・・・阿弥陀如来立像、慶俊作
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-3876dc.html
相国寺展、金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史・・・伊藤若冲「旭日鳳凰図」、円山応挙『牡丹孔雀図』
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-b12f39.html
★★★★★
展示作品の一部
阿弥陀如来立像(御対面所本尊) 慶俊 木造 金泥塗り・切金 玉眼嵌入 鎌倉時代・延応2年(1240)専修寺蔵 
桐鳳凰蒔絵書棚、木胎 漆塗・蒔絵 江戸時代後期・1850年代
将軍、家茂の婚姻を祝う調度、近衛家から専修寺に伝わる。鳳凰の夫婦が天板に造形されている。
透彫双耳三足香炉 薩摩焼 陶胎 明治時代~大正時代・19~20世紀 昭憲皇太后御遺品
専修寺蔵
常磐井鶴松(堯猷上人)像 中丸精十郎、カンヴァス 油彩 明治19年(1886)
常磐井 堯猷(ときわい ぎょうゆう、明治5年3月15日(1872年4月22日)[1] - 昭和26年(1951年)1月27日)は、明治から昭和期にかけての僧侶、梵語学者、真宗高田派管長。
――
常磐井 堯猷(ときわい ぎょうゆう、近衛 篤麿 (このえ あつまろ)の弟 経歴
近衛忠房の三男として生まれた。小学校を終えた後、1885年ドイツに留学した。シュトラスブルク大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事、哲学、梵文学を専攻、イギリスなど、欧州各国を歴巡。帰国後京都帝大文学部教授となり、梵語を教えた。1913年(大正2年)、養父堯煕(叔父でもある)の後を受け真宗高田派管長となり、6年後、男爵を襲爵した。また、帝国東洋学会の創設者でもあり、生涯梵文学研究を続け「梵語辞典」(全11巻を刊行した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E4%BA%95%E5%A0%AF%E7%8C%B7 

近衛 篤麿(このえ あつまろ、旧字体: 近󠄁衞 篤麿󠄁、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月2日[1])は、明治時代の日本の政治家。五摂家筆頭・近衛家第29代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲二等公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長などを歴任した。号は霞山。
経歴
生い立ち
文久3年(1863年)6月26日、左大臣・近衛忠房の長男として京都に生まれた。母は島津斉彬養女(島津久長の娘)光子とされているが、島津家の資料では「光蘭夫人(光子)篤麿養母」と記載されている[2]。明治6年(1873年)父が家督を継いだ[3]翌月に35歳で病没したため、祖父近衛忠煕の養子となり家督を相続した(文献によっては忠煕九男と記載)。
明治12年(1879年)に大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされ、京都へ戻った[4]。以後、和漢に加え英語を独学。明治17年(1884年)、華族令制定に伴い公爵に叙せられる。翌明治18年(1885年)に伊藤博文の勧めでドイツ・オーストリアの両国に留学し、ボン大学及びライプツィヒ大学に学んだ[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
細川護熙は、近衛篤麿の曽孫
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伊勢の名刹 専修寺 -寺宝からみる公家文化、学習院ミュージアム、2026年5月22日(金)~2026年6月13日(土)
霞会館記念学習院ミュージアム(東京都豊島区目白1-5-1)
https://www.artpr.jp/gakushuin-museum/senjuji2026

2026年5月18日 (月)

大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬

Gogh-ueno-2026
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第435回

【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホは、画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をする。ついに天職を見つけた。1883年、両親の住むニューネンに移る。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》。ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーの影響を受ける。1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めで、パリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接な関係をもつ。モネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影に最も刺激を受ける。
1888年2月、アルルに向かう。陽光にあふれた南仏に憧れを抱いたファン・ゴッホ。色彩を駆使する芸術家。15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残した。
1888年12月、(35歳)「耳切り事件」、ゴーガンは2か月でアルルを去る。
1890年7月29日。ゴッホが亡くなった、その2日前のピストル自殺未遂が死因とされている。
【終焉の地、オーヴェール・シュル・オワーズ】70日間、1890年5月20日から7月29日までの間に彼は油彩73点、デッサン33点を残した。
【ゴッホ、5つの時代】
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動は10年。1、オランダ時代、バルビゾン派、ハーグ派1880-1885、2、パリ時代 1986-1987、3,アルル時代 1988、4、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889、5、オーヴェール・シュル・オワーズ1890。
【ゴッホ、糸杉】
【ゴッホ《星月夜》《糸杉のある麦畑》(1889)《糸杉と星の見える道》(1890)】ゴッホ『糸杉』はすべて、サン・レミ・ド・プロヴァンス1889で描かれた。
【宮澤賢治とゴッホ】
【宮澤賢治『春と修羅』序(1924】
宮澤賢治は、なぜ、ZYPRESSEN「春と修羅」と書いたのか。詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922年4月8日)、『春と修羅』序(1924年1月20日)。阿修羅は仏教に帰依し、他の諸天とともに仏教を守護する眷属となった。興福寺、国宝「阿修羅像」。
大正八年八月(1919)の歌稿に『ゴオホサイプレスの歌』二首がある。
サイプレス/忿(いか)りは燃えて/天雲のうづ巻をさへ灼(や)かんとすなり
天雲の/わめきの中に湧きいでて/いらだち燃ゆる/サイプレスかも
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
大ゴッホ展 夜のカフェテラス・・・星空への憧憬
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2026/05/post-92436b.html
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」・・・フィンセント、弟テオ、ヨー、フィンセント・ウィレム、100年の物語
http://mediterranean.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-21672e.html
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント・・・糸杉と星の道、種をまく人
https://bit.ly/2W3o6RF
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展示作品の一部
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
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プレスリリースより
世界中で愛される画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)。画家としての活動はわずか10年ほどでしたが、彼が残した多くの作品と手紙から、苦悩に満ちた人生に立ち向かい、芸術へと昇華させる姿を見て取ることができます。
生前ほとんど評価されなかったファン・ゴッホにいち早く注目し、作品の収集に取り組んだのが、オランダのクレラー=ミュラー美術館の創設者、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869-1939)でした。2回にわたり開催する「大ゴッホ展」は、すべて同館の所蔵作品で構成されます。このたびの第1期では、バルビゾン派やハーグ派の影響を受けた草創期のオランダ時代に始まり、印象派を中心とする画家たちと交流したパリ時代を経て、南仏アルルで傑作《夜のカフェテラス(フォルム広場)》を描くに至るまでの、ファン・ゴッホの前半生に焦点を当てます。
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展覧会構成
第1章 バルビゾン派、ハーグ派1880-1885
初期のフィンセント・ファン・ゴッホに強い影響を与えたふたつの画派として、オランダのハーグ派、そしてバルビゾン派があります。ハーグ派とは、19世紀後半のオランダ・ハーグを中心に展開した自然主義的傾向の画派で、風景画や農民の生活を題材とした風俗画で知られています。バルビゾン派は、19世紀前半から中頃にフランスのパリ郊外にあるバルビゾン村周辺を拠点に広まったグループで、自然主義的・写実的な風景画、風俗画により、絵画芸術の新たな時代を作りました。
特にファン・ゴッホは、バルビゾン派の芸術が持つ宗教的精神性に惹かれていました。そして、バルビゾン派への関心からフランス美術、そしてフランス自体にも惹かれていくようになります。
本章では、ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスとバルビゾン派のミレーという両派を代表する画家の作品を紹介しながら、画家ファン・ゴッホの原点に迫ります。
ミレー(1814-1875)はフランスのバルビゾン派を代表する画家です。農民が黙々と働く姿をクローズアップして、彼らの実直で信仰心の篤い生活を農村の風景とともに描きました。本作ではたくましい体格の農婦が全身を使って今まさに竈にパンを入れようとしています。農民画家ミレーにファン・ゴッホは強く共感し、初期から晩年まで繰り返しその作品に倣い、モティーフを参照しました。
ヨーゼフ・イスラエルス《ユダヤ人の写本筆記者》1902年/クレラー=ミュラー美術館
イスラエルス(1824-1911)はオランダのハーグ派の中心的な存在で、ファン・ゴッホが画業の最初期に特に手本とした画家です。漁師や農民などの風俗的な主題のほか、ユダヤ教を背景とした宗教主題も多く描き、その画風には17世紀のレンブラント・ファン・レインの影響が色濃く表れています。本作のユダヤ人の書記の姿は、イスラエルスがモロッコのタンジールで目にした光景が出発点と言われています。
第2章 オランダ時代 1880-1885
1853年、オランダ南部のズンデルト村で牧師一家の長男として生まれたファン・ゴッホ。画廊勤務や伝道師の仕事を経て、27歳の頃に画家になる決心をします。決して早いスタートではありませんでしたが、ついに天職を見つけたのでした。教則本の模写から始め、ハーグに移住してからは従姉の夫で画家のマウフェからも指導を受けます。1883年、両親の住むニューネンに移ると、現地の風景や風俗、労働者の姿を描くことに没頭していきました。《白い帽子をかぶった女の頭部》や初期の代表作《じゃがいもを食べる人々》のリトグラフなどを通じて、画家として歩み始めたファン・ゴッホの姿を追います。
この作品にはファン・ゴッホが自宅の裏手を窓から眺めた光景が描かれています。1882年3月半ばから彼は叔父より風景画の注文を相次いで受けました。芸術家の道を歩み出してまだ1年半の彼は、この好機に光明を見つつも、注文主の期待に応えようと苦心しました。この時期に描かれた本作には、線遠近法を用いた構図で画面に臨場感が与えられ、画家の工夫が見受けれます。
フィンセント・ファン・ゴッホ/ジャガイモを食べる人たち/1885年/クレラー=ミュラー美術館
1885年4月頃、ファン・ゴッホはそれまでの集大成となる油彩画《じゃがいもを食べる人々》(ファン・ゴッホ美術館蔵)の制作に取りかかりました。本作はその習作の後に作られたリトグラフで、自信作のイメージを親しい人たちに伝えようと作られました。不慣れな版画制作を試みたものの、周囲の評価は「効果が不鮮明」「表面的」と厳しいものでした。高い技術力が求められる版画制作を経験し、画家は芸術において技巧よりも抒情性の表現を追求していくようになります。
ファン・ゴッホはニューネンの女性たちが日常的に被っていた白い帽子に興味をもち、帽子とその影になる顔の部分が「まさに明暗技法のような上質な色調をもたらしている」と手紙に書いています。この地に暮らした1883年12月から1885年11月までに、彼は農民の頭部を多数描くことで、明暗技法を研究していました。当時、闇の中に存在する光にこそ美があると考えていた彼は、モデルの顔や衣服の色調を整えてから背景の明暗を調整することで、暗い色調の中に表れる光の効果や奥行を表現しました。
第3章 パリの画家とファン・ゴッホ
1886年2月、パリで画商として活躍していた弟テオの勧めもあり、新たな刺激を求めてパリへやってきたファン・ゴッホは、ピサロ、トゥールーズ=ロートレック、ベルナールら同時代の画家たちと密接なコミュニケーションをする機会を得ます。彼らを通じてファン・ゴッホも印象派の表現から様々な影響を受けていきました。彼は特にモネの色彩感覚、ルノワールの色鮮やかな陰影とタッチ、セザンヌの構図や色彩表現の大胆な手法に関心を寄せました。ここでは、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌといった、印象派やその前後をつなぐ巨匠たちの絵画作品を紹介します。
ピエール=オーギュスト・ルノワール《カフェにて》1877年頃、油彩/カンヴァス、35.7×27.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
印象派の画家ルノワール(1841-1919)はパリや郊外で余暇を楽しむ若い男女の光景を描いて好評を博し、グループの中でも早くから評価された一人です。本作の中央には、テーブルに手をつき何かを熱心に見入るふたりの若い女性が描かれ、彼女らを背後から見つめるシルクハットを被った若い男性の姿もあります。常連モデルがポーズをとり、ルノワールは人物の表情や仕草を丁寧に描き出しています。後景は瞬間をとらえるような素早い筆致でまとめられ、カフェの活況が効果的に表現されています。
クロード・モネ《モネのアトリエ舟》1874年、油彩/カンヴァス、50.2×65.5cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作が制作された1874年、モネ(1840-1926)は仲間とともに印象派の第1回展を開催し、一瞬の光をとらえた絵画を発表していきました。本作は当時モネが拠点としていたアルジャントゥイユで描かれました。画面中央でセーヌ川に浮かぶ舟は、モネが小屋を乗せて水上の制作場所として使用していたアトリエ舟です。水面に反射する光の効果やそれまでにない視点を得られる舟上での制作をモネは気に入っていたようです。
カミーユ・ピサロ《虹、ポントワーズ》1877年、油彩/カンヴァス、52.9×81.5cm クレラー=ミュラー美術館
コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
親しみやすい人柄でファン・ゴッホとも親交のあったピサロ(1830-1903)。彼はイギリス滞在時に受けたターナーやコンスタブルの影響から、明るい色彩の田園風景を多く手がけました。本作が描かれたパリ郊外のポントワーズには1872年に居を構えました。前景の高台から見下ろされる中景部には、緑や茶色に整然と区切られた畑が広がります。はるか遠景に連なる丘陵は、空気遠近法的な景観の広がりを醸し出しています。初夏を思わせる湧雲の前に、鮮やかな虹がかかっています。本作は1877年の第3回印象派展に出品されました。
第4章 パリ時代 1986-1987
パリ時代のファン・ゴッホの絵画はたった2年の間に色調だけでなく筆触までも大きく発展しました。この変化はパリに移って数か月後、静物画に取り組んだ頃から顕著になりました。なかでも多彩な花々を集めた花束はさながら色彩表現の実験台でした。花の静物画を通じてファン・ゴッホは、鮮やかで強い色彩と彫刻的とも言える厚塗りの筆触を特徴とするモンティセリから深く影響を受けました。
この章ではファン・ゴッホがパリの前衛的な表現に触発されて明るい色彩と闊達な筆致を駆使するに至る過程を、風景画や静物画、自画像をとおして見ていきます。
ファン・ゴッホはパリ時代、人物画を描きたかったもののモデル代の捻出が難しく、代わりに自画像を多数描きました。その数はどの時期よりも多い25点にのぼりました。淡い色彩でまとめられた本作では、頭部は茶系にアクセントとして白や赤を用いて、短く細い筆致の連続で描き出されています。背景の緑と青の多様な筆致は、空間に奥行きを与えるとともに、画面全体を活気づけています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの丘》1886年4-5月、油彩/カンヴァス、38.1× 61.1cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
3台の風車と細長い農場の建物の下に農園が広がっています。のどかな光景が残るモンマルトルの丘で、ファン・ゴッホはテオと暮らしていました。風車というモティーフは、敬愛するコローや友人ポール・シニャックも描きましたが、直接的には雑誌の図版から着想を得たようです。画面の大半を大まかで素早い筆致が占める中、柵や旗などは繊細に描かれています。色彩と光の印象にも注意が向けられ、ファン・ゴッホの風景表現における変化が表れています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《レストランの室内》1887年夏、油彩/カンヴァス、45.5×56cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
本作はファン・ゴッホが新印象派の手法を最も鮮明にした作品の一つです。点描の筆遣いに加えて、コントラストを生む補色、すなわち壁の赤と緑、床の黄色とくすんだ紫、椅子のオレンジ色とテーブルクロスの青みが効果的に用いられています。ブルジョワジー向きのレストランに、当時彼らが好んだ黒いシルクハットも添えられ、モティーフの点でも印象主義が意識されています。
第5章 アルル時代 1988
「色彩豊かで陽光にあふれた南仏」に憧れを抱いたファン・ゴッホは、ついに1888年2月、アルルに向かいます。その素朴な風景や共同体的な生活は、彼が激しく憧れていた日本の浮世絵や近代以前の農村社会を思わせる「理想の場所」だったのです。
この地でファン・ゴッホは精力的に制作を行い、15か月足らずで約200点の油彩と100点以上の素描・水彩を残します。アルル時代の鮮やかな色彩の対比を活かした油彩表現は、ファン・ゴッホ独自のスタイルとして花開きました。《夜のカフェテラス(フォルム広場)》に象徴されるように、色彩を駆使する芸術家としての進路を自覚したファン・ゴッホ。新しい表現に目覚めた喜びが満ちるアルル時代の傑作で、本展の最後を締めくくります。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮時の刈り込まれた柳》1888年3月、油彩/厚紙に貼ったカンヴァス、31.6×34.3cm クレラー=ミュラー美術館コピーライト Collection Kröller-Müller Museum, Otterlo, the Netherlands. Photography by Rik Klein Gotink
黄色、オレンジ、赤、青といった鮮やかな色彩とさまざまな筆致を駆使して、柳の木々が夕陽に照らされる光景が描かれています。柳は葦などが生える草地に立ち並び、遠方の青色の層は山脈または運河と思われます。大きな夕陽が秋の情景を思わせることから、本作は1888年10月に制作されたものと長く考えられてきましたが、柳には新芽が芽吹き、葦の描写には同年3月の作品との類似が認められています。
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月、油彩クレラー=ミュラー美術館
本作の構図は同時代画家による街頭風景や日本の浮世絵などからヒントを得た可能性があります。またそれ以上に制作動機として重要なのは、ファン・ゴッホの星空への憧憬です。彼は愛読したモーパッサンの小説『ベラミ』に現われる星空、あるいは1888年6月初めに地中海の浜辺で見た色彩豊かな星空に刺激を受けてその絵画化に取り組みました。同年9月中旬、彼はアルルのフォルム広場で夜中に本作を描きました。カフェテラスのガス灯の明かりは、鮮やかなコバルトブルーを背景に、輝く星々の美しさを際立たせています。
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大ゴッホ展 夜のカフェテラス、、上野の森美術館。5月29日(金)~8月12日(水)
上野の森美術館(東京都台東区上野公園1-2)
2026年5月29日(金)~8月12日(水)

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