英一蝶、波乱万丈の生涯・・・運命との戦い
大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』第385回
【藝術家と思想家、運命との戦い】藝術家と思想家は、運命と戦う。理想と思想をもつ人は運命と戦い、現実界と理想の狭間に、美の潮流を生み出す。旅する思想家は、美の源泉に旅し、美の根拠に遡る。精神文化が栄えた地に立ち、精神の香りをまとう。
【英一蝶(1652~1724)波乱万丈な生涯】一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪。宝永6年(1709)、宝永6年(1709)、綱吉死去にともなう将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻る。三宅島での生活は47歳から58歳までの足かけ12年におよび、〈島一蝶〉。
【英一蝶の謎】一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪。綱吉死去で江戸に戻る。一説、第五代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」違反。【河野元昭説】遠島は死罪に次ぐ重罪で、徳川幕府の掟にそむいた者が対象、不受布施法華宗はそれにあたり、幕府は法華宗の僧や門徒を弾圧した。一蝶は家付流人で妻帯し、支援もあって恵まれた流人。安村敏信館長が申される島一蝶のプロデューサーは、宝井其角。3、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の縁者を遊所に誘い、遊女を身請けさせた。
【英一蝶(1652~1724)、多賀朝湖】英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれた。父の多賀白庵(伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医。狩野探幽の弟・安信に師事、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむ。松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむ。
英一蝶(1652~1724)英一蝶、61歳、涅槃図を描く72歳で死す。仏涅槃図、1713ボストン美術館
*大久保正雄『旅する哲学者 美への旅』より
大久保正雄『永遠を旅する哲学者 イデアへの旅』
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参考文献
【光悦の謎(1558-1637)】本阿弥光悦は俵屋宗達とどこで出会ったのか。なぜ楽焼の田中常慶に習ったのか、古田織部に茶の湯を学んだのか。元和元年(1615年)徳川家康から鷹峯の地を拝領したのはなぜか。豊臣家が滅びた元和元年凱旋の家康から鷹峯に東西ニ百間の土地を与えられ一族郎党、五十五軒の屋敷を構え移り住み洛中と往還したのはなぜか。本阿弥家の名は、一遍上人の遊行念仏、南無阿弥陀仏に由来する、なぜ日蓮法華衆に属したのか。雁金屋、尾形光琳・乾山はなぜ光悦の影響を受けたのか。
本阿弥光悦の大宇宙・・・現世即、常寂光土
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「没後300年記念 英一蝶」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
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英一蝶、波乱万丈の生涯・・・運命との戦い
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英一蝶(1652~1724)は元禄年間(1688~1704)前後に、江戸を中心に活躍した絵師である。はじめは狩野探幽の弟・安信のもとでアカデミックな教育を受けるが、菱川師宣や岩佐又兵衛らに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出した。この新しい都市風俗画は広く愛され、一蝶の画風を慕う弟子たちにより、英派と呼ばれる一派が形成された。他にも、浮世絵師・歌川国貞のように一蝶に私淑した絵師は多く、後世にも大きな影響を与え続けた。また、松尾芭蕉に学び俳諧をたしなむなど、幅広いジャンルで才能を発揮している。
加えて、その波乱万丈な生涯も人気に拍車をかけた。一蝶は元禄11年(1698)、数え47歳で三宅島へ流罪になるという異色の経歴を持つ。宝永6年(1709)、将軍代替わりの恩赦によって江戸へ戻るが、島で描かれた作品は〈島一蝶〉と呼ばれ、とくに高く評価されている。そして江戸再帰後は、「多賀朝湖」などと名乗っていた画名を「英一蝶」と改めた。
2024年は一蝶の没後300年にあたる。この節目に際し、過去最大規模の回顧展を開催。瑞々しい初期作、配流時代の貴重な〈島一蝶〉、江戸再帰後の晩年作など、各地に残る優品を通して、風流才子・英一蝶の画業と魅力あふれる人物像に迫る。
第1章 多賀朝湖時代
英一蝶は承応元年(1652)、京都で生まれた。父の多賀白庵(はくあん・伯庵)は伊勢亀山藩主・石川主殿頭憲之(とのものかみのりゆき)の侍医をしており、一蝶が15歳(あるいは8歳)のときに、藩主に伴い一家で江戸に下りました。母の姓は一説に「花房」であったとされ、島流しから江戸に戻った後に名乗る「英」の氏は母方に由来すると考えられています。
狩野宗家の狩野安信に入門し、江戸狩野派の高い絵画技術と、古典に関する幅広い教養を身に付けた一蝶は、次第に狩野派の枠を飛び出し、独自の絵画世界を確立していきます。生き生きとした人物描写と、ユーモアあふれる視点、狩野派仕込みの確かな画技が合わさった唯一無二の風俗画によって、一蝶は一躍人気絵師へと上り詰めました。また、古典画題にひねりを加えた戯画も多く、安信門下で得た知識を一蝶ならではの表現へと昇華させています。
このような新鮮な感性は、俳諧を通して培われたと推測されます。20、30代の頃に松尾芭蕉に学び、俳諧師の宝井其角(たからいきかく)・服部嵐雪(はっとりらんせつ)らと生涯親しく交流した一蝶は、自らも暁雲(ぎょううん)という号で複数の句を残しています。俳諧の機知や滑稽味に富んだまなざしは、一蝶の絵師としての姿勢にも大きな影響を与えました。
多様な作品を手掛けた一方、仏画、風景画、花鳥画のような王道の主題にも正面から取り組んでおり、狩野派絵師としての自負を強く持ち続けていたことが分かります。
本章では、「多賀朝湖」と名乗っていた時期の一蝶が、狩野派に基盤を持ちながらも、風俗画家として能力を開花させていく様子を追います。また、俳諧の分野での活動も紹介し、そのマルチな才能に焦点を当てます。
第2章 島一蝶時代
40代ですでに絵師として不動の人気を得ていた一蝶は、突然悲劇に見舞われます。第五代将軍・徳川綱吉による「生類憐みの令」を皮肉った流言に関わった疑いで捕らえられ、元禄11年(1698)、三宅島へ流罪となります。ただし、この事件の真犯人はすぐに捕まったため、実際の理由は別にあったと考えられています。【一番有力な説は、江戸吉原に出入りし幇間(ほうかん・太鼓持ち)として大名などと交流していた一蝶が、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)の縁者を遊所に誘い、遊女を身請けさせた】という理由な どで、幕府から目を付けられていたというものです。島流しは原則無期であり、一蝶も二度と江戸の地を踏めないことを覚悟したと思われます。しかし幸運なことに、宝永6年(1709)、綱吉死去にともなう将軍代替わりの恩赦によって、一蝶は江戸への帰還を果たします。
配流中の作品は、江戸の知人たちからの発注によるものと、三宅島や近隣の島民のために制作したものの二つに大別されます。前者は遊興に取材した風俗画が多く、江戸から送られてきた貴重な紙や絵具を丁寧に使用した、華やかな画風で知られます。一方、後者は神仏画や吉祥画など、信仰関連の作品が大半を占め、堅実で穏やかな作風が特徴です。
三宅島での生活は47歳から58歳までの足かけ12年におよび、〈島一蝶〉と呼ばれる、一蝶の画業を象徴する作品が多数生まれました。本章では、配流中に描かれた〈島一蝶〉の傑作を通して、その制作の様子をご紹介します。
展示作品の一部
重要文化財 布晒舞図 英一蝶 一幅 江戸時代 17~18世紀
遠山記念館 【展示期間:10/16~11/10】
吉原風俗図巻(部分) 英一蝶 一巻 元禄16年(1703)頃
サントリー美術館 【通期展示(場面替あり)/本場面の展示期間:10/16~11/10】
神馬図額 英一蝶 一面 元禄12年(1699)頃東京・稲根神社 【通期展示】
第3章 英一蝶時代
配流先の三宅島から江戸へ奇跡的に戻った一蝶は、画名を「英一蝶」に改め、精力的に制作に励みます。名の由来は、中国戦国時代の思想家・荘子の「胡蝶の夢」で、島での生活や恩赦の知らせが夢か現実かと思い悩む心情を、この説話になぞらえたとされています。
再帰後は「今や此の如き戯画(風俗画)を事とせず」と宣言し、一蝶の代名詞ともいえる風俗画から離れる決意を固めます。その言葉を裏付けるように、謹直な仏画、狩野派の画法を順守した花鳥画や風景画、古典的画題に実直に取り組んだ物語絵や故事人物画などが増えていきます。一方で、風俗画の依頼は絶えなかったようで、都市や農村に生きる人々の営みに、一蝶ならではの諧謔味を加えた《雨宿り図屛風》や《田園風俗図屛風》のような大作も複数残されています。また、古典的主題をアレンジした戯画も引き続き描いており、江戸再帰後も生来の洒落っ気は健在であったことをうかがわせます。なお、親友の其角や嵐雪は配流中に亡くなっていたため再会は叶いませんでしたが、俳諧との関わりは継続しており、様々な俳書に挿絵を寄せています。
一蝶は享保9年(1724)、73歳でこの世を去りました。辞世の句「まぎらはす 浮き世の業(わざ)の色どりも 有りとや月の薄墨の空」からは、生涯を風俗画に捧げた一蝶の強い自負が感じられます。
展覧会を締めくくる本章では、晩年期の優品や俳書を通じて、卓越した才能と洗練された美意識で人々を魅了した「風流才子」こと英一蝶の画業と人となりを浮き彫りにします。
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「没後300年記念 英一蝶―風流才子、浮き世を写す―」、サントリー美術館、9月18日~11月10日
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