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2022年6月23日 (木)

孤高の画家、フリードリヒ、ロマン主義、崇高なる自然と人間

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』283回

雲海の上の旅人は彼方へ旅する。樫の森の中の僧院、孤独な木、夕暮れの丘、月を眺める哲学者、海辺の月の出、海辺の5隻の帆船、地中海の果て、孤高の古代神殿に蘇る、孤高の精神、旅する哲学者、美への旅。
【カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ、孤高の画家、ドイツ・ロマン主義、65歳で死す】37歳1810「樫の森の中の僧院」「海辺の僧侶」プロイセン王国王子が購入。ベルリンアカデミー会員。1818、44歳、25歳のカロリーネと結婚。51歳1825年61歳1835脳卒中。「人生の諸段階」1835
【運命の扉1810年、フリードリヒ、37歳】「樫の森の中の僧院」「海辺の僧侶」、ベルリン美術アカデミー展にて、プロイセン王国王子(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)が購入。ベルリンアカデミー会員となる。ゲーテとロマン派の詩人たち、ドレスデンにフリードリヒを訪れる。2枚の絵を絶賛する。
【ロマン主義、孤高の画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ1774-1840】寂莫な風景、朝日、月光、夕日、海、浜辺、雪景色、教会の墓地、荒野、森の急流、渓谷。『山上の十字架』1808『海辺の修道士』『樫の森の中の修道院』1810『雲海の上の旅人』『孤独な木』『海辺の月の出』1822『氷の海』1824『人生の諸段階』1835
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【『孤独な木』『海辺の月の出』1822】『孤独な木』、孤独な木と木の下に佇む羊飼い、独り雄々しく天に向かって聳える樫の木の英雄的佇まい、背後の山と空の崇高な無限。『海辺の月の出』、月の出に見入る男女、海上の旅を終え、岸辺に帰り来る帆船、人生航路の果てに、安らぎを見出した人間の魂、瞑想的人生。この二幅の絵画は、朝日と夕月の対比、ベルリンの注文主のために制作された。
【内なる闇の藝術】「肉体の限界を閉じよ。そうすればまず最初に精神の眼で自分の絵を見ることができるだろう。そうして次には、暗闇で見たものを白日のもとに表現するのだ。そうすれば、その作品は外側から人々の内奥に向かって作用することだろう」。
【友とライバル】1818年にドレスデンに移ってきたノルウェーの画家ヨハン・クリスティアン・ダール。ダールと友人になる。ダールは1824年ドレスデン・アカデミーの風景画の教授として迎えられた。
【「人生の諸階段」1835】海辺に佇む5人と海上の5隻の帆船、航海から帰ってきたのか、これから出帆するのか。一組の男女、二人の子供たち、一人の友人。5人の人物はフリードリヒ本人とその家族、湾に向かって静かに進む5隻の船が彼らに呼応。人生の航路を比喩的に描いた。ヴィークのウトキーク海岸は、グライフスヴァルト港に入港する船。旅の終わりは、地中海を航海し、南イタリアに到達する。輪廻転生する。
【ベルリン博物館、ボーデ美術館(旧カイザー・フリードリヒ美術館)、プロイセン王国】ベルリン郊外のダーレムにある総合博物館。絵画館のほかエジプトやイスラム関係、彫刻や工芸関係、版画文庫などの各個別美術館を総称して呼ぶ。
最も有名な絵画館はプロイセンの哲人王フリードリヒ大王(1712年1月24日⁻1786年8月17日74歳没)の収集をもとに1830年設立されたボーデ美術館(旧カイザー・フリードリヒ美術館)、中世から19世紀にいたるヨーロッパ美術の大家の作品を集める。
カール・フリードリヒ・シンケルが、ベルリン博物館を設計した。新古典主義様式で建てられた旧博物館は、18本の円柱が並ぶ正面玄関が印象的で、シンケルの代表的建築物の一つ。博物館内部に入ると円形のロビーがあり、装飾天井や天窓、ホールを囲むように円柱と彫刻があり、その美しさに圧倒される。古代ギリシア、ローマの彫刻が展示されている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★★カスパー・ダヴィット・フリードリヒの生涯(1774年-1840年)
1774年、カスパー・ダヴィット・フリードリヒ、バルト海沿岸、スウェーデン領ドイツの最北端グライフスヴァルトにて生まれた。石鹸・蝋燭業を営む父の4男。9人兄弟。
1781年、7歳の時、母ゾフィー・ドロテア、死去。1782年、妹エリーザベト死去。
1787年、13歳の時、河でスケート遊びをしていたところ、氷が割れて溺れ、彼を助けようとした一歳年下の弟クリストファーが溺死。フリードリヒはこの事故で長年自分を責め続け、鬱病を患った。
1794年、コペンハーゲンの美術アカデミーに入学。その後、ドレスデンに転居、美術アカデミーに在籍する。
1799年、ドレスデン美術アカデミー展に出品。
1805年、ゲーテ主催のヴァイマル美術展に作品を出品、受賞する。
1807年、油彩での本格的な制作を始める。ボヘミアへ旅行。
1808年、『山上の十字架』。高い評価を受ける。祭壇画「山上の十字架」、岩は堅固な信仰、常緑樹である樅の木は人間の永遠の希望を象徴している。
1810年、ベルリン美術アカデミー展、出展。ゲーテとロマン派詩人の激賞を受ける。『海辺の修道士』『樫の森の中の修道院』がプロイセン王子(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)に買い上げられる。ベルリン美術アカデミーの会員になる。
1813年、ナポレオン軍と連合軍の戦いのため疎開。
1814年、ナポレオンが退位。愛国的作品をドレスデン美術展に出品。
1816年、ドレスデン美術アカデミーの会員に選出される。
1818年、19歳年下のカロリーネと結婚。妻と帰郷。シュトラールズント市から依頼された聖母教会の内装デザインを作る。『雲海の上の旅人』。
1822年、『孤独な木』『海辺の月の出』
1824年、『氷の海』。
1825-28年、51歳、脳卒中。重病を患う。
1833年、批判的な批評が増える。
1835年、脳卒中で倒れ、一命は取り留めるが、後遺症として麻痺が残る。以降はセピアインクによる線画を中心に描く。『人生の諸段階』1835
1836年、デュッセルドルフ派の展覧会に出品
1840年、死去。65歳
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カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ(1774年-1840年)
『山上の十字架』1808ドレスデン国立美術館
『海辺の修道士』『樫の森の中の修道院』1810ベルリン博物館
『雲海の上の旅人』1818ハンブルク美術館
『月を眺める二人の男』1819ドレスデン国立美術館
『雪の中の修道院墓地』1819 Friedlich Klosterruine im Schnee 1819
『孤独な木』『海辺の月の出』1822ベルリン博物館
『窓辺の女』1822ベルリン博物館
『氷の海』1824ハンブルク美術館
「アグリジェントのユーノー神殿」1830
『人生の諸段階』1835ライプツィヒ美術館
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★参考文献
Caspar David Friedrich - Wikipedia
Caspar David Friedrich (5 September 1774 – 7 May 1840) was a 19th-century German Romantic landscape painter, generally considered the most important German
https://en.wikipedia.org/wiki/Caspar_David_Friedrich
*1千足伸行「ロマン主義絵画と聖なるもの」p.213
ノルベルト・ヴォルフ『カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ 静寂の画家1774-1840』2006
「ベルリンの至宝展 よみがえる美の聖域」図録、東京国立博物館2005
千足伸行「ロマン主義絵画と聖なるもの」2005
後藤健「古代人は「聖なるもの」をどう感じ表現したか」2005
マリオ・プラーツ『ロマンティック・アゴニー』MarioPraz.RomanticAgony.1933、ロマン派から象徴派、世紀末デカダン派にいたるヨーロッパ藝術
「象徴派の絵画 」中山 公男、高階 秀爾【編】朝日新聞出版1992
ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり
https://bit.ly/3O4fq3d
「シャセリオー展」国立西洋美術館
https://t.co/eUkZk1RfaW
ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝絵画の夢・・・愛と美の深淵
https://bit.ly/2MGcs9l
自然と人のダイアローグ、国立西洋美術館、彼方への旅 
https://bit.ly/3mv4SOc 
白井晟一・・・孤立の城、荒野の礼拝堂、ロマン主義建築家の反逆
https://bit.ly/3rZzIAY
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW

孤高の画家、フリードリヒ、ロマン主義、崇高なる自然と人間

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自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅
https://bit.ly/3mv4SOc

2022年6月17日 (金)

ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』282回

ギリシア人は神々の滅びる時代に人間の姿、形の美しさを頂点にまで高め、ルネサンス人は中世キリスト教が衰亡した時代に歴史的絵画の頂点を極め、あらゆる宗教の終焉の時代18世紀末にロマン主義が現れ19世紀風景画が現れた。*1
ロマン主義は、18世紀の新古典主義に対する反抗から生まれ、古典の美、ルネサンスの美を理想とする美術への反抗、理性に対する感情の反抗である。風景の美、自然の美、理性に対する感情の美、風景画、中世の美、ラファエロ以前の藝術、ラファエロ前派、象徴派、運命の女(ファム・ファタル)の探求へと展開する。ウィリアム・ブレイク(1757-1827)は、神秘的詩人であり、カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ(1774-1840)は、絵筆をもつ神秘主義者と呼ばれる。フリードリヒ『雲海の上の旅人』1818は、魂の旅人、この世の果てへの旅人である。
人は、古代の美、ルネサンスの調和の美に魅かれるとともに、ウィリアム・ブレイク、フリードリヒの美に魅かれる。ロマン主義は、古代、ルネサンスの美、古典主義の美と同じ根源から生じる。カール・フリードリヒ・シンケルの新古典主義は、ロマン主義と同じ源泉から生まれる。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★ロマン主義、文学と美術
ロマン主義の先駆は、ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757-1827)である。
ロマン主義は、18世紀の新古典主義に対する反抗から生まれ、ギリシアの美、ルネサンスの美を理想とする美術への反抗、理性に対する感情の反抗である。ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix, 1798-1863) 『民衆を導く自由の女神』1830年『キオス島の虐殺』1824年、『(第四回)十字軍のコンスタンティノープルへの入城』1841年。テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824) 『メデューズ号の筏』1818-19年が絵画におけるロマン主義の代表作である。
ゲーテ、シラーにより疾風怒濤時代(シュトゥルム・ウント・ドランク)、理性・啓蒙中心の古典的文学に対する、感情・情熱の優越を旨とする文学運動が起り、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』1796が書かれた。アウグスト・フリードリヒ・シュレーゲル兄弟は、ドイツ・ロマン派の文芸機関誌『アテネウム』全3巻6冊(1798-1800)を刊行した。カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ『雲海の上の旅人』1818。
イギリスのロマン主義は、ウィリアム・ブレイクに始まり、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、『海の釣り人』1796年、『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』1839年。ラファエロ前派、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイ、へと展開する。
スペイン、ロマン主義絵画の代表作は、フランシスコ・デ・ゴヤ『マドリード1808年5月3日』1814年、
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【マリオ・プラーツ『ロマンティック・アゴニー』1933】ロマン派から象徴派、世紀末デカダン派にいたるヨーロッパ藝術。イタリアの美術史家プラーツ(Mario Praz1896-1982)が、ロマン派から世紀末デカダン派にいたるヨーロッパ19世紀藝術の「退廃の美学」「運命の女(ファム・ファタル)の美学」「腐敗と苦痛の美学」「薄明の美学」を、博引旁証のうちに論じ尽した名著。
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★ロマン派の詩人、ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757-1827)
『無垢と経験の歌』1787年
ウィリアム・ブレイク「毒のある木」寿岳文章訳 William Blake, Poison Tree
私は私の敵に腹を立てた 私は黙っていた 私の怒りはつのった そして私はそれに恐怖の水をかけ 夜も昼も私の涙をそそいだ そして私はそれを微笑みの陽にあて 口あたりのよい欺瞞の肥料で育てた
「毒のある木」は、密教の呪詛調伏、怨敵調伏の真言である。
「一粒の砂の中に世界を見、一輪の花に天国を見るために。掌で無限を握り、一瞬のうちに永遠を掴め。」ウィリアム・ブレイク William Blake詩集『ピカリング草稿』『無垢の予兆』よりAuguries of Innocenceウィリアム・ブレイク
【死生学】一粒の砂の中に世界を見、一輪の花に天国を見るために。掌で無限を握り、一瞬のうちに永遠を掴め。ウィリアム・ブレイク William Blake詩集『ピカリング草稿』。
「無垢の予兆」Auguries of Innocence
To see a World in a grain of sand,And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,And Eternity in an hour.
詩人は1803年、John Schofieldという兵隊と口論になり、国家扇動罪(seditious statements)を行ったとして裁判にかけられる。勝訴するが、詩人に大きく影響した。難解な表現をすることで攻撃的な思想を隠す独自の表現技法を確立。歓喜に充ち溢れる生命を讃える「無心の歌」、無垢を喪失した悲しみの世界を描く「経験の歌」、そして呪縛からの解放を歌う「天国と地獄との結婚」。ブレイク初期の傑作三詩集。
ウィリアム・ブレイク、寿学文章訳『有心の歌、無心の歌』角川文庫
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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★【青い花の乙女を求める旅】ドイツ・ロマン主義の詩人、ノヴァーリス(1772-1801)『青い花』Heinrich von Ofterdingen(1802)
ハインリヒは、ある夜、自分の家に泊まった旅人から不思議な「青い花」の話を聞き、憧れを抱く。その夜、夢の中に青い花が現われ、その花がいつのまにか優しい乙女の姿に変わる。
ハインリヒは、母とともに祖父のもとを訪れるために、アウクスブルクへ旅立つ。道々、同行の人から、物語や詩の話を聞き、ハインリヒにも詩心が目ざめる。一行は十字軍の騎士の居城で、東洋から捕虜として連れて来られた美少女トゥリーマの話を聞き、戦争の悲惨さやむなしさを知ると同時に、未知の世界、東洋に心を惹かれる。
また、洞窟に住む隠者ホーエンツォレルン伯を訪ねたハインリヒは、自分の過去・現在・未来の姿について書かれている書物を見せてもらい、驚く。
目的地のアウクスブルクに着いたハインリヒは、祖父の家で、老詩人のクリングゾールと、その娘の「昇る太陽に傾く百合」のようなマティルデに会う。彼女の顔は、かつて夢に見た、青い花の乙女とそっくりであった。ハインリヒはマティルデに愛を告白し、二人は婚約する。だが、その夜、彼は不吉な夢を見る。夢の中で、マティルデは舟をこいでいる。彼女は突然水に落ち、溺れそうになる。マティルデを救おうとした彼も溺れてしまうのである。ところが、不幸にしてこの夢は現実となって、マティルデは川で溺死してしまう。
愛する人を失ったハインリヒは、巡礼者となってさまよい歩く。ある日、山深い森の中で悲しみに沈んでいると、ふとマティルデの声が聞こえた。その声は、ハインリヒに琴を弾くように勧める。琴を弾けば、ひとりの少女が姿を現わすというのである。そこで琴を弾くと、少女ツァーネが現われる。ツァーネに誘われて森の中の彼女の家に行った彼は、そこで死者たちの世界を訪れる。
やがて、死の国を出て、現実の世界にもどったハインリヒは、イタリアに旅行したり、戦乱に身を投じたり、ギリシアを訪ねたり、あるいは東洋に渡って詩と神秘とを学んだりする。こうして、さまざまな経験を積んだのち、ドイツに帰って華やかな宮廷生活に入った彼は、皇帝の信任も厚く、詩人として輝かしい栄誉を受ける。
「ドイツ文学案内」(朝日出版社)
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★参考文献
*1千足伸行「ロマン主義絵画と聖なるもの」p.213
ノルベルト・ヴォルフ『カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ 静寂の画家1774-1840』2006
「ベルリンの至宝展 よみがえる美の聖域」図録、東京国立博物館2005
千足伸行「ロマン主義絵画と聖なるもの」2005
後藤健「古代人は「聖なるもの」をどう感じ表現したか」2005
マリオ・プラーツ『ロマンティック・アゴニー』MarioPraz.RomanticAgony.1933、ロマン派から象徴派、世紀末デカダン派にいたるヨーロッパ藝術
「象徴派の絵画 」中山 公男、高階 秀爾【編】朝日新聞出版1992
「シャセリオー展」国立西洋美術館
https://t.co/eUkZk1RfaW
ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝絵画の夢・・・愛と美の深淵
https://bit.ly/2MGcs9l
白井晟一・・・孤立の城、荒野の礼拝堂、ロマン主義建築家の反逆
https://bit.ly/3rZzIAY
自然と人のダイアローグ、国立西洋美術館、彼方への旅 
https://bit.ly/3mv4SOc 
孤高の思想家と藝術家の苦悩、孫崎享×大久保正雄『藝術対談、美と復讐』
https://bit.ly/2AxsN84

ロマン主義の愛と苦悩・・・ロマン派から象徴派、美は乱調にあり

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自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅
https://bit.ly/3mv4SOc

2022年6月 8日 (水)

自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』281回

紫陽花咲く、丘を歩いて、美術館に行く。国立西洋美術館、2年間の休館を経て再開した。初夏の匂いが森に満ちている。
【藝術家と運命の戦い】印象派の画家は、光り輝く絵画を描いた。しかし、壮絶な人生を生きた。藝術家と運命の戦い。光陰の中から、運命の女神があらわれ、藝術家を救う。
ロマン主義の画家、フリードリヒは、家族の死、貧困、病気に苦悩した。フリードリヒは、見える世界の彼方に、見えない理想を探求した。月光、夕日、海、浜辺、雪景色、教会の墓地、荒野、森の急流、渓谷、古代の神殿、樫の森の修道院、雪の中の墓地、夕闇の門、その彼方にあるものは何か。
【リアリズムの世紀、アンチリアリズムの世紀】
19世紀はリアリズムの世紀であり、20世紀はアンチリアリズムの世紀である。アンチリアリズムの潮流は、ロマン主義、象徴派として展開する。ラファエル前派はロマン主義の潮流である。「自然と人のダイアローグ」は、19世紀から始まる、風景画の歴史を辿る。第Ⅱ章「彼方」への旅は、アンチリアリズムの淵源、展開を思い出すことができる。
19世紀、古典主義への反抗からロマン主義が生まれ、風景画への志向から写実主義と印象派が生まれ、印象派への反抗から象徴派が生まれる。
【彼方への旅】
彼方への旅は、この世の果て、幻想の世界への旅、古代への旅、心の闇への旅、幻の美女への旅、である。フリードリヒは、アンチリアリズムの世紀の源泉の一つである。
フリードリヒは、象徴的な風景を描いた。月光、夕日、海、浜辺、雪景色、教会の墓地、荒野、森の急流、渓谷、古代の神殿、樫の森の修道院、雪の中の墓地、夕闇の門、その風景は宗教的象徴を秘めている。神秘への入り口である。彼方にあるものは、美と崇高である。
【花吹雪】家の庭に、母が植えた木の花が咲き、風に吹かれて、花吹雪となって、庭に舞う。母の愛犬、トイプードル、高校時代から大学院まで、私を守ってくれたのを思い出す。「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」。私は何を残すことができるのか。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ、夕日の前に立つ女性、1818年
カール・フリードリヒ・シンケル、ビヘルスビルダー近郊の風景、1814年
ヨハン・クリスチャン・クラウゼン・ダール、ピルニッツ城の眺め、1823年
カール・グスタフ・カールス、高き山々、1824年
ギュスターヴ・ドレ、松の樹々、1850年
ギュスターヴ・クールベ、波、1870年
テオドール・シャセリオー、アクタイオンに驚くディアナ、1840年
アルノルト・ベックリン、海辺の城、城の中の殺人、1859年
ギュスターヴ・モロー、聖なる象、1882年
オディロン・ルドン、聖アントワーヌの誘惑、1888年
ポール・ゴーガン、『ノアノア』マナオ・トゥパパウ、死霊が見ている、1893-94年
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展示作品の一部
ウジェーヌ・ブーダン《トルーヴィルの浜》1867年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館
 ウジェーヌ・ブーダンは、ノルマンディーの港町で生まれ、ルアーブルで海辺の風景を描いた。印象派の先駆と呼ばれる。若きクロード・モネ、クールベ、らに影響を与えた。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《夕日の前に立つ女性》1818年頃 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール《ピルニッツ城の眺め》1823年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館
コピーライト Museum Folkwang, Essen
ポール・セザンヌ《ベルヴュの館と鳩小屋》1890-1892年頃 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
フィンセント・ファン・ゴッホ《刈り入れ(刈り入れをする人のいるサン゠ポール病院裏の麦畑)》1889年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
ポール・ゴーガン《扇を持つ娘》1902年、油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
フェルディナント・ホドラー《モンタナ湖から眺めたヴァイスホルン》1915年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Museum Folkwang, Essen
クロード・モネ《舟遊び》1870、国立西洋美術館
ゲルハルト・リヒター《雲》1970年 油彩・カンヴァス フォルクヴァング美術館コピーライト Gerhard Richter 2022 (13012022) コピーライト Museum Folkwang, Essen
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参考文献
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」パナソニック汐留美術館・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
「1894 Visions ルドン、ロートレック展」・・・世紀末の印象派と象徴派、ロマン主義の苦悶
https://bit.ly/3pw5x2g
ゴッホ展―響きあう魂 ヘレーネとフィンセント、東京都美術館
https://bit.ly/2W3o6RF
「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」国立新美術館・・・光の画家たちの光と影
http://bit.ly/2oiNKhb
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」三菱一号館美術館
https://bit.ly/37TI8ke
自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで・・・彼方への旅
https://bit.ly/3mv4SOc
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Ⅰ章 空を流れる時間
Ⅱ章 「彼方」への旅
Ⅲ章 光の建築
Ⅳ章 天と地のあいだ、循環する時間
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フォルクヴァング美術館と国立西洋美術館は、同時代を生きたカール・エルンスト・オストハウス(1874-1921)と松方幸次郎(1866-1950)の個人コレクションをもとにそれぞれ設立された美術館です。
本展では開館から現在にいたるまでの両館のコレクションから、印象派とポスト印象派を軸にドイツ・ロマン主義から20世紀絵画までの100点を超える絵画や素描、版画、写真を通じ、近代における自然に対する感性と芸術表現の展開を展観します。産業や社会、科学など多くの分野で急速な近代化が進んだ19世紀から20世紀にかけて、芸術家たちも新たな知識とまなざしをもって自然と向き合い、この豊かな霊感源から多彩な作品を生み出していきます。
足元の草花から広大な宇宙まで、そして人間自身を内包する「自然」の無限の広がりから、2つの美術館のコレクションという枠で切り出したさまざまな風景の響き合いをお楽しみください。自然と人の関係が問い直されている今日、見る側それぞれの心のなかで作品との対話を通じて自然をめぐる新たな風景を生み出していただければ幸いです。
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/upcoming.html
――
「自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」、国立西洋美術館、6月4日(土)~9月11日(日)
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ『朝日の中の婦人』1818-1820、

2022年5月20日 (金)

特別展「琉球」・・・万国津梁、相思樹の樹々わたりゆく風の音

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Ryukyu-kiirojihouou-2022-tnm
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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』280回

百花繚乱、花の匂い漂う森、紫躑躅咲く道を歩いて博物館に行く。春愁のかぎりを躑躅燃えにけり。琉球、沖縄で、想起するのは、ひゆり学徒隊、相思樹の歌である。
友よいとしの我が友よ、色香ゆかしき白百合の心の花と咲き出でし世に香ぐはしく馨るらむ
幽冥界、生と死の境、黄昏の樹林で、亡き友を思い出すときがある。なぜか、強烈な郷愁を感じる。雪月花の時、最も君を憶う。美しい魂をもつ人に祈りをささげる。
はちみつ色の夕暮れ、黄昏の丘、黄昏の森を歩き、アテナ神殿に行く。糸杉の丘、知の神殿。美しい魂は、光輝く天の仕事をなす。美しい女神が舞い下りる。美しい守護精霊が、あなたを救う。
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
*大久保正雄『永遠を旅する哲学者 美のイデア』
――
【江洲慶子『歌集 相思樹の譜』】
相思樹の樹々わたりゆく風の音 亡友の声かと耳澄まし聞く
学半ば逝きにし学友を 偲びつつ詠みつぎゆかむ相思樹の詩
生きよとも哀しめよとも、相思樹の黄花こぼるる 現し身吾に
★上江洲慶子『歌集 相思樹の譜』
【友よいとしの我が友よ】
友よいとしの我が友よ、色香ゆかしき白百合の心の花と咲き出でし世に香ぐはしく馨るらむ 沖縄県立第一高等女学校校歌
【戦争の悲劇、ひめゆり学徒隊】
ひめゆり学徒隊は、15歳から19歳の女学生、看護婦として陸軍病院で働き、摩文仁野で集団自決した。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の女学生、二百四十名のうち、百三十六名が戦死する悲劇の中で、ひめゆり学徒隊は働き続けた。
闇夜に「ふるさと」の歌
波が打ち寄せる絶壁の上で、輪になって座っていた女性とたちはしくしく泣き出した。深夜だった。「もう一回、太陽の下を大手を振って歩いてから死にたいね」。輪の中の1人がそうつぶやくと、まもなくだれからともなく「ふるさと」の歌が始まった。(『琉球新報』)
「天皇の為に死ぬことは名誉」と教え込まれてきた結果、集団自決や特攻隊などで多くの命が奪われた。天皇制と昭和天皇の戦争責任を思い知らねばならない。「15年戦争Jによる死傷者は、軍人400万人、民間人2.000万人、合計 2.400万人と推定されている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【琉球国王、尚氏】琉球国王尚氏は、1470年からおよそ400年にわたり琉球を治めた。歴代の国王は中国の明、清朝の冊封を受けて王権を強化し、島々の統治と外交、貿易を推進した。17世紀初め、薩摩島津氏の侵攻により王国は大きな変化を余儀なくされますが、新たな体制と国際関係を築き上げ、やがて安定した統治のもとで琉球の芸術文化が開花する。首里城を彩った王家の宝物、中国皇帝や日本の将軍、大名に贈られた美しい漆器や染織品、そして国際交流により洗練されていった書画は王国の高い美意識と技術を物語る。
【第一尚氏、第二尚氏】
1429年尚巴志が首里に統一政権を建て、尚徳まで代々琉球王として統を伝えた (第1尚氏) 。尚徳の死後,沖縄の北方伊平屋島の農家に生れ、尚氏の一族といわれる尚円が、70年王に擁立された (第2尚氏) 。以来その子孫相継ぎ、漸次琉球列島を統一して民生に力を尽した。 1589年、尚寧が豊臣秀吉に使をつかわし、17世紀以降は年々島津氏に朝貢し、さらに、王の嗣立などの際には江戸幕府に遣使するなどして明治にいたった。明治5 (1872) 年、尚泰は,琉球藩主に列せられ、翌年には東京在勤,侯爵に叙せられた。「ブリタニカ国際大百科事典」
【紅型】沖縄の型染。藍一色で染める藍型(あいがた)に対して赤、黄、緑、紫等の多色の型染をいう。この名称は古くはなく、昭和初期に伊波普猷(いはふゆう)が初めて用いたとされる。紅型の技法は15世紀半ばころには琉球国ですでに行われていたが,琉球の地理的関係から日本の型染、中国・南方の印金(いんきん)の技法など相互の交流によって成立発展したものとみられる。紅型は型紙の大きさによって3種に分けられる。
【おなり神信仰】女性が祭祀を司るという特徴は、姉妹が兄弟を霊的に守護する「おなり神信仰」に通ずるともいわれています。ノロ(神女)は首里王府から任命され、王国の支配を宗教的な側面から支えました。
【首里城】
首里城は14世紀後半頃に創建され、15世紀初頭には王国支配のための拠点となり、約500年にわたって政治・外交の中心として、さまざまな文物が集積され、独特の文化が花開きました。政治行政の中心であるだけでなく、王国の祭祀儀礼や祈りの場としての聖地でもありました。しかし、長い歴史の中で何度かの焼失と再建を繰りかえしています。
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展示作品の一部
国宝 黄色地鳳凰蝙蝠宝尽青海波立波文様紅型綾袷衣裳
(琉球国王尚家関係資料)第二尚氏時代・18~19世紀 沖縄・那覇市歴史博物館蔵
国宝 紅色地龍宝珠瑞雲文様紅型綾袷衣裳
(琉球国王尚家関係資料)第二尚氏時代・18~19世紀 沖縄・那覇市歴史博物館蔵
国宝 金装宝剣拵(号千代金丸)(琉球国王尚家関係資料)
 鞘の全面に薄い金板を巻き、柄頭には竹節状の鐶(かん)を取りつけるなど、一般的な日本刀の拵とは大きく異なる琉球独自の点が目をひく宝剣です。もとは今帰仁城(なきじんじょう)を本拠とした山北(北山)王歴代の一振で、のちに尚家に献上されたと伝わります。刀身:室町時代・16世紀 拵:第二尚氏時代・16~17世紀 沖縄・那覇市歴史博物館蔵
重要文化財 銅鐘 旧首里城正殿鐘(万国津梁の鐘)
藤原国善作 第一尚氏時代・天順2年(1458) 沖縄県立博物館・美術館蔵
海洋王国・琉球の繫栄を象徴する梵鐘。琉球王国は、船の交易によってアジア各地を結ぶ「万国津梁」(万国の架け橋)であると自らうたった銘文を刻みます。かつて首里城の正殿に懸けられていたと伝わる鐘です。
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参考文献
沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」図録2022
色香ゆかしき白百合、『相思樹の譜』、ひめゆり学徒隊
https://t.co/3d2IBLmUmu
★ひめゆり学徒隊
1. 上江洲慶子『歌集 相思樹の譜』
田中章義「歌鏡」『サンデー毎日』2014.7.6号、P55
2. [81 女学生の集団自決(1)]「太陽見て死にたい」琉球新報2010年3月2日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-158594-storytopic-215.html
特別展「琉球」・・・万国津梁、相思樹の樹々わたりゆく風の音
https://bit.ly/3sO6qXb
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沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」
令和4年(2022)、沖縄県は復帰50年を迎えます。かつて琉球王国として独自の歴史と文化を有した沖縄は、明治以降の近代化や先の戦争という困難を乗り越え、現在もその歴史、文化を未来につなげる努力を続けています。本展は、アジアにおける琉球王国の成立、および独自の文化の形成と継承の意義について、琉球・沖縄ゆかりの文化財と復興の歩みから紐解く総合的な展覧会です。
東京国立博物館は、明治期の沖縄県からの購入品に、その後の寄贈品を加えた日本有数のコレクションを収蔵しています。平成4年(1992)、復帰20年の折には、特別展「海上の道」を開催するなど、これまで琉球の歴史と文化に関する研究や展示普及活動に努めてまいりました。こうした礎のもと、力強く輝き続ける琉球の歴史と文化を過去最大規模で展観します。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2131
平成館 特別展示室 : 2022年5月3日(火) ~ 2022年6月26日(日)
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特別展「琉球」、東京国立博物館、5月3日(火) ~ 6月26日(日)
九州国立博物館[太宰府天満宮横]2022年7月16日(土)~9月4日(日)

2022年5月 5日 (木)

牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児・・・遠い記憶を呼び覚ます風景

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』279回

百花繚乱、花の匂い漂う紫躑躅咲く道を歩いて美術館に行く。春愁のかぎりを躑躅燃えにけり。
過酷な運命を乗り越えた画家。遠い記憶を呼び覚ます風景。
藤田龍児の絵は、広い野原、山の見える郊外、古い街並み、田舎町。電信柱、工場の煙突、鉄道、バス停。白い犬とエノコログサ、蛇行する道は人生の苦難の象徴。白い犬は、画家自身の分身、藝術家を守る守護精霊である。
過酷な運命を乗り越えた画家。啓蟄。羽音を立て、エノコログサが穂を天に伸ばす。画家の蘇りの光景か、春の兆しの神秘的な光景。白い犬を連れた人物が歩いている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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戦争による事業破産と半身不随、二人の運命
藤田龍児は、48歳の時、脳血栓で倒れ、53歳で再起する。アンドレ・ボーシャンは、出征、戦争で破産、妻は精神病、園芸業から画家となる。
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【藤田龍児、48歳の時、脳血栓、画家を断念、53歳で再起、74歳で死す】
藤田龍児は、昭和3年1928年に京都で生まれ、同志社中学校卒業、同志社工業専門学校中退。大阪市立美術館の附属施設であった市立美術研究所にて石膏デッサンや油彩を学び、1959年、美術文化展に初入選。同協会の会員になり、毎年出品を続けた。1959年、大阪大学医学部附属石橋分院で作業療法指導員となる。1969年、退職。初期の作品は不定形な形象が混じり合う抽象画、シュルレアリスムの影響がある。1976年、48歳の時、脳血栓にて倒れる。翌年再発、手術で一命をとりとめるが、右半身付随。利き腕が使えなくなったことに失望、画家として生きることを断念、絵の大半を処分した。絵筆を左手に持ち替え、再び絵画を描くようになる。再起後の最初の個展を開いた時、53歳となる。
白い犬とエノコログサ、蛇行する道など絵画に何度も登場するモチーフで、犬に藤田自身を、そして蛇行する道には彼の苦難の人生を感じさせる。病気を乗り越えた藤田にとって、何度踏まれても逞しく伸びていくエノコログサは、強い生命力の象徴である。白い犬は土佐犬、画家自身、
【アンドレ・ボーシャン、出征、戦争で破産、妻は精神病、園芸業から画家へ、1958年85歳で死す】
アンドレ・ボーシャンは、1873年フランス中部のシャトー=ルノーに生まれた。苗木職人として園芸業を営む。1914年、第一次世界大戦が勃発、歩兵連隊に徴集され、軍隊で学んだ事が、測量したデータをもとに、地形を正確に記録する測地術である。そして大戦が終結して46歳にて除隊するが、農園は荒れ果て破産、妻は精神に異常をきたす。ボーシャンは地元の森の中で新居を構え、妻の世話をしながら自給自足生活を送る。
ボーシャンが絵を初めた契機は、軍隊時代に学んだ測地術の技法にあった。山や川などの故郷の風景、咲き誇る花々といった苗木職人として身近に接した植物などを描く。1921年、サロン・ドートンヌに入選。当時の同賞の審査は比較的厳しくなかった、50歳を前に画家の道を歩みはじめる。建築家となりル・コルビジェに認められる。1928年、セルゲイ・ディアギレフからロシアバレエ団の舞台美術を依頼される。
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展示作品の一部
藤田龍児『於能碁呂草』1966年 星野画廊
藤田龍児『啓蟄』1986年 星野画廊
藤田龍児『静かなる町』1997年 松岡真智子氏
藤田龍児『オーイ、野良犬ヤーイ』1984年 個人蔵
藤田龍児『特急列車』1988年 平澤久男氏
藤田龍児『老木は残った』1985年 北川洋氏
アンドレ・ボーシャン『ラトゥイル親爺の店』1926年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『大木とアルゴ船乗組員』1928年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『ラヴァルダン城とスイカズラ』1929年 個人蔵 
アンドレ・ボーシャン『婚約者の紹介』1929年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『花瓶の花』 1928年 個人蔵
アンドレ・ボーシャン『窓』 1944年 個人蔵 
アンドレ・ボーシャン『川辺の花瓶の花』1946年 個人蔵
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参考文献
プレスリリース東京ステーションギャラリー、冨田章氏
「牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児」東京美術2022

牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児・・・遠い記憶を呼び覚ます風景

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アンドレ・ボーシャン(1873-1958)と藤田龍児(1928-2002)は、ヨーロッパと日本、20世紀前半と後半、というように活躍した地域も時代も異なりますが、共に牧歌的で楽園のような風景を、自然への愛情を込めて描き出しました。人と自然が調和して暮らす世界への憧憬に満ちた彼らの作品は、色や形を愛で、描かれた世界に浸るという、絵を見ることの喜びを思い起こさせてくれます。両者の代表作を含む計116点を展示します。
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition.html
2人の画家アンドレ・ボーシャンと藤田龍児は、活動した国も時代も異なりますが、いくつかの興味深い共通点をもっています。
ともに50歳頃に新たな画家の道に踏み出したこと、精妙な輝きを秘めた色彩を用いて故郷の山河など牧歌的で楽園を思わせる風景を好んで描いたこと、そしてそれらが彼らの決して安逸ではなかった困難な生活の中で生み出されたこと。
そんな彼らの作品が、じわじわ効いてきて、しみじみ沁みる。「見る」ことの喜びを感じさせてくれる展覧会です。
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牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児
2022年4月16日(土) - 7月10日(日)

2022年4月21日 (木)

「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」・・・北斎、最後の旅

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』278回

【葛飾北斎、苦節五十年】北斎は、20歳で絵師となるが売れず、苦節50年、72歳『富岳三十六景』『神奈川沖浪裏』(1831)まで苦境。北斎は、九十歳で死ぬまで絵を描きつづける。
【葛飾北斎、七変化】葛飾北斎(1760-1849)の最初期、勝川派の絵師として活動した春朗期(20~35歳頃)、勝川派を離れて浮世絵画派とは一線を画した作画活動を行った宗理期(36~44歳頃)、読本の挿絵に傾注した葛飾北斎期(46~50歳頃)、多彩な絵手本を手掛けた戴斗期(51~60歳頃)、錦絵の揃物を多く制作した為一期(61~74歳頃)、自由な発想と表現による肉筆画に専念した画狂老人卍期(75~90歳)
【源為朝の冒険、曲亭馬琴との共作】弓の名人、腕の腱を切られても弓を引く。「為朝図」は北斎が「戴斗」という画号を名乗っていた50代の時の作品。曲亭馬琴の小説「椿説弓張月」の完成1811年、全5編29冊を祝って描かれた肉筆画、金の切箔がまかれる豪華な作品。
【椿説弓張月、源為朝、保元の乱】少納言入道信西との不和で九州へ追われた源為朝は、八町礫紀平治を家来にし、白縫姫を妻として九州を平定したが、保元の乱に敗れて伊豆大島に流される。そこでも為朝は善政を敷いたが、官軍に攻め寄せられ、鬼夜叉を身代り死にさせて、九州を経て琉球に漂着した。琉球では、尚寧王の暗愚に乗じて妖術使い濛雲が実権を奪い、奸臣利勇と対決していたが、為朝は世継ぎの王女を助けて、孤島に漂着していたわが子舜天丸や紀平治とともに濛雲を破り、琉球を平定した。舜天丸は王位につくが、為朝は昇天する。
【89歳、小布施にて『怒涛図』男浪・女浪、『八方睨み鳳凰図』(1848)】北斎が波を主題に描き始めたのは40代の頃。何十年もかけてあらゆる波を描いた。70代でたどり着いた『神奈川沖浪裏』の大波。冨嶽三十六景は大成功したが、北斎は満足せず。15年後、祭屋台の天井絵として怒濤図を描いた。なぜ小布施で怒濤図を描いたのか。天保の改革で贅沢が禁止され、浮世絵も弾圧された。小布施の豪商・高井鴻山が後ろ盾となり、工房を提供した。北斎は小布施を拠点に内面を表現する肉筆画を描く。岩松院にある八方睨み鳳凰図も北斎最晩年の大作。
【不老不死、不死身の象徴】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)。ボストン美術館肉筆浮世絵、江戸の誘惑(2006)
【不屈の画狂老人卍】74歳にして画狂老人卍『鳳凰図屏風』(1835)、88歳『弘法大師修法図』、89歳『八方睨み鳳凰図』(1848)、90歳『富士越龍図』(1849)。90歳にして「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」「画工北斎は畸人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。」飯島虚心『葛飾北斎伝』。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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展示作品の一部
葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》横大判錦絵 江戸時代 天保元-4年(1830-33)頃 大英博物館蔵2008,3008.1.JA コピーライト The Trustees of the British Museum
葛飾北斎《諸国瀧廻り 和州吉野義経馬洗滝》大判錦絵 江戸時代 天保4年(1833)頃 大英博物館蔵1937,0710,0.195 コピーライト The Trustees of the British Museu
葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》横大判錦絵 江戸時代 天保元-4年(1830-33)頃 大英博物館蔵1906,1220,0.525 コピーライト The Trustees of the British Museum
肉筆浮世絵
葛飾北斎《弘法大師修法図》一幅 江戸時代 弘化年間(1844-47年) 西新井大師總持寺蔵
葛飾北斎《為朝図》一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館蔵 1881,1210,0.1747 コピーライト The Trustees of the British Museum
葛飾北斎《流水に鴨図》一幅 江戸時代 弘化4年(1847) 大英博物館蔵 1913,0501,0.320 コピーライト The Trustees of the British Museum
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参考文献
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
https://bit.ly/35ywoAa
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
https://bit.ly/34AB3Bz
「新・北斎展」森アーツセンターギャラリー・・・悪霊調伏する空海、『弘法大師修法図』
https://bit.ly/2HAZJ5y 
「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」・・・北斎、最後の旅
https://bit.ly/3rGjzkF
――
江戸時代後期を代表する浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849)は、世界で最も著名な日本の芸術家の一人です。《冨嶽三十六景》や『北斎漫画』など、一度見たら忘れられないインパクトを持つ作品の数々は、国内外で高い人気を誇っています。
北斎と海外との関係については、モネ、ドガ、ゴッホら印象派およびポスト印象派の画家たちによる北斎への傾倒や、フランスを中心としたジャポニスムへの影響が有名ですが、イギリスにも多くのコレクターや研究者がおり、その愛好の歴史は19世紀まで遡ることができます。なかでも大英博物館には、複数のコレクターから入手した北斎の優品が多数収蔵されており、そのコレクションの質は世界でもトップクラスです。本展では、この大英博物館が所蔵する北斎作品を中心に、国内の肉筆画の名品とともに、北斎の画業の変遷を追います。約70年におよぶ北斎の作画活動のなかでも、とくに還暦を迎えた60歳から、90歳で亡くなるまでの30年間に焦点を当て、数多くの代表作が生み出されていく様子をご紹介します。また、大英博物館に北斎作品を納めたコレクターたちにも注目し、彼らの日本美術愛好の様相を浮き彫りにします。
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2022_2/index.html
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「大英博物館 北斎─国内の肉筆画の名品とともに─」サントリー美術館にて、2022年4月16日(土)から6月12日(日)まで

2022年4月18日 (月)

織田信長、理念を探求する精神・・・天下布武、武の七徳、第六天魔王、美と復讐

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』277回

織田信長は、謀反に復讐する阿修羅のように思われているが、戦略の達人であるのみならず、天衣無縫の生を生き、理念と美と愛を探求する精神である。
【織田信長、天の理念】【五徳】仁義礼智信、『論語』『孟子』。徳姫、永禄2年生まれ【桶狭間の戦い、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり】永禄3年【麒麟の城、小牧山城】永禄6年、麒麟『春秋左氏伝』【天下布武、岐阜城】永禄10年、武の七徳『春秋左氏伝』【第六天魔王、欲界の他家自在天】元亀4年【天正。清靜爲天下正『老子』45章】天正元年7月【天下一の名人、本因坊算砂】天正6年【安土城、天主】太田牛一『信長公記』4巻『安土記』天正4年~10年
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
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1、天下布武、岐阜
【天下布武、織田信長】沢彦宗恩が提案した。「武とは戈を止めることである(止戈)」「禁暴・戢兵・保大・定功・安民・和衆・豊財(武力行使を禁じ、武器をおさめ、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させる)七徳を備えるべき」『春秋左氏伝』
【織田信長、岐阜】稲葉山城と呼ばれていた。城主、斎藤龍興を破った織田信長がこの城を1575年に岐阜城と改めた事が岐阜の地名の由来。金華山、山頂にある。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれる。沢彦宗恩が提案した「岐山」「岐陽」「曲阜」から、信長が選んだ。「岐」は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事に由来。「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるようにという願いからとする。
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2、織田信長、麒麟の花押、足利義輝への手紙、
織田信長【麒麟】有徳の王者の治世には姿を見せるが、殺生を好むような王者が国を治めているときは、姿を隠すと伝えられた霊獣である。【西狩獲麟】孔子が、捕らえられた麒麟を見て涙を流した、その時代が「聖人の世」ではなかったからである。孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
【西狩獲麟】孔子が、捕らえられた麒麟を見て涙を流した、その時代が「聖人の世」ではなかったからである。孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかと失望から、自分が整理を続けてきた魯の歴史書の最後にこの記事を書いて打ち切った。『春秋左氏伝』「哀公十有四年春、西に狩して麟を獲たり」
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3、第六天魔王
【第六天魔王 織田信長】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、仏教に帰依する甲斐の武田信玄に保護を求め、彼の元に身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。「天正元(1573)年4月20日付、ルイス・フロイスの書簡」*『完訳フロイス日本史 織田信長篇 3 安土城と本能寺の変』
【第六天魔王 織田信長】信長は武田信玄に対する返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日フロイス『日本史』。信長40歳。
「三界(無色界、色界、欲界)」のうち、欲界の最上天が「第六天(他化自在天)」であり、その欲界を支配しているのが「第六天魔王」である。空海『秘密曼荼羅十住心論』第三住心、嬰童無畏心『秘蔵宝鑰』第三章。
――
4、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
【織田信長、敦盛を舞う】「思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。きんこくに花を詠じ、栄花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり。人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」永禄三(1560)年五月18日、信長27歳。
幸若舞では「化天」で、「下天」は『信長公記』の記載である。化天(楽変化天)は六欲天の第五位で一昼夜は人間界の八百年。下天(四天王衆天)は六欲天の最下位で一昼夜は人間界の五十年。なぜこの違いが出たのか、元来、生の儚さを謳った『敦盛』に比べ、生を精一杯生きる信長の『敦盛』は人間の一生の50年を表すものとして「下天」であったのか。
――
5、欲界の最頂上、他化自在天
『般若理趣経』経典の《教主》は五智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智・清浄法界智)を具えた大毘盧遮那如来であり、《時》はあるとき、《住処》は三界(欲界、色界、無色界)のうち欲界の最頂上にある他化自在天である。
【『理趣経』の教主、欲界第六天】『理趣経』の教主は、大日如来であり、その場所は、欲界、第六天、他化自在天である。三界(無色界、色界、欲界)のうち、欲界の支配者が第六天魔王。信玄への返書に織田信長は第六天魔王と自ら称した1573(元亀4)年。ルイス・フロイス『日本史』
――
6、【沢彦宗恩、妙心寺派僧】卍元師蛮「延宝伝灯録」によると、妙心寺第一座となるが辞した後は美濃・大宝寺の住持となっていた。その頃、吉法師(織田信長)の傅役を務めていた織田家家臣・平手政秀の依頼を受けて、那古野城に行き、沢彦宗恩が教育係となった。織田信長が元服したあとは参謀として活躍。父・織田信秀の葬儀の際に、織田信長は抹香を投げつけたが、これは沢彦宗恩が提案したとも伝わる。平手政秀が自刃すると、菩提を弔うために織田信長が建立した政秀寺の開山も務めている。岐阜城、その後、京都・妙心寺第39世住持となったあとは、岐阜の瑞龍寺に住んだ。1587年10月2日示寂。1686年「円通無礙禅師」の号が下賜されている。愛知県図書館所蔵『政秀寺古記』がほとんど唯一の資料である。
――
7、
【安土城の天主、織田信長の思想の象徴】
安土城の天主は、信長の思想の象徴である。二階は、石蔵の上、柱の数は二百四本、書院に狩野永徳が描いた煙寺晩鐘の景色、唐の儒者たち、鵞鳥の間がある。三階は、花鳥の間、賢人の間、麝香の間、仙人の間があり、柱の数は百四十六本。四階は岩の間、竹の間、鳳凰の間、鷹の間、等、柱の数は九十三本。五階には絵はなく、南と北に破風、六階、八角形の円堂、釈迦十大弟子、釈尊成道説法の図。最上階七階、信長の居室がある。四方の内柱には登り龍、下り龍、天井には天人が舞い降りる図、三皇五帝、孔門十哲、竹林の七賢などあり。【儒学、老荘、仏教、黄金の間】二階は、風景画、儒教。三階は、花鳥画、道教、四階は、鳳凰、六階は、八角形の部屋、仏教、最上階七階、孔子、竹林の七賢。『信長公記』第9巻天正4年。6章。
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8、
【本能寺の変、三職推任問題】天正10年(1582)4月25日、天皇は織田信長に対して、関白・太政大臣・将軍のいずれかに推任しようと申し出た(『天正十年夏記』)。信長に官職の授与を勧めたのは正親町の皇太子・誠仁親王。信長に「どのような官にも任じることができる」
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
【阿弥陀寺、清玉上人】清玉上人は織田家の本拠地・尾張国で生まれた。母親は産気づいたまま道で倒れたところを、信長の兄・信広に助けられた。しかし清玉上人を産んですぐに亡くなった、清玉は織田家によって育てられ、僧として修行をする資金も織田家が工面した。天正十年6月2日、本能寺に兵が集まっていると知ると、清玉上人が駆けつけ、上人は信長の亡骸を持って本能寺を出て供養したと伝わる。阿弥陀寺には信長、信忠、一門の墓がある。
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9、復讐する精神
【戦国史 親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
【織田信長、復讐する精神】父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける。18歳。稲生の戦い、弟信勝の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。信勝2度目の謀反、病気の信長を殺しにきた信勝、清州城北櫓次の間で返り討ち誘殺。弘治三1557年24歳。愛妻、生駒吉乃、嫡男信忠を生む。
【醍醐寺三宝院 元亀4天正元(1573)年】織田信長のために真言密教の祈祷、修法を行う。「織田信長黒印状」醍醐寺三宝院における戦勝祈願の修法への礼状を信長より返信「天下布武」印。1573三方が原の戦い、武田信玄死す4月12日53歳。三年間秘匿。信長包囲網瓦解。
――
参考文献
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
https://bit.ly/3HjY9zO
織田信長、第六天魔王、戦いと茶会・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/3gqTr5n
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10、
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方に理想と美を求める。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、織田信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
【理念を追求する精神】空海は理念を探求して旅した。空海の24歳の苦悩は『聾瞽指帰』に刻まれている。空海、ロレンツォ・デ・メディチ、プラトン、玄奘三蔵、李白、王羲之、嵯峨天皇、ソクラテス、理念に向かって、旅した人。理念を追求する人は、この世の闇の彼方に美を求める。
「人間の真の姿がたち現れるのは、運命に敢然と立ち向かう時である」シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』
【この世に不幸な家族に生まれた人物】孔子、アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、カトリーヌ・ド・メディチ、織田信長、武田信玄、伊達政宗。針の筵の日々を生きる、苦悩の人生、怨憎会苦、愛別離苦。人生の旅の窮極は人格を磨くことである。この世に苦しむ人がいることを想え
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
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【東寺、講堂、立体曼荼羅】五智如来と明王の象徴。【五智如来】大日、宝生、阿弥陀、不空成就、阿閦【五菩薩】金剛波羅密、金剛宝、金剛法、金剛業、金剛薩埵【五大明王】不動明王、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉【四天王】持国天、増長天、広目天、多聞天【二天】梵天、帝釈天。
【空海、立体曼荼羅、五大明王、怨敵調伏する】忿怒の形相をもつ五大尊、五忿怒。悪魔を調伏し、仏法を守る守護神。大日如来の変化身。密教で不動明王を中心として四方に配され、魔を降伏させる五明王で、中央が不動、東方が降三世、南方が軍荼利、西方が大威徳、北方が金剛夜叉。
「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館・・・空海、理念と象徴
https://bit.ly/3fyOaYF

織田信長、理念を探求する精神・・・天下布武、武の七徳、第六天魔王、美と復讐

2022年4月 1日 (金)

孫崎享『国際政治 覇権争い、覇権国家と新興国家の戦い。ウクライナ戦争』上智大学5月29日

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孫崎享『国際政治 覇権争い、覇権国家と新興国家の戦い。ウクライナ戦争』上智大学5月29日14時~16時、ソフィア文化芸術ネットワーク

孫崎享、元外務省国際情報局長、元駐イラン大使『日米同盟の正体』講談社現代新書『日本の「情報と外交』『日本人のための戦略的思考入門』
質疑応答、大久保正雄『ことばによる戦いの歴史としての哲学史』理想社
――
孫崎享『国際政治 覇権争い、覇権国家と新興国家の戦い。ウクライナ戦争』現代、世界で起こっている紛争、戦争、対決、その原因は何か。解決する方法は何か。国際政治の戦略を考える。
グレアム・アリソンは、フランスとハプスブルク家の戦いを分析、覇権国は新興国に負けると結論した(グレアム・アリソン『トゥキュディデスの罠』) 【アメリカと中国の覇権争い。アメリカとロシアの戦争】【戦争で利益を得るのは誰か】日露戦争、対立する両国に資金貸付して利益を得たロスチャイルド銀行。幕末明治維新、対立する両陣営に武器売却して利益を得たロスチャイルド商会。
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検察は権力の奴隷、マスコミは追及せず。独裁政権、止めるシステムなし。孫崎享×大久保正雄『国家権力の謎』第10回
https://t.co/UV5VZGgQ5G
ミサイルは、迎撃できない。孫崎享×大久保正雄『国際政治の舞台裏 核の傘は存在するのか』
https://bit.ly/2YxJoE8
ソフィア文化芸術ネットワーク

大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』276回

孫崎享『国際政治 覇権争い、覇権国家と新興国家の戦い。ウクライナ戦争』上智大学5月29日
https://bit.ly/3JYW8Ky

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2022年3月27日 (日)

「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』275回

桜の森の開花が始まり、春宵一刻、嵯峨天皇の詩を想う。美女の運命、藝術家の運命、儚く美しき美女、傾国の美女、美女の歴史に秘められた奇譚を想う。樋口一葉は「このよほろびざる限りわが詩は人のいのちとなりぬべき」と書き24歳で死す。鏑木清方は泉鏡花『一葉女史の墓』を描いた。
【嵯峨天皇は曲水流觴の宴を催した】青春が半ばを過ぎた頃、何がせき立てるのか、柔らかな風がしきりに吹いて、花がせかされるように咲く。芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。私は文雄に呼びかけて詩人たちは花を愛でるこの宴にやって来た。『神泉苑花宴賦落花篇』「凌雲集」弘仁三年(812)二月十二日
【嵯峨天皇、神泉苑花宴賦落花篇「凌雲集」】春園遥かに望めば、佳人あり。乱雑繁花、相映じて輝き、点珠顏綴、駘鬟(たいかん)として吹く。人懐の中、嬌態閑(しず)かなり。朝に花を攀(よ)じり、暮に花を折る。花を攀じる力尽き、衣帶ゆるく。未だ芬芳(ふんぽう)を厭はず
【鏑木清方、明治後期の世界への想い、いくさより美人画】
鏑木清方は、挿絵画家として出発した。鏑木清方は1878(明治11)年、東京・神田に生まれた。幼い頃から文芸に親しみ、13歳で歌川国芳の孫弟子、浮世絵師・日本画家の水野年方に入門。挿絵画家としての活躍を経て、肉筆画を手がけるようになった。清方没後50年、美人画だけでなく、市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした「ほんとうの清方芸術」を紹介する展覧会「没後50年 鏑木清方展」。鏑木清方は本格的に日本画を手掛ける以前、小説の口絵や挿絵で人気を博していた。美人画、挿絵、卓上藝術、清方が追求した世界は何か。美人画家として「西の松園、東の清方」と並び称された鏑木清方だが、本人は「需められて画く場合いはゆる美人画が多いけれども、自分の興味を置くところは生活にある。それも中層以下の階級の生活に最も惹かれる」と言った。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【鏑木清方の言葉】「明治は幸せな時代でした。いくさは描けませんよ。意地になって美人画を描いていました。微かなる反抗でしょうけれども。嫌いなものは描けないですよ。」と生前ラジオ番組に出演した時の鏑木清方の肉声あり。「願わくば日常生活に美術の光がさしこんで暗い生活をも明るくし、息つまるやうな生活に換気窓ともなり、人の心に柔らぎ寛ぎを与える親しい友となり得たい」鏑木清方の文章あり。
【浮世絵と美人画】菱川師宣から始まる浮世絵は、錦絵創始期の第一人者鈴木春信、「春章一幅値千金」と謳われた勝川春章の肉筆画、八頭身美人の江戸のヴィーナスと呼ばれる鳥居清長、青楼の絵師と謳われた喜多川歌麿へと展開した、5人の絵師。美人画の歴史である。美人画の歴史は、菱川師宣、喜多川歌麿が最大の源泉である。勝川春章、鳥文斎栄之、渓斎栄泉を師とする絵師もいる。葛飾北斎は勝川春章を師とした。
日本の美人画は、花柳界の女、江戸の青楼の美女、富裕層の妾妻、歴史物語の美女を描いてきた。庶民の娘、市井の女、女学生を描いてきたのは、明治以後か。
【表面的な美と内面的な美】日本の美人画は、表面的な美を描いているが、内面的な美を描いている例は少ない。内面的な美を描いている美人画は、だれか。上村松園「序の舞」は内面の美を表現しているのか。
【美人画の名人、鏑木清方、かをりの高い絵】鏑木清方は「かをりの高い絵を作りたい。作りたいより自ら生まれる絵を」鏑木清方「かをり」昭和9年1月。【
上村松園、伊藤深水】上村松園は自ら描く美人画を「艶かしくなく高尚に描いてみたい」「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところ」と言っていた。三人の美人画家。誰が好みか。代表作は何か。作家の特徴は何か。
【苦悩する美女、ルネサンス、象徴派】苦悩する美女を描く画家として、19世紀、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ギュスターブ・モローがロマン主義、象徴派の美を極めている。15-16世紀、レオナルド『レダ』『糸巻きの聖母』、ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『マニフィカートの聖母』『ヴィーナスとマルス』『春』がルネサンスの美を極めている。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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【藝術と魔術】藝術は悲しみと苦しみから生まれる。絵を描くのは美的活動ではない。この敵意に満ちた奇妙な世界と我々の間を取り次ぐ、一種の魔術なのだ。敵との闘争における武器なのだ。いかなる創造活動も、はじめは破壊活動だ。パブロ・ピカソ
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【佐藤康宏氏、昭和の鳥居清長】「美人画に関しては私は京都・大阪びいきで、恒富、神草、楠音らに比して清方をさほど好みません。それでも屛風絵の「遊女」(横浜美術館)など、見直しました。「築地明石町」は、いうまでもなく飛び抜けていいのですよね(三幅対に仕立てていますが、正直いって脇幅はなくてもいいです)。かつて彼を「昭和の清長」と称したことがありますが、実際に清長の錦絵を意識していなかったでしょうか。これを別にすれば、清方が「卓上藝術」と呼んだ小画面の作品に最も本領が発揮されている、というのが以前からの私の評価です。2022年3月24日
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展示作品の一部
鏑木清方、秋宵、1903、鎌倉市鏑木清方記念美術館
鏑木清方、嫁ぐ人、1907、鏑木清方記念美術館
鏑木清方、曲亭馬琴、1907、鎌倉市鏑木清方記念美術館
明治40年(1907)絹本着色・額116.3 × 172.8cm、第1回文部省美術展覧会 選外
目の見えない滝沢馬琴の執筆活動を娘が支えている図である。
江戸の戯作者・曲亭馬琴が失明した後に、息子の嫁・路に一字一句文字を教え、口述筆記により『南総里見八犬伝』を書き継いでいる場面です。このエピソードは『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の「あとがき」にあたる「回外剰筆(かいがいじょうひつ)」に記されています。清方は、失明した馬琴でも、馬琴を支えた路でもなく、「回外剰筆」に記された、口述筆記による馬琴と路のエピソード(史実)を視覚化しました。その意味で、西洋における物語る絵画としての「歴史画」に近い作品であるといえます。本作で清方が試みたのは、かつて史実のなかに生きた人間としての馬琴と路の生々しいすがた、実在した人間の生き様そのもの。
鏑木清方、築地明石町1927(昭和2)年、東京国立近代美術館
近代美人画を代表する絵の一つ。1927年の第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した。清方にとっては思い出深い明治30年代半ばの明石町の光景と合わせ、物思う表情で振り返る女性に明治回顧の心情を託している。時代もちょうど関東大震災と昭和改元を経て、明治ブームが起きていた。
新富町、1930、東京国立近代美術館
浜町河岸、1930、東京国立近代美術館
鏑木清方、京鹿子娘道成寺、1928
有名な舞踊「京鹿子娘道成寺」と「鷺娘」の一場面。清姫の化身である白拍子と鷺の化身の鷺娘が妄執にとらわれる姿を、片やしっとりと、片や激しく表現している。
鏑木清方、一葉女子の墓、1902、鎌倉市鏑木清方記念美術館
泉鏡花の『一葉の墓』を読んでその墓を訪ねた時、清方は線香の煙の向こうに『たけくらべ』のヒロイン・美登利の幻を見たと言う。その体験に想を得て描かれた。
小説家と挿絵画家、1951
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参考文献
没後50年、鏑木清方展図録、2022、東京国立近代美術館
鶴見香織「鏑木清方 生活を描いた画家」2022
「大浮世絵展―歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」江戸東京博物館・・・謎の絵師写楽、画狂老人卍
https://bit.ly/35ywoAa
「大浮世絵展」・・・反骨の絵師、歌麿。不朽の名作『名所江戸百景』、奇想の絵師
https://bit.ly/34AB3Bz
清方/Kiyokata ノスタルジア―鏑木清方の美の世界・・・美女の姿態
https://bit.ly/3CNj1Oi
「あやしい絵展」東京国立近代美術館
https://bit.ly/3w3onRE 
「The UKIYO-E 2020 ─ 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館・・・浮き世の遊宴と享楽と美女
https://bit.ly/30JCdd2
東西美人画の名作《序の舞》への系譜・・・夢みる若い女、樹下美人
https://bit.ly/394A5zg
上村松園と美人画の世界・・・肉体の美と叡智
https://bit.ly/2GXmVru
「ラファエル前派の軌跡展」三菱一号館美術館・・・ロセッティ、ヴィーナスの魅惑と強烈な芳香
https://bit.ly/2Coy0jB
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ「祝福されし乙女」・・・藝術家と運命との戦い、ロセッティ最後の絵画
https://bit.ly/2UoqUWz
「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」パナソニック汐留美術館・・・夢を集める藝術家、パリの館の神秘家。幻の美女を求めて
https://bit.ly/2v5uxlY
鏑木清方記念美術館
http://www.kamakura-arts.or.jp/kaburaki/
「桜 さくら SAKURA 2020 ―美術館でお花見 ! ―」山種美術館・・・花の宴
https://bit.ly/2UUizJw
ヴィーナスの歴史、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
「没後50年 鏑木清方展」 ・・・春園遥かに望めば、佳人あり
https://bit.ly/3DgzoTJ

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鏑木清方(1878-1972)
鏑木清方(1878-1972)の代表作として知られ、長きにわたり所在不明だった《築地明石町》(1927年)と、合わせて三部作となる《新富町》《浜町河岸》(どちらも1930年)は、2018年に再発見され、翌年に当館のコレクションに加わりました。この三部作をはじめとする109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。
浮世絵系の挿絵画家からスタートした清方は、その出自を常に意識しながら、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けました。本展覧会では、そうした清方の関心の「変わらなさ」に注目し、いくつかのテーマに分けて作品を並列的に紹介してゆきます。関東大震災と太平洋戦争を経て、人々の生活も心情も変わっていくなか、あえて不変を貫いた清方の信念と作品は、震災を経験しコロナ禍にあえぐいまの私たちに強く響くことでしょう。
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/kiyokata
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『没後50年 鏑木清方展』東京国立近代美術館3月18日(金)~5月8日(日)
京都国立近代美術館、5月27日~7月10日

2022年3月12日 (土)

織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐

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大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』274回

織田信長の長女、五徳は、波乱の人生を生き78歳で死す。シェイクスピア復讐悲劇のような人生。織田信長は、天の理念を探求した。信長は、何を愛し、何のために戦い、何故死んだのか。信長に五徳と名付けられた長女、五徳は、仁義礼智信である。徳姫は何と戦ったのか。徳姫と浅井三姉妹江は、女織田弾正忠と呼ばれる。
濃姫、帰蝶は、織田信忠、信雄、五徳を育てた養母である。小説家、諸田玲子氏『帰蝶』は帰蝶の目から見た「織田信長、五徳、明智光秀、武井夕庵、立入宗継」を描いた。いつか私は五徳の目から見た、織田信長、徳川家康、織田信雄、豊臣秀吉、明智光秀、太田牛一、「戦国の美女 愛と美と復讐の世界」を描きたい。
――
【理念を追求する精神】理念を探求する人は、知恵をもって邪知暴虐な権力と戦い、この世の闇の彼方にイデアと美を探求する。輝く天の仕事を成し遂げる。空海、孔子、信長、李白、プラトン。即身成仏、仁義礼智信、武の七徳、桃花流水杳然去、美の海の彼方の美のイデア、存在の彼方の善のイデア。
*大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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1
【織田信長の長女、五徳、波乱の人生】
【織田信長、長女、徳姫、五徳】絶世の美女、信長最愛の美女、生駒吉乃の娘。シェイクスピア復讐悲劇のような人生。弘治三年、信長、弟信勝に復讐、正義のための戦い。天正七年、信康と築山殿に復讐して正義を成就する徳姫。築山殿は信長と家康の共通の敵、今川氏。
20歳で家康に見送られて安土城に旅立つ。天正十年、本能寺の変、安土城落城。徳姫、京都へ。78歳まで生きる。長女の登久姫は小笠原秀政室、次女の熊姫は本多忠政室。
【絶世の美女、織田信長の長女、五徳】永禄2(1559) 10月清州城で生まれる。絶世の美女、生駒吉乃の娘。永禄3年(1560)桶狭間の戦い。織田徳川同盟の絆として、永禄10(1567)年9歳で三河国岡崎城主の信康に嫁ぐ。小牧山城から岡崎城に行く。築山殿も岡崎城に同居。家康は浜松城にあって父子共に武田勢と攻防を繰り返した。【徳姫、十二ヶ条の訴状】築山殿と信康が武田氏に内通したと信長に訴えた。夫の不行跡を信長に告発。
徳姫は夫信康と築山殿を信長に告発。信長は伺候した家康の家臣酒井忠次に確かめ家康に命じて天正7(1579)年信康と築山殿を自刃させた。
【徳姫、安土城への旅立ち】
【徳姫21歳、安土城、本能寺の変、信雄、秀吉、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦い】
【信康自刃事件後】徳姫は天正8(1580)年の2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰される。2人の娘達、福子、国子は家康の元に残す。近江八幡市あたりに居住、化粧料田が近江長命寺に設定。天正10年(1582)【本能寺の変】父・長兄ともに死去する。次兄の織田信雄に保護されたが【小牧・長久手の戦い】後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた(『顕如上人貝塚御座所日記』)。
天正18(1590)年信雄が秀吉によって改易されたため、生駒氏の尾張国小折に移り住んだ。「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らか、その後すぐにまた京都に居住する、徳姫の処遇は秀吉の支配下にあった。
【関ヶ原の戦い】後、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉から1761石の所領を与えられた。その後は京都に隠棲した[1]。寛永7年(1630年)、蜂須賀忠英と正室繁姫(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、乳母の選定について相談されている。
徳姫、永禄2(1559) 10月12日生まれ寛永(1636)13年1月10日死去。78歳。通称は五徳、岡崎殿、見星院。<参考文献>『人物日本の女性史』8巻
――
2
【信康自刃の原因、父子の確執】
【織田信長、徳姫、壮絶な復讐、十二ヶ条の訴状】稲生の戦い、弟信勝の謀反1700人に信長700人で戦う。23歳。弘治3年、信勝2度目の謀反、清州城北櫓次の間で返り討ち、誘殺。24歳。天正7年、信長の長女徳姫、十二ヶ条の訴状。信康切腹、築山殿を成敗。19歳。五徳=仁義礼智信。
【信康自刃の原因、父子の確執】永禄10(1567)年、信康9歳は信長の娘、徳姫と結婚、元亀元(1570)年、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主岡崎城の城主に。信康切腹通説の元、幕府旗本、大久保彦左衛門『三河物語』。徳姫は信長に信康の乱暴な言動を告発する手紙を書き、酒井忠次に託した。忠次が信康をかばわなかったため、信長は信康に切腹を命じた。信康21歳。家康と信康が対立。熱田伸道『信康自刃の真相』。
【家康、信康を二俣城で切腹、築山殿、佐鳴湖畔で殺害、太刀洗の池、天正7年】『武功夜話』。天正(1576)年、徳姫18歳の時、夫信康との間に長女福子を産んだ。翌年には次女国子が誕生。
参考文献、大久保彦左衛門『三河物語』『武功夜話』、熱田伸道『信康自刃の真相』
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3
【織田信長、天の理念】【五徳】仁義礼智信、『論語』『孟子』。徳姫、永禄2年生まれ【桶狭間の戦い、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり】永禄3年【麒麟の城、小牧山城】永禄6年【天下布武、岐阜城】武の七徳『書経』永禄10年【第六天魔王、欲界の他家自在天】元亀4年【天正『老子』】天正元年7月【天下一の名人、本因坊算砂】天正6年【安土城、天主】太田牛一『信長公記』『安土記』天正4年⁻10年
【『理趣経』の教主、欲界第六天】『理趣経』の教主は、大日如来であり、その場所は、欲界、第六天、他化自在天である。三界(無色界、色界、欲界)のうち、欲界の支配者が第六天魔王。信玄への返書に織田信長は第六天魔王と自ら称した1573(元亀4)年。ルイス・フロイス『日本史』
【織田信長、元亀4年(天正元年)の展開】1573年4月、武田信玄、突然死。1573年7月18日、足利義昭、追放。7月21日。信長は、改元を内覧した。信長に勘文を見せてその意向に応じて元号を「天正」、信長が容喙。28日決定。8月13日、浅井朝倉連合軍に大勝
【織田信長の戦い、天皇による勅命講和】生涯最大の窮地、志賀の陣、金が埼の退き口、元亀元(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い。信長37歳。天正元(1573年)足利義昭との戦い。天正8年(1580年)石山本願寺との10年戦争、顕如退去。正親町天皇の勅命講和。
【織田信長、5つの城】那古野城21歳まで【清州城】天文23年(1554)【麒麟の城、小牧山城】永禄6年(1563)6月【天下布武の城、岐阜城(稲葉山城)】永禄10(1567)年8月【天下一の城、安土城】天正四年(1576)2月から本能寺の変(1582)まで
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【濃姫、帰蝶】
【蝮の道三の娘、濃姫、帰蝶、蝮の子は蝮、3度の結婚】一人目、土岐八郎頼香(よりたか)に嫁ぐ。天文十三1544年9月、尾張国の織田信秀との戦い、頼香に刺客を差し向け自刃に追い詰め、濃姫10歳。二人目の夫、土岐次郎頼純(よりずみ)、1547年11月17日、頼純、急死。死因不明、享年24。三人目、1549年、濃姫15歳で信長と婚姻。弘治2(1556)年、斎藤道三、美濃を信長に譲ると遺言状。
【蝮の道三の娘、濃姫、帰蝶、蝮の子は蝮】濃姫を土岐氏の一門である土岐八郎頼香(よりたか)に嫁がせた。天文十三1544年9月、尾張国の織田信秀との戦いにおいて、どさくさに紛れて頼香に刺客を差し向け自刃に追い詰め、濃姫10歳。二人目の夫・土岐次郎頼純(よりずみ)、天文十五1546年9月、道三は土岐次郎頼純(頼香の甥)を守護職に就けて傀儡化し、濃姫を嫁がせ美濃国の支配権を掌握、濃姫12歳。1547年11月17日、頼純、急死。死因不明、享年24。濃姫15歳で信長と婚姻。
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【本能寺の変、三職推任本能寺の、将軍を阻止した明智光秀】【光秀、秀吉は殺人部隊】
【明智光秀、計略と策謀の達人】「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」ルイス・フロイス『日本史』
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【戦国史 親は敵、兄弟は第一の敵】弟と家督争いをした戦国人。織田信長、伊達政宗、武田信玄、争った弟側が滅亡。弘治三(1557)年、織田信長は、謀反の弟信勝を返り討ち。天文十(1541)年、武田信玄は父信虎を追放。天正十八年4月7日、伊達政宗は実弟小次郎を手討、義姫逃亡
【武田信玄、父、武田信虎は賢い信玄を嫌い、弟の武田信繁に家督を譲ろう】甲斐国の守護、信玄の父・武田信虎は有力な国衆を酷使、利益を独占。21歳でクーデタ。天文10年(1541年)国衆は信虎を追放、下剋上。武田信玄は人望あり「人は石垣、人は城」。元亀4年52歳で病死。自分の死を3年間隠すよう命じる。
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参考文献
小和田哲男『明智光秀』
小和田哲男『集中講義 織田信長』
今谷明『信長と天皇 中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書
今谷明『日本史の論点』中公新書
岡田正人『織田信長総合辞典』雄山閣出版、1999
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018
和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中公新書
ルイス・フロイス『回想の織田信長、日本史』中公文庫
諸田玲子『帰蝶』2015
絶世の美女、徳姫、織田信長と徳川家康・・・「美と復讐」第4巻
https://bit.ly/3HjY9zO
織田信長、本能寺の変、孤高の城、安土城、信長の価値観
https://bit.ly/39FAMQc
織田信長、信長包囲網との戦い、八つの戦い、比叡山、天下一の名城、安土城
https://bit.ly/2FkeiJX
織田信長、茶を愛好、本能寺の変、天下布武、天下の三肩衝・・・戦う知識人の精神史
https://bit.ly/2R1G0fU
理念を探求する精神・・・ギリシアの理想、知恵、勇気、節制、正義、美と復讐
https://bit.ly/3sIf3RW
ヴィーナス、パリスの審判、三人の女神、トロイ戦争、叙事詩の円環・・・復讐劇の起源
https://bit.ly/3C2fXNP 
織田信長、天の理念のための戦い。徳姫の戦い・・・愛と美と復讐
https://bit.ly/3MGfJAS
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